第弐拾玖話 君とまた巡り逢う時〈二〉
元・陰陽国『
陰陽国の謂わば象徴たる存在であった烏兎の宮城は、十年前の反乱の折に起こった大火が原因でその殆どが焼け落ちてしまった。特に出火元と噂される御所の後宮の火は激しく、後宮内の全ての御殿を焼き尽くすほどであったという。やがて後宮から燃え広がった火は都中を焼き払い、貴族の邸宅から民家まで見境なく灰塵と化した、今はみすぼらしい廃墟の都を黒装束の人影が一人歩く。その腕の中に大切に抱えられた少女と共に向かう先は都の中心地にある宮城の奥、『
少女を抱えた黒装束が紫微宮の
「――遅い。遣いの一つもまともにできないの!?」
「……はいはい、すいませんね」
いつもの女の癇癪に対して適当な返事をしていると更に女の眉間に皺が寄り、玉座から少し離れた女の顔が暗闇の中からその恐ろしい形相を覗かせた。真っ黒な髪に一房の白いおさげを忍ばせて冷えた藤色の瞳が黒装束の青年——
「その軽い口からの謝罪は聞き飽きました。それより、“例の物”は朱雀の方々にお渡ししてきたのでしょうね?」
「…あぁ、あの“勾玉”の。特に血の気の多い
「それは良かったわ。私も頑張った甲斐があったというもの」
ちっとも嬉しそうではない声でそう告げた女――
「その抱えているものは、一体なにかしら? 見覚えは一切ないのだけれど」
「あぁ、この子の名前は
「土産?」
「はい。この子を連れて来るともれなく、朔夜に会えますから」
「っ!?」
良い土産でしょう? と首を傾げて笑う須玉に対して息を飲んだ瓊音の顔色はみるみるうちに青くなり始め、胸の前で組んだ腕の手先が小刻みに震え始めた。明らかに動揺した様子で、瓊音は須玉の言葉を冗談だと跳ね除けた。
「っは、馬鹿馬鹿しい。貴方の言っている“朔夜”があの朔夜なのだとしたら、死者がどうやってここに来るのかしら? あの男は間違いなく十年前に死んだ」
「そうなんですけど…俺、見ちゃったんですよ」
「…なにを?」
「この
須玉の言葉をすぐには受け入れられない様子の瓊音に、ほらその証拠に、と六花の首元に巻き付けておいた包帯を解いてその下に隠された赤いツギハギの刺青を見せた。術者である瓊音の目にはその刺青がただの刺青ではないことは一目瞭然で、今まで一度も目にしたことのない術式に興味津々で駆け寄りまじまじと観察し始める。
「…これは、文献でしか見たことないけど、かなり古い術式ね。“制約の下、身体を明け渡す術”かしら…」
「恐らくは。つまりはこの子が意図して朔夜を蘇らせた、“鬼”として」
「…そう、ようやく帰ってくるのね」
朔夜の存在を信じることにした瓊音は、その瞳に憤怒の激情を宿しながら周りに控えている他の黒装束の者たちに号令をかけ、「正殿の守りを固めろ」と命じる。明らか歓迎の雰囲気ではない仰々しい命令に須玉は首を傾げる。
「…まさか来ても入れないつもり?」
「まさか。私自ら直々に、お迎えいたしますよ。なにせ、あの兎君様ですから」
「そっか。じゃあ、この子はどうしようか?」
「そうね…」
一応は人質の価値がある六花の身の置き場所を二人が考えていると、瓊音の背後で僅かな物音と微かな吐息が聞こえ振り返れば、そこには黒い装束を身に纏い、他の人物とは違って長く伸びた白髪を隠そうともしない長身の男がいつの間にか立っていた。その立ち姿を目にした瓊音は珍しく声を荒げて名前を呼んだ。
「っ始祖様! ま、まさか意識が戻れたのですか、
「……」
まるで物言わぬ幽霊のようにその場に立ち尽くす男――
「…なるほど。もしかしてあの子に朔夜の魂の気配が残っていて、それに反応して動き出したのかもしれませんね」
「…それでも、この十年間一度も自らの力で立って歩いたことなどなかったのに」
「まぁでも、意識はまだ戻ってなさそうですね」
二人が見上げる元陰陽国の烏師“赫夜”は、十年前に瓊音らに保護されてからずっとあの様子であった。まるで魂を失った抜け殻のような赫夜に瓊音は献身的に尽くしてきたことで、今の今までなんとか生き永らえてきたのだ。だが今まで自分で話したり、立ち上がって歩く姿など一度も見たことがなかった。瓊音にとって献身的に尽くしてきた赫夜に良い兆候が見られて素直に喜びたい半面、その本心は朔夜への嫉妬心がぐるぐると渦巻いていた。
「…私の方がずっと赫夜様の傍にいたのに、私が今まで傷ついた赫夜様をどれだけお世話したのに、私の方が、私の方が…っ」
「それなのに今更なんなの、どうして今更戻って来たのよ朔夜。あいつのせいで、あいつが、あいつが十年前にあの方を独りぼっちに………ッ」
嫉妬で完全に我を忘れ始めている瓊音の地雷が踏み抜かれたことを察した須玉は、ひっそりとその場から退散するのだった。そんなことすら気づかず一人朔夜へ向けた恨み言を呟き続ける瓊音の視界の端に不意に、赫夜の腕の中で眠る六花の姿が映った。何も知らずに穏やかな表情で眠る元凶たる少女にふと沸いた怒りは瓊音の足を動かし、赫夜の玉座の前に着くと少し青白い六花の頬を細い指先で撫で、そしてあることを思い付いた。
「…そうだわ。この
そして瓊音は六花の首筋をひと撫でして、爪を立てた。
❖ ❖
十年前、
青葉はそのすべてを剣術の恩師である
ボロボロに崩れた長屋の残骸を目の前に炭化した木材を踏んだ青葉は、その感触に眉を顰める。
「…こんなところに、本当に人が住んでるのか?」
「
青葉の質問もどこか上の空な朔夜は、頭蓋しかない姿でありながらその場に未だ渦巻く『負の情念』たちの気配をひしひしと感じ取っては、その痛みに苦しんでいた。
町の残骸に蔓延るのは、十年前に死んだ人々の負の感情。戸惑い、恐怖、悲しみ、怒り、その他諸々のすべてが泥のように地を埋め尽くし、やがて人の形を成したそれはいつの間にかそこに立ち尽くしていた朔夜の身体を這い上がる。その無数の手から流れ込んでくる過去の情景は、まさにこの世の地獄そのもの。
炎に包まれた家屋を捨てて逃げ惑う人々の波。
襲い来る火の手から必死に逃げる痩せ細った
手を引いてくれる父母のいないまま路地裏で震える孤児たち。
逃げ惑う彼らをまるで道端の石ころのように跳ね飛ばしていく貴族の車。
そして、生きとし生ける者すべての血肉を求めて襲い掛かる無数の鬼神たち。
理性や生前の記憶など当に失った鬼神は暴走する主人の激情に呼応するように、見境なく生者を殺しては喰らいを繰り返し続け、人々の悲鳴は連鎖して都中に響き渡る。雨のように降り注ぐ血飛沫の中、朔夜の意識の端で『鈴の音』が響き渡った。
朔夜の意識を浮上させた鈴の音は現実の青葉の耳にも届き、どこからともなく響く鈴の音に周囲を警戒する。徐々に近づいてくるその音の方向を悟った朔夜が左だ、と叫び青葉が振り向けばそこには一人の女が立っていた。鈴の音の正体は彼女の白いおさげの先で揺れる鈴であり、ほくそ笑むその気配に赫夜の影を感じさせた。
「…誰だ?」
「…久方ぶりにございます、
「女官…。すまない、憶えていないな」
「無理もありません。わたくしのような日陰者、当時では貴方様と言葉を交わすことさえなかったのですから」
黒髪の隙間で白いおさげを揺らす瓊音が常夜衆であることは、二人ともすぐに理解した上で警戒を解くことなく刀の柄に手を添える青葉に、瓊音は微笑んで状況を説明した。
「…実はお二人を
「誰から?」
「勿論、赫夜様からです」
赫夜の名前を聞いて飛びつかないわけのない朔夜は食い気味に聞き返す。だがどうやら本当らしく、青葉はとりあえず刀から手を離した。青葉からの警戒心が解かれたことで瓊音は二人を紫微宮へと案内する。その後ろ姿を追いかけながら、青葉は朔夜に彼女のことを少しでも聞き出そうと耳打ちする。
「…なぁ、本当にお前のところの女官なのか?」
「…さぁ? 見覚えのない顔だと思うけど」
「本当にそんな奴について行っていいのか? 罠かもしれない」
「…どのみち御所の様子も見に行くつもりだったんだ。案内してくれるなら今は黙ってついて行こう」
突然現れた瓊音の存在を怪しむ二人の会話を知ってか知らずか、瓊音は振り返らずに今の赫夜のことをさも自分が一番理解しているかのように、朔夜に語って聞かせ始めた。その言葉の羅列は次第に朔夜の機嫌を急降下させていく。
「――今、赫夜様はとても不安定な状態にあります。十年前のあの日、火の手の迫りくる中であの方を見つけた時、もう既にそのお心は壊れてしまっていたのです。その原因、ご存じでしたか?」
「…さて、どうだったかな」
「まだありますよ。赫夜様は今でも、あの場所で待っています。とある人との約束に縛られて」
「……」
瓊音が何を言いたいのか、理解不能な青葉が首を傾げる一方で朔夜はその言葉の意味をよく知っていた。この十年間、赫夜を縛り続けている『約束』をしたのは何を隠そう、朔夜本人なのだから。
十年前のあの日。朔夜の最期の日、赫夜に心の中に残した最も“残酷”で最も“慈愛”に満ちた、
『…この想い、帰りましたら必ずや、兄様に告げます』
『ですからどうか、待っていてください。いつまでも、いつまでも』
“いつまでも”
その言葉を赫夜は十年間、頑なに守り続けてひたすら朔夜の帰りを待っていたという。自分の残した言葉の重みを改めて実感し苦悩する朔夜の反応に対し、密かに口角を上げると更に言葉を重ねた。
「…今の赫夜様は生きてはいますが、その身体を維持する生命力が何故か極端に擦り減っていますので、わたくしが補填しておりますの」
「補填…?」
「えぇ主に、口から」
そう言って指先で唇をなぞる瓊音の仕草から意味する『補填』の詳細に気づいた朔夜が息を飲む。髑髏だけの朔夜から漏れ出る業火のような殺意に、青葉は身を震わせながらこの場で朔夜の身体がないことに心底ほっとした。もしここで暴れられたら青葉にはそれを抑えられる自信がなかった。バチバチ、と火花散らす二人の間に挟まれてげんなりする青葉は、ようやく
月の刻印が刻まれた玉座に隣り合う古びた対の玉座に座すその姿は、朔夜の中の思い出と重なって尚神々しい光を放って見えた。十年前より伸びた真っ白な髪が蒼白気味な容貌を隠し、今は朔夜の姿を映すことのない瞳を覆う瞼に飾られた白いまつ毛が光りに照らされて輝く。十年という年月はいつの間にか“少年”を“青年”と成長させ、生前の記憶の中の中性さの薄れた精悍な男の姿をしていた。その中に感じる微かな懐かしき姿に朔夜は流せぬ涙を零す。
「…っ赫夜――」
「あれが…、
「そう、あの方こそがわたくし達の全て、わたくしの命を賭けるに値する御方」
振り返ってそう呟いた瓊音の声を合図に、呆然とする二人を複数人の黒衣の僧兵のような兵士たちが取り囲んだ。皆等しく覆面で顔を隠し、その手に握られた
「っやっぱり罠だったってことかよ!?」
「当たり前でしょう。赫夜様を、あの御方を今尚苦しめ続ける憎き
「っ……」
赫夜を心の底から敬愛し、もはやそれが狂おしいほどの愛情になりつつある瓊音の憎悪の叫びに何も言い返す言葉を持たない朔夜は、ただ黙ってその責め苦を受け止めた。一方で玉座に居座る赫夜の膝の上で未だ目覚めぬ
「…その御託は俺には関係ない、お前らのごたごたなんぞ勝手にやってろ。それより今すぐ、六花を返せ———!!」
青葉がそう吠えた声に常夜衆の兵たちが身震いする中、人知れず真紅の双眸がゆっくりと開いた。
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