第参拾参話 共に歩む者〈一〉


 双星暦そうせいれき千六十九年(2059年) 水張月みずはりのつき(六月)


 陰陽国には伝統的な行事がいくつもあるが、王族の子供が必ず行う行事がある。その年十五歳となった烏兎一族の子供は皆、この地で一番めでたい月『水張月みずはりのつき』に“元服の儀”を行うことになっている。十五歳という節目の年齢になると、双子は正式に王権を授かることができるようになるため、この年は双子にとっても、臣下たちにとっても一番忙しい時期であった。



 不意に薄暗い瞼越しに強い光が当てられた衝撃で、朔夜は目を覚ました。寝具を包む帳台の几帳越しに差し込む朝日に視界を遮られ、気怠い動作で咄嗟に腕で両目を覆った。そして再度訪れた闇の中で再び夢に耽ろうとしたが、帳台の外から掛けられた目覚めの挨拶に、意識は完全な覚醒を迎えてしまった。


「―――お目覚めのお時間で御座います、殿下」

「……」

「…殿下いけませんよ。本日は元服の儀とお披露目、そして“烏師様”のお出迎えが御座います」

「…わかった、わかったから。もう起きるよ」


 側仕えの男が今日の行事を捲し立てるように述べれば、観念した朔夜はまだ寝ぼけた眼を擦りながら起き上がった。起き上がった朔夜に今一度おはようございます、と頭を下げて、再び上げたその顔に朔夜はつれなくそっぽを向いた。

 朔夜を起こしにきたのは、陰陽国の警備を行う近衛府に所属する『右中将うちゅうじょう』の地位にある、名を“トモエ”という男。切れ長の目にすらっとした出立ちの美丈夫だが、いかんせん愛想が悪い。基本仏頂面なため、何を考えているのか読みづらい。そのせいで朔夜が苦手としているが、常にニヤニヤとしたいやらしい笑みを貼り付けている“伯父”に比べれば、まだマシな方なのかもしれないと、最近思い始めている。

 兎君の秘書として『蔵人頭くろうどのとう』も兼任していてくれる巴はお決まりの無表情のまま、朔夜に今日の予定を伝える。


「では、本日は朝食後すぐに元服の儀の準備に取り掛からせていただきます」

「うん。よろしく頼むよ」


 起き上がった朔夜にすかさず内侍の女官たちが寄り集まり、手際よく身支度を整えていく。他人に身支度のすべてを委ねることに慣れている朔夜は、ただされるがままで退屈そうに大あくびを漏らす。代々兎君のみが着ることを許されている上品な藍色の衣を身に纏い、寝癖のついた艶やかな黒髪を櫛で梳いて整え、最後に朔夜がどんな時も肌身離さず身につけている、深紅の宝石が輝く銀の耳飾りを左耳に着けて、身支度は終了する。

 そしてそれを見計らって、別の女官たちが朔夜の前に朝食の膳を手早く用意していく。女官の用意した消化の良い粥を匙で口に運びながら、朔夜は今日の予定を脳内で反芻し、ある事大事なことを思い出してようやく覚醒する。


「そうか…。今日は一年ぶりに“姉上”がお帰りになられるのか」

「はい。殿下と共に元服なされる烏師の赫夜様も、后土殿での継承の儀を終え、本日お披露目の際に皇宮へお戻りになります」


 陰陽国の双子のうち、烏師の地位を継ぐ女児は元服の儀の前に、『烏師の継承の儀』がある。その為、元服の儀の一年前から祈りの場である社殿『后土殿こうどでん』に籠り、先代烏師からあらゆることを教え込まれる。

 その継承の儀は朔夜の片割れの赫夜も例外ではなく、しきたりに従って一年前に皇宮を離れた。当時朔夜はそれを寂しそうに見送ったが、今日帰ってくることを思い出して、心なしか嬉しそうに表情が綻んだ。その前に行われる面倒な行事も、後に楽しみがあればこそ頑張れるもので、朔夜はお披露目のその時まで退屈と必死に戦った。


 まず初めに兎君は霊力によって清められた神聖なる水でその身を隅々まで洗い浄める。所謂『みそぎの儀』が終われば次は女官たちにされるがまま、元服に際して兎君の礼装である『ほう』に着替えさせられ、皇宮の中央に位置している湖に向かう。この湖こそ、神話に記されている『龍神を封じた湖』であり、その前で新しき兎君の『器』としての証を立てる。詳しく言えば、その湖の水を飲むのだ。神聖なる湖の水を飲むことができれば、その存在は龍神にも認められたことになるというが、実際はただの水であり、そうでない者が間違って飲んだとしても特に害はない、はず。


 その次に一度私室に戻り昼食を終えたのち、禁裏の正面に立つ政や儀式を行う際に使用される建物『紫微宮しびきゅう』に移動して、そこに設置された二つの玉座のうち、月の紋章の彫られた方に兎君が座して、正面より帰参してくる烏師を臣下たちと共に待つのだ。


 ここまでの行程を終え、既に日も落ち始めている宮中は静まり返り、微かに大臣たちの中でひそひそと会話するものがいる程度の雑音しか聞こえない。玉座に座して動くことのできない朔夜も、冠の乗った頭を重そうにゆらゆらさせながら船を漕いでいる。そんな朔夜の側に仕えている巴は、瞼の重い朔夜を度々小声で咎めることを五回ほど繰り返した頃、一人の近衛が先に駆け込んできて、到着を高らかと知らしめた。


「――烏師様、御到着で御座います!」


 飛び込んできた近衛の報告に、それまで気を抜いていた官吏たちも皆姿勢を正し、朔夜も重たくなっていた瞼を擦りながら座り直す。

 何人かの近衛の手によって人力で開けられた大門『上弦門じょうげんもん』の向こうから、女官たちを何人も引き連れた大行列がゆっくりとした足取りで参内してきた。女官たちを引き連れ、男衆に担がれた輿に乗って現れた烏師——赫夜は代々烏師が身にまとう太陽を象徴とした真っ赤な唐衣に、金糸で編まれた太陽を背負い、その左耳には朔夜と対になる青玉の耳飾りを付けた、見目麗しい姿を大衆の前に披露した。その堂々たる美しい姿に、朔夜は勿論のこと、官吏たちも悉く溜め息を漏らす。

 輿が玉座の前まで到着すると、男衆の手を離れて地にゆっくりと降ろされる。輿から降りた赫夜は玉座までの階段を一段ずつゆっくり昇り、朔夜の前まで辿り着くと軽くお辞儀をする。


「ただいま戻りました、兎君」

「おかえりなさい、烏師」


 形式通りの挨拶を交わすと、朔夜の座る玉座の斜め後ろの背もたれに月の紋章があしらわれた玉座に腰掛け、次は下座の臣下たちに向かって挨拶をする。


「皆々様方、烏師、赫夜。本日をもって正式にお役目を継承いたしました。これも、皆々のお陰です。大義である」


 形式通りの定型の挨拶を読み上げるように述べれば、臣下たちは声を揃えて「おめでとうございます」と頭を下げた。

 この後に続くのが、太政官たちと各領主たちによる直々の挨拶である。これがまた長く、退屈なのを隠そうともしない赫夜は手を添えながらも大口を開けて欠伸をする。その気配を察してか、朔夜は玉座越しに振り向いて視線の合致した赫夜に、嬉しそうに微笑んだ。臣下たちそっちのけな二人を諌めるように巴が聞こえるように咳払いをすれば、二人はそそくさと前を向き直して姿勢を正す。


 まず初めに前に出たのは、陰陽国の政治の殆どを掌握していると言っても過言ではない、左大臣の『冬牙トウガ』。彼は元は北の玄武一族の嫡流であったが、異母弟である朔夜たちの父が陰陽国の烏師に婿入りする際し、実権を握るために父である玄武の当主『玄冬ゲントウ』によって、陰陽国の貴族の養子となって今では朔夜たちの父方の伯父ということで順当に出世した結果、左大臣の地位に就いて朔夜の政の補佐をしている。だが実際は若輩の朔夜に代わって政の一切を彼が取り仕切ってしまっていた。


「–––両殿下、本日は誠におめでとうございます。この左大臣の冬牙、今後とも陰陽国のため、両殿下に誠心誠意お仕えしていく所存でございます」

「本日は大義である。今後とも、其方のことは頼りにさせてもらう」


 冬牙が下がり、次は右大臣の『界雷カイライ』。彼は朔夜の春宮大夫であった時から頼りにされている人物で、頭中将・巴の実父でもある。巴と同様、常に無表情で無口だが、少なくとも冬牙よりは信頼できる存在であることは間違いない。


「兎君殿下、並びに烏師殿下。両殿下とも本日は無事元服の儀を終えられて、誠におめでとうございます。左大臣共々、今後とも両殿下をお支えしたく存じます」


 冬牙の時と大体同じような労いの言葉を掛ければ、界雷はさっさと後ろに下がった。相変わらず淡白なことだ、と赫夜は密かに苦笑した。

 次は二人の大納言。その内の一人は、烏兎一族と血縁関係にある、分家の当主『陽春ヨウシュン』であり、朔夜たちにとっては少々面倒な相手である。この少し肥満気味の男、とにかくおしゃべりで調子が良いのだ。


「両殿下! 本日は誠におめでとうございます! 我ら分家一同、心より御喜び申し上げます!!」

「…ありがとうございます、陽春殿。我が従姉妹たちは変わりないですか?」

「はいはい! 次女の夕陽ユウヒも、三女の朝陽アサヒも、二人とも健やかで御座います! 特に夕陽なぞは、近頃益々美しくなってきましてなぁ」


 軽率にも陽春に娘の話題を振ったことに、朔夜は三秒で後悔した。烏兎一族の分家に血筋で、先の兎君の異母姉に当たる姫を正室に迎えながらも、皇宮で然程重用されていない陽春は、なにかと自分の娘を朔夜の后にしようと躍起になっているため、事あるごとに娘の自慢話を聞かせてくる。この自慢話には朔夜、赫夜の両名は勿論、他の臣下たちもうんざりしている。

 このまま放置すれば永遠としゃべり続けるのではないか、と皆が危惧し始めた頃、ようやく冬牙が待ったをかけた。


「陽春殿。後が詰まっておりますので、本日のところはその辺で」

「む。そうですな、では失礼致します」


 ようやく止まった陽春のしゃべりに、全員はホッと胸を撫で下ろした。

 次の大納言『敗醤ハイショウ』、中納言の『桔梗キキョウ』、『常夏トコナツ』、『笆茅ハボウ』、そして参議さんぎの『胡枝子コシシ』、『山蘭サンラン』、『野葛ヤカツ』の七人の挨拶を終え、ようやく次で最後。


 その最後に躍り出てくるのが、陰陽国を中心に四分割された四方の領地を統治する、四人の領主たちである。彼等には明確な格の違いはなく、等しく初代陰陽国兎君に仕えていた由緒正しい武士もののふの末裔ということで、兎君と烏師が国外で唯一絶対の信頼を置いている人々でもある。

 元来平等である領主だが、今は少しばかり事情が違う。特に北の玄武一族を束ねる頭領『玄冬ゲントウ』は、先代烏師“十六夜”の夫であり朔夜たちの実父にあたる『樹雨キサメ』の父であり二人にとっては外祖父。そして極め付けは、現左大臣“冬牙”が長男であることである。

 他にも、東の青龍一族の頭領『青林セイリン』は大納言“陽春”の一の姫を正室として迎えている。南の朱雀も同様に、陰陽国の有力者から正室を迎えていた。

 故に今の領主たちに格の順位を付けるとするならば、一位に玄武、二位に青龍、三位に朱雀、四位に白虎、となる。

 そのため領主たちの挨拶も、自然とその順番で行われることとなる。


「両殿下。本日の元服の儀、万事筒が無く迎えられましたこと、誠に御喜び申し上げます。この老骨、より一層の忠誠心をもってお仕えしていく所存で御座います」

「…大義であります、お祖父様。領主としても、祖父としても、今後とも頼りにしています」

「ありがたき幸せ」


 他の領主たちに比べてやはり少しばかり態度が大きく感じる玄冬に、後方に控えた巴は明らか不機嫌そうに眉を顰めた。そんな傲慢な玄冬に、赫夜はニヤリと笑って軽口を漏らす。


「しかし祖父様。齢六十の身では限界がありましょう。そろそろ後継にお譲りしてはいかがでしょうか?」

「…いえいえ。まだまだ身体の動くうちは、両殿下のために働かせていただこうと思っておりますので」


 つまり玄冬は、まだ朔夜たちの外祖父として権力を振るうつもりなのだということだ。腹黒ジジイめ、と心の中で悪態をついて、赫夜は再度頬杖をついてそっぽを向いてしまった。


 次に一歩前に出たのは、東の『青龍一族』の当主“青林” 現在他の領主たちに比べて圧倒的に若いが、彼の持つ当主たる器量に関しては全く他領に引けを取らず、若くして当主に着いた彼を亡き双子の母“十六夜”は特に信頼を置いていた。


「両殿下、本日は誠におめでとうございます。我が領民を代表してお祝い申し上げます。本日、出席するはずでした我が妻、陽炎カゲロウについては誠に申し訳ございません」

「いえ、両名とも大義である。我が叔母、陽炎殿にはくれぐれも産後の身体を大事に、とお伝えください」

「勿体ないお言葉、ありがとうございます」


 青林の正室“陽炎”は先程の陽春の長女であり、ついこの間第二子である姫を出産したばかりであった。故に体調が優れず、今日は急遽欠席となってしまったのだ。烏兎一族に殊更忠義の厚い青林に対して、赫夜も特に揶揄う様子もなく、青林の番はすぐに終わった。


 次は南の『朱雀一族』の当主“朱鷺トキ” 代々受け継がれる朱色の長い髪をうなじで束ね、近眼なため常に眼鏡をかけた物腰柔らかな朱鷺が、穏やかな口調で祝辞を述べた。


「両殿下、無事に元服されましたこと誠におめでとうございます。本日は不調の御台の代わりに、我が長男の朱槿シュキンの出席をお許しいただき、ありがとうございます」

「…朱鷺が長男、朱槿でございます。両殿下、おめでとうございます」


 朱鷺の一歩後ろに控えた同じ朱色の髪の若者は、朔夜たちよりいくつか年上ではあるが、まだ二十代になったばかりの青年で、少し太々しさのある挨拶に朔夜は寛容的な笑みを浮かべて返すが、赫夜はそんな少年の態度が気に食わないようで周りに隠れて舌打ちをした。

 この朱槿はのちに朔夜たちと深く関わることになるが、今はまだ誰もそんなことを予感すらしていなかった。


 朱鷺ら親子が下がり、最後に西の『白虎一族』の当主“白楽ハクラク”と、その孫である“白秋ハクシュウ”が前に出る。

 白く長い顎髭を蓄えた小柄な老人がお辞儀する後ろで、両の瞳を輝かせながら朔夜を一心に見つめる白秋の姿に赫夜は気付き、密かに眉を顰めた。白秋の朔夜を見る目には、どこか欲望めいた熱意を感じ、その気味の悪さに朔夜には気づかれないように、赫夜は白秋を睨みつけた。

 そんな二人の無言のやりとりに気づいていない白楽は、落ち着いた様子で挨拶を続ける。


「両殿下、本日は誠におめでとうございます。我ら白虎一族の一同、心より御喜び申し上げます」

「おめでとうございます、両殿下。白楽が孫、白秋でございます。本日はお招きいただきありがとうございます」


 大勢の目がある手前、一応は二人への挨拶をしているが、白秋の視線は一直線に朔夜のみに注がれており、それが面白くない赫夜は当たり障りのない、言い換えればひどく素っ気無い挨拶を返した。


「…大義である。白楽殿、これからも未熟な我らをよろしく頼みます」


 そんな心のこもっていない赫夜の挨拶でさえ、白楽は嬉しそうに精進いたします、と深々と頭を下げた。


 そしてようやく、諸々の儀式を明日に控えて、双子は退席していった。後に残された臣下たちは次に待つ、饗宴の酒に密かに胸躍らせるのであった。



 ❖ ❖



 紫微宮から退出して御所を囲む宮門の正門『上弦門じょうげんもん』を出て、西の饗宴のために建てられた『天厨院てんちゅういん』に集まった臣下たちは、早々にどんちゃん騒ぎとなり、赤ら顔の男達は各々の身の上話をおもしろおかしく披露し合っていた。

 例えば、どこそこの家の娘が美人だとか、某中納言の娘が無事結婚したとか、某大納言の娘は無事男児を出産したとか、そんな他愛もない話ばかり。その中でも、陽春は末娘の自慢話を周囲に触れ回り、あわよくば良い縁談が持ち込まれるのではないか、と画策していた。そんな陽春を横目に、右大臣の界雷と中納言の桔梗は呆れを含んだため息を漏らす。


「はぁ…。陽春殿も懲りない方ですね」

「全くです。長女の陽炎殿も、父親からの縁談話に辟易した結果、自ら進んで青林殿に嫁いでいったらしいですから。親があれでは、子が苦労しますな」


 中納言の比較的安定した地位にいる桔梗は宮中の誰よりも情報通であり、尚且つ顔が広い。人望もありながら、自由度が足りないという理由で右大臣の地位を辞退した変人の桔梗のことは、能力だけなら界雷は一目置いており、こうやって酒を酌み交わすことも少なくない。


「…にしても、相変わらず冬牙殿の周りは殊更賑やかですな」

「まぁ、いつものことです。宮中の最高権力を握っている冬牙殿ですから、皆露骨に媚びを売っているのでしょう」


 二人の後方にわらわらとできた人集りを横目に桔梗はお猪口の中身を飲み干した。

 兎君がまだ幼い今の御時世、宮中で一番の権力者は補佐官の左大臣と右大臣である。特に兎君の伯父である冬牙の宮中での権力は絶大で、皆が皆冬牙を立てて媚を売ろうと必死であった。


 その群衆を同じように離れたところから観察していたのが、各領主たちの集まりである。孫の元服に喜び舞い上がった玄冬は、既にできあがった顔で他の領主たちに次から次へと酒を注いでは飲め飲めと薦めていた。


「いやあ、本日は我が孫らの元服、誠にめでたい! 思わず酒が進んでしまいますな」

「玄冬殿、程々にしておきませんと明日に響きますよ」

「しかし朱鷺殿! こんな喜ばしい日に飲まずにはおれませんよ! 特に私は二人の祖父ですからなぁ」


 すっかり浮かれている玄冬の様子にやれやれ、と肩を竦めた朱鷺は静かな場所を求めて青林の隣に腰掛けた。現領主の中では一番に年若い彼だが、その落ち着いた様子には既に貫禄が出ており、童顔な朱鷺と並んでも同年代、もしくは年上と勘違いされてもおかしくはなかった。そんな若者らしからぬ青林のことを朱鷺は、まるで弟のように可愛がっているのだ。


「青林! 御子は二人とも息災か?」

「あ、はい。長男は最近、家臣たちと剣の稽古に励んでおりまして。去年生まれた長女ももうすぐ一歳になります。二人とも元気でおりますよ」

「そうか、そうか。それはなによりだ! うちもな、今日連れてきた朱槿は些か遅い反抗期の真っ最中なのだが、二才になったばかりの妹のことをよく気にかけてくれる優しい奴になってくれて、安堵しているのよ」

「そうですか。それはよかったですね」

「そうなのだ。正直、母親が違うだけで仲の悪い兄弟もいるから、心配していたのだが杞憂であった」


 朱雀一族の頭領・朱鷺の二人の子供は、実は腹違いである。元服の儀に参列した長男の朱槿は朱鷺の唯一の側室との間に生まれた子であるのに対し、二年前に生まれたばかりの長女は正室の子であった。妻同士の争いは側室が早くに亡くなったことで起こることはなかったが、その子供同士で後継を争ったりも過去にはあるため、正直なところ朱鷺は二人のそんな関係性を危惧していた。しかしその間に立ったのが、正室だった。朱槿をまるで我が子のように平等に接する彼女の懐の深さにより、城内の空気は常に和やかであった。そんな正室に朱鷺は感謝しても仕切れない思いを感じていた。

 それまで和やかな会話を続けていた朱鷺だったが、突然穏やかなその表情を固く曇らせ、神妙な様子で青林にとある悩みを打ち明けた。


「…青林。ここ最近、領内で何か変わったことはないか?」

「変わったこと?」

「例えば、天候不順や原因不明の不作、とか」


 朱鷺の上げた二つの例のうち、二つ目に心当たりのあった青林は、お猪口を置いて真っ直ぐ朱鷺と向かい合って話す。


「領内のあちこちで農作物の不作が続いている、という話は小耳に挟んだかもしれない。ましか、朱鷺殿のところも?」

「あぁ。何が原因なのかわからないが、突然作物が全て枯れたり、虫が大発生して食い荒らされたりしている。困ったものだ」


 全て自然的な理由で起こっている事態故、対処をし兼ねている朱鷺が頭を悩ましている問題について、二人の間に突然割って入ってきた朱槿がとある噂を口にした。それを聞いた瞬間、二人の顔色は一変する。


「…噂によれば、烏師様の管理している“柱”の不調とか、なんとからしいですよ」

「っ朱槿。滅多な事を口にするな」

「だって父上、俺だけじゃなくて民たちもみんな同じ考えだよ。何らかの原因で“柱”の状態が不安定になって、龍脈に異変が起きてるせいだって。そしてそれが、烏師様本人が原因なんじゃないかってさ」


 事もあろうに烏師のお膝元の宮中内で烏師に対するあらぬ疑いについて口にする朱槿の豪胆な態度に、流石の朱鷺も無理矢理口を塞いで制止した。


「朱槿! いい加減にしろっ」

「…各地の民や家臣たちの不安は最もだが、その内容はあまり両殿下には聞かせたくないな」


 青林は即位して間もない二人の幼い君主に負担をかけるのは得策ではないと考えており、朱鷺と共に早々に噂が消滅することを願った。

 その時。何を思ったのか、朱鷺がある可能性の話を始めた。


「–––もし、この噂が本当だったら。青林はどうする?」


 朱鷺の「どうする」とはつまり、二人の幼い君主に異を唱えるのか、否か、その質問であった。しかし青林はその問いに対して、真っ直ぐに嘘偽りのない眼差しで簡潔に答えた。


「ありえない。我が青龍一族が陰陽国への忠誠心を失うことは、この先何千年経ったとしても、あり得ないことだ」



 この揺るぎない青林の忠義、それが揺らぐのはそう遠い未来ではないことを誰も知らない。

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