第参拾肆話 共に歩む者〈二〉


 皇宮の奥、後宮まで戻ってきた赫夜は兎君の私室である青朗殿せいろうでんに足を踏み入れるや否や、大の字になって床に寝転んで疲れた、と大声で叫んだ。それまでの御淑やかで気品ある立ち振る舞いとは裏腹の行動に、朔夜は苦笑を浮かべながらも帰ってきたことを改めて実感していた。


「赫夜、疲れたなら少し横になる?」

「…いいや。折角帰ってきたのに、朔夜と話さずに寝たら損する」


 そう言ってまだ少年特有の高い声でカラカラと笑う赫夜の顔を見た瞬間、それまで我慢してきた一人の寂しさが腹の底から込み上げてきて、朔夜は思わず赫夜の胸の中に飛び込んだ。普段あまり甘えてこない朔夜の行動に面食らいながらも、赫夜は久々に撫でる黒髪の感触を楽しんだ。


「…なぁに? 今日はやたら甘えただね、朔夜」

「……久しぶり。いない間、寂しかった」


 耳をほんのり赤らめながら素直な朔夜の呟きに、赫夜は嬉しそうな笑みを浮かべて思いっきり抱き締め返した。


「そっか、そっか。朔夜は寂しかったのかぁ」


 よしよーし、と赤ん坊でも宥めるような態度で髪を撫でる赫夜にさすがの朔夜もムッとしてうざい、と一言返した。しかし、二人は一向に離れようとはしなかった。

 お互いに抱き着いたまま、朔夜はこの一年間のことを赫夜に尋ねる。


「ねぇ、どうだったの。継承の儀、とやらは」

「うーん。別に、元服の儀と然程変わらない。祖母様ばあさまの長い話を永遠と聞いてなきゃいけないのは、最高に苦痛だったけど」

祖母様ばあさま、元気そうでよかった」


 二人の言う祖母様というのは、直系の祖母というわけではなく、先々代の兎君の双子の姉妹、つまりは大叔母のことを指す。そして今、后土殿こうどでんを管理している赫夜より二代前の烏師でもある。二人の亡き母である先代の烏師の代わりに、赫夜への継承の儀を執り行った大叔母には赫夜だけでなく、朔夜も幼い頃から世話になっている。普段、あまり社殿から出ることのない彼女の高齢の身体を朔夜は心配していたが、赫夜に長い長い掟を語るだけの元気がある事に朔夜は安心した。しかし、当事者の赫夜はうんざり、とした感情を顔の上に露わにしていた。


「はぁ。烏師になったからには、月に何度も后土殿に行かなきゃいけないのか。面倒だなぁ」

「仕方ないよ。代わってあげたいけど、こればかりは僕には無理だ」

「あーあ! 成人なんてしないで、朔夜とずっと皇宮でのんびり過ごしたいな」


 それはできない。二人はそれを嫌というほど知っている。二人が生まれるよりだいぶ前に起きた、“とある事件”で国内は随分と荒れた。それを鎮静化させるための一時的な処置として二人の母親が表舞台に立ったが、その母親も二人を産んですぐに亡くなった。今や烏兎一族の直系の子孫は、赫夜と朔夜の二人しか残っていない。それはこの国を継ぐことができるのが、もう二人をおいて他にはいないことを指していた。

 だが、国を守るために二人の母親が行った一時的な処置、それは自身が表舞台に立つこと以外にもあり、その内容は決して外部に漏らしてはいけない『最大の秘密』であった。


「――赫夜様。青朗殿の中とはいえ、はしたないです」


 ひんやりとした床の上で戯れていた二人を突然現れて咎めたのは、一人の女房。久々に目にしたその女性の姿に、赫夜は怒られていることなど無視して笑みを浮かべて名を呼んだ。


揺籃ヨウラン! 久しぶりだね」

「殿下、もうその顔には騙されませんよ。いくら私の前とはいえ、もう少し

「はいはい、わかってますよ。ばれたら大変だもんね、私の性別」


 そう言いつつ、大股を開いて座る赫夜の姿に乳母の揺籃は溜め息しか出てこず、ただただ痛む頭を抑えた。


 二人の秘密。それは、二人が歴代の双子とは違って、“男児の双子”だということ。つまり、皇女ひめみこしかなれない烏師の座に、皇子みこである赫夜が座っているということだった。

 このことがもし外部に漏れれば、陰陽国はたちまちの内に滅亡することであろう。そんな爆弾を腹の底に、二人は抱えていた。



 ❖ ❖



 二人が生まれるより約四十年ほど前、十五代目の兎君の時代の後宮はとある重大な問題を抱えていた。それは、十五代目兎君の妃たちが一向に双子を授からなかったことである。それまでの歴代兎君も何人かの一人っ子の御子を授かってはいたが、十五代目はもう既に七人もの御子を授かっているにも関わらず、一向に後継である双子を授からなかったのであった。兎君の年齢的にもそろそろ限界か、と周りが諦めかけた頃、ようやく正妃の女官であった女が、兎君との間に男女の双子を出産した。残念ながらその女官は若く初産だったため、そのまま亡くなってしまったが、幸い双子の赤子は健康そのものであった。

 念願の双子として生まれたのが、十六代の兎君となる『白夜ビャクヤ』と、のちに朔夜たちを産むことになる十六代の烏師『十六夜イザヨイ』である。周囲から祝福された誕生だったが、その生誕を喜ばぬ者もいた。それは他ならない、二人の兄姉たちだった。兎君の御子でありながら、生まれた瞬間から日の目を見ることのない自分たちとは違って、生誕したその瞬間から後継者となる二人の存在を妬み、疎ましく思っていた。そんな兄姉たちの陰湿な嫌がらせに、白夜は幼い頃から怯えて育った。一方で気弱な白夜と違って男勝りで勝ち気な性格であった妹の十六夜の方は、逆に上の兄弟たちを言い負かし、その小さな背中で白夜を庇っていた。

 そして最終的には白夜の毒殺未遂が起こったことをきっかけに、正妃が動き出して二人を後宮の外の、東宮御所に移住させたのだ。ようやく手に入れた安寧の日々だったが、白夜は兄弟だけでなく臣下たちに対しても常に怯えた態度を見せ、真に心を開くのは双子の妹だけだった。故に周囲は成人して即位しても、次の兎君は烏師にベッタリかもしれない、と心のどこかで危惧していた。


 しかし、周囲のそんな予想を裏切って、白夜は十八歳の折にとんでもないことを起こした。


 元服して間もなく、父である先代兎君が病死したため、白夜は十七歳で次の兎君として即位した。同時に用意されたのが、彼の正妃である。陰陽国でも由緒正しい貴族の娘で、家柄的には何の問題もなかったが、最大の問題は白夜との相性であった。気弱な白夜をまるで見下すような態度をみせる高飛車な妃を白夜は心底苦手とした。

 その一方で白夜は後宮に仕える“更衣こうい”の女官『海星カイセイ』に一目惚れし、彼女を妃の位に上げたいと考えていた。だが、その一途な愛は周囲からは猛反対され、現実的に叶うことは不可能だった。だがこの周囲の反対意見のせいで結果的に、陰陽国にとって最悪の事態へとなっていく。

 海星との仲を反対された白夜はついに何かがしまい、ある真夜中の闇の中、海星と共に皇宮から姿を消してしまう。夜のうちにそれに気づいた近衛たちが総出で捜索したが、二人は既に都から逃亡してしまっていたようで、見つけることは叶わなかった。

 『当代兎君の失踪』など前代未聞であり、皇宮内だけでなく陰陽国全体が大きく混乱した。その混乱を収めたのは、分家の当主『陽明ヨウメイ』と、白夜の双子の妹である烏師『十六夜イザヨイ』だった。分家の陽明は自らも双子の御子がいなかったため、特例として烏師である十六夜に兎君の地位も兼任してもらうことを提案し、十六夜と他の領主たちの賛成によってそれが決定した。

 そして早急に浮上した次の問題が、世継ぎである。本来未婚である烏師の十六夜が子を産むこともしばしば問題となったが、もし十六夜が後継を残さず薨去すれば、今度こそ陰陽国は滅亡しかねない。故に陽明は自身の息子である『陽春』を婿候補に立てるも、分家の権力が強まることを恐れた十六夜から却下され、彼女の希望により各領主の子息から迎えることになった。そして年齢的にも立場的にも最適であるとして、婿入りしたのは玄帝『玄冬ゲントウ』の三男『樹雨キサメ』。穏和で人柄の良い樹雨と十六夜はすぐに仲睦まじい夫婦となり、一年後にはめでたく懐妊して周囲は歓喜の声を上げると同時に、双子であることを強く願った。

 そして月が満ち、十六夜は双子を出産する。医師からは元来病弱な体質故に今後の出産は危険を伴う、と忠告されて後がない十六夜が産んだのは、待望の双子。しかし、一つだけ最大の問題があった。それは、である。今までに例がなく、しかも片方は巫女特有の白髪で産まれてきたため、男児でありながら烏師の素質を産まれながらに備えていた。今後懐妊の望めない十六夜は、その場に立ち合った産婆を口止めし、幼馴染の女官『揺籃』にある決断を告げる。


『…この子達のことを隠して、次の後継に据えます』と。


 勿論初めは揺籃も動揺したが、これしか道がないことを悟ると、伴侶の樹雨、揺籃の夫で右大臣の界雷、そして二人の息子の巴にこの情報を共有させ、彼女らは双子の性別を偽って世間に公表したのだった。

 二人は最初こそ、何故性別を隠さなければならないのか疑問だったが、徐々に身についた知恵で大人達の深い事情を察し、いつの間にか赫夜本人だけでなく朔夜も隠れ蓑となって秘密を守り始めた。


 十六夜はそんな二人の成長した姿を見ることなく産後から半年後、静かに息を引き取った。そんな妻の突然の死に動揺したのか、二人の父である樹雨はそれ以降病で伏せることが多くなり、次第に寝たきりとなった。

 片親のいない二人を育てたのは、実質的には赫夜の乳母の揺籃で、肝心の朔夜の乳母の『巣子スゴ』は殆ど揺籃に言われるがままであった。揺籃の他にも、その夫の界雷や二人の大叔母の十五夜イサヨなどにも見守られ、二人は無事成人を迎えた。


 共に背負った烏兎の秘密。その秘密が二人の絆をより一層強め、いつの間にか二人の一番の存在はお互い同士となっていた。その深過ぎる絆はいずれ、その身を滅ぼすとも知らずに。



 ❖ ❖



 成人の儀のその日の夜。久しぶりに対面した双子はどうしても二人だけで食事をしたい、と揺籃に願い出て、普段厳しい揺籃は縋るような二人の視線に根負けして、今回だけ、と念押しして渋々といった様子で首を縦に振った。

 朔夜の私室である青朗殿に並べられた二人分の豪華な膳を前に、少しずつ手にした漆塗りの皿に盛りながら、じっくりと舌鼓を打つ。

 赫夜も一年間、社殿で味の薄い精進料理ばかりを食していた反動なのか、煮付けなどの味の濃い料理にばかり手を付けている。そんな赫夜を微笑ましく眺めながら、朔夜は赫夜のいない間宮中で耳にした『とある噂』について話し出す。


「…そういえば赫夜、最近宮中で噂の『派閥抗争』について、何か聞いてる?」

「“派閥”? 冬牙派と、界雷派の話?」

「いいや。“兎君派”と、“烏師派”の話だよ」


 “派閥抗争”と聞いて赫夜が真っ先に思い浮かべたのは、宮中で密かに行われている臣下たちによる、左大臣と右大臣による権力争い。左大臣で双子の伯父という圧倒的有利な地位にある『冬牙』と、右大臣で赫夜の乳母の夫である『界雷』の並び立つ二人に対して、下の者達が勝手に起こしている抗争であり、冬牙は兎も角、争い事に興味のない界雷はまったく無関心の謎の派閥抗争である。

 しかし朔夜が話題に上げたいのはその事ではなく、赫夜すら存在を知らないもう一つの“派閥抗争”についてであった。


「それは初耳だ。一体どんな輩が私たちを勝手に巻き込んで争ってるんだ?」

「細かいところまでは知らないけど。界雷の話によると、大納言をはじめとした、界雷たちの下の者達が動いているらしいよ」

「…あぁ。一番冬牙を鬱陶しがっている連中か」


 左大臣、右大臣の次官に当たる者達にとって、陰陽国出身の界雷はともかく、北出身の冬牙はどうあっても目の上のたんこぶに他ならず、彼の失脚を虎視眈々と今でも狙っているという。その手段として今回利用されたのが、朔夜たち兄弟というわけで、赫夜は面白くなさそうに眉を顰める。


「はぁ、嫌になるよ。まさか中納言の常夏トコナツは、烏師の私一人を玉座に着けようしてるんじゃないだろうな?」

「そのまさか、だよ」

「馬鹿馬鹿しい。烏師が玉座に着くのは私たちの母が最初で最後と決まってる。あれは一時的な措置に過ぎないのだから」

「でも、そう思わない者たちもいる。気をつけて、逆に常夏と対立している兎君派の連中に毒殺されるかもしれないから…」

「は。大丈夫だよ、流石の彼らでも、畏れ多くも烏師の食事に毒を盛るなんてできっこないさ」

「…そうだと、いいけど」


 赫夜の楽観的な物言いに一抹の不安を抱きながら朔夜が好物のあわびを摘んで一口食んだ、その瞬間に口の中で何かが滲み出したのを感じて激しく咳き込んだ。


「うっ!? げほっ」

「朔夜!?」


 只事ではないと慌てて席を立って朔夜に駆け寄った赫夜は、側にあった紙の上に食べかけの鮑を吐き出させ、未だ痙攣の治まらない朔夜の肩を宥めるよう抱き寄せた。

 恐らく原因である鮑は吐き出したが、そこに染み込ませてあったものを体内に取り込んでしまった朔夜は呼吸困難と少量の吐血を繰り返し、最後には赫夜の腕の中で気を失ってしまった。現状に困惑している赫夜は気絶した朔夜を目の当たりにして全身の血の気が引いていくのを感じながら、必死に巴の名前を叫んだ。


「っともえ、巴! 来い、ともえ!!」

「殿下…!」


 普段あまり聞くことのない慌てた赫夜の呼び声に、何事かと飛び込んできた巴は一見してその場の状況を把握し、瞬時に対応する。


「殿下。すぐに医師を呼びますので、朔夜様のことを暫しの間お任せしてもよろしいですか? ——母上…、いえ揺籃殿が来るまで」

「あ、あぁ、わかった。任せろ」

「では」


 朔夜がまだ辛うじて呼吸をしていることを確認した巴は、朔夜を少しの間赫夜に任せて御簾から飛び出すと母・揺籃と、医師を呼びに走った。

 その姿を見送りながら、赫夜は一向に目を覚ます様子のない朔夜を頬を撫で、体温が消えていかないことを願った。

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