第参拾陸話 共に歩む者〈四〉


 元、陰陽国の獄舎の看守だった男――蛙(カワズ)はその身そのままでその手にこの地で一番の価値のある黄金色の大判を数枚握り締めて、陰陽国を囲む山の中を走り続けていた。聳える木々を避け、背の高い雑草をかき分け、途中小石に行く手を阻まれようとも、木々から伸びる枝にいくら手足を傷つけられようとも、男が足を止めることはなかった。何故なら今は、一刻も早くあの双子のいる都から遠く離れた場所に逃げたかったからである。


 時は、それより一時間ほど前に遡る。



 兎君の青朗殿から去り、皇宮を出た巴はトボトボと帰路に着こうとしている蛙を呼び止め、懐から探り出した上等な巾着袋を差し出した。その意図がわからなかった蛙が呆然と巾着袋を眺めていると、巴から意図を説明された。


「…蛙殿。こちらは本日の報酬です。少し多めに包んでおいた」

「は、はい。ありがとうございます…」

「それと、これを持って今すぐ、庚辰こうしんを出てくれ」

「は…」


 受け取った巾着袋の重みに喜ぶ暇もなく告げられた言葉に、蛙はただ唖然とするしかできなかった。そして続けて、巴の言い分はこうだ。


「今回のことは内々に処理する。あの女は計画に失敗し、自ら命の絶ったことにする。そのためにも、お前にはこの都を出てもらわなければならない」

「…もし、万が一にも、わたしが断れば?」

「……だ」


 それが何を意味しているか、即座に理解した蛙は顔色を真っ青にして全身が恐怖でぶるぶると震え出した。そして再度巴が「良いか?」と聞けば、蛙の首は何の躊躇もなく激しく上下した。


 その後はもう無我夢中だった。住んでいた家から必要な物だけをかき集め、雑な旅支度を整えた蛙は家族との思い出の詰まった長屋を振り返ることなくあっさり捨てて、都の城門へ向かって走った。静かな足取りで行き来する人々を強引にかき分けて忙しなく走る蛙の姿は怪訝そうに周りの視線を集めたが、そんな瑣末なことを気にしていられる余裕はなく、一刻も早くこの国から出て行きたかった。

 陰陽国を囲う城壁に唯一存在する南東側の正門『螺旋門らせんもん』を駆け足で通り抜け、蛙が向かう方向はそこから更に東、青龍一族の治める『孟章領もうしょうりょう』であった。


 慌てた様子で城門前に駆け込んできた蛙を不審に感じた門番たちは彼の行く手を阻むも、蛙は必死に叫んだ。


「お、お目通りを! どうか、どうか、“青帝せいてい様”にお目通りを!!」


 そして暫くして、蛙は青龍一族の暮らす青龍城へと招かれた。



 ❖ ❖



 ここ最近城主の体調が優れない、と心配でずっと付き添っているのは、青帝“青山セイザン”の継室の“逃水ニゲミズ”であり、四歳年上の彼女は青山にとって心から頼れる存在であった。この逃水を迎える前、青山には美しく聡明な同年の正室“若葉ワカバ”がいた。十六の時から連れ添ってきた妻を青山は心から愛し、彼女との間に念願の嫡男である“青林”をもうけた。だが出産後、彼女の容態はみるみる悪化してほぼ寝たきりとなった。そして若葉は、青林が十歳になる前にこの世を去った。その時の青山の憔悴した様子に、周囲の家臣たちは気が気ではなく、いつ奥方様の後を追われるか、と心配されていた。そんな父を支えたのは、まだ幼い青林だった。生母の聡明さを受け継いだ青林は幼いながら傷心の父を支え、寄り添ってきたおかげで、青山も少しは気力を取り戻して政に励んだ。

 そんな折、家臣たちより継室を迎える提案が出された。初めは渋っていたが、奥向きのことや幼い青林のことも考えた結果、青山は後妻を迎えるという苦渋の決断をした。そしてそこで名前が挙がったのが、豪族の娘“逃水ニゲミズ”だった。彼女も結婚は二度目であり、一度目の夫とは早くに死別し、子もいないまま実家に戻っていた。青山よりも年上の女性ならば頼りになるだろう、という理由で彼女は青山の後妻となった。自分にも他者にも厳しく、あまり笑みを浮かべない彼女だったが、真面目な性格は生来生真面目な青林と合っていたらしく、青林は継母を敬愛していた。


 真面目で厳格な逃水は普段であれば、義理の息子である青林の正室“陽炎カゲロウ”と奥向きで静かに過ごしているところだが、今日ばかりは夫の寝所に篭り付きっきりで看病しているのだった。つい先頃まで苦しそうな咳を繰り返していた青山は用意していた薬湯を飲んでようやく眠りにつけそうであった。

 しかしそこへ彼の睡眠を妨げる家臣の足音が近づいてきた。寝所の障子の扉の前で止まり膝をついた家臣が呼び出す間もなく、逃水からぴしゃり、と怒りの言葉が飛んできた。


「―――下がりなさい! 殿は本日お加減が悪いのです。余程の用件でないのであれば、即刻立ち去りなさい」

「は、は。申し訳ございません、奥方様。し、しかし…」

「くどい!!」


 なんとしても家臣を下がらせようと気を利かせた逃水だったが、その声に意識を浮上させた青山が彼女を宥めながら気怠げに身を起こした。


「…良い。、私は大丈夫だ」

「っしかし、殿」

「大丈夫だ。用件を聞こう」


 起き上がるのもやっと、な青山の様子に躊躇いを見せながらも、家臣は用件を告げる。


「…報告いたします。今し方、陰陽国から逃げ延びてきたという男が、急ぎ殿に面会を、と」

「男? 何者ですの」

「はい、話によりますと、陰陽国では牢番をしていたとか…」

「まぁ呆れた。そのように低い身分の男が我が殿に謁見を望むなど、身の程知らずな」


 青山が黙っているのをいいことに散々な物言いの逃水に家臣が返答に困っているところに、青山から謁見の許可が下りた。


「良い、広間に通せ」

「殿! お会いになるのですか?!」

「態々陰陽国からやって来たのだ。きっと余程の事情なのだろう」


 無下にはできない、と布団から起き上がって身支度を始める青山のお人よしな後ろ姿に逃水は溜め息をついた後、仕方なくその手伝いを始めた。



 逃水の手助けもあってすぐに準備が終わった青山は、男を待たせている広間に向かった。ふらつく彼の身体を家臣が支え、その一歩後ろを逃水が付き添う。他の家臣たちによって襖が開かれ、広間の上座にやっとの思いで腰掛けて自立のままならない身体を脇息にもたれて支える。謁見の準備ができた青山が青い顔を上げると、目の前の下座にはこちらに旋毛を向けて首を垂れる男を姿があった。その人物が家臣の言っていた陰陽国からやって来た男だと確信した青山は男に頭を上げさせる。


「…良い、面を上げよ」

「は、はい」


 恐る恐る頭を上げた男を顔色は病人の青山と同じくらい真っ青であり、終始何かに怯えているようであった。あまり長話に付き合えるほどの気力のない青山は、単刀直入に用件を聞いた。


「して、本日はどのような用件がおありかな、えっと…」

「…其方、名は?」

「は、はい。カワズと申します」


 青山が男の名前を聞きそびれたことに気づいた逃水がすかさず男––蛙の名前を聞き出した。逃水に手助けされながら、青山は蛙の急ぎの用件を聞く。


「…私は元より、陰陽国の獄舎の牢番をしておりました。生まれてから今までの約四十年の間、国のこと、政のこと、そして烏兎様たちのこと、なんら疑問を持つことはなかったのです」

「しかし今回、烏兎様両名から受けた勅命はあまりに人道から外れ、非道であることだったが故、このことを領主のどなたかにお伝えせねばと、この身一つで青龍の地にやって参りました」


 蛙は淡々と昨晩起こった出来事と、その後の自身に下された命令から全ての事の顛末を青山に語り、それを聞いていた家老たちの何人かは恐怖に顔色を徐々に悪くしていった。それに比べて話しの間、青山と逃水の夫婦は眉一つ動かすことはなく、黙って耳を傾けた。

 やがて蛙の語りが陰陽国を追われたことで締めくくられると、青山は重い溜め息をついて話に対しての自らの意見を蛙に語る。


「…其方の言い分はよくわかった。確かに、今回のことは烏兎様方にも非があろう。自らが定めた法を無視して、私情で罪人を屠ったのだから」

「はい。ありがとうございます! 青帝様ならば、わかってくださると思っておりました!」

「しかし、それで私らにどうしろと言うのだ。態々今回の件を諌めに行け、ということか?」

「無理は重々承知ではございますが、このままではいずれ陰陽国は滅びます! 若い今のうちに、烏兎様方には間違いを正してもらわなければ。それを指摘できるのは、烏兎様に古くから仕える領主様たちしかおりません」


 どうか、どうか、と額を床に押し付けて必死に頼み込む蛙の震える姿に、困った様子で頬を掻く青山は考えあぐねた結果、成否を後日に持ち越すことを提案したのだった。


「…今少し時が必要だ。私の腹が決まるまで、其方には城に留まってもらうことになるが、良いか?」

「はい。寝床はどこでも構いません! なんでしたら、牢屋でも!」

「…安心せよ。少し狭いが座敷を用意させる故、そこで寝るが良い」


 身分の低い蛙に対して寛大な処置を行なった青山に感謝の言葉を何度も告げながら、家臣たちに連れられて蛙はその場を後にした。


 家臣たちに案内され、城の敷地内にひっそりと立つ座敷牢に入る。事情が事情だけに軟禁状態にせざるを得ないことを承知の蛙は特に抵抗することなく、寧ろ安全が保証されている座敷牢に安堵した様子で入っていった。

 自身がつい昨晩まで勤めていた罪人牢とは違い、ジメジメもしていなければ、筵だけの粗末な内装でもない。陰陽国の獄舎に比べれば遥かに快適なその場所でひと心地ついた蛙が安心しきった様子で畳の上に仰向けで寝転がり天井を見上げた、その時。


 そこには蛙一人しかいないはずの空間だというのに、真っ黒な黒子姿で蛙の頭部のすぐ近くに立ってこちらを覗き込んで、蛙の様子を伺っている人の姿があったのだ。驚きのあまり声すら出せない蛙と、目隠しの隙間から覗く真紅の瞳が蛙と視線が合った瞬間、瞳孔がスッと縮まったのと同時に蛙の口を覆って静かにするように命令した。


「…声を上げるな。上げた瞬間、容赦なくお前の喉元を掻っ切る」

「?!」


 そんな馬鹿な、と心の中で叫んだ蛙だったが、まるですべてお見通しのような黒子は懐を探り、取り出した短刀を蛙の首元に僅かに触れる距離まで突きつけ、「脅しではないぞ」と耳元で恐怖を煽り立てた。少しでも動けば鋭い刃が首元を掻っ切るかもしれない状況で、蛙はなるべく冷静に無理な抵抗もせず、黙って首を縦に振った。言う通りになった蛙に黒子は覆面の下で小さく笑うと、蛙の口元から手を退けた。

 退けられた手を見て、蛙はその人物がまだ若い青年だという情報を汲み取った。短刀を握る指もまるで女のように細く、短く発した声も少し高めの男の声。しかし、その条件に当てはまる知り合いを、蛙は持っていなかった。

 できるだけ冷静に視線のみで情報収集をする蛙の必死な姿を嘲るように鼻で笑った黒子は、ここにやって来た目的の質問を問いかけた。


「さて、二、三質問させてもらおう。こういう場合まずはお前の名前を聞くべきなのだろうが、残念ながら僕はお前の名前なんかには興味はない。お前の素性で一番興味があるのは、どこからやって来たか、ということだけだ」

「あ、あぁ、そうか…」


 思いの外よく舌の回る黒子に驚きながらも、蛙は慎重に答える。


「お、おれは、陰陽国から来た。しがない獄舎の牢番だったが、“とある事件”に巻き込まれて、ここにやって来た」

「事件?」

「…陰陽国の対の君主の一人、兎君の暗殺未遂だ」


 蛙がその事件を簡潔に伝えると、黒子は覆面の下で僅かに両目を見開き、次の瞬間には大口をあけて笑い声を上げたのだ。どこに笑う要素があったのか、と怪訝な顔をする蛙を他所に黒子の笑いは止まらない。


「っははは! ついにそこまで堕ちたか、陰陽国も。こりゃ長年の悲願を達成する日も近いかもな!」

「な、なにがおかしいんだ?」

「…なぁに、先祖が身を粉にして守ってきた安寧の地も、今や脆く崩れ去る運命しかないことに少しの寂しさと、大きな喜びを感じてならないだけだ」


 問いへの答えの意味がわからず首を傾げる蛙を密かに一瞥した黒子は、目尻から滲んだ涙を拭いながら気付かれないように短刀を握る指に力を込めた。何も知らない蛙に、黒子は微笑んで別れを告げた。


「…よくわかった、どうもありがとう。後はお前の死をもって、

「え…」

「さようなら」


 簡潔な別れの挨拶を告げたと同時に、首元に突きつけられていた刃が蛙の首の皮を撫でるように滑り、ぱっくりと割れた首の皮から大量の鮮血が道筋を失って吹き出した。初手で吹き出した血を覆面の上から被った黒子はしっかり蛙の首に傷が出来ていることを確認すると、ゆっくりと立ち上がって血で重くなった覆面を脱ぎ去ってその顔を格子の窓から覗く日光の下に露わにした。

 全身から血が抜けていく冷たさを感じながら蛙の虚ろな瞳が最期に写したのは、丸く団子のようにしててっぺんでまとめられた、真雪のような白い髪と、死を待つばかりの自分を冷酷に見下ろす真っ赤な両の瞳だった。血の滞留した喉ではもう二の句を告げることはできず、蛙は全身が冷たくなる頃には虚な瞳を開いたまま、絶命していた。

 蛙が息を引き取るのを見届けた青年は手にしていた汚れた覆面を蛙の死に顔を被せると、凶器の短刀を持って座敷牢を堂々と立ち去った。強烈に漂う血のにおいを感じ取った外の見張りたちが扉を開けて中に駆け込んでくるも、今まさに目の前を横切る犯人の姿をまるで認識できていない様子で素通りし、既に絶命している蛙に駆け寄っていく。そんな彼等の姿を尻目に、青年は誰にも見られることなく、堂々と正面の扉から脱出していったのだった。



 ❖ ❖



 孟章領を治める領主の居城『青龍城』には多くの小間使いたちが奉公しており、日々忙しなく業務に勤しむ姿があちらこちらで見られる。忙しい中でも彼等は城内ですれ違う際に必ず頭を下げて道を譲らねばならない人物が何人かいる。

 まず一人目は、勿論のこと領主の青山である。主人である青山の姿を見るや否や、使用人たちは即座に隅に避けて跪くのだ。

 そして次に領主の家族。青山の継室は勿論のこと、嫡男である青林はまだ若いながらも既に才覚を発揮してきている為、古株の家臣たちからの信頼も忠義も厚い。その青林の正室である陽炎カゲロウや幼い嫡男の青葉、生まれたばかりの浅葱も同様の扱いであった。


 そして最後に名前が挙げられるのが、領主の食客である“弓月ユヅキ”という人物。今より八年ほど前、突然現れて青山に法術を披露し、その力を認められて食客という形で城に召し抱えられた。青山は弓月に絶大な信頼を置いているものの、城内の家臣たちからは常に疑惑の目で見張られていた。何せ彼は常に覆面を被って頭部全体を覆い隠し、決してその素顔を晒そうとはしないからである。主人である青山にさえ、素顔を明かしたことはないという。

 そのため見るからに怪しい弓月が城内を歩けば、奇異の目に晒されて渋々道を譲られるのだ。頭の上からつま先まで全身を真っ黒な衣装に身を包む弓月に堂々と正面から声を掛ける者など城内でも数少なく、そのうちの一人である一人の若者が弓月の前に立ち塞がり、その歩みを止めた。


「弓月! どこに行っていた?」

「これはこれは、ご機嫌麗しゅうございます。青林セイリン様」


 端麗な顔を怒りに歪める青林に対して、静かな水面のような落ち着いた声で弓月は丁寧な挨拶を返した。その態度にすら苛立ちを覚えた青林は大股で態と派手な足音を立てながら弓月の目の前に歩み寄り、覆面に覆われた顔を至近距離で睨みつけた。しかしそれに対してでさえも、弓月は平静を保ち続けていた。

 廊下の真ん中で行われている二人の静かな睨み合いは、周囲の使用人たちを蜘蛛の子を散らすように遠ざけ、いつの間にかその場には青林と弓月の二人だけとなった。

 暫しの睨み合いの末、青林の方が唸るような声で弓月にあることを問いかける。


「…お前、父上に謁見した牢番のことを何か知っているか?」

「いいえ、特には。しかし御家来衆の話によれば、陰陽国の者だとか」

「…これも、お前のか?」

「……さぁ、細かい未来までは把握できませぬ故」


 あまり話題に出したくなさそうに青林が『予言』という言葉を口にするが、弓月はそれをさらりと流した。自分だけが蚊帳の外のような気分を味わっている青林は、次第に苛立ちを露わにし始める。


「…何故父上は私をその場に呼んでくださらなかった。もう青龍の当主は私なのだぞ。何故いつまでも子供のように…っ」


 父から当主の座を譲られながらも、未だ隠居の父の力は絶大で、故に周りから若造扱いされることに日々不満を募らせ葛藤する青林の姿に、一欠片だけの哀れみを感じた弓月は、ある言葉を去り際に青林の耳元で囁いた。それは弓月なりの助言だった。


「…近い未来、僕の予言は必ず当たる。でもその未来でどうするか決めるのは、貴方ですよ。若く有望な青帝殿」


 人付き合いなど一切しない弓月からの助言に気落ちしていた青林が顔を上げて慌てて振り返るも、弓月は背を向けたまま後は何も言わずに去って行った。

 その背中を見つめながら、少しだけ気力を取り戻した青林は正面を向き直して、弓月とは反対の方向へと堂々と歩き出した。



 その後弓月の言う通り、この地の運命を分ける最大の決断をすることを当の本人はまだ知らない。

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