第参拾玖話 陰陽国の光と影〈三〉
一、二、三、と目の前で駒を数える細い指先を眺めながら、外から流れてくる心地よいそよ風にそっと目を閉じる。暑くもなく寒くもない常に適切な季節を巡り続ける陰陽国は、南の陵光領が厳暑真っ盛りの中の
「–––まぁ殿下、まさか寝ていらしたのではないでしょうね?」
「ん、違うよ。
「もう嘘ばっかり。双六がしたい、と私を呼びつけたのは貴方様ではありませんか、
つい数分前、その日の政務を終えて暇を持て余していた兎君・朔夜はこのままでは日が沈むまで眠ってしまうほどの暇に耐えかね、後宮内でも特に仲の良い女官の『
梅枝は誰に対しても気さくで物怖じしない大変肝の座った女性である。“強気”という点でいえば朔夜の従姉妹にあたる分家の『
「…そういえば、最近家の方から文は届かないのか?」
「いいえ、つい先日に母から届きました。両親、妹、そして“
「…会いにいかないのか? その柊、自分の子に」
「…会いに行きたいのは山々ですよ。でもあの子のことは妹と義兄の夫婦に任せましたので」
梅枝は後宮に入る前、とある男との間に一人の子を産んだ。その子の名は“
冬牙の提案で梅枝の息子は彼等の養子として引き取られ、養育に関しては妹が引き受けることになった。代わりに梅枝には後宮に入ってもらい、冬牙と朔夜の足掛かりになってもらう、という条件が提示された。その提案に梅枝は素直に頷き、愛する息子に別れを告げて後宮にやって来たのだ。
だが時折、実家の母から文が届き、その内容の殆どは別れた息子の様子についてだった。近況を知る度に梅枝が嬉しそうにしているところを朔夜は何度となく目撃してきた。梅枝のことは気の許せる姉のような存在で手放すのは惜しいが、どうにかして家に戻してやれないかを朔夜は密かに思案している。
すると話題の中に上がった冬牙の名前で梅枝はとある事を思い出し、双六盤を見つめながら話し始める。
「…そういえば、
「……ほぉ?」
梅枝から齎された情報はさも朔夜も承知の上だと思っていて話題に上げたが、駒を進める手を止めて眉尻を上げる姿から知らされていなかったことを梅枝は察した。しかし普段他の誰よりも仲の良い二人の間には隠し事などなく、その赫夜が敢えて秘密にしているのであれば何かしらの思惑があるのでは、と梅枝は必死にこの場にいない者の弁明をした。
「…っあ、でも。
「…いいよ、梅枝。事の詳細は本人から直接聞くことにする」
「…そうですか」
この時確信した。朔夜は確実に“怒っている”と。それが秘密にされていたことに対してなか、それとも陰でこそこそとしていたことに対してなのか、定かではないが確実にその怒りの矛先は赫夜に向かっていた。もしかしたら今代始まって以来の壮絶な『兄弟喧嘩』に発展するのでは、と危惧した梅枝が宥めようとした時、彼女の声を遮って朔夜の乳母“
「…朔夜様、そろそろ」
「ん、そうか。引き止めて悪かったな、梅枝」
「え、いえ。とんでもございません、大変楽しゅうございました」
「僕もだよ。近いうち、また相手をしてくれ」
巣子に促されてとはいえ、朔夜からお開きの合図をされ仕方なく梅枝はその場から退散した。その顔に些かの不安を滲ませていたことに朔夜は気づきながらも、あえて見ないふりをした。何故なら、今はそれどころではないからである。
二人のやり掛けの双六盤を片付ける巣子の背中を見つめながら、朔夜は徐に彼女の息子の近況について質問した。
「…そういえば、
「え、えぇ、勿論でございます。大納言として日々、烏兎とこの国の為に精進しております」
「そうか。其方の息子だ、期待しているぞ」
滅多に聞くことのない朔夜からの賛辞の言葉に、巣子はパッと表情を明るくし、勿論でございます、と深々と頭を下げた。
普段、赫夜の乳母であり亡き
そして朔夜の関心が敗醤に向いている今こそ好機、と考え『ある事』を朔夜の耳に吹き込んだ。
「…そういえば朔夜様。敗醤より急ぎ主上のお耳に入れたきことがある、と」
「なんだ?」
「…真意は定かではありませんが、数日前朔夜様の膳に毒を盛るよう命じたと噂される、中納言の常夏殿。あのお方の御屋敷にて、烏師様と何やら良からぬ相談をしていた、と宴に参加した者から…」
実は前々から対立関係にあった大納言“敗醤”と中納言“常夏”は相手の内情を探るべく、敗醤の命令で常夏派の中に密偵を忍ばせていたのだ。そんなことにも気づかず、常夏は先日の宴の席で朔夜を害する発言を声高らかに連呼したわけだ。
それを聞いた朔夜の両目は僅かに見開いたものの、すぐにいつもの澄ました顔を戻り、情報を齎してくれた巣子に感謝の言葉を掛けた。
「…そうか。わざわざすまない、敗醤にも礼を言っておいてくれ」
「かしこまりました、確と伝えおきます」
「それと、“今後も期待している”と」
「はい!」
息子に目が向いていることに喜ぶ巣子に、お茶の用意を頼む、と言って朔夜は彼女を下がらせた。
その一部始終を偶然聞いてしまい咄嗟に物陰に隠れてしまったのは、
多くの
「っ
「! 驚いた、真鶴か。なんだ? そんなに息を切らして」
常日頃から『慌てず、騒がず、優雅に』と教えられていることに忠実な真鶴の慌てた様子を珍しそうに見つめながら、呼吸の整わない小さな背中を摩って落ち着かせた。
ようやく落ち着いた頃、巴は改めて用件を聞いた。
「で、一体どうしたんだ?」
「じ、実は先程、青朗殿の前をお通りした時、聞いてしまったのです。巣子様と殿下の話を」
「お二人だけで? それはまた珍しい」
正直言って、朔夜は自身の乳母をあまり頼りにはしていない。彼女よりも亡き母と仲の良かった赫夜の乳母である、揺籃の方によく懐いている。そのことが面白くない巣子は何年か前に直接揺籃に物申したことがあったが、自身の手際の悪さを指摘され、文句の一つも言えずに心折れた、と聞いていた。
そんな情けないことこの上無い巣子が、朔夜と密談するなど、只事ではないことは明らかだった。
「…内容は、聞いたのか?」
「ふ、不可抗力です! 偶々聞こえただけですよぉ」
「泣くな、攻めているわけではない。その内容に興味があるだけだ」
てっきりまず最初に立ち聞きしたことを咎められると思っていた真鶴はお咎めが飛んでこなかったことにぽかん、としながらもその会話の内容について話し始める。
「あ、えっと…、確か。そう、“烏師様が中納言殿の屋敷に招待を受けていた”っていうのと、あとは“その中納言殿の屋敷でなにやら良からぬ企みをしている”と、あぁ! 最後に“大納言殿によろしく”と、言っておられました!」
「…なるほど」
話の内容から察するに、中納言は『
そこまで話がわかれば後は簡単に答えが出た。これが“兎君派の策略”であることに。
「…真鶴、知らせてくれてありがとう。だが心配はいらない」
「ほ、ほんとですかぁ? これで万が一にも烏師様と兎君様が争うことになれば、やばいんじゃ…」
「そんなことになれば、先代兎君の時よりも国が荒れるだろうな」
「ど、どうしましょう!」
「だから大丈夫だ。私もなんとかするし、父上も動いてくださるだろう」
「…確かに、右大臣殿がいれば千人力ですからね!」
「…それは、どうだろう?」
真鶴の言う、千人力、というのはあまり理解できなかったが、巴はあの仲の良い双子が家臣たちに唆されて争うことなど、天地がひっくり返ってもない、と思っていた。
そう、思っていたのだ。その一週間後までは。
❖ ❖
宮中で不穏な噂がいくつも飛び交う中、先々代烏師の
その二人を出迎えたのは、朔夜の乳母である巣子だったことに、二人は驚きのあまり暫し固まった。
「…す、巣子殿、珍しいですね、貴女が出迎えとは」
「お帰りなさいませ、烏師様、揺籃殿。本日は主上に頼まれてお二人をお待ちしておりました」
「…朔夜に?」
「はい。主上は青朗殿にてお待ちです」
そう言われて朔夜の自室である青朗殿に向かった二人は、
到着した赫夜の存在に気づいた朔夜は、まるで二人に聞かせたくないかのように忙しなく話を切り上げて敗醤を下がらせた。
「――今回はここまでとしよう。後のことは追って沙汰する」
「かしこまりました。失礼いたします」
敗醤が去ったのを確認すると、朔夜は振り返って数週間ぶりの赫夜に挨拶をする。しかし普段であれば今にも飛びつきそうなほど喜ぶ朔夜も、今回は心なしかあまり嬉しそうではなかった。
「…おかえりなさい、赫夜」
「…ただいま帰りました、朔夜」
交差する二人の視線の間で密かに火花が散るのを感じて身震いする揺籃はお茶の準備に取り掛かろうとしていた巣子の後を追った。それを横目に赫夜は笑顔で提案する。
「…折角ですから、二人にお茶と菓子を用意させましょう? 久しぶりの再会ですもの、いろいろと積もる話もあるでしょう」
「…そうだね。じゃあお茶を揺籃、菓子を巣子に任せよう」
その提案を聞いていた揺籃が手早くお茶の準備をしていると、懐の中で一つの小瓶がその存在を主張した。それは中納言“
赫夜だけでなく、朔夜のことも揺籃は生まれる前からよく知っており、彼等の両親を除けば誰よりも近くでその誕生からこれまでの成長を見守ってきた。二人の母である十六夜とはまだ若い頃からの謂わば、親友のような関係で、彼女が二つの玉座に座る決意をした時も、烏師でありながら子を産む決断をした時も、常に傍にいた。そして彼女の残した“最大の秘密”も共に共有した。そんな大切な親友の忘れ形見の片方に手を下すなど、揺籃にとっては己が身を切る思いだった。しかし赫夜のあの目は絶対的な命令を示しており、乳母として逆らうことは許されない事実もよくよく理解している。
故に揺籃はついに苦渋の決断をした。
「お許しください、朔夜様」
封の切られた小瓶からとぽとぽ、と流れ落ちる無色透明で存在感を感じさせない無味無臭なそれが、朔夜の方の湯呑みにのみ注がれたのだ。綺麗な抹茶色の中に沈んでいくそれを眺めながら、心の中で悲痛な叫びにも近い懺悔の言葉を繰り返していると、背後から菓子を用意し終えた巣子が声を掛けてきた。
「揺籃殿、お茶の準備はできましたか?」
「…え、えぇ。丁度終わったところよ」
「では急いで運びましょう」
「そ、そうね」
明らかに先程と打って変わって動揺している揺籃の様子に気付きながらも、それを無視して彼女を急かした。
待ちくたびれた二人のもとに戻れば、そこではいつもの仲の良い双子たちの談笑風景が繰り広げられており、社殿では硬い表情ばかりの赫夜が朗らかに笑っているのを見て、揺籃の罪悪感はより一層増した。赫夜のその表情を引き出せるのは、他ならぬ朔夜しかいないのだから。そんな二人に水を差すのも悪いと思いつつ、巣子と揺籃は二人の前にそれぞれの湯呑みと菓子を用意した。その日の菓子は、
「あ、山桃。ありがとう、巣子」
「いいえ。存分にお召し上がりください」
そして朔夜が山桃に手をつける前に淹れたてのお茶を啜ろうと口元に寄せていくのを緊張の面持ちで凝視していた揺籃は、傾けられた湯呑みから中身が流れ落ちる寸前、朔夜が動きをぴたり、と止めたことにドキッと肩を震わせた。
一口も口を付けることのなかった湯呑みの中身を回しながら観察する朔夜は、視線だけを上げて目の前の不敵に笑う赫夜を睨んで徐に尋ねる。
「――ねぇ赫夜、僕に何か隠し事してない?」
何もかもを見透かされているような眼差しに揺籃が冷や汗を流す中、赫夜は浮かべた笑みを一切曇らせることなく飄々とした様子で「別に何も」と答えた。しかし朔夜がその答えに納得していないのは明らかだった。
「…あのね、赫夜。僕の唯一の特技、なんだか知ってる?」
「さて、なんだったかな?」
「それはね、一度飲んだ毒の匂いと味を覚えられることだよ」
思い出した? と首を傾げてこちらを見る朔夜の姿に、揺籃は今まで感じたことのない心の底からの怒りの感情を感じた。そして同時に、中納言の立てた計画など、彼の前では既に機能していないことを思い知らされた。
幼い頃より、数少ない烏兎一族の血統として大事に育てられた朔夜だったが、決して敵がいなかったわけではなかった。それは主に、烏兎の分家だった。今の当主“
そして今回、揺籃がお茶の中に仕込んだのは、前回の毒と同じ物。気づかれないはずはなかった。迂闊だったのは、揺籃だけだった。
「…そういえばそうだったね。私ったら、すっかり忘れていましたよ」
「…嘘つきめ。でもこれは、烏師からの“宣戦布告”として受け取ってもいいのかな?」
「…お好きにどうぞ」
朔夜の挑発にも動じることのない赫夜の態度に、暫しその場は膠着状態に陥るが、自分のお茶に迷わず口を付けた赫夜が次に朔夜を挑発する言葉を放ち、場の空気は一気に冷えた。
「…にしても、こんなことをしでかされている朔夜こそ、“兎君”としての資質不足なのではないか、と私は思うのよ」
「…なんだって?」
「だってそうでしょう。臣下数名の不満すら気づかず、そのせいで自らの命を危ぶめているなど、自分に対して忠誠心がない臣下ばかり、と周囲に触れ回っているようなもの。朔夜がこれ以上臣下たちに心を砕かないのであれば、後の事は私がやる」
「…お前が? 僕の玉座を奪うって?」
未だかつて見たことのない火花散らすほどの双子の喧嘩に息を呑む揺籃は、ただ見守るしかできなかった。
「…本気か?」
「……本気だよ」
少し間を置いた赫夜の決意に満ちた返答に朔夜は大きく溜め息をついたと思えば、手にしていた湯呑みを庭先に放り投げ、毒の入り混じった緑茶の残骸は乾いた土の中に吸い込まれていった。パンッ、と投げられて勢いよく地面に叩きつけられた湯呑みが割れる音に揺籃が肩を震わせて驚愕する中、赫夜の表情は一片たりとも崩れない。そんな赫夜に対し、朔夜は低く唸るような声で告げた。
「お前がその気ならお望み通り、僕もそれ相応の対処をさせてもらう。精々、常夏とよくよく話し合うのだな。自分たちの受ける刑罰について」
「…では、これにて失礼致します」
何も反論しない赫夜が席を立った後、朔夜は黙って用意された山桃を一粒口に含むと、後ろに控えていた巣子に代わりの湯呑みとお茶を所望した。
「巣子、湯呑みを無駄にしてすまない。代わりのものを淹れてくれるか?」
「勿論でございます。お待ちくださいませ」
巣子は手早く代わりの湯呑みに今度こそ混ぜ物なしのお茶を淹れて朔夜の前に差し出した。それを何の躊躇もなく啜りひと心地ついた朔夜は、巣子に伝言を言付ける。その相手は彼女の息子、
「…巣子、あともう一つすまないが伝言を頼む。其方の息子宛に」
「はい」
「――“決心はついた。今暫し時を待て、合図は兎君の召集命令だ” と、な」
「…かしこまりました」
不穏な空気の流れる静かな宮中で、兎君と烏師はそれぞれ別の場所で、不敵な笑みを浮かべるのだった。
そして二人の不仲の噂は何者かの手により、瞬く間に宮中に広まることとなる。
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