第参拾漆話 陰陽国の光と影〈一〉


 この聖地には大昔より、四季と呼ばれるものが存在しない。否、正確には昔は“存在していた”というのが正しい。四つの季節を楽しむ文化もあった聖地からそれを楽しむことがなくなったのは、偏に龍神の封印が大きく関係している。主に雨季を司っていた龍神の消失により、聖地の季節は均衡を崩し、今では各季節が局地的に観測されている状態だった。例を挙げるとするならば、北の『執明領しつみょうりょう』は、常に雪を覆われた豪雪地帯である。月日関係なく雪を覆われた地は、他領の手助けなければまともに民を養うことすらできない。


 そんな雪の中、冬牙トウガは生まれた。


 北の領地を治める『玄武一族』の当主“玄冬ゲントウ”の正室の一人から生まれた、次男。既に生まれていた五歳上の長男とは生母の格の違いがあったが、玄冬は長男の方を跡取りとして優位であると示したが故に正室は気を病み、冬牙は僅か七つで生母を亡くした過去を持つ。しかし、今の冬牙にとっては些細なこと。

 その後もトントン拍子に男児にばかり恵まれた玄冬は、自身の息子の中でも病弱で他に取り柄もない三男の『樹雨キサメ』をうまく利用して、先代烏師“十六夜イザヨイ”のもとに婿入りさせた。その異母弟の存在を足掛かりに陰陽国での権力を膨らませるために送り込まれたのが、次男の冬牙である。玄武の血を引きながら、『冬』も『玄』の字も与えられなかった異母弟樹雨を内心馬鹿にしてきた冬牙だったが、偶には役に立つものだ、と素直に関心した。


 父の計画通りに陰陽国の格の高い貴族の本家の養子となった冬牙の存在は、息子に恵まれなかった義父母たちからは歓迎され、養子になると同時に彼等の娘の一人と婚約した。当時その家には二人の娘がいた。夫婦の子供たちは全員で四人だが、その内の娘二人は既に地方勤めの夫と共に家を離れており、残っていたのは三女の『梅枝ウメガエ』と、末娘の『小梅コウメ』だけ。三女の方は見目は悪くないものの、御世辞にも愛想が良いわけではなく、物静かでどちらかと言えば陰鬱とした雰囲気をしているのに対し、末娘の方は愛らしい見た目と愛嬌のある振る舞いで好印象だった。正直、冬牙にとってはどちらが妻でも良かったのだが、義両親からの薦めで小梅の方を娶った。


 そしてつい二年ほど前、義実家に一人の男児が生まれ、それと同時に三女の梅枝が兎君の後宮に上がるなどの些細な出来事があったものの、冬牙の日常は順風満帆だった。

 冬牙の今現在寝起きしている屋敷は面倒な義実家ではなく、御殿から近い別邸である。必要最低限の使用人のみの静かな空間で、冬牙は趣味の読書に耽っていた。長男ではない冬牙は異母兄のように勉学に勤しむこともなく、幼少期から専らしていることといえば、やはり読書である。実家の蔵書は殆ど読み尽くしてしまうほどの本の虫である冬牙は、現在は陰陽国にしかない書物を収集しては読み漁っていた。

 その為、雑学などを含めた知識量ならば異母兄に圧勝である。しかしそんな冬牙を褒めてくれる者など、この世のどこにもいないことは本人がよく知っている。


 その日の深夜はいつもより風が強く、屋敷内を吹き抜ける風が冬牙の寝室の襖を微かに揺らして存在を主張する。だがそんな些細な雑音に心乱されることのない冬牙の視線が文字の羅列から外れることはなかった。

 風音以外には静寂な夜更けの屋敷に、一人の足音が響くまでは。


「…冬牙殿、夜分遅くに失礼致します」


 襖越しでもその声が贔屓している若い官吏のものであることに気づいた冬牙は文字列から視線を上げ、ぼんやりと人影の浮かぶ襖を見つめた。


藤内トウナイか。どうした?」

「はい。実は先頃、宮中にて兎君がお倒れになったとのことです」

「…朔夜が?」

「はい。それと、これはまだ未確認の情報なのですが…」

「よい、申してみよ」


 噂話や憶測を嫌う冬牙の了承を得てから、藤内は話し出す。


「はい。どうやら兎君に仕える女官の一人が毒殺を計った、とのことでございます」

「ほぉ。今時そんな過激な行動に出る者がいるとはな。理由はなんだ? 復讐か? 逆恨みか?」


 冬牙はさも兎君になんらかの非があるように語るが、藤内の聞いた話ではその理由は全くの見当違いだったようで、無言で首を振る。


「…いいえ、どうやらその女は依頼されただけのようで、夫の出世の為に。黒幕は別におります」

「…成程、さしずめ“烏師派”の連中か」

「流石、お耳が早い」


 宮中に蔓延る不穏な影の存在を既に承知済みの冬牙はそれらを取るに足らない輩だと鼻で笑った。


「は。私や界雷カイライとの権力争いに負けた哀れな残党達め。今更何をしようと、我等の地位が揺らぐことはないことがまだわからぬか」

「未だなりを潜めている“兎君派”も気になります。如何様に?」

「……

「は…?」


 普段の冬牙ならば、今後少しでも政敵になり得そうな可能性がある人物がいれば、真っ先に手を下そうする。しかし今回に限り、何故か冬牙は傍観を選択したのだ。そのことに藤内は驚きを隠せなかった。そんな藤内の驚きと疑問を見抜き、冬牙は愉快に微笑んだ。


「ははっ、そんな顔をするな。焦らずとも其奴らは時期に、


 案ずるな、と藤内の不安を払拭しようと声を掛けるも、その内容はどうやら逆効果だったようで、冬牙の言葉の真意を測り兼ねた藤内はもはや考えることを放棄した。


「…左様ですか。では、義妹君いもうとぎみへの言伝も、しなくてよろしいですか?」

「…そうだな。朔夜が無事なことくらい、義妹あやつに聞かずともわかるだろう」


 つい二年ほど前に女官として後宮に上がり、今は兎君付きの女房である義妹の梅枝は、何故か朔夜の大のお気に入りで、よく二人で双六遊びをしているところを目撃されている。故に周囲からはいずれ寝所に侍ることにもなるやも、と噂されている。そんな梅枝とは定期的に文のやり取りをしており、お互いに害のない程度に情報交換をしている。しかし正直なところ、冬牙は彼女のことは少し苦手である。好き嫌いがあるほど他人に興味のない冬牙が、“苦手”と表現する数少ない人物なのが梅枝であった。

 そしてもう一人、冬牙が苦手意識を持つ人物二人の顔を思い出し、藤内に監視を命じる。


「…それと、界雷殿はもちろんのこと、赫夜カグヤにも目を光らせておけ。今回の事で動くとなれば、その二人のどちらかだ」

「界雷殿は兎も角、烏師様もですか?」

「あぁ。朔夜の身に何かあれば、恐らくこの宮中で一番感情的になるのが、赫夜だ。赫夜あれを朔夜絡みで怒らせると、とんでもないことになる」


 真剣な顔でそう語る冬牙は、今から六年前のとある出来事を思い出しては身を震わせた。

 六年前、まだ九歳だった朔夜と赫夜は乳母や実父たちによって後宮で大切に育てられていた。だがある日、分家の陽春の弟である当時の中納言が分家の権力を強める為、愚直にも朔夜と赫夜を暗殺しようとしたのだ。朔夜には毒を盛り、赫夜はあろうことか社殿に向かう道中を刺客に暗殺させようとした。しかし社殿に向かう赫夜の牛車にはその日、朔夜も乗っていた。赫夜の長期の不在を寂しがる朔夜は無理を言って、社殿まで見送りしようとしていたという。その為奇襲を掛けようとした暗殺者はその場で二人まとめて始末しようとしたが、赫夜を狙った凶刃から朔夜が身を挺して庇い、そのせいで腕に浅い切り傷を負った。その時の赫夜の激怒たるや、暗殺者だけでなく味方の護衛兵さえも震撼させるほどであったという。結局その暗殺者は、赫夜の鬼道で呼び寄せた鬼によって見るも無惨な姿に変えられてしまい、暗殺は未遂に終わった。

 そして暗殺者は絶命する寸前、赫夜によって首謀者の名前を喋らされていた為、引き返してきた赫夜の命で中納言は捕縛された。そして彼は反逆の罪により、市中を引き回されたのちに首を刎ねられ、都の端に堂々と晒されたのだった。


 兎君と烏師が暗殺されかかることなど前代未聞のことであり、この事件は『中納言事件』として人々の記憶に鮮烈に刻まれたが、一番官吏たちの記憶に残ったのは、赫夜の朔夜への執着心だった。あの時の怒りに震える赫夜の姿は官吏たちに衝撃を与え、暫くは夢に見るほど怯えた者も少なくなかったという。

 故に、冬牙が一番気がかりなのは、今回のことでまた赫夜が暴走しないか、ということ一点に限った。だが内心では、もしもの時は界雷になんとかしてもらおう、などと考えていたのだった。



 ❖ ❖



 朔夜の毒殺未遂事件の報告は、冬牙のみならず、もう一人の重役の耳にも届けられた。報告は冬牙よりも遅く、朔夜が無事に目を覚ましてから朔夜あるじのもとを一旦離れたトモエによって齎された。万が一であれば遅すぎる報告に、右大臣“界雷カイライ”は激しく叱咤した。


「…馬鹿者が。もしもの時にお前一人でどう対処するつもりだった?」

「申し訳ありません、父上」

「今“父”と呼ぶことは許さん。公私を弁えよ、中将殿」

「…申し訳ございません、右府うふ


 物心つく頃には公私共に厳格で一度も笑みを浮かべたところを見たことのない父親に内心苦手意識を持つ巴は界雷に反論する言葉が見つからず黙って従った。そんな息子の姿に何を思ったのか界雷はくるりと身体の向きを変え、文机と向かい合ったまま話を続けた。


「…で。このことは勿論、冬牙殿にも伝えたのだろうな?」

「い、いえ、まだ…」

「…まぁ彼奴のことだ。もう既に情報は掴んでいるだろう」


 界雷よりも十も離れた冬牙の抜け目なさは嫌というほど理解していた。しかし形式上伝えない訳にもいかないため、巴に後で遣いに行け、と命じた。それで話を終えようとした界雷だったが、この件に関して巴は思うところがあり、“中将として”ではなく“息子として”、界雷に質問した。


「…父上。今回の毒殺事件、やはり噂の烏師派によるものでしょうか?」

「まだわからん。確固たる証拠がない以上、無闇矢鱈に他者を疑うのは好かぬ故な。だが、誰が黒幕であろうと用心せよ」

「心得ております」

「––それと、もし赫夜様が暴走しそうになったら、真っ先に私に知らせろ」

「…はい」


 二人は過去に起こった暗殺未遂の出来事を同時に思い返しながら、界雷の言わんとしていることを察し、彼の言葉を肝に銘じて頷くと、巴は界雷のもとから去っていった。

 巴が去った後、界雷は我が息子の背中を思い出しては大きな溜め息をついた。


「…まったく。図体ばかり大きくなりおって、未熟者が」


 生来、結婚や家庭、ましてや子供になど興味がなく、ただひたすらに仕事ばかりだった界雷が歳の離れた揺籃ヨウランを妻に迎え、巴を授かったのは偏に、実の両親たちに泣きつかれたことが発端であった。しかし堅物で口下手な界雷がいざ相手を探すとなると、中々見つかることはなく、頭を悩ませていた頃に実家より下級の貴族の家に少し若いすぎるが頭の良い娘がいる、という噂を聞き会ったのが、揺籃であった。彼女の家は下級貴族の家で、特に目立った官職に就いたことのない平凡な父親と地方生まれの母親との間に生まれた一人娘で、当時の年齢に関しては少し若過ぎたが、歳の割には落ち着き払った態度や会話の中での知的さから、早くこの件を終わらせたかった界雷が妻として選んだ。その後息子を産んだのちに宮仕えを始めた揺籃は、歳の近い先代烏師・十六夜イザヨイと親睦を深め、結果的には界雷が出世する足掛かりとなったのだ。

 その妻の勧めで朔夜に仕えさせた一人息子の未だ残る“幼さ”や“危うさ”に、界雷は頭を悩ませていた。正直、どうやって指摘したらいいのか、わからなかったのだ。何事も器用に完璧にこなす界雷でも、息子との関係に悩むただの父親であった。


「…さて、どうしたものか」


 そして今界雷の頭を悩ませているのは、巴のことだけでなく、仕えている朔夜と赫夜の双子の件もあった。これから起こりうる可能性のある“騒動”を予想しては、溜め息が止まらなかった。


「…暫しの間、騒がしくなるやもしれんな」


 今後の苦労に思いを馳せながら、界雷は一人諦めたように呟いた。

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