第弐拾玖話 君とまた巡り逢う時〈二〉


 四方暦しほうれき九年 稲熟月いねあがりのつき(九月)末

 元・陰陽国『庚辰こうしん』 宮城跡



 陰陽国の謂わば象徴たる存在であった烏兎の宮城は、十年前の反乱の折に起こった大火が原因でその殆どが焼け落ちてしまった。特に出火元と噂される御所の後宮の火は激しく、後宮内の全ての御殿を焼き尽くすほどであったという。やがて後宮から燃え広がった火は都中を焼き払い、貴族の邸宅から民家まで見境なく灰塵と化した、今はみすぼらしい廃墟の都を黒装束の人影が一人歩く。その腕の中に大切に抱えられた少女と共に向かう先は都の中心地にある宮城の奥、『上弦門じょうげんもん』跡のその先、唯一崩落を免れた御所の正殿『紫微宮しびきゅう』である。儀式や祭典などが行われたその場所には今も尚、朽ち果てながらも『兎君ときみ』『烏師うし』がそれぞれ座した玉座が置かれている。十年前より空席の月の玉座のその隣、背に太陽の刻印をされた玉座に永遠に座したその人影の前に立つ一人の女が今か今かと待ち人の登場を待っていた。

 少女を抱えた黒装束が紫微宮のきざはしを昇りきったその瞬間、女の苛立ちを含んだ罵声が飛んできた。


「――遅い。遣いの一つもまともにできないの!?」

「……はいはい、すいませんね」


 いつもの女の癇癪に対して適当な返事をしていると更に女の眉間に皺が寄り、玉座から少し離れた女の顔が暗闇の中からその恐ろしい形相を覗かせた。真っ黒な髪に一房の白いおさげを忍ばせて冷えた藤色の瞳が黒装束の青年——須玉スダマを見下ろした。


「その軽い口からの謝罪は聞き飽きました。それより、“例の物”は朱雀の方々にお渡ししてきたのでしょうね?」

「…あぁ、あの“勾玉”の。特に血の気の多い波山ハザン殿がお気に召した様子で、予想通りの働きっぷりでしたよ」

「それは良かったわ。私も頑張った甲斐があったというもの」


 ちっとも嬉しそうではない声でそう告げた女――瓊音ヌナトをそっちのけで抱えていた少女――六花リッカの様子を気に掛ける須玉に、ところで、とついに彼女からの追及がきた。しかし須玉は待ってました、と言わんばかりの口調で瓊音に六花のことと、今まさに追ってきているであろう二人のことを報告する。


「その抱えているものは、一体なにかしら? 見覚えは一切ないのだけれど」

「あぁ、この子の名前は六花リッカ。始祖様へのお土産ですよ」

「土産?」

「はい。この子を連れて来るともれなく、

「っ!?」


 良い土産でしょう? と首を傾げて笑う須玉に対して息を飲んだ瓊音の顔色はみるみるうちに青くなり始め、胸の前で組んだ腕の手先が小刻みに震え始めた。明らかに動揺した様子で、瓊音は須玉の言葉を冗談だと跳ね除けた。


「っは、馬鹿馬鹿しい。貴方の言っている“朔夜”があの朔夜なのだとしたら、死者がどうやってここに来るのかしら? あの男は間違いなく十年前に死んだ」

「そうなんですけど…俺、見ちゃったんですよ」

「…なにを?」

「このの身体を借りて現れた、生前の朔夜の姿を」


 須玉の言葉をすぐには受け入れられない様子の瓊音に、ほらその証拠に、と六花の首元に巻き付けておいた包帯を解いてその下に隠された赤いツギハギの刺青を見せた。術者である瓊音の目にはその刺青がただの刺青ではないことは一目瞭然で、今まで一度も目にしたことのない術式に興味津々で駆け寄りまじまじと観察し始める。


「…これは、文献でしか見たことないけど、かなり古い術式ね。“制約の下、身体を明け渡す術”かしら…」

「恐らくは。つまりはこの子が意図して朔夜を蘇らせた、“鬼”として」

「…そう、ようやく帰ってくるのね」


 朔夜の存在を信じることにした瓊音は、その瞳に憤怒の激情を宿しながら周りに控えている他の黒装束の者たちに号令をかけ、「正殿の守りを固めろ」と命じる。明らか歓迎の雰囲気ではない仰々しい命令に須玉は首を傾げる。


「…まさか来ても入れないつもり?」

「まさか。私自ら直々に、お迎えいたしますよ。なにせ、あの兎君様ですから」

「そっか。じゃあ、この子はどうしようか?」

「そうね…」


 一応は人質の価値がある六花の身の置き場所を二人が考えていると、瓊音の背後で僅かな物音と微かな吐息が聞こえ振り返れば、そこには黒い装束を身に纏い、他の人物とは違って長く伸びた白髪を隠そうともしない長身の男がいつの間にか立っていた。その立ち姿を目にした瓊音は珍しく声を荒げて名前を呼んだ。


「っ始祖様! ま、まさか意識が戻れたのですか、赫夜カグヤ様?」

「……」


 まるで物言わぬ幽霊のようにその場に立ち尽くす男――赫夜カグヤは瓊音の問いかけには一切反応を示さず、彼女を横切ると須玉の目の前までやって来て徐に、彼の腕の中から眠る六花を奪い去った。しかしその抱え込む様子は赤子を抱く母親のように優しく丁寧だった。予想しない赫夜の行動に唖然とする二人を余所に、赫夜は元居た自身の玉座に戻ると六花を抱えたまま玉座に深く座り直し、開いていた虚ろな赤い瞳をゆっくりと閉じてまた深い眠りに入った。驚きのあまりなのか、それとも無視されたことへの怒り故なのか、ふるふると肩を震わせる瓊音の背中を見つめながら、須玉は冷静に赫夜の行動を分析する。


「…なるほど。もしかしてあの子に朔夜の魂の気配が残っていて、それに反応して動き出したのかもしれませんね」

「…それでも、この十年間一度も自らの力で立って歩いたことなどなかったのに」

「まぁでも、意識はまだ戻ってなさそうですね」


 二人が見上げる元陰陽国の烏師“赫夜”は、十年前に瓊音らに保護されてからずっとあの様子であった。まるで魂を失った抜け殻のような赫夜に瓊音は献身的に尽くしてきたことで、今の今までなんとか生き永らえてきたのだ。だが今まで自分で話したり、立ち上がって歩く姿など一度も見たことがなかった。瓊音にとって献身的に尽くしてきた赫夜に良い兆候が見られて素直に喜びたい半面、その本心は朔夜への嫉妬心がぐるぐると渦巻いていた。


「…私の方がずっと赫夜様の傍にいたのに、私が今まで傷ついた赫夜様をどれだけお世話したのに、私の方が、私の方が…っ」

「それなのに今更なんなの、どうして今更戻って来たのよ朔夜。あいつのせいで、あいつが、あいつが十年前にあの方を独りぼっちに………ッ」


 嫉妬で完全に我を忘れ始めている瓊音の地雷が踏み抜かれたことを察した須玉は、ひっそりとその場から退散するのだった。そんなことすら気づかず一人朔夜へ向けた恨み言を呟き続ける瓊音の視界の端に不意に、赫夜の腕の中で眠る六花の姿が映った。何も知らずに穏やかな表情で眠る元凶たる少女にふと沸いた怒りは瓊音の足を動かし、赫夜の玉座の前に着くと少し青白い六花の頬を細い指先で撫で、そしてあることを思い付いた。


「…そうだわ。このを使って


 そして瓊音は六花の首筋をひと撫でして、爪を立てた。



 ❖ ❖



 十年前、宮城きゅうじょうの後宮から燃え広がった火の手はやがて周囲の貴族の邸宅に燃え移り、そして密集して建ち並ぶ民家もすべて炎に包まれたという。一番燃えやすい庶民の長屋はあっという間に炎に飲み込まれ、成す術のない民たちは急ぎ国を脱出しようとしたそうだが、その殆どが赫夜の放った鬼神たちに無惨な姿へと帰られてしまった。その反乱後、陰陽国に放置された名も知らぬ民たちを丁重に弔ったのは青葉アオバの父、青林セイリンだった。陰陽国で死んだ人々は等しく、宮城跡のかつて謁見や公の儀式に使用された正庁『明堂院めいどういん』の敷地内に葬られ、そこには無数の質素な墓が並べられている。その奥に建っていた玉座の置かれていた正殿『帝座殿ていざでん』や隣り合っていた饗宴の催されていたかつての『天厨院てんちゅういん』は反乱後に取り壊され、その後方には今では『龍神を封じた湖』が静かにそこにあるだけとなっている。

 青葉はそのすべてを剣術の恩師である涼風スズカゼから聞いた。しかし話を聞くのと実際に見るのではその悲惨さの感じ方は違い、何より共にこの状況を目にしている朔夜サクヤの心中を察すれば、今の青葉に掛けられる言葉はなかった。


 ボロボロに崩れた長屋の残骸を目の前に炭化した木材を踏んだ青葉は、その感触に眉を顰める。


「…こんなところに、本当に人が住んでるのか?」

扶桑フソウの手に入れた情報が本当ならばな」


 青葉の質問もどこか上の空な朔夜は、頭蓋しかない姿でありながらその場に未だ渦巻く『負の情念』たちの気配をひしひしと感じ取っては、その痛みに苦しんでいた。


 町の残骸に蔓延るのは、十年前に死んだ人々の負の感情。戸惑い、恐怖、悲しみ、怒り、その他諸々のすべてが泥のように地を埋め尽くし、やがて人の形を成したそれはいつの間にかそこに立ち尽くしていた朔夜の身体を這い上がる。その無数の手から流れ込んでくる過去の情景は、まさにこの世の地獄そのもの。


 炎に包まれた家屋を捨てて逃げ惑う人々の波。

 襲い来る火の手から必死に逃げる痩せ細った母子おやこ

 手を引いてくれる父母のいないまま路地裏で震える孤児たち。

 逃げ惑う彼らをまるで道端の石ころのように跳ね飛ばしていく貴族の車。


 そして、生きとし生ける者すべての血肉を求めて襲い掛かる無数の鬼神たち。


 理性や生前の記憶など当に失った鬼神は暴走する主人の激情に呼応するように、見境なく生者を殺しては喰らいを繰り返し続け、人々の悲鳴は連鎖して都中に響き渡る。雨のように降り注ぐ血飛沫の中、朔夜の意識の端で『鈴の音』が響き渡った。


 朔夜の意識を浮上させた鈴の音は現実の青葉の耳にも届き、どこからともなく響く鈴の音に周囲を警戒する。徐々に近づいてくるその音の方向を悟った朔夜が左だ、と叫び青葉が振り向けばそこには一人の女が立っていた。鈴の音の正体は彼女の白いおさげの先で揺れる鈴であり、ほくそ笑むその気配に赫夜の影を感じさせた。


「…誰だ?」

「…久方ぶりにございます、主上しゅじょう。わたくし、元女官の瓊音ヌナトと申します」

「女官…。すまない、憶えていないな」

「無理もありません。わたくしのような日陰者、当時では貴方様と言葉を交わすことさえなかったのですから」


 黒髪の隙間で白いおさげを揺らす瓊音が常夜衆であることは、二人ともすぐに理解した上で警戒を解くことなく刀の柄に手を添える青葉に、瓊音は微笑んで状況を説明した。


「…実はお二人を紫微宮しびきゅうまでお連れするよう、仰せつかって参りました」

「誰から?」

「勿論、赫夜様からです」


 赫夜の名前を聞いて飛びつかないわけのない朔夜は食い気味に聞き返す。だがどうやら本当らしく、青葉はとりあえず刀から手を離した。青葉からの警戒心が解かれたことで瓊音は二人を紫微宮へと案内する。その後ろ姿を追いかけながら、青葉は朔夜に彼女のことを少しでも聞き出そうと耳打ちする。


「…なぁ、本当にお前のところの女官なのか?」

「…さぁ? 見覚えのない顔だと思うけど」

「本当にそんな奴について行っていいのか? 罠かもしれない」

「…どのみち御所の様子も見に行くつもりだったんだ。案内してくれるなら今は黙ってついて行こう」


 突然現れた瓊音の存在を怪しむ二人の会話を知ってか知らずか、瓊音は振り返らずに今の赫夜のことをさも自分が一番理解しているかのように、朔夜に語って聞かせ始めた。その言葉の羅列は次第に朔夜の機嫌を急降下させていく。


「――今、赫夜様はとても不安定な状態にあります。十年前のあの日、火の手の迫りくる中であの方を見つけた時、もう既にそのお心は壊れてしまっていたのです。その原因、ご存じでしたか?」

「…さて、どうだったかな」

「まだありますよ。赫夜様は今でも、あの場所で待っています。

「……」


 瓊音が何を言いたいのか、理解不能な青葉が首を傾げる一方で朔夜はその言葉の意味をよく知っていた。この十年間、赫夜を縛り続けている『約束』をしたのは何を隠そう、朔夜本人なのだから。


 十年前のあの日。朔夜の最期の日、赫夜に心の中に残した最も“残酷”で最も“慈愛”に満ちた、最期の言葉遺言


『…この想い、帰りましたら必ずや、兄様に告げます』

『ですからどうか、待っていてください。いつまでも、いつまでも』


 “

 その言葉を赫夜は十年間、頑なに守り続けてひたすら朔夜の帰りを待っていたという。自分の残した言葉の重みを改めて実感し苦悩する朔夜の反応に対し、密かに口角を上げると更に言葉を重ねた。


「…今の赫夜様は生きてはいますが、その身体を維持する生命力が何故か極端に擦り減っていますので、

…?」

「えぇ主に、


 そう言って指先で唇をなぞる瓊音の仕草から意味する『補填』の詳細に気づいた朔夜が息を飲む。髑髏だけの朔夜から漏れ出る業火のような殺意に、青葉は身を震わせながらこの場で朔夜の身体がないことに心底ほっとした。もしここで暴れられたら青葉にはそれを抑えられる自信がなかった。バチバチ、と火花散らす二人の間に挟まれてげんなりする青葉は、ようやく東天紅門とうてんこうもんを通り過ぎて上弦門じょうげんもんの前まで辿り着き、風化して今にも崩れそうな東天紅門とは違い、常に人の手によって綺麗に手入れされている様子の上弦門から、ここが常夜衆の拠点であることは間違いないことが確信できた。少し年季が入っているものの、見慣れた景色の荒れ果てた姿に言葉を失う朔夜を手に、門をくぐった青葉はその上座の一番高所に二つ並んだ玉座を目にした。そしてその片方に座す者の姿を目にした途端、青葉は勿論、その手の中に抱えられた朔夜は驚愕する。

 月の刻印が刻まれた玉座に隣り合う古びた対の玉座に座すその姿は、朔夜の中の思い出と重なって尚神々しい光を放って見えた。十年前より伸びた真っ白な髪が蒼白気味な容貌を隠し、今は朔夜の姿を映すことのない瞳を覆う瞼に飾られた白いまつ毛が光りに照らされて輝く。十年という年月はいつの間にか“少年”を“青年”と成長させ、生前の記憶の中の中性さの薄れた精悍な男の姿をしていた。その中に感じる微かな懐かしき姿に朔夜は流せぬ涙を零す。


「…っ赫夜――」

「あれが…、烏師うし


「そう、あの方こそが


 振り返ってそう呟いた瓊音の声を合図に、呆然とする二人を複数人の黒衣の僧兵のような兵士たちが取り囲んだ。皆等しく覆面で顔を隠し、その手に握られた薙刀なぎなたの矛先は無防備な青葉と朔夜に向けられる。


「っやっぱり罠だったってことかよ!?」

「当たり前でしょう。赫夜様を、あの御方を今尚苦しめ続ける憎き朔夜あなたをわたくしが許したとでも? とんでもない。永遠に、どれだけ殺してもどれだけ消し去っても、わたくしのこの憎しみが消えることは終ぞない!」

「っ……」


 赫夜を心の底から敬愛し、もはやそれが狂おしいほどの愛情になりつつある瓊音の憎悪の叫びに何も言い返す言葉を持たない朔夜は、ただ黙ってその責め苦を受け止めた。一方で玉座に居座る赫夜の膝の上で未だ目覚めぬ六花リッカの姿を認め、一瞬にしてこの場に赴いた目的を思い出した青葉が空いた片手で愛刀を抜いた。


「…その御託は俺には関係ない、お前らのごたごたなんぞ勝手にやってろ。それより今すぐ、六花を返せ———!!」


 青葉がそう吠えた声に常夜衆の兵たちが身震いする中、人知れず真紅の双眸がゆっくりと開いた。

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