第肆拾壱話 陰陽国の光と影〈五〉
敗醤の父は都でも有名な恋多き男で、色事ばかりにうつつを抜かしたせいで、最後まで少納言止まりだった。もはや生まれた実子の数すらも正確には憶えていないような男の何番目かの男児として産まれた。母は言わずもがな、朔夜の乳母である“
だがやはり母の浅慮さは相変わらずで、いつの間にか朔夜からの信頼はほぼなくなり、朔夜が専ら頼りにするのは赫夜の乳母の
常夏の目的は、前例である『烏師による統治』を慣例化させて自身の地位の向上を図ろうとしていたのだ。今の宮中で最高権力者といえば、右大臣の
そしてこれを機に動き出したのもまた、
波乱の朝議から翌日。その日の朝もあまり気持ちの良い天気にはならず、どんよりとした重い雲が太陽を隠してしまっていた。しかし敗醤の心ははっきり言えば今までにない程浮かれていた。何故なら今日ついに、敗醤と常夏の長年の決着がつくのだから。だが軍配はほぼ敗醤に傾いていると言っても過言ではない。その理由は、この決着の場を用意したのが何を隠そう、敗醤が担ぎ上げている兎君であるからだ。
「随分と機嫌が良いようですな、敗醤殿?」
「山蘭殿こそ、笑いが止まらぬといった様子ですな。少しは抑えられよ」
「無理なことをおっしゃる。もう勝負は決したも同然の場に来なければならない
普段の特徴的なおちょぼ口をまるで三日月のように引き伸ばす山蘭の姿に、底意地が悪いと感じながらも自身も同じようなことを感じては悦に浸っていたため人のことは言えなかった敗醬は誤魔化すように咳払いをした。
そこへ彼等とは対照的に不機嫌な顔立ちを並べた
「おはようございます、常夏殿。良い天気でございますね」
「……本日は生憎の曇り空ですが?」
「おっと、これは失礼。私の心の空模様の話でございました」
「……っ」
今にも食って掛かりそうな一触即発の状況に釘を刺したのは、それらを黙認していた
「――両者とも控えよ。そろそろ朔夜様たちがお越しになる」
冬牙に一喝されて仕方なく口を閉ざした敗醬は座り直し、まだ何か言いたそうな常夏も渋々といった様子で定位置に座った。
全員揃ったのを見計らったように現れた頭中将の
「皆のもの、本日も大儀である」
「本日もよろしくお願い致します、両殿下」
右大臣の
「…では早速で悪いが、先日の件について私の方から先に話がある」
全員の意識が朔夜の言葉に集中する、その中で緊張の汗が磨かれた床にポタリ、と落ちると同時に、朔夜は自身の胸の内を語った。
「――今回の騒動を受け、宮中を乱した罪で“敗醬”“常夏”の両名を、流罪をする」
敗醬と常夏は、同時に頭を上げて不敵に笑う朔夜の顔を凝視するしかできなかった。
❖ ❖
故に、四代目の
「る、るざい…? それはつまり…っ」
「そのままの意味だ。其方たち二人には、その身一つで小舟に乗り滝に飲まれるまで放浪し続けてもらう」
陰陽国の流罪とは、罪人を一艘の小舟にその身一つで乗せて流す刑罰である。食料も水さえも与えられない罪人はいずれ餓死するか、運良く生き延びても高く聳える滝の勢いによって小舟は転覆させられて水没させられてしまう。いっそ首を落とされる方が楽に死ねる、と誰かが口走ったことで流罪はこの地で最も重い刑罰として人々に認知された。そしてこの刑罰が実際に執行された事例は、過去にたった一度きりしかない。
そこに今、朔夜が二人の名前を刻み込んだ。唖然とする二人に内心実は驚きで心拍数を上げている
「…両名には宮中を乱した罪と、両殿下の存在を侮辱した罪によって極刑が決定しました。兎君、烏師両名の提案によってお二人に科せられる刑は“流罪”となります」
巴の説明に異を唱えたのは、まさかの実父の界雷だった。
「…中将殿。確か両殿下はそれぞれ、この両名と接触していたのでは?」
「はい、そのようだったのですが…」
実はあまりその辺りの事情を知らない巴がしどろもどろしていると、朔夜自らとんでもないことを暴露した。
「あぁ、あれは全て“演技”だ」
「え、演技!? し、しかし、烏師様は私の用意した毒を…っ」
「…毒?」
咄嗟に常夏の口から飛び出してしまった単語に反応し、恐ろしい形相で巴は彼を睨みつけた。それは彼が朔夜を毒殺しようとした犯人であることを物語っていた。朔夜の一番の忠臣である巴にはそれがわかった瞬間、自分の気持ちを抑えきれなかった。今にも掴み掛りそうな巴の意識を逸らしたのは、それまで沈黙を貫いていた
「は。あの程度の毒、朔夜に効くわけないじゃないか」
「は………?」
「私は常夏から朔夜を害した毒の証拠を手に入れたかっただけ。流石に次は違う毒を用意されているかと思って焦ったけれど、其方が浅慮で助かりました」
ありがとう、とにこりと笑った赫夜の毒気の無い無邪気な笑顔に、それまでの無表情に自分の話に耳を傾けていた赫夜が偽りであったことにようやく気付かされた。数日前の常夏の屋敷にやって来た赫夜は終始、感情の読み取れない曖昧な笑みを浮かべていた。それを好意的に受け取っていた常夏だったが、実はその顔がただの何の感情も乗っていない“能面”であったことに気づいた。
「それに私は其方から毒を受け取っただけだ。一言も承知したとは言っていない。勝手に舞い上がって浮かれていたのは其方の方ぞ、常夏」
「っ――」
「すべては、好きにしたお主らの結果よ」
赫夜が宴の席で言った“好きにせよ”とは、“好き勝手をしてボロを出せ”と意味だったことに気づいた常夏はついに、全ての気力を失って蒼白した顔で脱力した。もはや何も言う気力すらなくなってしまった常夏に頼りなさを感じながら舌打ちすると、次は敗醬の方から朔夜に問いかけた。
「…しかし朔夜様はあの時、私におっしゃいました。“この宮中に蔓延る歪みを共に取り除こう”と。その言葉は偽りだったのですか?」
敗醤が言った“あの時”とは、数日前の赫夜が御所に帰参してきた日のことである。赫夜が到着する少し前、母である
「あぁ、あれか。あれは赫夜のことではない、我々を無視して勝手に己が思想を振りかざして宮中を乱す、
「わ、私たちが、“歪み”?」
「この国が双子の玉座によって繁栄されてきて一体何百年経ったと思っている? 今更その点に関して不満を上げるとは…おかしな話だ」
そして最後に自分を仰ぎ見る敗醬に対して朔夜は言い放つ。
「――我等の、赫夜の害となる者に、私は一切容赦しない。この世に赫夜を害する者がいるならば、羽虫一匹とて逃しはしないことを身をもって思い知るがいい」
普段穏やかな物腰を見せる朔夜とは打って変わった、まるで鋭い刃を突きつけられているかの如く恐怖が、敗醬の身体を突き抜けてぶるぶると震わせた。恐怖で徐々に凭れていく頭だったが、その途中で朔夜が彼の母の名前を口にする。
「…
「ッ――」
朔夜の口からあれだけ無碍にしてきた母親の名前を聞いた瞬間、敗醬の脳内を不意に占めたのは幼い頃の母との暮らしの記憶だった。
優しい祖父母の家でなるべく不自由なく大切に慈しまれて育てられた中、自分たちをどこまでも放っておく父に対して反発心を持つようになった頃、反抗期の苛立ちを気弱な母親によくぶつけては困らせていた。しかしそんな日は決まって時間をかけて自分を宥めかせた後、定位置の膝の上に
その瞬間、敗醬は懐に密かに忍ばせていた小太刀を握ると、その鞘を乱暴に投げつけて走り出した。向かう先には不意を突かれて動けずにいる赫夜の姿。もはや自暴自棄になった敗醬はこの際、流罪になるならばせめて一矢報いたい、と駆け出すも、その決死の覚悟は朔夜の袖の下から伸びた二対の“蛇”によって虚しくも地に伏した。
出遅れた巴は朔夜の袖から伸びて敗醬を縛る赤い紐の正体に気づくと声を上げた。
「っこれは!?」
「流石は巴、すぐわかったね。御察しの通りこれは兎君が代々受け継いできた特別な
「し、しかし継承の儀は即位式の後のはずでは…?」
「あぁ、独断に先に済ませた。
「なんてことを…」
事情を聞いた巴が頭を抱えるのも無理はなかった。
他にも多数存在する“
まるで運命を結び付ける赤い糸のような真紅の綱の先端に繋がれた
「っ許さない、ぜったいに許さないからな! お前らのくだらない姉弟愛に俺達を巻き込みやがって! お前たち姉弟にその玉座に座る権利などあるものか!!」
「…っ殺してやる、呪い殺してやる! この
とても玉座を前にした台詞ではない暴言の数々に更に頭を抱える巴は、待機させていた近衛兵に暴れる敗醬と放心状態の常夏を捕らえさせ、この場からつまみ出させた。そして呆然とする他の加担者たちに対しても朔夜は沙汰を下す。
「それと両名に加担した者たちにも全員、蟄居を命じる。今後、この御所に足を踏み入れることはないと心得よ」
それまでの一部始終を目撃した彼等に反論する余力など残っているわけもなく、朔夜の容赦のない沙汰にただただ頭を垂れるしかなかった。
そして最後に冬牙と界雷に対してとある言伝を残すと、朔夜と赫夜は禁裏内に下がった。
「…界雷、冬牙。抜けた公卿の穴を早急に埋めよ。選別はお主らに任せる」
「かしこまりました」
二人が去るのを待ち、頭を上げた界雷が一呼吸ののち鋭い視線で睨みつけたのは、息子の巴。そして今までで巴が聞いたことのない程の低い声で一言告げた。
「…あとで話は聞かせてもらうぞ? 逃げるなよ巴」
「……はい」
これにて、波乱の派閥争いは幕を閉じたのであった。その場に残ったのは膨大な後始末と、拭いきれないほどの疲労感だけだった。
❖ ❖
早朝からの壮大な争いの場から退いた赫夜は
「っ赫夜! あまり汚すと後で
「だ、だって、おかしくって。見た? あの常夏と敗醬の顔、傑作!!」
「もー…、しょうがないな」
笑いの止まる気配のない赫夜の久し振りに見る無邪気な笑顔に頬を緩ませた朔夜は、やれやれといった様子で肩を竦めた。未だ天を仰ぎながら笑い転げる赫夜をそのままにした朔夜は、ふと自分の手を緩く結んでいる赫夜の手の感触に意識を向け、先程の出来事を反芻しながら指先を遊び始めた。
今朔夜を一瞬でも持ち上げた赫夜の手は、知らぬ間に随分と節が太くなっており、指自体は細いがそれはよく目を凝らせば少年の指で間違いなかった。それは赫夜はその性別を隠す限界が近い、ということを物語っており、予てより赫夜の身体的成長が目立ち始めた際には御所への出入りを減らし、残りの人生の半分以上を社殿である『
「…あいつら、私たちの演技全然見抜けなかったね」
「当然だよ。あれだけの喧嘩したことだってなかったもん。僕が湯呑投げるのは想定してたの?」
「まさか。入れた毒には気づくと思ってた。常夏も素直に以前と同じ物を用意してくれて助かったよ。おかげで朔夜に飲ませても大丈夫な
実は赫夜が揺籃に毒を盛らせた時、もし常夏が渡した毒物が以前使われたものと同じものでなければ、予め用意していた別の毒を使用する予定だった。しかし常夏は思ったより馬鹿正直で、女官に使わせた
「ふふ、ねぇ、憶えてる? 赫夜が本気で怒ったあの日のこと」
「…どれのこと?」
「ほらあの、
朔夜によって思い返されたのは、過去に二人が同時に命を狙われた所謂『中納言事件』のことである。あの事件を幕引きした赫夜の“大掃除”のことは世間では悪夢のように語り継がれているが、当の本人たちはまるで笑い話のように軽い口調で語った。
「憶えてるよ。いくらあいつらを嵌める罠だったとはいえ、朔夜が怪我するなんて想定外だったし。私の怒りは最もだったでしょう?」
「…ねぇ、気づいてた? あの時、僕がわざと怪我したこと」
「……」
「僕が怪我すれば、赫夜が面倒な奴等を始末してくれると思ったんだ」
怒った? と無邪気な顔で聞いてくる朔夜をじっと見つめた赫夜はやがてにやり、と笑って答えた。
「…知ってたよ。私に朔夜のことでわからないことがあるとでも?」
「よかった。嫌われたらどうしようかと思ってたんだ」
「そんなわけないでしょ。私が、いや僕が朔夜を嫌いになることなんて絶対にないよ」
安心して、と空いた手で頭を撫でられた朔夜は安堵して顔を綻ばせた。そんな朔夜の頭を撫でながら、赫夜の方もとあることを吐露した。
「…じゃあ私も一つ、朔夜に言ってないことを教えてあげるね。今日の朝議で私が言ったこと、あれの殆どは演技だったんだけど、一つだけ“本音”が混ざってたんだ」
「…どれのこと?」
「…“各領地のことは領主たちに任せておけばいい”って言ったところ」
赫夜に言われて思い返した朔夜は、先日の朝議の時確かにそんなことを言っていたのを思い出す。
「あぁ、あれか」
「そう、あれ。だって領主たちだって陰陽国に仕えているとはいえ一国の主人。各領地で起こってる異変とやらがどんなものかは知らないけど、何でもかんでも朔夜に頼るの、やめてほしいんだよね」
赫夜のこの言葉は、朔夜の身体的、精神的な負担を心配するが故のものだった。元服を終えて、即位式を待たずして玉座を継いだ朔夜だが、その身はまだ未熟で幼く、その小さな背中に背負わせるには余りある問題が多すぎた。陰陽国内にもあらゆる問題がそのままとなっている今、これ以上朔夜の負担になるような事柄が舞い込んでくるのは、赫夜としては面白くないところである。
その心中を察した朔夜は、同じように赫夜の頭を空いた手で撫でながらその苛立ちを宥めた。
「赫夜の気持ちはよくわかった。その件に関しては、一番信頼してる
「絶対だよ。無理したら怒るから」
「はいはい」
「…ついでに暫く撫でてないと、怒るからね」
「…はいはい、仰せのままに烏師様」
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