第参拾伍話 共に歩む者〈三〉


 夕食の膳にあろうことか毒を盛られた朔夜は駆けつけた医師の迅速な対応により、なんとか一命を取り留めた。しかし未だ目を覚ます気配はなく、褥の上でまるで死人のように眠る朔夜を赫夜の乳母の揺籃ヨウランが付きっきりで看病している。これは赫夜からの命令で、今回朔夜の毒殺未遂を期に朔夜に取り入ろう恐れのある『兎君派』の敗醬ハイショウの実母である『巣子スゴ』では安心できないという理由から、彼女は看病から外されてその代わりを揺籃が引き受けた。

 治療のために青朗殿は人払いがされ、朔夜から一時も離れようとしなかった赫夜も、揺籃に説得されて渋々自室の『紫藤殿しとうでん』に戻った。

 兎君の私室である青朗殿の北西に位置し、隣り合うよう建つ『紫藤殿』は代々、烏師の居所として利用されてきた。兎君に比べれば規模は小さいものの、本来あまり宮中にいることの方が少ない烏師には勿体ないほどの部屋であり、そのこじんまりとした庭には美しい藤棚が飾られていることから、『紫藤殿』と呼ばれている。四季というものが存在しない陰陽国では常に咲き誇っている藤の花を眺めながらも、心ここに在らずといった様子の赫夜は、後程報告に来ると宣言した巴を参上を今か今かと待ち焦がれていた。

 そしてようやく御簾の向こうから近づいてくる足音が聞こえてきたのに気づき、赫夜は脇息にもたれながら首だけを動かして御簾の向こうを凝視する。やがて現れた人影は赫夜の目の前に腰を下ろすと、深々とこうべを垂れた。


「…遅くなりまして申し訳ございません、赫夜様。朔夜様の容態について、ご報告申し上げます」

「あぁ、聞かせてくれ」

「はい。薬師の解毒薬を服用いたしましたので、毒は直に体内にて無毒化されるとのこと。しかしそのために相当な体力を使うので、目覚めるまでには暫し時が掛かると申しておりました」

「…そうか。で、毒を盛った犯人は?」


 まず第一に朔夜の命に別状がないことが知れてホッと安堵する赫夜は次に、愛する朔夜に毒を盛った犯人について、静かな怒りを滲ませながら巴に詳細を問いただす。表情からも滲み出る圧に巴は圧倒されながらも、犯人について語り出す。


「…はい。今回の犯人は、兎君付きの毒見役の采女うねめの下女でした。料理を行った他の采女たちから膳を受け取った際に、毒見をしながら朔夜様の好物の鮑に毒を混入したそうでございます」

「…その口振りからすると、その采女は捕らえたのか?」

「はい。本人も罪を認め、大人しく獄に繋がれております」


 逃げも隠れもしなかった潔い犯人に合点がいかない赫夜は眉を顰める。そんな赫夜に巴は更にまだ不確かな情報をもたらした。


「…実は、まだ証拠はないのですが。その采女に毒殺を命じたのが、どうやら“烏師派”の中納言の常夏トコナツ殿ではないかと」

「何、常夏だと?」

「はい。過激な常夏殿ならやりかねないかと」


 巴が告げたこの情報は実は、父の右大臣・界雷カイライから聞かされた見解であり、これ以上宮中が乱れることを恐れた穏健派の界雷から、このことを伝えるように言いつかったのだ。この情報で、恐らく赫夜は“動き出す”と、見込んでのことだった。

 そして界雷の予想通り、常夏の名前を聞いた赫夜は、御簾の向こうで怒りを顕にし、手にしていた高価な扇子を力任せに真っ二つにした。メキメキ、と嫌な音を聞きながら、背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じている巴は、その沈黙の中で頭を上げることが出来なかった。黙って赫夜からの次の言葉を待っている巴に、赫夜は今までにない程怒りを含んだ低い声で命ずる。


「…巴、今から私の言う者をここに連れて参れ。いいか、今すぐだ」

「はい」



 ❖ ❖



 陰陽国皇宮の敷地外には囚人を捕らえておくための大きな獄舎が建っている。検非違使けびいしたちに逮捕され、厳しい詮議の末、罪の存在が認められた者が勾留する場所。そこは謂わば穢れた場所であり、烏師や兎君はもちろん、官吏たちもあまり近寄らない場所である。

 そこに勤める一人の男の名前は、カワズ。若い頃から囚人たちを監視する看守の役職に就いていた。仕事柄なのか、はたまた誰か囚人の恨みを買ってしまったのか、男の人生は不幸の連続であり、最近一番の不幸といえばやはり、長年連れ添った妻が病死したことだろう。元々身体の丈夫な方ではなかったが、一人娘を産んでからも特に大きな病を患うこともなく、穏やかな日々を過ごしていたのだが、今年年齢が三十になろうかというその目前で突然倒れ、心臓を患ってつい先日亡くなった。男の家族はもう妻だけになっており、一人娘も嫁ぎ先で出産後に他界しているため、妻を失った男は遂に一人になってしまった。

 しかし嘆き悲しみ、果てに自害する勇気はなく、男は今も囚人たちの獄舎を監視している。


 その日もいつものように夜通し看守の勤務に就くために前の看守と交代し、陰鬱で不衛生な薄暗い獄舎の中を隅々まで見回る。男の勤務時間は朝までで、日が昇ると同時にこじんまりとした邸宅に戻って布団に潜り込む。何百回と続けてきたその習慣通り、今日もそうやって終わっていくのだと思っていた。

 一人の女官が、獄舎にやって来るまでは。


 白装束のみを身にまといながらも、町人には見えない厚化粧をした二十代の女が、検非違使に引かれてやって来た。一体何をやらかしたらあんな美人が捕まるのだろうか、と男は勝手な妄想を膨らませながら、空いている端の牢に彼らを案内して、検非違使に言われるがままに女は牢の中に入った。牢に繋がれている女は泣き喚くわけでも、ましてや的外れに憤慨しているわけでもなく、ただ黙ってなけなしの筵の上に鎮座していた。

 おかしな女だ、と男が思っていると、去ったばかりの検非違使の一人が慌てた様子で戻ってきて、男の腕を掴んで引いてくるので怪訝そうに眉を顰めた。


「…何か?」

「早く来い! 中将殿がお呼びだ!!」

「中将殿?!」


 兎君の側近として宮中に勤める官吏の一人、頭中将こと“トモエ”直々の来訪と指名を同時に受け、男は何事かと目を見開いた。そして検非違使に連れられるが儘、獄舎の控えの座敷に連れてこられ、そこに鎮座して待ち人を迎える巴と初めて対面する。

 巴はまだ二十代になったばかりの、男からすれば若造だが、その地位の差には天と地の差があり、ただの獄舎の看守の男が中将殿と対面することなど、人生で一度あるかないかである。色白の整った黒髪の美男子を前に萎縮してこじんまりと正座する男に、巴は単刀直入に用件を述べた。


「…煩わせてすまない。実は貴殿に“ある大役”を任せたいと、烏師殿下が仰せである。突然だか、今から宮中まで一緒に来てもらう」

「わ、わたくしめが、宮中にでございますか?!」

「あぁ」


 本来宮中に出入りできる身分ではない男は激しく動揺し、同時に一体何事だろうと、自身のこれまでの人生を振り返った。もしかしたら何か粗相をしたのではないか、という不安が頭をよぎると一気に冷や汗が吹き出して止まらなくなる。

 そんな男の不安を他所に、巴は待機させておいた牛車に男を乗せて宮中の奥の後宮に向かう。


 生涯足を踏み入れることのないと思っていた宮中を目に焼き付ける余裕もない男は俯きがちに黙って巴の背中を追い、やがて烏師の部屋の御簾の前までやって来てしまった男は、その前で青い顔のまま頭を下げる。そして御簾の向こうから声がかけられるのを恐怖しながら待った。

 御簾の向こうから男の姿を見定める烏師は、暫くして落ち着いた声で男に語りかけた。


「―――よく来たな。其方の名を聞こう」

「は、はい。お初にお目にかかります、カワズと申します」

「獄舎の看守であったな。実は其方に一つ、頼みがある」

「は、はい。なんなりと」


 少年に近い烏師の声に耳を傾け、男はその頼み事を待った。


「其方の獄舎に女が一人収容されておるが、その女の食事の、汁物にを」


 御簾の裾から男の前に差し出されたのは、小さな小瓶。一見して醤油でも入ってそうなその小さな白い小瓶を前にして、男は当然の如く首を傾げる。


「…これは?」

「其方はあの女がどのような経緯で獄中におるか知っているか?」

「いいえ」

「あの者はな。あろうことかこの国の主たる“兎君”の食事に毒を盛り、毒殺しようとしたのだ」

「な、なんと恐ろしい…!」


 恐れ多くも陰陽国の天子である“兎君”の膳に毒を混入するなど、同じ陰陽国の民である男からは考えもつかないことである。その女の経緯いきさつを聞き、男は目の前の小瓶の正体について勘づき、忽ちに顔を蒼白に染める。


「ま、ま、まさか、これは…?」

「察しが良くて助かる。あの女を内々に処理して欲しい」

「お、お待ちください! そのようなことせずとも、主君暗殺の重罪で間もなく打ち首となりましょう。何故急がれるのですか?!」


 気が動転している男は目の前の烏師への緊張も忘れて問いかける。些か言葉が過ぎる男を巴が諌めようとしたが、それを阻止して烏師自身の口から理由を述べた。その言葉に、男の背筋は凍りつく。


「――それだけでは足りぬのだ。この国を背負う存在であり、私の唯一無二の半身、我が比翼の片割れ、それの命を穢そうとした者に対する罰が、ただの一瞬の苦しみであってたまるものか。朔夜おとうとが味わった以上の苦しみと絶望を与え、自らの行いに心底後悔と懺悔しながら、その魂を肉体から引き剥がしたいのだ」

「この苦しみと憎しみ、わかってくれるな?」


 ——のぅ、蛙?


 そう告げて御簾の向こうで首を傾げて尋ねてくる烏師の狂気じみた本心に、男は堪らず頭を上げて身を引いた。膝を折ったまま、這うように後退りする男の背後には巴が座しており、それ以上下がることのできないため、男は恐怖に身を震わせることしかできなくなった。

 そんな男に背後の巴が追い討ちをかける。


「…蛙殿。これは烏師様からの“勅命”である。拒否することは許されません」

「そ、そんな…」

「――蛙、そう怯えるでない。簡単なことであろう。それに昔から言うではないか」

「…?」


「“目には目を、歯には歯を” と。“毒には毒を”ということよ」



 その最後の言葉が頭から離れないまま、毒の入った小瓶を懐に男は職場に戻ってきてしまった。半ば放心状態の男はいざ女の膳を目の前にすると、手が震え出した。本心では命令とはいえ暗殺など恐ろしいと思っているが、しかし何故か震える手が動くのを止めることは出来なかった。異常に冷たい指先で摘んだ小瓶の蓋を開け、その中身を少しずつ、少しずつ、女の汁物に流し込んでいく。無味無臭で限りなく透明な液体はすぐに汁物と溶け合って、その存在を消してしまった。

 遂に入れてしまった。それを男は獄中の女のもとへと運んでいく。その間何度引き返そうと思ったかは知れず、その度に何度も足を止めて周囲の牢の中の囚人からは奇異の目で見られた。

 辿り着いた牢の前で佇む男の存在に気づいた女は、俯いていた顔を上げて男と視線を合わせる。


「…あの、どうかされましたか?」

「え、あっ、いや。だ、大丈夫です! なんでもないです!」

「…?」


 女の呼び声で正気を取り戻した男が震える手で格子の扉を開けて、女に質素な膳を渡した。それに何が入っているかを知らない女は、何の疑念も抱かずにまず一口、“例の汁物”に口をつける。

 その光景を見届けることにさえ恐怖した男は逃げるように牢屋の前から走り去った。


 その後ろで、木製の椀が転げ落ちる音と、女のもがき苦しむ呻き声を聞きながら。



 ❖ ❖



 夜が明けて翌日。頭中将・トモエは昨晩の男――カワズを引き連れて後宮へと向かっていた。既に早朝に女が獄中で死んでいることを確認したため、その報告の為に赫夜のもとに向かっていたのだ。黙って後ろをついてくる蛙はどうやら昨晩は仮眠すらまともに出来ず、みるからに酷い顔色をしていた。勅命とはいえ突然あのようなことをさせられたことに些かの同情を感じながらも、巴も本心では女の死に満足していた。

 道中、巴の進む道が昨日とは違うことに気づいた蛙が、ようやく口を開いて辿々しく質問する。


「あ、あの。どちらに行かれるのでしょうか…?」

「本日は兎君の寝所の“青朗殿”だ。つい先ほど、朔夜様が御目覚めになったそうで、赫夜様は其方に出向いていらっしゃる」


 まさか紫藤殿の次は兎君の青朗殿までその目にすることになるとは思ってもみなかった蛙は更に顔色を青く染めた。説明している内に二人は目的の青朗殿の御簾の前まで辿り着き、まず巴が膝を付いて、その一歩後ろに蛙が跪いた。

 二人の気配に気づいて最初に声を掛けたのは、今朝目覚めたばかりで褥に座ったままの朔夜だった。


「巴、苦労を掛けました」

「いいえ、無事お目覚めになられて何よりでございます」


 寝起きの朔夜の声色にはいつもの覇気はなく、細々とした声で話しながら自分の腹部にしがみついて離れないその塊を優しく撫でている。その塊が何であるか、巴には予想できていたが敢えて質問した。


「朔夜様、時に赫夜様は何処に?」

「ここにいます。僕が目覚めて安心したのか、ようやく眠ってくれました。聞けば、昨日は一睡も出来なかったみたいで」


 そう言って再度自分の膝を上に覆いかぶさるようにして眠る赫夜に視線を落とし、朔夜の腰に両腕を回して離さない彼の頭を優しく撫でた。側から見れば仲睦まじい光景で溜息が漏れるところだが、昨日の恐ろしいほど狂気じみた赫夜を目の当たりにしている蛙にとっては、和むどころではなかった。

 男はなけなしの勇気を振り絞り、無礼ながら直接朔夜に昨晩のことを問いかけた。


「しゅ、主上! 恐れながら申し上げます! 実は昨晩聖上の命により、毒殺未遂の女を獄中で毒殺いたしました事、主上はご存じなのでしょうか?!」

「っ蛙! 其方如きが主上ご本人に質問とは無礼な!」

「し、しかし! 当事者であられる主上が何も知らぬというのは、あまりに…!」

「黙れ! それ以上何か言うのであれば———」


「―――巴、少し黙っていてはくれないか」


 朔夜への非礼に怒りを露わにした巴が蛙を摘み出そうとしたところ、それをまさかの朔夜が制止し発言を許したのだ。これには普段表情を崩さない巴も驚愕する。


「蛙、といったな。そのまま続けるが良い」

「朔夜様…?!」

「は、はい。ありがとうございます!」


 朔夜本人からの承諾されて、蛙は震えの止まらない唇で恐る恐る自分の所業や赫夜の昨晩の言動を事細かに語り始める。その間、不満そうに口元をへの字に曲げた巴は仕方なく黙って聞いた。

 全てを話し終わり一息ついた蛙は、ちらりと御簾の向こうを様子見る。御簾越しだが、朔夜は顎に摘んで考え事をしているのは確かであり、蛙は視線を下げて朔夜の解答を待った。


「…そうか。それは酷なことをさせてすまなかったな、蛙」

「い、いえ、そんな…」


 その謝罪の言葉に、朔夜の方が話が通じそうだとホッと胸を撫で下ろした蛙だったが、次に朔夜が放った言葉に彼は耳を疑った。


「しかしな、蛙。恐らく立場が逆であったとしても、私は同じことをしたであろう。だから赫夜をあまり責めないでやっておくれ」

「…は?」

「赫夜の言うように、我々双子は一心同体。互いの翼で飛び合う比翼の鳥なのだ。大切な片割れに何かあれば、赫夜でなかろうとその女を殺させていたであろう」


 てっきり朔夜が赫夜の命令を叱咤するものだろうと予想していた蛙は、まったく逆の言葉を並べられて驚きのあまり声を上げることもできなかった。そんな彼の様子を他所に、朔夜は続ける。


「それに、確かにその女は遅かれ早かれ死罪であっただろうが、この国の玉座を受け継いだ兎君を暗殺しようとしたのに、その罪に対する苦しみが一瞬で終わるようなもので良いのか、と私は思うのだ」

「故に、今回の赫夜の判断を咎めることはない。其方も、そう心得て置くように」


 御簾の向こうでにこり、と微笑んだ朔夜にこれ以上意見することなどできず、蛙は黙って絶望に染まったその顔でこうべを垂れた。


 そして朔夜はこれ以上何も話す気がないことを示し、黙って眠り続けている赫夜の穏やかな頬を撫でた。

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