第弐拾捌話 君とまた巡り逢う時〈一〉


 正直、ヒヨドリは今途轍もなくイライラしている。何故なら掃除をする部屋の隅に蹲りうじうじとする丸い背中の存在のせいである。このキノコでも生えそうな陰気な背中の人物——扶桑フソウに、ついに彼女の弱った血管が一本切れた。


「――扶桑の坊や、いい加減になさらないとキノコが生えますよ?」

「き、きのこ…。悪い、でもやっぱり青葉と朔夜だけを向かわせたのは、間違いだったか、なんて今更…」

「まったく。そんなに心配でしたら、今すぐにでも追いかければいいものを」

「…そういうわけにもいかないだろ。俺が


 扶桑がこのようにうじうじとし始めた発端は今から五時間ほど前に遡る。


 朱雀城で六花を常夜衆とこよしゅうの“須玉スダマ”という男に連れ去られ、激昂した青葉を半ば引き摺って城から脱出した扶桑は未だ興奮気味の青葉と朔夜から問い詰められた。


「――扶桑! お前の言う通りにあの場は逃げたんだ。六花を助ける算段はあるんだろうな!?」

「そうだ、扶桑。何もできない僕が言えた義理ではないが、まさかこのまま何もせぬとは言わぬよな…?」


 青葉には胸倉を掴まれ迫れて、六花の巾着から漏れる朔夜の声は地獄から響く閻魔の責め苦よりも恐ろしかった。二人からの猛攻に押し負け、扶桑はこれから背負うことになる心労に大きな溜め息をつきながら答えた。


「…わかった、俺の持ってる情報を提示する」


 だから落ち着け、と宥める扶桑に従って青葉は向かいの座布団の上に乱暴に腰掛けると、その膝の上に朔夜の髑髏を置いた。落ち着いた様子の青葉に老女のヒヨドリがお茶を用意すると、扶桑は自分にも用意された茶を啜りながら自身が手に入れた情報を頭の中で整理しながら語った。


「…俺が城内で手に入れた情報によれば、やはり城内を例の『常夜衆』が出入りしているらしい。それを許しているのは、大老と三人の老中だった」

「朱雀を牛耳ってる裏の奴等と通じてるわけか。目的は…?」

「… 理由は定かではない。しかし常夜衆が何かを企みその際の保身の為の交渉、というのが妥当だろう」

「で、その肝心の常夜衆の居場所は?」


 常夜衆の拠点について聞いてきたのが朔夜だったことから、扶桑は少し渋ったがご貸せる雰囲気ではなく、渋々その情報を開示した。


「…奴等は、陰陽国いんようこくにいるらしい」

「い、いんよう、こく? いん…、えっ“陰陽国”!?」


 最初、陰陽国の名前がうまく思い浮かばなかった青葉が頭を捻っていたが、やがてその単語が脳内で正しく結びつくと、驚きのあまりこの古い家に大きな叫び声を響かせた。


「い、陰陽国って、あの陰陽国か!?」

「その陰陽国以外に俺は知らない。だが俺が聞いた話によると、常夜衆奴等は陰陽国の都だった“庚辰こうしん”の御所跡に住んでいるらしい」

「御所の跡地。でもあそこは聞いた話によると確か…」

「…あぁ。十年前の反乱の際に起きた大火によって殆ど焼けてしまった、と聞いている」


 二人は当時のことは伝え聞いた話でしか知らなかったが、反乱の際に何者かが点けた火によって御所の大半が焼け落ちたことは、聖地の誰もが知っているほど有名な話で、一部ではその火の原因は“烏師うし”にあると噂する者もいた。だが実は、この場でその話はまったく知らなかった人物が一人だけいた。それは、朔夜だった。


「御所が、焼け落ちた…? 一体どうしてそんな…」

「…そうか、朔夜は自分が死んだ後のことは知らないのか」

「そんなことが、あるはずない。だって、僕は死ぬ前に、確かに青林セイリンに…っ」

「セイリンって…、父上か?! 父上と何かあったのか!」


 青林の息子である青葉に問い詰められ、朔夜は自身が今持つ僅かな生前の記憶を必死に掘り起こし、点々とした過去を話し始める。


「…確か、僕は十年前のあの日、御所を青林率いる反乱軍に囲まれて、赫夜カグヤと他の者たちの命を助けてもらうために、青林のもとを“トモエ”と共に訪ねた。そして“僕の首と引き換えに残りの者たちの命は助ける”、という約束を交わしたはずだ。まさかあの青林がその約束を破るわけが…」

「その話が本当なら、確かに父上が約束を破るとは考えにくい」

「それに、僕は一緒に同行した“トモエ”にこの約束のことを御所で待つ赫夜たちに伝えるよう、最期に命じた。僕の意図を汲んでくれていたはずなら、そんなことになるはずなんてない…」

「…その“トモエ”というのは?」

「僕たちに仕えていた中将ちゅうじょうです。蔵人くろうど(兎君の秘書)の長官も兼任していた者で、僕たちの数少ない信頼できる忠臣だった」


 十年前、陰陽国の玉座に朔夜と赫夜が座っていた頃の御所は大人たちによる権力闘争で荒れていた。その中でも二人の傍で支えてくれたのは、トモエ。赫夜の乳母でもあった監兵領かんぺいりょうの妓楼の主“揺籃ヨウラン”の息子であり、二人にとっては幼馴染の兄のような存在の巴は、朔夜は死ぬその瞬間を目にしたという。その後の彼の消息は不明である。

 知らない事実に苦しむ朔夜は、一先ず深呼吸して落ち着くと青葉に性急な出立を進めた。


「…青葉。奴等の居場所がわかった今、ここにいる必要はない。すぐに向かうぞ」

「勿論だ。だが生憎俺は陰陽国の場所はよく知らないぜ?」

「案ずるな。僕が道案内する」


 そうして二人は扶桑と鵯が用意した旅荷物を持つと足早に発った。

 その背中を見送りながらすぐにも付いて行きたい気持ちを抑え、扶桑は背を向けたが、その後悔は扶桑の中でしこりのように蟠っていた。


 そして今に至る。


「…はぁ。やっぱり付いて行くべきだったか」


 扶桑の気がかりは青葉の未熟さや力不足から来る不安だけでなく、実はもう一つあった。それはここに連れてくる時に見た、“六花リッカの不調”について。ただ単に具合が悪いといった様子ではなかった六花のことを扶桑は密かに気にかけていた。しかし朔夜に全面的に協力している六花がそれを隠していることを察し、見て見ぬふりをした。そのことを今は大分後悔している。

 そして扶桑の予想が的中していれば、あの不調の原因は前に見た“術”の影響だった。しかし朔夜と六花が使用している『縁ノ緒えにしのお』という術は、術関係に詳しい扶桑も知らないほど、古式ゆかしき術式でありどれほど術者に影響があるか全くもって未知数。それ故の危険性を危惧していた。


「… 鵯、少し留守にする。いいか?」

「勿論です。“ヒワ”にはそれとなく誤魔化しておきます。今回のことで、貴方様の存在を騒がれては困りますから」

「…いつも苦労をかけてすまないな」

「いいえ。


 そう言っていつも通りの柔らかで寛容な笑みを浮かべる鵯に申し訳なさを感じながら、扶桑は旅支度を始めるのだった。



「――陰陽国か。…」



 ❖ ❖



 各領地と陰陽国を繋ぐ山道の存在を朔夜は当然知っていた。年間行事や定期的な出仕命令に応じて、領主たちはその都度自身の領地と繋がっている山道を大行列でやって来るため、当時の陰陽国の名物になっていたからである。これは通称『出仕行列しゅっしぎょうれつ』と呼ばれていたこれには、領主たちの烏兎一族に対する忠義を図る意図とは別に、領主同士の密かな水面下の争いでもあった。どれだけ豪華にできるか、どれだけ華やかに見せるか、それによって領主たちによる格の争いが勃発していたことを、朔夜は密かに朱雀の元領主“朱鷺トキ”に昔聞かされたことを今になって思い出していた。


 朔夜の覚えていた陵光領りょうこうりょうからの山道の入り口から山に入った青葉は、一人暗い山道を懸命に辿っていた。この道を辿れば間違いなく陰陽国に辿り着けるのだが、如何せん使われなくなって久しく、整備のされていない山道を人の足で歩くのは非常に体力が削られる行為だった。


「っ…はぁ、はっ、あ——まだ着かないのか…?」

「まだまだ、だ」

「遠すぎる上に険しすぎるだろ!?」

「本当だったら牛車や輿で移動する場所だしな。それに使われなくなったから整備がされてなくて、前より歩きづらくなってるんだろう」

「じゃあ、馬の一頭でも連れて来ればよかったじゃないのか!?」

「こんな険しく足場の悪い山道、馬では到底進めない」


 息を切らして文句ばかりの青葉に正論で言い返す朔夜は一見冷静だったが、その声から焦りや不安が滲み出ており、青葉はまだまだ言いたいことは山ほどあったが、それをグッと堪えて感傷的になっている朔夜に考えていることを全部吐き出させようと敢えて当時のことを聞いた。


「――なぁ、どうして十年前、あんなことになったんだ? 俺も詳しいことは知らなくてさ、父上たちに聞きたくても母上のこともあったから言い出せなくて…」


 十年前、当時まだ五歳だった青葉は完全に蚊帳の外ですべてが終わった後、気軽になんでも聞ける涼風スズカゼがいなくなったこともあり、事の詳細を聞く機会を完全に失って今に至る。加えてそのせいで母親の陽炎カゲロウが城内で危うい立場になってしまったこともあり、聞くに聞けなかった。そんな青葉の状況を知っていて、朔夜は静かに穏やかな声色で語り出す。


「…そうだな、気晴らしにもなるだろう。ただ、あまり鮮明な記憶じゃないぞ?」

「それでいい」

「……あれは、なんだ。自分たちの事情ばかり気にして、周りの者たちのことなんて微塵も気にしてこなかった、僕の、僕達のが回ってきた。それだけだ」

「事情?」

「…青葉、赫夜が皇子おとこなのに烏師うしをしていたことは知っているな?」

「あぁ…」


 噂程度の情報なら、青葉の耳にも届いていた。

 陰陽国最後の烏師“赫夜カグヤ”は、生誕と同時にその性別を偽って育てられ、そのまま母の跡を継いで烏師となった。赫夜の偽装は完璧で、十五年間決してバレることはなかったが、赫夜が烏師になった頃に烏師が管理する各領地の『柱』に異変が起きことによって赫夜の本性は暴かれた。そしてこのままでは『柱』の異変によって領民たちの命が危うい、と危惧した各領主たちが立ち上がって反旗を翻した。以来、長らく臣下と民を欺いてきた赫夜は『悪逆非道の子』としてその名は語られるようになってしまった。


「僕達はなんとか一度崩れかけた国を立て直すのに必死で、何にも見えていなかった。各領地の異変も、宮中のイザコザも、…青林セイリンの心中も」

「…」


 最初に反旗を上げたのは、青葉の父の青林だった。苦しむ領民の為に立ち上がった、と言われているが本当の理由は、彼の父にある。青葉にとっては祖父にあたる先代領主“青山セイザン”は『柱』の異変によって広まった流行り病に罹り、急激に弱っていた。そんな父を救うために青林は逸早く立ち上がったことを青葉は密かに知っていた。


「…僕はあの日、どうにか赫夜や他の臣下たちの命を助けてもらうために、巴だけを連れて青林のもとに向かった。本陣の幔幕まんまくの中、僕は青林に首を差し出す代わりに他の者たちを助けてほしい、と嘆願しそれを受け入れてもらった、はずだ」

「実際、朔夜は首だけになっているから要求を父上は飲んだんじゃないのか?」

「そうだ、と思う。もっと確信を持ってそうだ、と言いたいところなんだが、見ての通り僕は“不完全”なんだ。肉体をすべて取り戻せば記憶も戻るはずなんだが…」

「そう、その身体の行方もまだだったな。その話の流れだと、やっぱり首を取った父上が何か知っていたかもしれないな」


 そう予想する青葉の手前、朔夜は自身の首がどこにあったかを思い出しては疑問を感じていた。

 六花が偶然拾った朔夜の首は、孟章領もうしょうりょうとは正反対の監兵領かんぺいりょうにあった。しかも誰にも気づかれないように、辺鄙な村の墓地に。明らかに何者かが故意にそこに捨てたとして思えない状況で、朔夜が真っ先に疑ったのは監兵領の領主“白秋ハクシュウ”だったが、その可能性は揺籃の発言によって打ち消された。白秋は血眼になって朔夜の遺体を探し回っている、ということは、彼が首をあの場所に捨てたわけではないことを示していた。しかしいくら考えてもその答えは出ず、身体の方の行方も依然として不明のまま。今の状態の朔夜が覚えていることといえば、十年前の反乱時より更に前の、幸せな記憶だけ。


「…陰陽国は本当に綺麗だった。御所はいつでも華やかで、天候の乱れもなかったから木々の葉や花が落ちることもなく、常に青々として美しく咲き誇っていた」

「特に、赫夜の居室の庭にあった藤棚はそれはもう見事だったよ。その藤棚を眺めながら、二人でゆっくり談笑したものだ」


 そう言った朔夜は自分が覚えている限りの思い出を静かに呼び起こした。


 陰陽国の都『庚辰こうしん』は高く聳える城壁に囲まれていて、唯一出入りができる南東側の正門『螺旋門らせんもん』をくぐればそこに都はあった。多くの貴族の邸宅の並ぶ道を進めば、宮城きゅうじょうを囲む壁と正門の『東天紅門とうてんこうもん』が姿を現し、その更に奥の『上弦門じょうげんもん』を抜ければ朔夜たちが生まれ育った御所ごしょがある。そして正門の反対側の裏門『下弦門かげんもん』に通じる場所には、宮城の中でも一部の許された者しか入ることのできない『後宮こうきゅう』があり、朔夜、赫夜、そして父の“樹雨キサメ”が暮らしていた。

 早くに母“十六夜イザヨイ”を亡くした二人にとって最後に唯一残った父の存在は誰よりも大切な家族であり、母を亡くしてから気落ちして病がちだった父を二人でよく見舞ったことを今になって思い出す。


『——朔夜、兎君の仕事は大丈夫かい? 無理はしていないか?』

『大丈夫だよ。赫夜もいるし、巴だって付いてるから。だから心配しないで、父様も早く元気になってね』

『そうだよ、父様。心配しなくても、朔夜にはこの私が付いているのだから!』

『…そうだね。よろしく頼むよ、赫夜』


 そう言って柔らかく笑った少しやつれた頬で笑う父の顔を朔夜は思い浮かべた。その隣で得意気な顔をする薄化粧の美少女――もとい、美少年。青天を漂う雲のように真っ白なおかっぱ頭の髪が輝くその白い肌を彩る二つの真っ赤な宝珠のような双眸、それらを正しく位置付けて整わせた美しい顔で笑う、朔夜の『比翼の片割れ』。


 次に思い出したのは、いつも自分の傍に仕えていた蔵人くろうどの“トモエ”の姿。長い黒髪を朔夜が下賜した金の金輪で括り、若緑色の切れ長な瞳の誰もが震えあがるような美丈夫の青年。当時の宮中では通り過ぎれば振り向かない女房はいない、とまで言われた美男だったが、実際の彼は生真面目でまったく面白味のない、よくよく父親に似た男だった。


『——朔夜様、もっとしっかりしてくださいませ。あまりだらけた様子を他の者に見せては、示しがつきませんので』

『わかってるよ! まったく、巴は一々お堅いんだから。偶には肩の力を抜いてみたら?』

『…例えば?』

『その能面みたいな仏頂面を取って、女房たちに優しく笑いかけてみたら? きっと皆喜ぶと思うよ』

『…はぁ、そうでしょうか? しかしこの顔は父によく似ているので、逆効果なのではないかと…。確か父上も似たようなことを母上に言われてやってみた、と昔…』

『…界雷カイライは…、まぁ、そうだよね』

『雑談はこの辺にいたしまして、そろそろ私とお勉強でもいたしましょう』

『っ――巴の意地悪!!』


 今思えば、まるで兄弟のようなやりとりを何度となく繰り返していた日々が、とても懐かしく羨ましくもあった。皆、朔夜にとっては大事な人たちで短い人生の一部だった。しかし皆、朔夜がこの世に置き去りにした。全部を自分で背負って地獄に堕ちた、と思い込んで。



「―――おい、着いたぞ」


 そして夢の中に沈んでいた朔夜の意識を呼び起こしたのは、巾着を覗き込む青葉の声だった。狭い巾着の口から顔を半分だけ覗かせた青葉の間抜け面を認めながら、朔夜は返事をする。


「…そうか。もうそんなに経っていたか」

「途中で話すのをやめるから寝たのかと思ったぞ?」

「僕は生者とは違って睡眠はしない。ちょっと考えに耽っていただけだ」

「そうですか。まぁ俺は、そんな一人寂しい道中に文句一つ言わずに休みなしでここまで歩いてきて、予定より早く着いたわけだけど、何か言うことは?」

「…ご苦労様」


 朔夜からの素っ気ない労いの言葉に、よし、と勝手に満足した青葉は巾着から朔夜の髑髏を取り出し、青葉の目の前に広がる光景を見せながら目的地の確認をした。何故なら、青葉は陰陽国にやって来たのは初めてでここが本当に目的の場所なのか、判断できなかったからである。


「なぁ、本当にここがあの、陰陽国なのか?」

「……!?」


 そうして青葉に見せられた目の前の光景に、朔夜は息を飲んだ。


 そこに広がっていたのは、風化して崩れた城壁に囲まれた荒地の廃墟。美しい姿で聳えていた『螺旋門』はその見る影なく薄汚れ、所々崩壊を始めていたのだ。そこに、朔夜が思い描いていた懐かしき故郷の影は一切なかった。

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