第参拾捌話 陰陽国の光と影〈二〉
四つの霊山に囲まれた渓谷に建国された陰陽国の都から北方に離れた
顔を覆面で隠した門衛たちに門を開錠させ、一歩中に踏み出せばそこは社殿へと続く一本道の石畳が伸びている。その周囲は神官たちの手によって手入れのされた庭園や庭木たちが美しい造形で並んでいるが、それを見て心安らぐか、と言われればまったく休まらない。寧ろ門の中に入ってしまった、という現実味が更に増して、憂鬱な気分にさえなる。赫夜はこの場所が大嫌いだった。
その最大の理由は、そこに一人住む『老婆』の存在であった。
『代々烏師というものは、後宮に住まう者に在らず。聖地の安寧を祈り、その心身を捧げ、俗世から切り離された社殿にて過ごす者なり』
烏師とはなんたるかを説いた古い文書の最初の序文は、
「―――もうそれ聞き飽きたんだけど。一体いつまで言い続けるつもり? ねぇ、
「…お主が真に私の跡を継ぐまでじゃ。これを言われている間は、まだまだ半人前ということじゃ」
肝に銘じよ、と皺だらけの顔で弱々しい見た目に似つかわしくない鋭い眼光で睨みつけられ、強気な赫夜は少したじろぐ。
普段向かうところ敵なしの強気な赫夜だが、唯一口で言い負かすことのできない絶対の敵がいる。それが目の前の腰の曲がった老婆である。彼女は赫夜から数えて二代前の烏師、二人の大叔母にあたる“
あの毒殺未遂事件の後、朔夜の身体が心配で三日ほど後宮に留まった赫夜だったが、社殿への渡りがないことに対して十五夜から苦言の手紙が届けられたことで、朔夜にも説得されて仕方なく社殿に赴いた。牛車に揺られている道中、終始機嫌の悪い赫夜を付き添いの乳母・
顰めっ面でそっぽを向く赫夜を見て粗方把握した十五夜は呆れた溜め息をつくと、社殿に仕える神官たちに赫夜の荷物を運ぶよう指示する。
烏師以外の立ち入りを一切禁じている社殿の雑用は、主に烏師単体に仕える『
そして彼等の最大の特徴は、皆等しく太陽の模様が描かれた覆面で顔を覆っていること。これには理由があり、その昔、烏師が若い青年の神官に恋慕してしまったという過去があるからだという。報われることのない片想いの末、その烏師は自ら命を絶った、と烏師の歴史書には記されている。
そんな過ちを繰り返さないために、神官たちは烏師の世話をしながらも距離を置き、常に無感情に役割を果たしている。十五夜に指示された通り赫夜の荷物を淡々と運ぶ神官たちを横目に、反して感情が表面化し過ぎている赫夜に対して十五夜は大きな溜め息をつく。
「…はぁ、まったく。赫夜、支度を終えたら奥の間へ来なさい。それまでに、その醜い顔をどうにかしておくのですよ」
「あんたに言われたくないわ! この、鬼婆!!」
そう吐き捨てた赫夜が十五夜に頭を引っ叩かれたのは、言うまでもない。
❖ ❖
仕方なく
幼い頃から母親代わりの揺籃に着付けを任せている間も、都に残してきた朔夜の容態を心配する小言ばかりが溢れて止まらなかった。
「…はぁ、朔夜大丈夫かな。また具合が悪くなって倒れてたらどうしよう」
「大丈夫でございますよ。巴も付いております。私の自慢の息子のこと、少しは信用してくださいませ」
「勿論だよ。巴は昔っから私たちの兄のような人だからね」
乳母の揺籃と右大臣の界雷の一人息子である巴はまだ二人が幼い頃から仕えており、彼のことはまるで本当の兄のように慕い、頼りにしている。その巴に任せてきたのなら大丈夫だろう、と安心した赫夜はそれ以上の小言をやめた。
大人しく支度されている赫夜のもとに、一人の神官が突然やって来て、一通の封書を揺籃に差し出した。
「…これは?」
「先程、中納言殿の遣いのものがこちらを。烏師様宛でございます」
「中納言殿が?」
受け取った封書の差し出し主のところには細い筆先で書かれた『
そんな赫夜の様子を案じ、揺籃は受け取った封書をその場で捨てようか提案する。
「いっそ、見なかったことに致しますか?」
「…いや、どんな出鱈目なことが綴られているか、この目で確かめてみる」
渡すのを躊躇する揺籃から封書を受け取ると、開封して中の文書を広げた。随分と長々とした文章を目で辿りながら黙読し続ける赫夜の姿を心配そうに見守る揺籃だったが、やがて俯いた赫夜が声も上げずに肩を震わせているのに驚き、思わず駆け寄った。
「っ赫夜様! 如何いたしました?!」
青い顔で心配する揺籃を他所に赫夜はバッと顔を上げると、大きな声で笑い出したのだ。肩を震わせて全身で大笑いする赫夜の姿に、揺籃は呆然とする他なかった。
「か、赫夜様?」
「っふふ、あ、あぁ、ごめんよ。だってさぁ、もうほんと、何にもわかってなくて、笑うしかないよ」
読むか? と赫夜に差し出され、その内容を目を追う。読み進めていくにつれて、揺籃の眉間の皺が深くなっていき、最後の一文を読み上げ終わると一拍置いてから赫夜に質問する。
「…で、如何いたすおつもりですか。端的に述べれば、中納言殿は赫夜様を自身の邸宅にお招きしたいそうですが?」
常夏の突然の文の内容は揺籃の言うとおり、端的に言えば“赫夜を邸宅の集まりに招き、そこで今後の事を話し合いたい”とのことだった。この“今後の事”が何を意味しているかなど一目瞭然で、安易に誘いに乗れば最悪、陰陽国は真っ二つに割れることになる。揺籃としてはこのまま無視を決め込んでほしいものだったが、今赫夜が浮かべている笑みは、いつも何か良からぬことを企んでいる時の顔だった。
「…折角の向こうから誘って来たんだ。無碍にすることもないだろう」
「…朔夜様が何とおっしゃるか」
「朔夜にはこの事、伏せて置いてくれ。口外は許さない」
「は?!」
今まで一度たりとも、お互いに隠し事などしたことのない赫夜から初めて隠匿を命じられた揺籃は思わず大声を上げた。唖然とする揺籃に赫夜は悪戯っぽく笑って人差し指を彼女の唇の上に乗せた。
「お願い揺籃、ね?」
結局のところ、我が子のように育てた赫夜に揺籃は勝てなかったのだった。
❖ ❖
陰陽国、中納言の一人に数えられる男――
決して玉座を空けることのない兎君の突然の失踪に、宮中は荒れに荒れた。このままでは陰陽国自体が危機に陥るというところで皆の不安を払拭し、その責任を一身に背負ったのは他でもない、烏師の“
問題はその先。
十六夜がその後半年で亡くなり、後に残ったのはまだ立てもしない赤子二人と、その父親で玄武の血を引く婿殿。この三人の誰にも君主が務まるはずもなく、国を動かす力は官吏たちに委ねられた。その現状をうまく利用してきたのが、玄武の頭領である“
いやしかし、そんなことよりも、このままでは自分の気持ちが収まらない。
そう感じた常夏は自ら先陣を切って行動を起こしたのだ。何故、烏兎の内『烏師』の方を選んだかといえば、気弱で誰にでも優しい朔夜よりも、自分の好き嫌いをはっきりと発言することのできる赫夜の方が見込みがある、と感じたからであった。しかし、まだ赫夜本人と直接話し合いをしたことはなく、“彼女”に自分たちの意思と決意を聞いてもらうため、常夏は烏師が社殿に行ったのを見計らって、彼女宛に手紙を送った。“来ない”という選択肢については考えが至らず、常夏は恐れ多くも烏師を邸宅に迎えるべく日が高い内からその準備を追われた。他の同志たちには『酒宴』と言って集まらせ、もちろん酒を振る舞うのだが、残念ながら烏師はまだ酒を嗜める年齢に達していないため、彼女が好きそうなものをいくつも用意し、日が落ちて烏師の到着を今か今かと待った。
やがて日が落ちてきて夜の帳が下りた頃、使用人から到着の知らせを聞きつけ、慌てた足取りで正門へと向かった。息を切らして辿り着けば正門前には一台の牛車が止まっており、それは普段烏師が使用している豪奢なものではなく、少しばかり質素なものであり、お忍びできたことが伺えた常夏は自身の意図が伝わっている、と内心大喜びだった。
「お待ちしておりました! このような狭い所においでくださり、誠にありがとうございます!」
「…そのような、謙遜を。流石は常夏、立派な屋敷ですね」
「も、勿体のうございます!」
このまま烏師を立たせておくわけにはいかず、どうぞ、と赫夜を邸内に案内した。広い屋敷内を歩いている間も、赫夜は朗らかな笑みを浮かべて常夏の話に耳を傾けていたが、一方で付き人の乳母、揺籃の表情は固く視線は常に厳しいものだった。視線だけで人一人殺せそうな威圧感を背中に受けながら、準備の整った大広間へと辿り着く。上座の襖が開けば、既に到着し烏師の登場を今か今かと待ち侘びていた同志たちがピタリと口を閉ざし、一斉に姿勢を正すとゆっくり頭をもたげた。
「お待ちしておりました、殿下」
「…うむ。皆の者、大義である」
上座の席に着き周りを見渡した赫夜が労いの言葉を投げれば、崇拝者たちは更に深々と頭を下げた。見渡す限り
「面をあげよ。折角の酒の席、皆の者思う存分飲み、そして語らうが良い」
赫夜からの寛大な言葉に会場は一気に沸き立ち、各々隣席の者同士で酌をしながら、普段自らの心の内に秘めている思想や野望について嬉々と語り合い始めた。
その喧騒に耳を欹てながら、赫夜は用意された茶を啜る。
曰く――、
「最近の冬牙殿の傲慢な立ち振る舞い、全くもって腹に据えかねますな」
「義実家もよくあの余所者を招き入れたものだ」
「あの家は先の兎君の時代の左大臣家。失った権力を取り戻そうと躍起になっていたのでしょう」
「対する界雷殿も対抗意識がないのか、まったく役に立たない」
「昔から何を考えているのか読めないお人ですから。あの方に期待するだけ無駄でしょう」
「―――なにより兎君、あのお方にもっと熱意があれば…」
とのこと。
普段の赫夜ならば声を荒げて憤慨しそうな話題だったが、ちらりと様子を伺った時には穏やかな表情で最高級の練り菓子に舌鼓を打っていた。聞いているのかいないのかも定かではない。しかし咎められないのをいいことに、ついに常夏が動き出した。
「いやぁやはり、皆の意見はほぼ同じ。官吏の言いなりの兎君を廃し、自らの意思をしっかりと発言できる芯のある烏師にこそ、この陰陽国の未来を託すべきである、と私はこの場を借りて改めて宣言させていただこう!」
さも自分が正しいかのように大声で兎君の存在を貶す発言にびくびくしながら周囲の者たちが赫夜の方に視線を流せば、いつの間にか楊枝を手放し、薄らと笑みを浮かべながら常夏を一直線に見つめていた。声を発さずとも伝わる緊張感から、この後怒号が飛んでくるのではないか、と顔を青くする官吏たちは、赫夜が次に発した言葉に心底驚いた。
「―――成程、それが其方の意見か。面白い、参考にさせてもらおう」
「っほ、本当でありますか!? ありがとうございます!」
赫夜から発せられたのは、怒りではなく賞賛だった。つまりそれは、常夏の意思が烏師自身に認められたことに他ならない。そう感じた常夏は、更に自分が前々から考えていた『計画』について語り始める。
「じ、実はですね、これはただの理想ではなく、今後我々が決行する計画の目標なのです」
「…ほぉ、面白いな。是非聞かせてくれ」
「勿論でございます! この計画にはなにより、烏師様の助力が不可欠なのですから!」
常夏の語ることに興味津々で耳を傾ける赫夜に周りの官吏たちの緊張も次第に解れ、酒の入ったほろ酔い状態で常夏の計画に耳を傾けた。
「まず初めに! 朔夜様には兎君の座から暫くの間退いてもらうのです」
「具体的には?」
「一番手っ取り早いのは“毒”だったのですが、どうやら依頼した女は怖気付いたようで、失敗に終わりました」
酔った常夏の舌は思いの外滑りが良く、滑らかな滑舌でつい数日前の朔夜の毒殺についての関与を仄めかした。失敗したことを心底残念がる常夏に溢れ続ける怒りをなんとか抑えようと必死の揺籃の表情は、もはや般若そのもの。一方で赫夜は決して笑みを崩すことはない。
「随分と大胆な…。もしや、次は私に毒を盛らせる気ですか?」
「…お任せしてよろしいのであれば」
「はぁ?!」
常夏のお願いでついに揺籃が声を上げた。まさかそんなことを赫夜に託すなど、一体誰が予想できたであろうか。
「常夏殿! 無礼でございますよ、恐れ多くも烏師にそのような願い事をっ」
「勿論、無礼を承知でのことでございます。しかしながら、これを確実に成功させることのできる人物など、烏師様をおいて他にはおりません」
大義の為でございます、と念押しする常夏は恐らくは女官に渡したのと同じ毒薬の入った陶器の瓶を赫夜の前に差し出した。それを見た赫夜の瞼が微かに震えたが、幸いにもそれに気づくものはいなかった。
そして
その一部始終を見ていた常夏は喜びの声を上げた。
「お、お引き受けいただけるのでしょうか!?」
「――確かに受け取りました。後のこと、お主達の好きにせよ」
簡潔にそれだけ述べると、以降赫夜が口を開くことはなく、酒宴は夜遅くまで続いたのだった。
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