第参拾壱話 君とまた巡り逢う時〈四〉
『っ朔夜様!?』
『殿下! 何をなさいます?!』
『朔夜!』
慌てて巴が手を引こうとするのを朔夜はやんわりと止めると、周りの制止も聞かずに自己紹介を始めた。
『はじめまして、僕は朔夜。これからよろしくね、巴』
『っこ、光栄です!』
『ふふ。僕ね、もう一人お兄ちゃんができたみたいで嬉しいよ』
その言葉にいの一番に反応し、ぷっくりと血色の良い頬を膨らませて朔夜の首に巻き付いたのは、女児の恰好をした赫夜だった。日に焼けない真っ白な顔を膨らませて巴相手に必要のない嫉妬心を抱く目で睨まれたが、特に怖さは感じなかった。むしろ微笑ましい。
『えっと…』
『おいお前! 朔夜は“俺”の弟だからな。お前になんて絶対にやらないからな!』
『もぉ…赫夜ったら。何言ってるの?』
極めつけにべーっと舌を出す不貞腐れた赫夜に、朔夜は困った表情を浮かべながらもその頭を撫でて宥めた。子供の幼い嫉妬心に巴は年上として落ち着いた返答をした。
『…赫夜殿下、私は官吏です。お二人を守るのが勤めです、勿論それは赫夜殿下のこともです』
『……お前が? “俺”たちを?』
『はい』
『勿論です、殿下。巴は私の息子ですので、約束を違えることはございません。それと殿下、一人称は“
気を付けてくださいまし、と諫める揺籃の言葉にプイッとそっぽ向いた赫夜だったが、その視線は真っ直ぐに巴に向けられていた。いつの間にかその瞳からは嫉妬心は消え、次に疑心に変わった。
『…ほんとに?』
『はい、この命に代えても』
『……ふぅん』
巴の言葉に嘘偽りのないことを念入りに確認した赫夜は、朔夜の首に絡めていた腕を解くと跪く巴の前に座って顔を突き合わせた。そして呆然とする巴の額に人差し指を押し当てて唱える。
『—— “
赫夜の唱えた
『…これは?』
『“
人間の魂から造られる『
『ふっ、そんなに慌てなくていいよ。…そうだ、それに
『なまえ…、銘ですか…』
ならば、と巴が貰ったばかりの小太刀を撫でながら名付けたその
そのなまえは…、
「―― “
朔夜は思い出した小太刀の名前を叫んだ。その声に応えるようにひとりでに浮かび上がった小太刀は鞘を抜き去ると、その刀身は真っ直ぐ朔夜と巴に向かって飛んできた。そしてそれは、持ち主である巴の背中に深々と突き刺さった。その痛みを鈍くも感じ取った巴は咄嗟に朔夜の首を掴んでいた手を離してしまい、その隙に朔夜は巴から距離を取った。
「…よくやった、山茶花」
そう呟いた朔夜は、自分がまだ巴にとっては“主の括り”であることを再認識した。赫夜が昔取り出した神器の小太刀『
しかし既に赫夜の
「っ六花! 朔夜!」
青葉がその軌道を目を追い、朔夜の身体が穴の開いた
「…っどけ。今度は本気で首、狙うぞ?」
少し右に傾いた首がコキ、と鳴ったその音と共に襲い来る青葉の底知れぬ殺気に僧兵たちが足を止めたその瞬間、巴に引きちぎられて無残にも床に落ちた朔夜の水虬たちがひとりでに浮かび上がると、それは飛ぶ弾丸ように僧兵たちの間を縫って飛び交う。その動きに視力が追い付かない僧兵たちがふと自分たちの持つ薙刀に視線を移すと、ほぼ同時にその場にある薙刀の刃に見覚えのない亀裂が走り、動揺した持ち主の少しの震動で薙刀の刃はボロボロと崩れ去っていってしまった。
戸惑う僧兵たちを前に青葉は辛うじて目で追うことができた朔夜の水虬たちの軌道の先を凝視し、僧兵たちの足元に力なく転がる二つの刃が力尽きて光の粒になって散る様から「行け」と言われていると感じ取り、愛刀を鞘に収めるとそのまま振り返ることなく僧兵たちの間を縫って紫微宮から無事に脱出した。
その一連の流れを傍観していた
「赫夜様! 御怪我は…、ないようですね」
よかった、と安堵して赫夜の胸に縋り付く瓊音だったが、不意にその頬に一滴の“雨”が降った。ぽたり、と頬を伝って落ちたほんのり温かいその感触に瓊音が顔を上げるとそこに映った光景に目を疑った。
それまで眠る赫夜の表情が著しく変わることなどなかったが、今の赫夜は閉ざした瞼の裏から一筋の温かい涙を流しながら、静かに微笑んでいた。その笑みはその昔欲した、片割れに向けて浮かべられたその笑みによく似ていたのだった。それに気づいた瞬間、朔夜への激しい嫉妬と羨望で顔を真っ赤にして瓊音は立ち上がった。そしてその最悪な
「…うわ、なにこれ。随分と派手にやられましたね」
「…来るのが遅いわ。どこで油を売っていたの?」
「いやぁ。ここ数日の御遣いで疲れてたので、ちょっと昼寝を…」
一切悪びれる気のない須玉の明け透けな発言に瓊音は血管が一本切れそうになるのをなんとか自制し、そこで惚けている僧兵たちを連れて朔夜たちの後を追えと指示する。
「…もういいわ。須玉、そこの
「あー…まぁ俺はいいけど、巴はもう無理っぽいですよ?」
須玉にそう指摘されて瓊音がその方向を向くと、先程まで朔夜を圧倒するほどの動きを見せていた鬼神の巴が手足を脱力させて俯いたままその場に立ち尽くしていた。まるで壊れた玩具のようなその姿を見るのは、瓊音を含めて初めてではない。
「…やはり防衛本能のみでしか動けないか。本来主人の命令で動くものですもの、仕方ないわね」
つい先頃まで尋常ではない動きを見せていた巴は実際のところ、殆ど無意識に鬼神としての“本能”に従って動いていたに過ぎなかった。十年前に怒りに狂った赫夜が呼び起こした無数の鬼神たちの中に紛れていた巴は、生前から赫夜との繋がりが深かった巴の力は他の鬼神とは比べ物にならなかったが、当の赫夜が
「…仕方ないわね。須玉、巴は置いて捜索にあたりなさい。絶対に見つけ出すのよ」
「はぁい」
「しっかりやらないと… わかってるわね?」
「…はいはい、謹んでやらせていただきます」
無駄に念押ししてくる瓊音の熱量に飽き飽きしながら返事した須玉は動ける僧兵たちに声を掛けながら言われた通り、巴が投げ飛ばしてしまった朔夜の捜索に向かったのだった。
しかし、須玉は
「…はぁい注目。君達、もう帰っていいよ」
「え! さ、捜さないんですか!?」
「いいんだよ。どうせもうこの国にはいないだろうし」
須玉にそう指摘されて大半の僧兵たちは確かに、と納得してしまった。しかし一部の首を傾げる僧兵に向けて、須玉は懇切丁寧に説明してあげた。
「…はぁ、あのねぇ。あんなに痛めつけられて満身創痍の状態で、まだのこのこ
「で、ですが、それも込みで捜索しないと後で瓊音様になんと言われるか…」
「やだよ、面倒だもの。それに君達だってさっきの傷がまだ癒えてないでしょ? 俺がうまく言っておくから、さっさと休みな」
本心は自分がさぼりたいだけの須玉だが、そのなけなしの気遣いの言葉に心打たれた僧兵たちは涙ぐみながらお礼を言うと彼の言う通りその場から走り去っていった。そんな屈強な彼等の背中を見送った須玉は、先程から自分の頭上をずっと旋回するように飛んでいる一羽の
「おー…、久し振りだな。最近相手してやれなくて悪かったな、
甘えたな鴉――
「げ…。まったくあいつはいつも本文より小言の方が多いな」
伝書の内容にげんなりしながらも返事の伝書を空晶の足に括り付けると、「頼んだぞ」と言って腕を振り上げて飛び立たせた。そして振り返ることなく遠くの空に向かって飛んでいく空晶の姿を見送りながら、ちらりと近くの瓦礫に視線を向けながら独り言を呟く。
「あ——、一つ貸しだからな」
どこに向けるでもないその独り言の裏で、瓦礫の奥でゆらりと影が過ぎ去ったのだった。
❖ ❖
朔夜は頬を撫でる冷たい夜風に揺り起こされ、いつもより重みの感じる瞼を開いた。ぼやける視界に映ったのは穴の開いた天井から覗く星々の輝く紺青の夜空に浮かぶ満月。一切欠けることないその姿で朔夜を見下ろしており、その冷たい月光は惨めな朔夜の姿を照らし出していた。自慢の髪も顔もぼろぼろで身体じゅうのあちこちが痛んで指一本動かす気力すら残っていない朔夜は、唯一動く眼球で周囲を観察し、まだ鈍い思考回路で自分の今の状況を必死に整理した。
ゆっくりと動いた眼球は朔夜が今倒れている廃墟と化した長屋を映し出す。この長屋には目立った焼け跡はなく、どうやら十年間捨て置かれたせいで風化して廃墟となったようで、あちこち壁や天井が穴だらけではあるもののまだ内装は綺麗な方だった。その長屋の汚れた畳の上で朔夜は、少しずつ意識を失う前の出来事を思い出していた。自分に殺意を向ける
「っともえ、どうして…っ」
朔夜の首を土色の手で締め上げ、焦点の合わない攻撃的な顔で睨んでくる懐かしいその顔を思い出し、朔夜は独り涙した。まだ首にはあの指の感触と体温が残っている。鬼神には他の鬼とは違い少し低いが体温があり、そのぬくもりがより一層巴の残り香を強めた。もはや止めることのできない涙をぽろぽろと流す朔夜を心配するように、突然青葉が顔を覗き込んできた。
「――おい大丈夫か?」
「…青葉か。無事でよかった」
「おう。お前の
青葉のお礼に特に身に覚えはなかったが、巴に引きちぎられて宮城に置き去りにしてしまった
「青葉、ここはどの辺りだ? まだ陰陽国なのだろうか?」
「あぁ、結構飛ばされててな。ここは大体宮城の西側の廃屋だ」
「…そうか。身体が無事なのが奇跡だな」
「いや。それはあいつのおかげだ」
「え…?」
そう言って青葉が親指で指さした方へ視線を向けると、廃屋の開け放たれた出入口の柱に凭れ掛かってこちらを観察している
「な、なんでここに…?」
「ちょっとな。粗方の事情は青葉から聞いたが、それよりも朔夜。身体は大丈夫か?」
「…身体?」
唐突に扶桑からそう指摘され、朔夜の身体は思い出したかのように臓腑を痙攣させ、突然咳き込んだと思えば口の中は血の味でいっぱいになった。きしきしと痛む胸を抑えて横向きになった朔夜の口から吐き出された尋常ではない血の量に青葉はギョッとして、扶桑を問い詰めた。
「っおい! これはどういうことだ!?」
「六花の身体が、二人分の魂を収めているせいで悲鳴を上げてるんだ。短時間であれば問題ないが、最近長時間身体を借りていたことは?」
扶桑の質問で青葉が思い当ったのは、
「朔夜! これ以上は六花の身体が危険だ。術を解け!」
「っ…わかった」
青葉の言う通りこれ以上六花の身体にいてはまずい、と感じた朔夜は震える指先で首のツギハギを引き抜いた。そこから溢れ出した“黒”と共に朔夜の輪郭は流れ落ち、代わりに荒い呼吸ながら気を失って眠る六花の姿を現れた。そして減っていた巾着の重みが戻ったその中のものを青葉は取り出して、六花のすぐ側に置いた。白骨の首は表情がなくともどこかまだ落ち込んでいる様子だったが、扶桑にお礼を告げた。
「ありがとう、扶桑。僕が軽率だったよ、まだ大丈夫だと高を括って六花の身を危険に晒した」
「いや、陵光領で指摘しなかった俺も悪かった。暫くは使っても一時間ほどにしておけ」
「…そうだね」
「一番の打開策は朔夜の“本当の身体”を取り戻すことだな」
これ以上六花の身体に負担を掛けるわけにはいかない朔夜は扶桑に言われて頷くも、実際に朔夜は自分の身体の行方をまったく知らなかった。六花とあちこちで情報収集をしたものの有益なものは殆どなく、頼みの綱であった青葉の父“
「…一つ、俺に心当たりがある」
「何?」
「十年前の当時のことは知らないが、反乱の事後処理は
「おじい様が…、まさか!?」
「青林殿のところになかったのであれば、考えられる行き先は玄冬殿のところしかない」
「…北の、
朔夜は次の目的地を定め、青葉もそれに同意した。二人の様子から今すぐにでも向かおうと、扶桑は提案した。
「なら善は急げだ。さっき周辺を見回ってきたが、どうやら躍起になって朔夜を探している者はいないようだからな。今の内にさっさとここを出よう、六花は俺がおぶる」
「すまない、頼んだ」
「ついでに俺も一緒に北へ行く」
「…いいのか?」
「あぁ。乗り掛かった舟だ、このまま放り出して帰ったら
よっぽど一緒に暮らしている老女が怖いのか苦笑いしながら眠る六花を背負った扶桑は、青葉に一枚の防寒具を投げ渡した。北の地に行ったことのない青葉はその厚手の羽織に首を傾げる。
「…こんなに着込む必要あるのか?」
「何言ってるんだ。今の時期、北は大雪が降り始めるんだ。油断してるとあっという間に凍死するぞ?」
「有難く使わせていただきます!」
自身が凍死した姿を想像して震えた青葉が貰った羽織をギュッと握り締めて朔夜をやや乱暴に巾着の中に収めると、先に歩き出した扶桑の背を追った。
揺れる巾着の中で朔夜は過ぎ去っていく故郷の姿を思い浮かべながら、静かに別れを告げた。
「…さようなら、行ってきます」
そして時は遡り、まだ町には活気があり、民は忙しなく行き交い貴族は優雅に牛車で行き来する往来を抜けて、宮城の大門を通り過ぎて禁裏の門をくぐれば、
『おめでとうございます! 朔夜様、赫夜様、新たな烏兎の誕生でございます!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます