第弐拾漆話 赤き大鳥の国〈六〉

「―――外が騒がしいな」


 騒がしい声のする扉を一瞥して扶桑フソウはそう呟く。そして自分の足元で腰を抜かして震える大鵬タイホウに鋭い眼光と短刀の切っ先を突きつけ、更に彼の恐怖を駆り立てるように脅迫した。


「…さて、もう一度問う。朱雀の御台所“華月カヅキ”はどこにいる?」

「み、御台なら、奥の座敷にいるに決まっているだろう…っ」

。“本物”はどこだ?」


 質問に対して正直に答えたにも関わらず、真っ先にそれを否定されて困惑する大鵬の様子から嘘偽りを感じなかった扶桑はもうこの男から絞り出せる情報はないと判断し、短刀を懐にしまって大鵬の前に跪くと恐怖を滲ませたその両目を手のひらで塞ぎ、耳元で暗示の言葉を囁いた。


「――“ここに光はない。ここに翳はない。ここにいるのは汝の翳の海。この姿はやがて陰翳の底に消え去る”」

「…――“我がかげの中で、融けて消えてゆけ”」


 扶桑の言葉に『相対の言葉』を大鵬が紡いだのを確認すると、薄く笑って手のひらを離した。瞼の裏から訪れた光の気配に大鵬が目を開けると、もうそこには自分以外の人の姿はなく、狭い倉庫の中で大鵬は一人呆然と腰を抜かしているだけとなっていた。そして先程耳元で囁かれた『言葉』が法術の一種であったことに気づき、囁かれた言葉を思い出して何の術に掛けられたのかを考察した。残念ながら大鵬は祖父や祖父の側近のような天才的な法術の腕は持ち合わせてはいないものの、知識だけは人並み以上に保有しているため答えはすぐに出た。


「…さっきのは、“翳招かげまねきの術”か?」


 『翳招かげまねきの術』とは、術者が対象に対して暗示を掛け、術者の言葉に言葉に対して対象者が『相対』することで繋がりを獲得し、対象者のに潜り込むという身を隠すための術である。術者はそのまま対象者の影の中に居続けて身を隠すこともできるが、一度影に入れば他に人の影が近くに出現すればそこに移動することもできる。つまりここに大鵬以外の人間が来なければ、扶桑あの男は袋のネズミも同然というわけだが、どうやらそう上手くもいかないようだった。


 ガラッ、と倉庫の扉が開かれ、そこには四人分の人影が出来てしまったのだ。運が悪すぎる自分に対して絶望する大鵬に、髭を撫でるヌエは怪訝な顔を浮かべる。


「…こんなところで何をしておる、大鵬?」

「…爺ちゃん、なんで」

「それはこっちの台詞ぞ。気配がすると思ってきてみれば、こんな場所で一人で何をしておる」


 孫の異様な姿に首を傾げる鵺を尻目に、大鵬は鵺を含む四人の床に伸びた影を見つめながらさっきの男はまんまと逃げ果せたのか、と落胆する。そして同時にそれまでここにいた男の顔を鮮明に思い出し、先程まで感じていた恐怖をぶり返しては顔色を青くした。常日頃から小心者でよく顔色を悪くしている大鵬だが、通常よりも真っ青な顔をした様子にただ事ではないと感じた双睛ソウセイは優しく声を掛ける。


「…落ち着いてください、若君。一体何があってこんなところに?」

「…み、見たんだ」

? 何をですか?」


 思い出すだけでガタガタと奥歯を震わせながら、その恐怖の対象の名を呟いた。その瞬間、その狭い空間の空気は一気に凍り付いた。


「… “朱鷺トキ様の亡霊” 」


 その言葉に、その場の空気は一気に冷えて異様な静寂が時間の停止を錯覚させた。硬直する場を再び目覚めさせたのは、双睛から大量に噴き出して頬を伝って顎から床の上に落ちた汗の音。後ろで気配を殺していた雲雀ヒバリ朱華ハネズも勿論動揺していたが、双睛のそれは尋常ではなかった。しかしその一方で、鵺だけがその場で顔色一つ変えず平静を保っていた。そして呆れたように溜め息一つ。


「はぁ…、何を馬鹿なことを。先代当主様は十年前に確かにお亡くなりになった。現に波山ハザンがそれを目撃している」


 鵺の言う通り、十年前の反乱の際に朱鷺と共に出兵したのは老中の中では波山ただ一人であり、彼は朱鷺が死ぬ瞬間を間近で目撃した証人なのだ。完全な鵺の手足である波山の言うことに間違いなどあるはずもなかった。しかし目の前の大鵬の恐怖に震えあがった姿も疑うには演技臭さを感じなかった。となれば、鵺の中に生まれた一つの仮説は、青褪めた双睛に耳打ちされた。


「… 双睛、?」

「っ――勿論です。それこそ墓から蘇ってこない限り、もう見ることはないでしょう!」

「だが万が一ということもあるのでは?」

「そんな…っ」


 小声で言い合う二人の背中を無垢な瞳で見つめていた朱華は握った袖の裾から伝わってきた雲雀の震えに振り向き、顔色は良いものの動揺が震える唇に表れている彼女に訊ねた。


「…ねぇ、雲雀。お父様、生きてるの?」

「え、いえ、そんなはずはありませんよ。そう、そんなはずは…」

「…?」


 雲雀のその侵入者の正体について心当たりがあったが、それをここで打ち明けることはできず、ただ大丈夫、だと朱華を宥めて誤魔化すのだった。



 ❖ ❖



 不運にも天井裏から木片と一緒に落ちてしまった青葉と六花は老中の一人“波山ハザン”の手によって捕らえられ、荒縄で動きを封じられると彼自らの手によって城の地下の薄暗い部屋に連れてこられてしまった。全面石で囲まれた地下の部屋は心なしかひんやりと冷気が漂っており、牢屋にしては一段と広いそこは如何にも不穏な雰囲気を漂わせ、青葉は冷や汗を流しながら呟いた。


「…なんか、拷問部屋みたいなところだな」

「“みたい”じゃなくて、多分そういう用途で使う場所だと思うよ」

「…悪かったよ。俺が軽率だった」


 青葉アオバは自分の大雑把で無鉄砲な性格を呪いながら、隣で膨れている六花リッカに素直に謝った。しかし今更遅いことは言わずもがな、謝罪したところでこの最悪な状況が一変するわけでもなく、この状況からどうやって逃げようか頭の中で必死に思案していた。

 手首を縄で縛られ尚且つ胴体にも縄を巻き付けられて身動き一つとれない状態で壁を背に並べられた二人は、波山ハザンの出ていった鉄製の扉を視界の端に捉えながら、窓一つない部屋を見回して出口を探した。だが地下である時点で見つかるわけもなく、どうにか縄だけでも解こうと藻掻く青葉を戻ってきた波山が鼻で笑った。


「無駄な足掻きはやめておけ。お前たちには今から、

「…“”?」

「そう! 義父殿おやじどのが用意したこの、“鬼神代きしんだい”のな!」

「き、?」


 聞き慣れない言葉と共に波山が二人の目の前に突き出したのは、真っ赤な勾玉まがたまの首飾り。通してある紐はただの革の紐のようだが、そこからぶら下がった勾玉からは得体の知れない禍々しさを感じ、青葉はいよいよ本格的に焦り始めた。その禍々しい気配は、巾着の中で息を潜める朔夜サクヤも十分に感じていた。

 そしてそんな二人の予想は見事に的中した。


「――“さぁお前達! 目の前の生の気を思う存分喰らうがよい!!”」


 波山が叫びながら勾玉を空高く掲げると、手の中の勾玉が禍々しい赤い光を放ったと同時に、彼の背後の鉄の扉は外側から強く叩かれ震動を始めた。バンバン、ガンガン、という衝撃音に混じって聞こえてくるのは無数の恐ろしい呻き声であり、その声から正体を察した青葉は青褪めた顔で叫んだ。


「ま、まさか…っ “死霊たたり”じゃないだろうな!?」

「なに、それ?」

「あ、あぁ、六花は身体を貸してたから知らないのか。聞いた話じゃ、死霊たたりっていうのは鬼神が力を使って殺した人間をしもべ化したもののことらしい。つまり、操られた死体だ」


 正体を明かしたのと同時に、破られた鉄の扉の向こうは真っ暗な闇が詰め込まれ、突如訪れた静寂の中を凝視する二人から感じる生きている人間の生気を察知した瞬間、闇の中から無数の腐敗した腕が伸びてきた。よく目を凝らせばなんてことはない、扉の向こうには数えきれないほどの死霊たたりがおり、一つの狭い入口に押し寄せたその身体がぎゅうぎゅう、につっかえていただけのことだった。我先にと腕を伸ばす死霊の一体が扉を抜けたのを皮切りに、死霊たちが雪崩れ込んできた。ゴロゴロと転がる死霊たちがゆっくり立ち上がる様を見ながら、六花が慌てた声で青葉に叫んだ。


「っ青葉! 私の首の包帯とって!」

「包帯!?」


 しかし手首を縄で拘束された青葉に解けというには無理があり、仕方なく包帯を噛んで引きちぎるとその下に隠されたツギハギの赤い刺青を晒した。そして六花は躊躇なく首を青葉の目の前に差し出して言った。


「… 

「…わかった」


 青葉は言われた通り、六花の柔肌を傷つけないように刺青にのみ歯を立てる。ただの刺青だったツギハギの一本はまるで糸のように青葉の歯によって首から引き抜かれていき、宙を舞った赤い絲は六花の身体を離れるとすぐに消えていった。堰き止めていた糸の存在を失った立花の首には一筋の切り傷が現れ、首を一周しているその傷口から黒い影のようなもやが吹き出し、やがて立花の身体を覆った。その様子を見守っていた青葉だったが、横からいつの間にか距離を詰められていた死霊の一体に首を掴まれ、そのまま締め上げられてしまった。既に血の気などない骨と皮だけのひ弱な見た目に反して強い力で気道を抑えつけられ気絶寸前の青葉の耳に、微かに囁く声が届いた、その瞬間。


「――“落とせ、水虬みずち”」


 瞬間、目にも止まらぬ速さで何かが群がる死霊たちの周りを走った。そして身体を戒めていた縄の拘束力が弱まったのを感じた頃、青葉の首を掴んでいた指の力が徐々に抜け、解放された気道から必死に空気を取り込みながら咳き込む最中、酸素が足りずにぼやける視界で目の前の死霊の姿を捉えた。すると青葉を苦しめていた死霊は胴体を綺麗に残して、要たる首をその座から滑り落としていた。いくら動く死体とはいえ頭を失えば動く事は叶わない、そう朔夜から教えられていた青葉はもう危険がないことに安堵して今尚首に巻き付いた腐った手を引き剥がした。そして青葉の目の前の死霊と同様に、二人の眼前まで迫っていた死霊たちは一人残らず首を落とされてその場でバタバタと倒れ始める。それを横目に青葉は隣にいる人物に礼を言う。


「…助かった、ありがとう。朔夜サクヤ

「―――まったく、この程度の露払いもできないとは。お前に立花を任せるのは考え直した方がいいか?」

「仕方ないだろ! 縛られてる上に刀だってに奪われてるんだ!」


 そう抗議して青葉が指差したのは予想外の状況に動かずにいる波山。そして未だ靄の中から姿を現さない人物の視線の矛先が波山に向くと同時に、踵を返して逃げ出そうとした波山の身体を“氷月ひょうげつ”の細長い体が縛り上げて、“水月すいげつ”は奪われていた青葉の二本の刀を奪い返して青葉の方に乱雑に放った。その瞬間に波山の手からこぼれ落ちた禍々しい色の勾玉を靄の中の人物が拾い、それを手の中でまじまじと観察した。


「…ほぉ。これはまた、珍しいものを作ったものだ」

「それは結局何なんだ?」

「これは“鬼神代きしんだい”といって、その名の通り“鬼神の代わりに死霊たちを操るための呪具”だ」


 無知な青葉には得意げに語ったが、朔夜自身も実物を見るのは初めてであり、これの実物があること自体が奇妙なことであった。


「しかし、これを作ることができるのは鬼道を習得した『烏師うし』のみのはず。一体誰が…?」


 そこまで考えてしまえば一つの答えに辿り着くまでに然程時間は掛からなかった。


「まさか…、?」

「…十分にあり得るな。鬼道使いっていって真っ先に思い出すから」


 青葉の後押しもあって疑問がほぼ確信に変わると、朔夜は拘束されて身動きの取れなくなった蓑虫状態の波山の胸倉を掴むと、勾玉の出処をすごい剣幕で聞き出した。その勢いに大柄な波山は情けない悲鳴を小さく上げた。


「ぼ、亡霊め! 我々を祟りに来たか?!」


 それまでの強気な態度とは一変して、朔夜の姿を認めた瞬間から始まったこの怯えように、朔夜はあることに勘づいては意地の悪い笑みを浮かべて更に恐怖を煽り立てた。


「…ほぉ、お前十年前のあの日、あの場所にいた者か。丁度いい。我が国を滅ぼした恨み、今ここで晴らさせてもらおうか」

「ひ、ひいぃ! お許しを! あの反乱を指揮したのは青帝殿せいていどので、それを唆したのは玄帝殿げんていどの! わたしはそれに従っただけのことでございます!!」


「……なんだと?」


 ただ脅かして言いなりにさせようとしただけだというのに、波山の口から齎された新事実に朔夜は驚愕のあまり掴んだ胸倉から手を離した。

 十年前の反乱を指揮していたのが青帝こと、青林セイリンであったことは勿論憶えていた。その彼の手で朔夜は首だけとなったのだから。しかしその裏で青林に反乱を唆した人物がおり、なんとその人物が自分の祖父だなどと、一体誰が予想できたことだろうか。元々信頼していたわけではないが、血の繋がった身内の裏切りに朔夜が絶望している隙に緩んだ水虬の拘束を力づくで解いた波山は、呆然と立ち尽くす朔夜の手首を掴んでその手の中に握られた勾玉を奪い返そうと取っ組み合いになる。だが鬼化しているとはいえ、朔夜の腕力では大の大人の波山を振り解く事はできず、無念にも勾玉は再び波山のもとに戻ってしまった。頼りにしていた力が戻り再び強気な態度を見せる波山は、まだ隠していた死霊たちをこの場に呼び出した。


「こ、これでお終いだ! 亡霊だろうがなんだろうが、二人まとめて奴らの餌にしてやる!!」


 そう叫んだ波山の声に従って扉から再び溢れ出してきた死霊たたりの群れに青葉と朔夜が身構えた、その瞬間。 ぴしゃ、と朔夜の足元に赤黒い液体が飛び散った。


「……え?」


 床に広がった赤黒いそれ、血を目の当たりにした青葉が隣の朔夜の方にゆっくり振り返ると、そこには口元に血痕を付着させて呆然としている朔夜の姿があった。青葉が何事かと問い質そうとするもそんな間もなく、身体を大きく震わせて酷く咳き込んだ朔夜がその口元を手で覆うも、指の隙間から受け止めきれなかった真新しい血が零れ落ちた。


「お、おい! 急にどうした!?」

「っ… 恐らく、六花の身体が“拒絶反応”を起こしてるっ」

「なんだよそれ?!」

「この前、六花の身体を長時間借り過ぎたのも原因だと思う…。一つの身体に二つの魂を入れておくことに、身体が拒絶反応を起こしてるみたいだっ」


 話している間も全身から伝わる原因不明の痛みに耐える朔夜を心配しながらも、着実に二人に近付いてくる死霊の群れを尻目に青葉はある決意をする。


「… 朔夜、今すぐ術を解除しろ」

「な、なに言ってる! この群れをお前一人で捌くのは無理だ!」

「そんなこと言ってる間も、六花の身体に負担がかかってるんだろ!?」

「…っくそ」

「…まぁ心配するなよ。出来るところまで頑張ってみるからよ」


 朔夜を正論で納得させた青葉が愛刀を抜きながら余裕ぶった態度を見せれば、朔夜は少し考えた後大きく溜め息をついて首元のツギハギの刺青に指をかけた。


「…わかった、この場はお前に任せる。その代わり、しっかり六花を外に連れ出せよ?」

「当たり前だろ」


 約束を取り付けた朔夜は首の刺青を解きほぐし術を解除した。再び首から溢れ出した黒い靄に包まれた身体は全身の黒を全て吸い取り、霧散した靄の中から顔面蒼白の六花が現れた。どうやら身体の負担はそのままのようで、ふらふらとした足取りで今にも倒れそうな身体を、咄嗟に抱き留めた。


 だが、抱き留めたのは青葉ではなかった。


「え…」

「――大丈夫? 随分と無理をしたみたいだね」


 自立のできない六花を背後から抱き留めたのは、真っ黒な装束に身を包んだ覆面の男――須玉スダマだった。突然現れた須玉の存在に六花と青葉が驚愕しているのは勿論、二人が死霊に喰われるのを見物しようとしていた波山さえも驚いた。


「す、だま? な、なんでここに…?!」

「あぁ、瓊音さんから預かってきた『鬼神代きしんだい』の効力に興味があって、実はこっそり物陰から観察させてもらってたよ」

「そ、そうなのか…」

「――あと、も手に入ったし」

?」


 嬉しそうにそう言った須玉は抱き留めていた六花の首筋に手刀を入れて気絶させると、横抱きにして当然のように連れ去ろうとしたのだ。それを容認するわけもなく、青葉が抗議の声を上げると、一つの巾着袋が目の前に飛んできて慌てて掴んだ。それは、朔夜の髑髏しゃれこうべの入った巾着袋だった。何故これを渡したのか疑問を抱いた青葉に対し、須玉は一言残した。


「… そいつに伝えておいて。このを返してほしければ、常夜衆とこよしゅうの根城に来い、てね」


 それじゃあ、と踵を返して去ろうとする須玉を追いかけようとする青葉だったが、それは群がる意思のない死霊たちによって阻まれた。そして波山の横を通り過ぎる際、須玉は口元をにっこりとさせて言った。


「では波山殿、私はこれにて失礼いたします。勾玉それの調子も良さそうなので、しっかり伝えておきますね」

「あ、あぁ…」

「あ、見送りは結構です。それでは」


 口元のみで表情は見えなかったが、晴れ晴れとした様子で去って行く須玉の背中に気を取られているうちに、視界の端で大きな破裂音と顔半分に飛び散って来た腐敗した体液に慌てて振り返った。するとそこには立ち往生を余儀なくされてついに堪忍袋が切れた青葉が群がる死霊たちを薙ぎ払って、腐敗した体液で汚れた刃を揺らめかせる、まさに鬼神の如き姿だった。


「――六花を、返せ!」

「ひぃぃ!?」


「――待て青葉」


 今にも波山に飛び掛かりそうな青葉を背後から引き留める声が二人の耳に届くのと同時に、辺りに突然真っ白な不自然な煙が立ち込め、二人の視界は完全にふさがれた。すっかり怒り心頭だった青葉の頭に昇った血も少し引き冷静になった頃、背後から肩を叩かれ振り返ればそこにいたのは静かに、と仕草をする扶桑フソウだった。


「ふ、そう。お前…なんで?」

「静かに。この機に乗じて脱出するぞ」

「だ、駄目だ。まだ六花を取り返してない!」

「…その件については後で話すから、今は黙ってついて来い」


 扶桑に冷静に諭され渋々言う通りに青葉は刀を鞘に収めると、煙幕に乗じて二人は咳き込む波山をそのままにその場を後にした。


 二人が既にその場にいないことに気づかず、煙幕が薄まってきた頃に辺りを見回してそこに自分以外の人間がいないことに絶望すると同時に、先程までの恐怖が蘇ってきた。文字通り煙のように消えた朔夜たちの姿に、あれは本当に亡霊だったのではないのか、という疑問が頭を過った。

 そこへ騒ぎを聞きつけて柄にもなく息を切らして駆け付けてきた従兄弟の大鵬タイホウは、冷たい床にしゃがみ込んで震える稀に見る波山の姿に驚くよりも逆に恐怖を感じた。


「な、何事だ——— え、なにこれ…?」

「た、たいほう、聞いてくれよ…」

「は、なに? ちょっと気持ち悪いんだけど」

「で、出たんだ…」

「何が?」

「… “兎君の幽霊”が」

「……… は?」


 この日朱雀城内で同時期に起きた『幽霊騒動』の噂は、暫く城内を駆け巡り家臣たちを震撼させたという。



 ❖ ❖



 陵光領の北側には今は閉ざされている陰陽国への山道の入り口がある。元陰陽国との境に聳える四大霊山の一つ『天相山てんそうざん』は他の霊山に比べて低い位置にある陵光領から入る際に険しい山道が続く為、かつての三代目朱雀の当主が家臣たちに命じて陰陽国に続く道を整備させたという。雑草一つない平らな道と竹で作られた欄干らんかんが山の奥まで続き、青竹の生い茂る竹林を三代目朱雀の当主は随分と気に入っていたらしい。

 だが、今ではその面影もない。十年前に陰陽国が滅びて以降、山道は整備されることがなくなり、過去の陰陽国の栄光を匂わせる、という意図のあまり読めない理由を北の『玄武』から投げかけれたことで、大老の鵺が竹林の山道を封鎖し以降は陰陽国跡地での合議に赴く際は態々西の監兵領かんぺいりょうを通っている。そのため今となってはこの道の存在すらも、民たちの記憶からは消えかかっていた。それをうまく利用しているのが、世間では“ならず者扱い”されている須玉たち『常夜衆』である。

 完全に気を失っている六花を抱きかかえたまま、人目を避けて山道の入り口までやって来た須玉は、朽ちてボロボロになった竹の欄干を跨ぎ、雑草だらけの道から外れると竹の密集したとある場所から“目的の物”を探し当てる。


「―――


 人為的に倒された竹の中に隠されたそれは、ボロボロの見た目の『塗輿ぬりごし』だった。運び手のいないただの動かぬ輿に須玉は躊躇なく乗り込むと、六花の身体を労わるように横に寝かせてから胸元に隠していた首飾りの紐を引っ張り、その中心に括り付けられた勾玉を取り出す。それは波山が持っていた物によく似ているが、須玉の持つそれは禍々しい赤色ではなく、まるで青竹のような美しい緑色をしており、それに向かって小声で唱える。


「―― “かへし給え、我が君のもとに” 」


 須玉の呼びかけに反応したように輿の前後の土が下から震動し始め、ぼこぼこと下から盛り上がった土の中から突如として現れたのは、鬼化している担ぎ手の二人だった。既に目は真っ白で生気のない顔をしているが、須玉の呼びかけに応じた彼等は輿をそれぞれ前後で担ぎ上げると、元の山道に戻って北を目指して歩き出した。

 この輿と担ぎ手の鬼は、長距離による徒歩移動が億劫になった“瓊音ヌナト”が用意したものである。このような輿はいくつかの場所に隠されており、彼女から預かった勾玉を使えば利用することができる。輿は陰陽国で拾ったものを再利用し、担ぎ手の鬼も勿論陰陽国の民の中でも屈強な者たちを選抜してある。彼等は戦闘向けではないため攻撃に関しては無力だが、輿を休まず担ぎ続けられるため陰陽国に帰る際には須玉は必ずと言っていいほど利用している。

 乗り心地はそこそこ快適で後一時間ほどすれば目的地に到着するため、須玉は気長に到着を待ちながら手荷物の中から取り出した小さな紙と持ち歩き用の筆でなにやら言伝を書き始める。小さな紙に手短な文を書き残すと、輿の窓の部分から顔を覗かせてピーッ、と口笛を吹いて一羽の黒いからすを呼び出した。呼び出した鴉の足に手紙を括りつけると、軽く餌をやって飛び立たせる。


「…よし。ちゃんと瓊音殿に届けろよ?」


 須玉の言葉に当たり前だろ、と抗議するように高い声で鳴くと鴉が空高く飛び立ち、須玉より先に北へ向かった。その姿を暫し見送り輿の中に戻った須玉は、傍らで眠る六花の乱れた髪を手櫛で直しながら呟いた。


「… 十年ぶりの兄弟の再会になりそうだな、赫夜カグヤ

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