第弐拾参話 赤き大鳥の国〈二〉
四方暦九年
南『
聖地において唯一低地に都を構える陵光領の首都『翼都』は、ただ一つの港町である。小高い丘の上に建つ朱雀城からは海の向こう、聖地を囲む巨大な滝の壁まで一望することができ、その美しい風景は朱雀一族のみが目にすることができる特権である。海を支配する陵光領の特産物は勿論“海産物”であるが、他にも翼都ではあらゆるものが売り買いされ、ここに来ればどんなものでも手に入る、とまで言われている。その理由は一概に、翼都の中心地で毎日行われている賑やかな行商人たちによる市場の存在。巨大な港町である翼都にはもう一つの顔があり、それは『商人の町』であるということで、陵光領に腰を据えて商売する者たち以外にも他の領地からやって来た商人たちとの交流の場があり、そこで商人たちはお互いの商品を売り買いし、時にはあらゆる情報を交換し合っている。
だがその広い翼都にも、光と影がある。賑やかな都の雰囲気に比例して、陵光領の貧富の差は他の領地よりも激しいのだ。活気づいて栄えているのは翼都とその周辺の村のみであり、都から離れるごとに寂れた農村が増え続けて最終的には農民にすら見捨てられた廃村すらある。都から遠い農村は特に今現在人々を悩ませている異常な“日照り状態”によって、農作物もまともに育たずに飢え死にする者も多い。
そして翼都にも港から西側の端に広大な貧民街が広がっている。西側には西の『
都の人々が日々華やかで活気のある生活を送る中、貧民街では痩せ細った老体が人知れず死に絶え、碌に食べるもののない子供たちは泥水を啜り、生まれたばかりの赤子は乳が吸えずに母の腕の中で息絶えている。そんな鮮明な光と影を常日頃から目の当たりにしてきた老婆は、道端に倒れる人々を素通りして家路を急ぐ。襤褸布を目深に被って入念に顔を隠す老婆は、手に握った真っ白い文を大切に握り締めながら生家の古い長屋に着くと、建付けの悪い扉を引いてその敷地を跨ぐ、と同時に帰宅した老婆を一人の青年が迎える声が掛けられた。
「――お帰り、
「遅くなりました、
老婆の家で留守を任されていたのは、この翼都の表にも裏にも顔がきく何でも屋の青年“
「鵯、早く中を読んでくれ」
「はいはい、わかっておりますよ。貴方様のせっかちなところは、昔のままですねぇ」
まるで落ち着きのない子供を宥めるような言い方をする老婆——
「…我が娘、
「…そうか。やっぱりこの国を変えるには、“無用な膿”を一掃しなければならないわけか」
「はい。既に同志たちの決心は固まっております。後は扶桑殿の号令さえあれば、いつでも…」
「……少し散歩してくる」
「お気をつけて」
扶桑の肩に重く圧し掛かる目に見えない重責のせいで眉間に寄った皺を指先で揉み込みながら出掛けていく扶桑の背中を鵯は見送った。
そこかしこから漂う死臭を紛らわせるために火を点けた煙管を吹かしながら生者の少ない貧民街を抜けて、まだ日が高く人通りの少ない色町を堂々と闊歩する扶桑の姿を見るや、昼間のまだ薄化粧の妓女たちが黄色い声を上げて手招きしてきた。
「あら扶桑の旦那! 久し振りねぇ」
「今暇なら少し世間話に付き合っておくれよ」
「いつ見てもイイ男だねぇ、惚れ惚れするよ」
「おう、元気そうだな。悪いがまた今度な」
夜のように誘いをかける顔馴染みの女達の誘いをやんわりと断ると、大通りから色町を抜けて都の中心地、行商人たちが集まる市場に足を踏み入れた。貧民街、色町とは打って変わって尋常ならざる人の波に押される感覚に苛まれる扶桑は、気分転換にきた意味がないことに気づいて大きく溜め息をついた。それでも道のど真ん中で立ち尽くすわけにもいかず宛てもなく歩き続け、やがて特に用はないが多少の縁がある商家の前で足を止めた。そこは、元反物屋『
実は扶桑が依頼を受けた“
今は看板さえ外された空っぽの店を見上げながら扶桑は、棗に依頼された件の“あの夜”の出来事を思い出していた。
上機嫌に歩き出した扶桑だったが、突然人混みの中から響いた聞き馴染みの恐喝に歩みを止められた。正直あまり関わり合いになりたくない類の人種である声の主に、初めは完全に無視して走り去ろうとするが、次に聞こえてきたもう一つの聞き覚えのある声にギョッと目を見開いて振り返った。
言い争いをする四人分の声は道端で群がる群衆の中心から響き、蠢く野次馬たちの間を縫って中心に一番近い場所まで辿り着くと、注目の的になっている四人の姿を見つける。先程から強引な恐喝の声をけたたましく発していたのは扶桑から見て右側に立つ、いかにも“チンピラ”といった様相の大柄の男とその隣に金魚の糞のようにくっついている痩せた男。この二人のことは貧民街を行き来している者なら知らない者はいないほどの、良くない意味での“有名人”であり、見た目通りいい噂など一つも持ち合わせていない大の男二人に対し、勇猛果敢に立ち向かっていたのはまだ十代の幼さの残る顔立ちの少年少女の二人。扶桑はその少女の方に、見覚えがあったのだ。
「――だから! さっきから言ってるけど、俺たちに案内とかいらないから! それに誰が好き好んで馬鹿みたいに法外な案内料払ってまで、あんた達みたいなのに付いて行くかよ!」
「そ、そうよ! 大体こんな私達からせびろうなんて、なんて情けないの!?」
強面の巨漢相手に堂々と発言する紺色の髪の少年は、未だ絶望を知らぬ幼さの残る真っ直ぐな金色の瞳で目の前の男を睨みつける。一方でその背後に弱々しくしがみ付きながらも男達を威嚇するようにキャンキャン、と甲高い声で叫ぶ頭巾を被ったその少女、その少女の顔には見覚えがあった。
つい先頃記憶の奥底から浮かび上がってきたその顔を見た瞬間、扶桑の沈んでいた心は跳ねるように踊り出し、何か面白いことが起きそうだ、という根拠のない理由が彼の足と滑らかな舌を動かした。
「――おいおい、見ていてどうにも見苦しいぜ。なぁ、
「な、な、お前は…、
「他の誰に見えるって? 少し会わないうちに物忘れも激しくなっちまったらしいな」
ご愁傷様、と小馬鹿にしたように笑って人混みから現れた扶桑の顔を見るや否や、“
「てめぇ! この前はよくも人の女横取りしてくれたなぁ!?」
「えぇ? お前の女? おっかしいな~ 彼女はお前に一方的に絡まれてただけって言ってたぜ」
「はぁ!?」
「まったく相変わらず、自意識過剰なんだからぁ」
実は数日前、色町で顒が一人の妓女にしつこく付きまとい、挙句の果てに物陰へ連れ込もうとしているところを偶然目撃し、それを阻止したことがあった。その後妓女には随分と感謝され暫しの間言い寄られたこともあり、女を横取りされたと思った顒は扶桑を逆恨みしているという。しかしこの
「まぁまぁ、今日はその辺にしとけよ。じゃないと…」
「…なんだよ?」
「いやぁ…。そういえば、姐さんがお前に貸した金をそろそろ返してほしいって、言っていたような…」
「ね、姐さん…、だと?」
扶桑が幼い少年少女たちを庇うように前に出ながら口にした『姐さん』という言葉に、それまで喧しく喚いていた顒がぴたり、と口を閉ざして額に嫌な汗を滲み出し始めたのだ。案の定の反応に扶桑がニヤリ、と口角を上げて更に彼の精神を追い詰めていく。
「姐さん、相当怒っていたぞ。なにせ色町で今人気の妓女だからな、金には困ってないが素行の悪い弟には困っている、とこの前愚痴を零していたぞ」
「…っ仕方ねぇ。そろそろ返しに行かねぇと、臓器の一つでも売られそうだ!」
顒は自身の怒らせると怖い姉の顔を思い出し、身体に染み付いたその恐怖に身を震わせながら仕方なくその場から退散した。その背中を如何にも小物そうな腰巾着の男も追いかけていく。その情けない後ろ姿に手を振って見送ると、扶桑は振り返って身を屈めて自分より小さい少年少女と目線を合わせた。そして主に少女の方を見ながら挨拶をする。
「やぁ、災難だったね。怪我はないか?」
「え、は、はい。ありがとうございました…」
青葉が警戒しつつも丁寧にお礼をする横で、扶桑の顔を凝視する六花はその顔の既視感に首を傾げながら尋ねた。
「あ、あの、どこかでお会いしましたか…?」
「……」
「あ! 私の気のせいならすいません…」
「…覚えていないのか。天横山ではいろいろとあったのにな…」
「天横山…、 ——あ!!」
扶桑が
「あ、貴方、“
「いや、それは俺の名前じゃないから。本名は、
「あ、そっか。お久しぶりです、その節はお世話になりました」
六花は朔夜から説明された天横山での事の顛末を思い出し、扶桑に随分とお世話になったため改めて深々と頭を下げてお礼を言った。頭を激しく振ったせいか巻いている頭巾が少しずれて、扶桑に見える位置から何ものにも染まっていない真っ白な髪がちらりと見えた。それを見た扶桑は六花の今の事情を把握し、それまで存在をすっかり忘れていた青葉の方に振り向いた。
「…なるほど。さて君、今のままではまともに街中を歩けないだろうから、大人しく六花たちを連れてついて来い」
「俺の名前は
「ん? だって君たちは全員で三人だろ」
扶桑は“朔夜の存在”を仄めかして二人をとある場所へと連れて行った。六花の知り合いということで安心し始めていた青葉だったが、その意識は一瞬で吹き飛ぶことになる。
❖ ❖
「――なんでこんなとこなんだよ!?」
到着した目的地を目にした青葉の開口一番の叫びが、これだったのも無理はない。何故なら扶桑が意気揚々と二人を連れてきたのは、先程の場所からほど近い、『色町』だった。まだ日の高い色町の人通りは少なく、夜の煌びやかさはないものの、六花は一度経験があるが箱入りお坊ちゃまの青葉にはまったく耐性がないようで、微かに耳を赤く染めながら案内した扶桑に抗議した。
「な、なんで
「仕方ないだろ。今六花に“必要な物”がここにはあるんだよ」
「…“必要な物”?」
「まぁすぐにわかるさ。ほら、着いたぞ」
抗議し続ける青葉を受け流しながら扶桑が足を止めたのは、一件の遊女屋の前。まだ提灯の灯りも点いていない開店前の店の暖簾を堂々と潜り、中に向かって親し気に声を掛ける。
「女将ー! いるか?」
「――なんだい。まだ開店前だっていうのに、せっかちな客だねぇ」
呼びかけに応じて面倒臭そうに奥から現れたのは、白髪混じりの初老の女性。
「――って、なんだい旦那じゃないのさ。元気にしてかい?」
「あぁ、お蔭さまで。急で悪いんだが、今晩一室貸してもらえるか?」
「…まぁいいだろう。今回も随分と訳ありのようで」
座敷を貸してくれ、と言う扶桑の後ろに隠れるように立つ二人の姿を見た女将は何を察して特に理由も聞かずに二つ返事で了承してくれた。どうやら扶桑がこうやって一室を借りることは前にもあったようで、女将は慣れていた。扶桑は気前のいい女将に軽く礼を言うと、二人を連れて二階に上がった。その途中、何かを思い出した扶桑は階段の上から女将を呼んだ。
「あ! 後、何人か手が空いてる女の子たち、お願いできる?」
「あいよ」
最後に扶桑が付け足したお願いの内容に言い知れぬ悪寒を感じた青葉が、何が? と恐る恐る聞くが、扶桑はほくそ笑むだけで答えてはくれなかった。
二階に上がると見世内に立ち込めていた化粧や酒の匂いがより一層強くなり、通り過ぎる襖の隙間を横目に盗み見れば、そこからこっそりと覗く視線たちの存在に気づいて青葉は思わず飛び上がる。一方でつい最近西の地でこういった見世に一時お世話になっていた六花は慣れたもので、未知に対して大袈裟に怖がる様との対比に扶桑は滑稽だと笑った。
「ははっ、まだまだ若いなぁ」
「う、うるさい! こんな
「落ち着けって。ほら、着いたぞ」
「…よぉ、久し振りだな。元気か?
「…この姿を見て元気もなにもないだろ、
相変わらず面白い男だな、と呆れながらもどこか嬉しさを滲ませた朔夜の声は、まるで昔からの旧友に久し振りに会った時のようで、それまでの経緯を知らない青葉はどういうことなのか二人を問い詰めた。
「お、おい! お前、こいつと知り合いなのか?」
「あぁ。お前と会う前に、ちょっとな」
「その“ちょっと”が気になるんだけど…」
青葉が二人から詳しい事情を聞こうとしたその時。襖の向こうから着実に近づいてきている大勢の足音が響き、勢いよく開け放たれた襖からは津波のように大勢の妓女たちが座敷内に押し寄せてきた。そのお目当ては勿論、扶桑。
「扶桑はん! ほんとに来てらしたん!?」
「ほら、ウチの言った通りだったでしょ?」
「あぁん、いつ見てもイイ男だわぁ!」
「あ、でも! こっちの子も可愛い!」
あっという間に
「え、えっと…」
「あ、おい、べたべた触るなよ…!」
「おいお前たち、二人にはそれくらいにしておけ。それに何の為に俺が呼んだと思ってる?」
「えー? もう、しょうがないわね」
扶桑に咎められて不服そうに六花の頬から手を離した
「で、今日は何してほしいの?」
「あぁ、話が早くて助かる。今日の“客”は、そこの六花だ」
「…え、私?」
予想だにしなかった名指しに戸惑う六花に彼女たちの視線が一気に集まり、次に扶桑から告げられた要望を聞くと一斉にその目は輝き始める。
「そこの六花を、綺麗に着飾ってやってくれ!」
「まぁ!?」
「え、え、えぇ?」
戸惑う六花を余所に、そうと決まれば、と妓女たちは両側から六花の手を握ると状況を理解できていない六花を引き摺って座敷を去っていった。その際に終始無言を貫いていた朔夜は巾着ごと、六花の座っていた座布団の上に残された。襖が閉じる寸前、六花の呼ぶ声が聞こえたが扶桑はにこやかな笑みを浮かべて手を振って見送った。
パタン、と閉じられた襖を見送った扶桑は振り返って朔夜を真っ直ぐ見つめた。
「さて、話しを続けるか」
「…まったく、強引な男だなお前」
「別に取って食おうってわけじゃない。六花だって
要は扶桑が彼女達に任せたのは、六花の身なりの支度だったのだ。しかし六花のあの白い髪を不特定多数の目に晒していいものか、という疑念を抱いた朔夜が尋ねるも、それは杞憂だった。
「でも六花の髪は…」
「あぁ、その件に関して問題はない。ここにいる彼女達も、似たような事情でここにいるからな」
「…そうか。なら、扶桑を信じて任せることにするよ」
「で、何から話せばいい?」と聞く朔夜に、扶桑はニコリと笑って青葉を方を見ながらあっけらかんととんでも発言をし、その場はまるで氷河期のように凍り付いた。
「じゃあまずは、俺たちの馴れ初めからかな?」
「……言い方が気持ち悪い」
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