第参拾話 君とまた巡り逢う時〈三〉
瞼の向こうから子供たちの笑い声と眩しいくらいの光を感じて、
まず最初に視界に飛び込んできたのは、心地良い風に身を任せて揺れる無数の藤の花たち。六花が顔を上げれば頭上には長年掛けて伸びた蔓が複雑に絡み合い、そこから垂れ下がった枝に咲き誇る藤の花たちが彩る立派な藤棚が聳えて立っていた。見覚えのない藤棚の下にいつの間にか立っていた六花は鼻腔に充満する藤の香りを感じながら周囲を見渡し、藤の簾の向こうにとある光景を見つけて凝視した。
「――― さくや?」
簾のように六花の視界を覆う藤の花の隙間から覗くその光景には、縁側の
「… いいな」
それが憧れなのか、それとも羨望なのか、将又ただの感想なのか、それとも誰とも知れぬ第三者の言葉なのか、よくわからなかったが不意に零れた独り言にハッと気づいた瞬間、目の前のまるで天国のような光景はパッと消え去り、ただの暗闇が六花の周囲を覆った。自分の身体以外を認識できない完全な闇の中で、ぬっと背後から伸びてきた白い二本の腕に六花の細い首がいとも簡単に鷲掴まれ、圧し掛かってくる体重に身を任せてその場に仰向けに倒れた。最初は無意味な抵抗を見せたが、首に掛かる指に一切の圧を感じないことにそこからの敵意の無さに六花は抵抗をやめた。締め上げることはないが決して放そうとしないその腕の人物の顔は暗闇の中に埋もれて認識できなかったが、その指細さ、腕の白さ、枝垂れかかる黒髪の艶やかさ、そのすべてを六花は知っていた。
「…母様、私ずっとね、こうしてほしかったの」
腕の人物は相槌すらも打たないが六花は続けた。
「私ね、早く母様がこうしてくれてれば、あんな扱いをされることなく、残りの人生家長の正室として真っ当に生きていけたんじゃないのかって、思わない日はなかった」
「私のような荷物が、母様の残りの人生を駄目にしてしまった。それなのに、私の自己満足でその命を散らしてしまった」
「ごめんなさい、ごめんなさい…、母様」
六花はこの際、胸の内に溜め込んでいたすべてを母親の幻影に向かって吐き出した。普段、気丈に明るく振る舞っている六花だったが、その胸の内には常に黒々とした闇が湛えており、死に際の母の姿を夢に見ては密かに飛び起きていた。朔夜と契りを交わしたあの日、母の心は既に壊れきってしまっていたのを見て今後もう元に戻ることはない、と諦めた故の決心だったが、もしかしたらあの時諦めずに母の命だけでも助けていれば、母はいずれ回復したのではないだろうか。もしかしたらまた、二人だけで楽しく静かに暮らせたのではないか。そんな想像だけの世界が六花の脳内を駆け巡り、過去の自分への無意味な復讐心がその心を黒く蝕んでいた。
きっとこれは罰だ。夢の中で母親が復讐しにきたのだと、六花は勝手に自分の中で完結させると目を閉じて身を委ねた。
すると突然、何者かに横から制止された。
「――駄目だ、これ以上はいけない」
横から突如伸びてきた骨太でありながら色白な男の手が、首を絞める腕を掴んで止めた。そして優しい声で腕の主を諭した。
「……これ以上、自分を傷つけてはいけないよ」
優しく制止する青年の声で六花はハッと目を開いて、今自分の立ち位置を再確認したと同時に驚愕した。首を絞められていたと思い込んでいた六花の立場はいつの間にか逆転し、六花は仰向けに倒れる人物の細い首を絞めるために圧し掛かる側になっていたのだ。…否、最初から六花は己が手で己が首を絞めていたのだ。震える手を首から放し、よくよく倒れている人物の姿を観察してみればそれは自分と似た姿をした木偶人形だった。すると突然カタリ、と動いた木製の目玉が六花の方を向いた瞬間、六花は飛び跳ねるように退き、よろめいた身体を横やりを入れた青年が支えた。木偶人形から離れると途端に周囲の闇が一瞬にして霧散し、次は晴れやかな青空の続く世界が二人を包み込んだ。
そんな周囲の変化に気を配れるほどの余裕がない六花は、ゆっくりと見上げてその青年の顔を確認すると、そこで六花を見下ろしていたのはまるで仏のように慈愛に満ちた、しかしどこか憂いを帯びた優し気な笑みを湛えた青年——
「…どうして、ここに?」
「さてね。俺も今の今までずっと、自分の殻の中で深く眠っていたから。でもきっと、君は俺とよく似た“性質”を持っているからかな」
「似た、“性質”?」
「…まぁそれはさておき。ほら、早くここから目覚めた方がいい。君の声を待っている人たちがいるだろ?」
赫夜にそう諭されて六花はようやく、今の朔夜と青葉のことを思い出す。そして自分が気を失って攫われたことを思い出し、この場からの出口を探すように周囲を見回した。しかしそこには扉のようなものはなく、赫夜は笑みを零してそうじゃない、と六花の頬を両手で包み込むとお互いの額と額を重ね合わせて言った。
「…“
「…赫夜は? 一緒に戻ろう、だって、だってきっと、朔夜が———っ」
会いたがっている、と言おうとした六花の言葉を指先で遮った赫夜は困ったように笑うと、六花の瞼をゆっくりと二本の指で下ろしながら最後に告げた。
「――まだ、まだ会えないんだ。でもきっと、いつか必ず…」
「―― 必ずあの日の遺されなかった言葉を聞きにいくよ」
薄れていく意識の中、瞼の裏に残された赫夜の言葉を一言一句すべて聞き取った六花は夢の外へと吐き出された。
次の瞬間、すぐに六花の瞼は開かれた。そして焦点の合わない視界の中で六花が最初に見たのは、自分の身体を抱えて深く眠る赫夜の美しい
「…初めまして。私は、貴方の大切な弟君に救われ、幾度となく助けられた者です。名前は
「……」
「ねぇ、貴方はあの夢の中でまだ会えないって言ってたけど、やっぱり少しでいいから、朔夜に会ってあげて」
お願いね、と微笑んだ六花は抱えていた赫夜の腕を解き、所々軋む身体に鞭打って咳き込みながら玉座の前に立つと、首に刻まれた朔夜との繋がりの“絲”を引き抜いた。首から離れた赤い“絲”が空中に消えると、首から溢れ出た黒い影が六花の身体を包み込み衣を黒く染め上げた。包んでいる影が消え去る前に動き出した身体は、眠る赫夜の頬を包み込んでその愛しい名前を呼んだ。
「っ―― 逢いたかった、
❖ ❖
六花が目覚める少し前、
「っ何をしてるの!? 早くそこの痴れ者たちを排除なさい!!」
瓊音の怒声によって恐怖を払い除けた僧兵たちは再び奮い立つと、手にした薙刀を振り上げながら青葉たちに襲い掛かった。その蜂起する声に青葉も『比良八荒』を握り直すと、突如片手に持っていた朔夜の頭蓋を天高く放り投げた。その予想だにしなかった行動に呆然と宙を舞う髑髏を見上げる僧兵たちの隙を突き、もう一本の愛刀『
ひとまず前進してくる敵兵を薙ぎ払って膠着状態を復活させた青葉は一息つくと、愛刀の片方を鞘に収めて頭上から落ちてくる朔夜の髑髏を見事に受け止めた。ストン、と青葉の手のひらの上に収まった朔夜は、それまで感じていた浮遊感から青葉に文句を言ったのは当然のことだった。
「っなんて無茶なことをするんだ!? 万が一にも落ちて砕けたらと思うと、ぞっとする!!」
「そんなヘマするわけないだろ。勿論落下時間を計算してやったんだ」
「まったく。次やったら六花に言い付けてやるからな!」
「やめろよっ」
もはやこれだったら大人しく巾着の中に収まっている方が安全かもしれない、と思った朔夜は青葉に早々に巾着の中にしまわせ、塞がった片手が解放された青葉も心置きなく愛刀を手にした。完全に戦闘態勢を整えた青葉に怯えながらも睨み合う僧兵たちの今にも一触即発な状況の中、彼等の目の端で小さな人影が動いたことに気づき、全員の視線が上座の玉座に集中した。そこにはゆらり、と幽霊のように立ち尽くす小柄な人影——
「っ―― 逢いたかった、赫夜!!」
目の前の幸せを噛み締めるように赫夜の名前を呼んだ朔夜は、生前のまだ幼い姿で自分よりも一回り大きく成長した赫夜の精悍な顔立ちを愛おしそうに見つめながら、目覚める様子のない状態に涙を流した。瓊音の語り様から察してはいたが、実際に今の廃人同然の赫夜の姿を目にすると、これが自分の行いの結果なのだと思い知らされ、応答のない赫夜に縋って謝罪の言葉を繰り返し囁いた。
「っ…ごめん、ごめんね、こんなになるまで待たせて。僕は君への遺言を残して逝ったつもりだったんだけど…、どうやら届いてなかってみたいだ…」
この地に戻ってきたことで朔夜は一つ、過去の記憶を思い出していた。それは死の間際、
『——巴、こんなところまで付き合わせてすまなかった。お前は宮城に戻れ』
『っお待ちください! 私は兎君に仕える中将です、主一人を自害させてのこのこと戻るなんて出来ません!』
『巴…』
『どうか、どうか私にも御供を—— 『それはならぬ』 ——何故!?』
『…巴、お前には最期に重要な使命を言い渡す。これを遂行したのち、お前は陰陽国での地位も責任もすべて捨てて、お前の名前など誰も知らない静かな土地にて残りの生涯を終えろ』
『…これは?』
『……赫夜、そして宮城に残してきた
『…しかし』
『いいか、これは勅命である。違えることこそ、お前の忠誠心に反すること。僕が死ぬその時まで、僕の信頼する忠臣でいてくれ』
『……… 畏まりました、確かに承ります』
『…すまないな。赫夜たちを、頼む』
そう。朔夜は一番の信頼を寄せる巴に最期、手紙を託していたのだ。自身の最期の願いを綴ったその文章がもし赫夜たちの手に渡っていたのならば、こんな悲劇が起こるはずはなかった。赫夜だけでなく、父様たちも女房たちも今頃無事にどこか静かに生きていたかもしれなかった。しかし朔夜が託した手紙は過去に消失してしまった。
なら何故?
ならば——、
「―――巴はどこに行った?」
朔夜の手紙を手にして消息の絶った忠臣のことを思い浮かべた、その時。
すぐ真横から感じた鋭い殺気に振り返れば、朔夜の目の前に光る覚えのない切っ先が迫り今にもその目に突き刺さろうとしていた。それを寸でのところで弾き飛ばしたのは、朔夜の窮地に飛び出した
「っ――と、ともえ」
朔夜の首を掴み上げていたのは、過去の面影をわずかに残した
「――いい気味ね。自分で置いていって後追いさせた忠臣に苦しめられるなんて」
「……後追い?」
「えぇ。巴は貴方の死んだ後、貴方の後を追って自害したそうよ」
「え………」
自身の死後のことを聞かされた朔夜は、巴が自分の後を追ったことに絶望したのと同時に、巴に託した手紙の行方を案じるのだった。
❖ ❖
同時刻
北・
聖地の最北に位置する玄武一族の治める領地『
既に雪がちらつく
天守から西側の二の丸に建てられた御殿は玄武一族の身内が暮らす居所であり、玄武に仕える家臣たちも頻繁に出入りしている。その屋敷の廊下の真ん中を堂々と歩く権利を持ちながらも、傍目にはひそひそと陰口を叩かれてしまうとある人物が一人いた。
「――あれは…、
「どこの馬の骨かも知れない若造が。玄冬様の息子気取りか」
「姫様に見初められただけだというのに、偉そうに」
「やはり“
屋敷を堂々とした態度で歩くのは、玄武の当主である“
実は紅鏡が玄冬の跡取りに選ばれた経緯には様々な噂が飛び交っていた。来年には八十歳になる
「おい! まだ茶の一杯も用意できないのか!?」
周囲からの嫉妬混じりの陰口を囁かれても一切動じる様子なく目的地に向かう紅鏡の耳に、聞き慣れた怒号が飛び込んできた。横の襖の向こうから聞こえてくる怒声と騒音に嫌な気配を察した紅鏡が溜め息をつきながら一歩後ろに下がると案の定、襖が中からの強い衝撃で廊下に倒され、同時に小さな子供の身体が廊下の真ん中に転がった。転がって倒れた栗毛の少年は細く痩せた二本の腕で起き上がると、その場で頭を下げて部屋の主に謝罪した。
「…っ申し訳ございませんでした、
「グズグズするな、この妾腹が。お前なぞ手違いで生まれただけで一族の者ではないのだから、この屋敷に置いてもらっているだけ有難く思え!」
「…はい、申し訳ありません」
一方的に罵倒されながら言い返すことすらしない少年はトボトボとした足取りでその場を去って行き、その背中を見送りながら紅鏡は未だ鼻息の荒い老人に声を掛けた。
「…相変わらずですね、
「これはこれは、紅鏡殿。御見苦しいところを失礼いたしました」
「えぇ本当に、御見苦しいことこの上ないですね」
特に
この老人――
「そうでしょう。
「…まぁそれはさておき。例の件は考えていただけましたか?」
「…そ、そうだな。うまくいけば俺が一族の…」
「前向きに検討していただいているようで何よりです。詳しいことはまた後日」
「そうだな。良い酒でも用意して待っているからな!」
「ありがとうございます」
社交辞令も甚だしい嘘くさい笑みを浮かべてその場を去った紅鏡は、目的の客間として使われている一室だった。一族の居室から近い場所にある客間を今使っているのは、この一年程玄武城に身を寄せている“青龍からの賓客”だった。
「今よろしいですか、
「どうぞ」
紅鏡の訪問を快く迎え入れたのは、青龍一族に長年仕えている謎の法術者であり『予言者』である
襖を開けるとそこに凛と座っていたのは、肩までの真っ白な髪と真紅の瞳が特徴的な美青年。弓月は紅鏡の姿を見るや、懐から一通の手紙を取り出して彼の前に見せた。それを見た紅鏡は少し驚いた様子で眉尻を上げた。
「…どこでそれを?」
「この一年、玄武城の書庫を使わせてもらっていた際に古い文献の間から見つけました。まさか、こんなものが玄武にあるとは。玄冬殿も中々どうして酷い御人だ」
そう言って勝手に開封した手紙の内容を読んだ弓月は、それが予想通り“朔夜から赫夜たちに宛てた遺言書”であった。それがここにある経緯について詳細を知っている紅鏡は気まずそうに視線を逸らした。
「…さて、なんのことかな」
「まさかとは思ってたけど、陰陽国滅亡の裏で動いてたのが外祖父の玄冬殿とは。これなら若君たちが次々に亡くなったのが“祟り”っていうのも強ち間違いでもなさそうだ」
「…まぁ、どうなんでしょうね」
はぐらかすように素っ気なく返事をする紅鏡に少し意地悪を楽しんで満足した弓月は、手紙への興味を失ったようでそれを部屋の隅に投げ捨てると、紅鏡とだけ話せる話題に切り替えた。
「――そういえば、次の合議の準備には君も陰陽国に出向くんでしょ?」
「まぁね。これを機に彼等に接触する」
「あぁ、例の“
「勿論だ。俺の目的の為に、精々利用させてもらうさ」
そう言って普段見せない本心からの笑みを浮かべた紅鏡は、先程弓月が放った手紙を拾い上げて中身に目を通すとそれを火鉢の中に放り込んで呟いた。
「――陰陽国の玉座、返してもらうぞ」
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