第肆拾壱話 陰陽国の光と影〈五〉


 敗醤ハイショウという男の半生については、山あり谷ありの前途多難ばかりだったと言えた。


 敗醤の父は都でも有名な恋多き男で、色事ばかりにうつつを抜かしたせいで、最後まで少納言止まりだった。もはや生まれた実子の数すらも正確には憶えていないような男の何番目かの男児として産まれた。母は言わずもがな、朔夜の乳母である“巣子スゴ”である。父が通ったのは年に数度だが、めでたく懐妊して巣子の家で祖父母と共に養育された。やがて成長して蔵人くろうどを勤めて昇殿した後、暫くの間は南の陵光領りょうこうりょうの国司を勤めた。所謂地方勤務だったが、国司は上納分の税以外は懐に入れても良い、とされていたため、財産面でいえば他の大臣たちよりは豊かだった。だがそれも任期は二年足らずしかなく、戻ってきた敗醤を救ったのは、母の存在だった。老いた父の最期の根回しにより、母の巣子が生まれたばかりの次期兎君である朔夜の乳母めのとに抜擢されたのだ。父に似て浅慮な母に少し不安ではあったが、それにより息子の敗醤も大納言の位に就き、朔夜を支えるよう十六夜から命じられた。

 だがやはり母の浅慮さは相変わらずで、いつの間にか朔夜からの信頼はほぼなくなり、朔夜が専ら頼りにするのは赫夜の乳母の揺籃ヨウランか、頭中将のトモエ母子おやこだった。何の根回しもできない母に落胆しながら大納言の地位に甘んじていた敗醤だったが、中納言の常夏トコナツの企みを知ったのをきっかけに動き出した。

 常夏の目的は、前例である『烏師による統治』を慣例化させて自身の地位の向上を図ろうとしていたのだ。今の宮中で最高権力者といえば、右大臣の界雷カイライと左大臣の冬牙トウガであるが、陰陽国の貴族の血を重んじる常夏には冬牙の存在はまさに目の上のたんこぶであるようで、彼の一方的に敵視しての行動とも言えた。


 そしてこれを機に動き出したのもまた、敗醤ハイショウである。先代の烏師の影響でこれ以上政に口出しされては国が乱れる、という大義名分を掲げているが、本心では常夏への対抗意識からくる行動であった。当初はまったくと言って進展がなく、常夏の方も烏師との接触機会を設けることができず、両者ともその場で足踏みをする状態が長く続いたが、何の偶然か両者同時期に烏師、兎君に接触することに成功して今に至る。



 波乱の朝議から翌日。その日の朝もあまり気持ちの良い天気にはならず、どんよりとした重い雲が太陽を隠してしまっていた。しかし敗醤の心ははっきり言えば今までにない程浮かれていた。何故なら今日ついに、敗醤と常夏の長年の決着がつくのだから。だが軍配はほぼ敗醤に傾いていると言っても過言ではない。その理由は、この決着の場を用意したのが何を隠そう、敗醤が担ぎ上げている兎君であるからだ。

 上弦門じょうげんもんをくぐり紫微宮しびきゅうに到着すると既に界雷カイライ冬牙トウガは所定の位置に座しており、今しがた座ったばかりの桔梗キキョウが敗醤に気づいて愛想良く手を振った。常にどっち付かずののらりくらりとした桔梗を苦手に思っている敗醬はそれを無視して、その場に常夏の姿がないことを確認してから自身の場所に置かれた円座の上に腰掛けた。すると後ろから少し這い寄ってきた参議の山蘭サンランが親し気に話しかけてきた。この男も、敗醬側の人間である。


「随分と機嫌が良いようですな、敗醤殿?」

「山蘭殿こそ、笑いが止まらぬといった様子ですな。少しは抑えられよ」

「無理なことをおっしゃる。もう勝負は決したも同然の場に来なければならない常夏トコナツ殿のことを考えると、愉快——失礼、憐れで…」


 普段の特徴的なおちょぼ口をまるで三日月のように引き伸ばす山蘭の姿に、底意地が悪いと感じながらも自身も同じようなことを感じては悦に浸っていたため人のことは言えなかった敗醬は誤魔化すように咳払いをした。

 そこへ彼等とは対照的に不機嫌な顔立ちを並べた常夏トコナツ率いる『烏師派』の四人が参内してきた。不機嫌を顔から溢れ出している常夏を周りの参議さんぎの『胡枝子コシシ』と『野葛ヤカツ』が宥め、冷静さを欠いた常夏の代わりに頭脳を浪費させている中納言の『笆茅ハボウ』がブツブツと独り言を流していた。その四人の目が敗醬たちの姿を捉えた瞬間、あからさまに嫌な顔をした。そんな彼らに敗醬は嫌味なほど爽やかな笑顔で返した。


「おはようございます、常夏殿。良い天気でございますね」

「……本日は生憎の曇り空ですが?」

「おっと、これは失礼。私の心の空模様の話でございました」

「……っ」


 今にも食って掛かりそうな一触即発の状況に釘を刺したのは、それらを黙認していた冬牙トウガだった。普段は触らぬ神に祟りなし、といった態度の冬牙から口出ししたのは稀なことである。


「――両者とも控えよ。そろそろ朔夜様たちがお越しになる」


 冬牙に一喝されて仕方なく口を閉ざした敗醬は座り直し、まだ何か言いたそうな常夏も渋々といった様子で定位置に座った。

 全員揃ったのを見計らったように現れた頭中将のトモエが先導して、黒い直衣のうし姿の朔夜サクヤと、紅色を基調とした十二単を身に纏った姿の赫夜カグヤの二人が揃って参内した。眉一つ動かすことのない無表情の二人からは一切の感情は読み取れず、それまで余裕を見せていた敗醬も息を飲んだ。足音しない静かな動作で玉座に腰掛けると、まず開口一番は朔夜からの挨拶だった。


「皆のもの、本日も大儀である」

「本日もよろしくお願い致します、両殿下」


 右大臣の界雷カイライが頭を下げたのを合図に全員がその場にて平伏した。平伏したままの彼等の頭頂部を見つめながら、朔夜は真っ先にこの場の全員が注目している話題について話し始めた。


「…では早速で悪いが、先日の件について私の方から先に話がある」


 全員の意識が朔夜の言葉に集中する、その中で緊張の汗が磨かれた床にポタリ、と落ちると同時に、朔夜は自身の胸の内を語った。


「――今回の騒動を受け、宮中を乱した罪で“敗醬”“常夏”の両名を、



 敗醬と常夏は、同時に頭を上げて不敵に笑う朔夜の顔を凝視するしかできなかった。



 ❖ ❖



 流罪るざいとは、古来の歴史においては罪人を辺境の地や島に送る刑罰の一つであったが、陰陽国が始まってからその意味合いは大きく変わった。陰陽国を中心とした『聖地』は、龍神の封印と共にその地を世界から。聖地の海面を烏師の力で沈ませて、聖地の周りに滝の壁を作ったのだ。それによって聖地は世界と切り離され、他国との交易を一切やめたことにより、聖地の浮かぶ近海には島一つない状態となった。

 故に、四代目の兎君ときみの御世に刑罰である『流罪』の意味合いを変えた。以来流罪とは、となった。


「る、るざい…? それはつまり…っ」

「そのままの意味だ。其方たち二人には、


 陰陽国の流罪とは、罪人を一艘の小舟にその身一つで乗せて流す刑罰である。食料も水さえも与えられない罪人はいずれ餓死するか、運良く生き延びても高く聳える滝の勢いによって小舟は転覆させられて水没させられてしまう。いっそ首を落とされる方が楽に死ねる、と誰かが口走ったことで流罪はこの地で最も重い刑罰として人々に認知された。そしてこの刑罰が実際に執行された事例は、過去にたった一度きりしかない。

 そこに今、朔夜が二人の名前を刻み込んだ。唖然とする二人に内心実は驚きで心拍数を上げているトモエが懇切丁寧に、罪状などについて説明した。


「…両名には宮中を乱した罪と、両殿下の存在を侮辱した罪によって極刑が決定しました。兎君、烏師両名の提案によってお二人に科せられる刑は“流罪”となります」


 巴の説明に異を唱えたのは、まさかの実父の界雷だった。


「…中将殿。確か両殿下はそれぞれ、この両名と接触していたのでは?」

「はい、そのようだったのですが…」


 実はあまりその辺りの事情を知らない巴がしどろもどろしていると、朔夜自らとんでもないことを暴露した。


「あぁ、あれは全て“演技”だ」

「え、演技!? し、しかし、烏師様は私の用意した毒を…っ」

「…?」


 咄嗟に常夏の口から飛び出してしまった単語に反応し、恐ろしい形相で巴は彼を睨みつけた。それは彼が朔夜を毒殺しようとした犯人であることを物語っていた。朔夜の一番の忠臣である巴にはそれがわかった瞬間、自分の気持ちを抑えきれなかった。今にも掴み掛りそうな巴の意識を逸らしたのは、それまで沈黙を貫いていた赫夜カグヤの第一声だった。


「は。あの程度の毒、朔夜に効くわけないじゃないか」

「は………?」

「私は常夏から朔夜を害した毒の証拠を手に入れたかっただけ。流石に次は違う毒を用意されているかと思って焦ったけれど、其方が浅慮で助かりました」


 ありがとう、とにこりと笑った赫夜の毒気の無い無邪気な笑顔に、それまでの無表情に自分の話に耳を傾けていた赫夜が偽りであったことにようやく気付かされた。数日前の常夏の屋敷にやって来た赫夜は終始、感情の読み取れない曖昧な笑みを浮かべていた。それを好意的に受け取っていた常夏だったが、実はその顔がただの何の感情も乗っていない“能面”であったことに気づいた。


「それに私は其方から毒をだ。一言もとは言っていない。勝手に舞い上がって浮かれていたのは其方の方ぞ、常夏」

「っ――」

「すべては、


 赫夜が宴の席で言った“好きにせよ”とは、“”と意味だったことに気づいた常夏はついに、全ての気力を失って蒼白した顔で脱力した。もはや何も言う気力すらなくなってしまった常夏に頼りなさを感じながら舌打ちすると、次は敗醬の方から朔夜に問いかけた。


「…しかし朔夜様はあの時、私におっしゃいました。“この宮中に蔓延る歪みを共に取り除こう”と。その言葉は偽りだったのですか?」


 敗醤が言った“あの時”とは、数日前の赫夜が御所に帰参してきた日のことである。赫夜が到着する少し前、母である巣子スゴに呼ばれて青朗殿せいろうでんにやって来た敗醬に朔夜は、確かに先程の言葉を放った。その言葉の真剣さに心打たれたからこそ、敗醬は朔夜のことを信じた。しかしそれを指摘された朔夜は自身の本心を語った。


「あぁ、あれか。あれは赫夜のことではない、我々を無視して勝手に己が思想を振りかざして宮中を乱す、歪み其方らを取り除くのに手伝ってくれ、と言ったのだ」

「わ、私たちが、“歪み”?」

「この国が双子の玉座によって繁栄されてきて一体何百年経ったと思っている? 今更その点に関して不満を上げるとは…おかしな話だ」


 そして最後に自分を仰ぎ見る敗醬に対して朔夜は言い放つ。


「――我等の、赫夜の害となる者に、私は一切容赦しない。この世に赫夜を害する者がいるならば、羽虫一匹とて逃しはしないことを身をもって思い知るがいい」


普段穏やかな物腰を見せる朔夜とは打って変わった、まるで鋭い刃を突きつけられているかの如く恐怖が、敗醬の身体を突き抜けてぶるぶると震わせた。恐怖で徐々に凭れていく頭だったが、その途中で朔夜が彼の母の名前を口にする。


「…巣子スゴのことは心配するな。一応彼女は私の大切な乳母だ、今後も私のもとにいてもらう。お前がいなくなった後もな」

「ッ――」


 朔夜の口からあれだけ無碍にしてきた母親の名前を聞いた瞬間、敗醬の脳内を不意に占めたのは幼い頃の母との暮らしの記憶だった。

 優しい祖父母の家でなるべく不自由なく大切に慈しまれて育てられた中、自分たちをどこまでも放っておく父に対して反発心を持つようになった頃、反抗期の苛立ちを気弱な母親によくぶつけては困らせていた。しかしそんな日は決まって時間をかけて自分を宥めかせた後、定位置の膝の上にこうべを預けて眠りについた。その時に隙を見てそっと開いた瞳に映った母親の顔を今でも鮮明に思い出せる。顔立ちは薄く細い眉尻を引き下げた表情でほくろのある口元が緩んだ、その優しい顔を敗醬は———。


 その瞬間、敗醬は懐に密かに忍ばせていた小太刀を握ると、その鞘を乱暴に投げつけて走り出した。向かう先には不意を突かれて動けずにいる赫夜の姿。もはや自暴自棄になった敗醬はこの際、流罪になるならばせめて一矢報いたい、と駆け出すも、その決死の覚悟は朔夜の袖の下から伸びた二対の“蛇”によって虚しくも地に伏した。

 出遅れた巴は朔夜の袖から伸びて敗醬を縛る赤い紐の正体に気づくと声を上げた。


「っこれは!?」

「流石は巴、すぐわかったね。御察しの通りこれは兎君が代々受け継いできた特別な神器じんぎ、“水虬みずち”だよ」

「し、しかし継承の儀は即位式の後のはずでは…?」

「あぁ、独断に先に済ませた。十五夜おばあ様には許可を貰っているぞ?」

「なんてことを…」


 事情を聞いた巴が頭を抱えるのも無理はなかった。

 他にも多数存在する“神器じんぎ”の中でも、特に異質な存在であるところの兎君の神器『水虬みずち』は一人の兎君の魂から造られて物でありながら、代々それを子孫の兎君たちが継承している特別な神器。初めにその形を造ったのは、初代兎君である“玉兎ギョクト”であり、彼の神器だった時の形は刀だったという。その神器を後世に残したいと考えた玉兎は姉である烏師“金烏キンウ”の力を借りて彼の死後、神器を結晶化して消滅を抑えた。そしてその神器の結晶は代々兎君となる男児に継承され、その度に形を変えていった。継承の際に主人たる兎君の魂と同調させるため形は兎君によって様々だが、今回の朔夜のように二つに分かれた形は初めてことだった。しかしそれに気が付いた者などここにおらず、ただただ継承の事実を知らなかった巴を含む公卿たちを驚愕させた。

 まるで運命を結び付ける赤い糸のような真紅の綱の先端に繋がれたやじりはそのを絡みつかせた敗醬の手に握られた小太刀に狙いを定めると、突き立てれた切っ先に小太刀の刃はいともたやすく砕け散った。最後の悪あがきすら許されなかった敗醬は砕けた刃の破片に拳を叩きつけながら飛び散る血のように、朔夜に対して呪いの言葉を吐き続けた。


「っ許さない、ぜったいに許さないからな! お前らのくだらない姉弟愛に俺達を巻き込みやがって! お前たち姉弟にその玉座に座る権利などあるものか!!」


「…っ殺してやる、呪い殺してやる! こののち、我々が受ける苦痛も屈辱も、お前らに味わわせてやるからな!?」


 とても玉座を前にした台詞ではない暴言の数々に更に頭を抱える巴は、待機させていた近衛兵に暴れる敗醬と放心状態の常夏を捕らえさせ、この場からつまみ出させた。そして呆然とする他の加担者たちに対しても朔夜は沙汰を下す。


「それと両名に加担した者たちにも全員、蟄居を命じる。今後、この御所に足を踏み入れることはないと心得よ」


 それまでの一部始終を目撃した彼等に反論する余力など残っているわけもなく、朔夜の容赦のない沙汰にただただ頭を垂れるしかなかった。

 そして最後に冬牙と界雷に対してとある言伝を残すと、朔夜と赫夜は禁裏内に下がった。


「…界雷、冬牙。抜けた公卿の穴を早急に埋めよ。選別はお主らに任せる」

「かしこまりました」


 二人が去るのを待ち、頭を上げた界雷が一呼吸ののち鋭い視線で睨みつけたのは、息子の巴。そして今までで巴が聞いたことのない程の低い声で一言告げた。


「…あとで話は聞かせてもらうぞ? 

「……はい」


 これにて、波乱の派閥争いは幕を閉じたのであった。その場に残ったのは膨大な後始末と、拭いきれないほどの疲労感だけだった。



 ❖ ❖



 早朝からの壮大な争いの場から退いた赫夜は青朗殿せいろうでんに戻った途端、笑いを吹き出すと突然朔夜の腰を掴んでそのまま持ち上げた。突然の浮遊感に慌てる朔夜を余所に勢いで持ち上げた身体の重みに耐えきれず、赫夜と朔夜は畳の上に倒れ込んだ。着衣が乱れることなど一切気にする様子のない赫夜に、几帳面な朔夜が苦言を呈するも聞く耳は持たない。


「っ赫夜! あまり汚すと後で揺籃ヨウランに怒られるよ」

「だ、だって、おかしくって。見た? あの常夏と敗醬の顔、傑作!!」

「もー…、しょうがないな」


 笑いの止まる気配のない赫夜の久し振りに見る無邪気な笑顔に頬を緩ませた朔夜は、やれやれといった様子で肩を竦めた。未だ天を仰ぎながら笑い転げる赫夜をそのままにした朔夜は、ふと自分の手を緩く結んでいる赫夜の手の感触に意識を向け、先程の出来事を反芻しながら指先を遊び始めた。

 今朔夜を一瞬でも持ち上げた赫夜の手は、知らぬ間に随分と節が太くなっており、指自体は細いがそれはよく目を凝らせば少年の指で間違いなかった。それは赫夜はその性別を隠す限界が近い、ということを物語っており、予てより赫夜の身体的成長が目立ち始めた際には御所への出入りを減らし、残りの人生の半分以上を社殿である『后土殿こうどでん』で送ることが決まっていた。その期限が間近であることを朔夜に示唆させ、曇る顔をいつの間にか大笑いを止めていた赫夜がじっと見つめていた。何も言わない赫夜にたじろぐ朔夜に、指先を遊ぶその手をギュッと握り締めてふわり、と柔らかく微笑んだ。


「…あいつら、私たちの演技全然見抜けなかったね」

「当然だよ。あれだけの喧嘩したことだってなかったもん。僕が湯呑投げるのは想定してたの?」

「まさか。入れた毒には気づくと思ってた。常夏も素直に以前と同じ物を用意してくれて助かったよ。おかげで朔夜に飲ませても大丈夫なほうを用意する手間が省けた」


 実は赫夜が揺籃に毒を盛らせた時、もし常夏が渡した毒物が以前使われたものと同じものでなければ、予め用意していた別の毒を使用する予定だった。しかし常夏は思ったより馬鹿正直で、女官に使わせたものを用意してくれたことで用意していたそれは無駄に終わった。そんな心中を知りもしなかった朔夜だったが、あの喧嘩の演技の際に二人は言葉ではない“やりとり”を交わしていたため粗方察していた。二人が会話の裏で密かに合図を送り合うのは、今に始まったことではなく過去の悪だくみも思い出しては顔を突き合わせてくすくす、と笑い始めた。


「ふふ、ねぇ、憶えてる? 赫夜が本気で怒ったあの日のこと」

「…どれのこと?」

「ほらあの、落葉ラクヨウが起こした暗殺事件。赫夜ったら、僕がちょっと掠り傷負っただけで、暗殺者皆殺しにしたやつ」


 朔夜によって思い返されたのは、過去に二人が同時に命を狙われた所謂『中納言事件』のことである。あの事件を幕引きした赫夜の“大掃除”のことは世間では悪夢のように語り継がれているが、当の本人たちはまるで笑い話のように軽い口調で語った。


「憶えてるよ。いくらあいつらを嵌める罠だったとはいえ、朔夜が怪我するなんて想定外だったし。私の怒りは最もだったでしょう?」

「…ねぇ、気づいてた? あの時、

「……」

「僕が怪我すれば、赫夜が面倒な奴等を始末してくれると思ったんだ」


 怒った? と無邪気な顔で聞いてくる朔夜をじっと見つめた赫夜はやがてにやり、と笑って答えた。


「…。私に朔夜のことでわからないことがあるとでも?」

「よかった。嫌われたらどうしようかと思ってたんだ」

「そんなわけないでしょ。私が、いや僕が朔夜を嫌いになることなんて絶対にないよ」


 安心して、と空いた手で頭を撫でられた朔夜は安堵して顔を綻ばせた。そんな朔夜の頭を撫でながら、赫夜の方もとあることを吐露した。


「…じゃあ私も一つ、朔夜に言ってないことを教えてあげるね。今日の朝議で私が言ったこと、あれの殆どは演技だったんだけど、一つだけ“本音”が混ざってたんだ」

「…どれのこと?」

「…“各領地のことは領主たちに任せておけばいい”って言ったところ」


 赫夜に言われて思い返した朔夜は、先日の朝議の時確かにそんなことを言っていたのを思い出す。


「あぁ、あれか」

「そう、あれ。だって領主たちだって陰陽国に仕えているとはいえ一国の主人。各領地で起こってる異変とやらがどんなものかは知らないけど、何でもかんでも朔夜に頼るの、やめてほしいんだよね」


 赫夜のこの言葉は、朔夜の身体的、精神的な負担を心配するが故のものだった。元服を終えて、即位式を待たずして玉座を継いだ朔夜だが、その身はまだ未熟で幼く、その小さな背中に背負わせるには余りある問題が多すぎた。陰陽国内にもあらゆる問題がそのままとなっている今、これ以上朔夜の負担になるような事柄が舞い込んでくるのは、赫夜としては面白くないところである。

 その心中を察した朔夜は、同じように赫夜の頭を空いた手で撫でながらその苛立ちを宥めた。


「赫夜の気持ちはよくわかった。その件に関しては、一番信頼してる青林セイリン辺りにでも聞いてみるよ」

「絶対だよ。無理したら怒るから」

「はいはい」


「…ついでに暫く撫でてないと、怒るからね」


「…はいはい、仰せのままに烏師様」

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