第弐拾肆話 赤き大鳥の国〈三〉
助けを求めた扶桑から無情な裏切りを受けた六花は成す術なく、両手を引かれて二階の一番大きな座敷に連れてこられていた。今まで長い時間朔夜と離れたことのなかった六花はたった一人で見知らぬ顔たちに囲まれ、萎縮する姿は宛ら“蛇に睨まれた蛙”のよう。いや、蛙は嫌いだから、“狐に睨まれた子兎”とでもしておこう。座敷に到着して早々に被っていた頭巾を引っぺがされ、周囲の目に晒された白い髪と赤い瞳を揺らめかせながら震えるその姿はまさに、一匹の子兎、としか言いようが無い。そんな可哀想なほど震え上がった立花に反して、周囲を取り囲むように見つめてくる妓女たちの目はキラキラと輝いており、嬉々とした声で相談をしていた。
「――で、なにから始める?」
「まずはお風呂に入れてあげましょうよ」
「それがいいわ! あたいが、爪の先までピカピカに磨いてあげるわ」
「着物はどれがいいかしら? 帯の色は?」
まるで着せ替え人形でも目の前にしているかのような彼女たちのはしゃぎ様に成す術なく、もうなんでもいいから早く終わってくれ、と心の中で祈る立花に助け舟を出したのは、騒ぐ彼女たちの声を聞いて苦言を呈しにきた、一人の派手な妓女。
「騒がしいね! 一体何事だい?」
「姐さん!」
赤紫の派手な着物を身にまとい、まだかんざし一つ挿さっていない黒髪を振り乱した女は座敷内の騒ぎの中心をキッと睨むと、その中に囲まれて萎縮する立花の姿も同時に捉えた。
「…なんだい、その野暮ったい子は?」
「扶桑様の“お客さん”だよ。旦那からこの子を綺麗にしてやって、て頼まれたのさ」
「…ふーん」
女は不躾に立花を値踏みするように頭から爪先まで眺めると、先ほどまでの怒りを収めて彼女たちにある指示をして去っていった。
「…この子、湯浴みが終わったらわっちのところに連れておいで。わかったね?」
「はーい」
「え…」
有無を言わす暇さえ与えない彼女の態度に、どうやら自分に拒否権はないのだ、と立花は諦めて肩を落とすのだった。
そして妓女たちに温かい湯で全身隅々まで余すとこなく洗われ、既に憔悴している立花を先程の女の待つ部屋に案内した。身体の汚れが落ちて清々しい気分のはずなのに、何故かドッと疲れた様子の立花は、一体次はどんな仕打ちが待っているのだろうかと想像しては、肩をすくめた。女の部屋は大通りに面した二階の端から三番目の座敷で、襖が開けば先程の部屋よりは明らかに広い中、煙管を片手に立花の到着を待っていた。
「…おや、少しは綺麗になったじゃないか」
「…お風呂ありがとうございました」
「礼なら扶桑殿に言いな。今回の着物代からなにやら、全部あっち持ちだそうだから」
扶桑は立花の髪のことだけでなく、今まで着古してきた着物さえも一新させるつもりのようで、然もその代金はすべて彼持ち。そう聞いて立花は申し訳なさそうに項垂れる。後でちゃんと返さなきゃ、と考える立花の心の内を見透かすように女は、「必要ないさ」と呟く。
「扶桑殿がやりたくてやったことだろうから、善意の行為は有難く受け取っておきな」
「…そういうもの、ですか?」
「そうさ。そういえば名乗ってなかったね、アタシは“
「は、初めまして、
鳰と名乗った女はさてと、と煙管の灰を落として重い腰を上げると、座敷に置かれた彼女の小さな箪笥からある物を取り出して立花の前に差し出した。漆塗りの黒い筒状の“何か”、その中身は見当もつかない。不思議そうに見つめる立花に、鳰は鏡台の前に座るよう促す、その手には櫛が握られている。そこでようやく、中身が何か察することができた。
「…もしかしてこれ、染粉ですか?」
「よくわかったね。中身はもう液体になってるから、すぐに使える。ほらそこにお座り」
「は、はい」
鏡台の前に座った立花の後ろに鳰が座り、まずは立花の真っ白な髪を丁寧に梳かし、絡まらないようにする。水気もなくなったのを確認した後、染粉の蓋を開いてその中身に木べらの先をたっぷり漬け込み、その先端を立花の髪の頂点から先までゆっくりと滑らせた。真っ白な雪のようだった立花の髪は、みるみるうちに月のない真っ暗な夜の空のように黒く染まっていった。自分ではない誰かにこうして髪を触らせるのは、今までで一度しかなく、その一度目は何を隠そう立花の最愛の母親だった。生まれ故郷で誰もが忌避する立花を髪をまるで宝物のように、大事に大事に梳かす母の手を思い出して、自然と目頭が熱くなった。
視界が歪むのを必死に抑えながら、慣れた手つきの鳰に、立花は静かに問いかけた。
「…慣れてるんですね」
「まぁね。アタシも月に何回か、自分でこうしてるからね」
「自分に?」
「…アタシも、生まれついての白髪なんだ。そのせいで小さい頃から弟と二人、随分と苦労した」
鳰の言葉に立花は驚いて思わず後ろに振り返ってしまった。振り返った先で困ったように笑う鳰の髪はどう見ても漆黒の闇に覆われており、一見して立花と同じ髪色には見えなかった。しかし、これも彼女が生き抜く為の嘘だったのだ。この髪のせいで苦労した、という言葉の重みは同じ境遇の立花の胸にストン、と落ち容易にそれを理解することが出来て、ただ一言「そっか」とだけ呟いてまた顔を鏡台に向けた。
再度自分に身を委ねてくれた立花の後頭部を愛おしそうに見つめてから、鳰は黒染めの作業を再開した。その間もぽつり、ぽつり、と自分の身の上話を立花に話して聞かせた。
「…アタシの家は元々あまり裕福なわけじゃなくてね。なにしろ、野垂れ死んだ父親がそりゃ酷い博打うちでね、家に余分な金があったことなんて一度もなかった」
「だから母さんは、今のアタシと同じように体を売って生活してた。でもアタシみたいに見世じゃなくて、もっと粗末な商売だったもんだからさ、すぐに身体を壊してそのまま…」
鳰は軽い口調でその壮絶な人生について語るも、実際はもっと悲惨なものだったのだろう、と立花は言葉の端々から感じ取っていた。
「–––でさ、アタシには唯一どうしても守らなくちゃいけない大事な弟がいてさ。小さい頃はそれはそれは可愛くてさ、あ、今はどーしようもない奴なんだけどね」
「でも母さんがいなくなってからの心の拠り所は弟しかいなくて、どうにかして二人で生きていこうって、必死だった」
その後の彼女の人生がどれだけ壮絶なものだったかは、想像に難くない。博打ばかりの父親さえも帰って来なくなったボロ家に残された鳰は二人で生きていくために、花町に足を踏み入れたのだという。しかし希望が一切なかったわけではないという。ま二人の母親が生きていた頃、翼都は今ほど貧富の差が激しいわけではなく、今では貧民街と化している場所にも先代の朱雀の当主『
「…幼い頃に少しだけ見た当主様は、本当に優しいお人でね。熱い太陽のような朱色の髪がすごく綺麗でね、そう、扶桑殿みたいな朱色だったよ」
「へぇ…」
「その当主様も十年前に亡くなってしまって、以来この花町や貧民街が廃れていってしまったのさ。その時に丁度母さんも亡くなっちまったからね、アタシも腹を括ったってわけ」
そして今まで妓女として弟をある程度養ってきたことを話し終えると同時に六花の髪も完璧に染まり終わり、はい終わり、と染粉の蓋を閉めた。
「暫くはそのままでいてね」
「はい、ありがとうございます」
「いいのよ。手のかかる子ほど、可愛いって言うでしょ。まぁアタシの弟は手がかかり過ぎるのだけど…」
「…そういえば、弟さんって———」
鳰の話の中で幾度となく存在が仄めかされてきた“弟”の詳細について六花が質問しようとしたその時、ドスドス、と無遠慮な足音が二人のいる座敷に近付いてきたかと思えば、勢いよくその襖が開かれて大声で「姐さんいるか!?」と呼びかけられた。その声の主を見た瞬間、六花はあんぐりと口を開けて硬直した。
「お、久し振りだな! 元気そうでなによりだ、姐さん!」
「…はぁ。どうしてもっと静かに来れないのかしら、ねぇ“
「……カツアゲの人だ」
態度も声も大きすぎる弟——
「……あ゛?」
「……あ、お前っ、あの時の!?」
六花の存在をようやく認識した顒がその顔に見覚えがあることを示唆すると、般若のような表情を浮かべる鳰は即座に振り返り、焦る顒に詰め寄った。その圧は自身よりひと回り大きな顒さえも萎縮させるものだった。
「顒、“カツアゲ”ってどういうことなの?」
「あ、い、い、いや! それは、その…」
「下手な言い訳はいらないよ。さっさと洗いざらい吐け」
「………はい」
抑えきれない怒りを滲ませて般若の顔で詰め寄る鳰の圧に押し負けた顒は、命じられるがまま、六花たちと会った時のことを洗いざらい吐かされたのだった。その様子を蚊帳の外で見つめていた六花だが、見た目に反して小さく萎縮した顒の姿に少しばかりの憐みの目を向けて見守った。
すべてを聞き終えた鳰は俯いたままヌッと伸ばした手で顒の後頭部を鷲掴み、そしてそのままその頭を座敷に押し付けて強制的に土下座させた。
「ってぇ! なにすんだよ!?」
「黙れ愚弟。今すぐ、六花に土下座して誠心誠意全身全霊で謝罪しな。でなきゃ、もうお前に金は貸さない」
「うっ! そ、それは、勘弁してくれよ…」
出会い頭、立花にカツアゲしていたところに見るに常日頃から金銭面は乏しいようで、唯一の資金源である鳰から金銭的援助がなくなることを恐れた顒は、持ち前の
「…あの、もういいです。実際は大事になる前に扶桑さんが庇ってくれたので」
「扶桑殿にも迷惑かけたのか?! 愚弟、今すぐ扶桑殿にも謝罪しに行くよ」
「ま、マジかよ…」
未だ怒り冷めやらぬ鳰に首根っこを掴まれた顒が引き摺られていくのを見送りながら、一人ぽつん、と残された立花は特にすることもなく、目の前の鏡台に写る自分の髪の出来栄えを確認する。やはり他人にやってもらった方がムラがなくていいな、などと素直に喜んでいた立花だったが、次の瞬間、突然の胸の痛みと喉から迫り上がってくる鉄の臭いに背中を丸めた。
痙攣する身体を必死に抑え込もうとするが、喉の違和感は立花を激しく咳き込ませ、やがて迫り上がってきた何かを即座に手のひらで受け止めた。すべて吐き出しきり落ち着いてきた呼吸を整えながら、咄嗟に抑えた手のひらを見て立花は絶句した。
そこに広がっていたのは、赤黒く変色した、血。
吐血した。
その事実に立を立花は見覚えのない身体の違和感に顔色を真っ青に染め上げた。しかし次に六花の脳内を過ったのは、自身の身体の心配などではなく、
「…それだけは、絶対だめ」
六花は尚もじくじくと痛む胸を抑えながらその場に蹲り、早くこの痛みが消えてなくなってくれることをただひたすらに祈るのだった。
❖ ❖
同時刻。
女将に用意されたお茶とお茶菓子を前に腕を組み、静かに
「――なるほど、
「真面目だねぇ、流石は青龍の“お坊ちゃま”」
指さした先で青葉を箱入り息子と揶揄する扶桑に対して更に眉を顰めてしかめっ面になると、バチバチと目の前で火花を散らす二人に朔夜は大きな溜め息をつく。途中から予想していたが、誠実な父に似た青葉と、自由気ままな性格の扶桑では無論馬が合うことなどなかったのだ。
「…二人ともそこまで。僕はそこの扶桑に用があるから」
「…ちっ」
青葉の舌打ちを残して一触即発寸前のその場は収まった。一方の扶桑は元々喧嘩っ早い性格なのか、少しがっかりした様子で朔夜の方に振り向いた。
「さて、では“殿下”は私めに一体なにをご所望で?」
「“殿下”はやめて。僕はもうそんな大層な人間ではないよ。もはや人と呼ぶかどうかも怪しいが」
にこやかに冗談を吐く扶桑に朔夜は小さく笑う。表情はなくとも朔夜の純粋な笑いを見たことのない青葉は陰で少し驚きながら二人の会話を黙って聞いた。
「扶桑、君をこの地で一番の情報通と見込んで頼みがある。噂によれば今この都に出入りしている“
「聞き馴染みのない奴等だが、そいつらは一体何をやらかした?」
「…恐らく、赫夜の居場所を知っている」
「成程な。“常夜衆”か、名前だけじゃピンとこないな。何か特徴とかないのか?」
「それについては俺から話す」
そう言って名乗り上げたのは青葉だった。最初、朔夜にその情報を提供したのが青葉であり、普段から父親や家臣たちの噂話を盗み聞きしている青葉は、彼等についての詳しい情報も握っていた。
「父上たちの話によると、
全身を一色に染め、常に覆面の下に顔を隠したその姿を思い浮かべた朔夜はかつて陰陽国で社殿に仕えて烏師に奉仕していた『神官』の存在を思い出した。そこから益々を持って、赫夜との関連性がより深まった。
しかし、どうやら扶桑の記憶の中に彼等の姿はいないらしく、難しい顔で首を傾げる。
「んん? そこまで目立つ奴等なら、一度目にすれば覚えているはずなんだが…」
「じゃあ少なくとも、
「それ以外で人の出入りがあって、尚且つ目立つ奴等が噂になりそうな場所、と言ったら…–––っ!」
扶桑が頭に叩き込まれた翼都の地図を俯瞰的に思い浮かべていると、何かに気づいてバッと後ろを振り返り、その座敷の外の風景を見つめた。その視線を辿るように朔夜と青葉も窓の外を見つめ、その先にある一点の『建物』を見つけて青葉は即座にその可能性を否定する。
「あ、有り得ないだろ! だってあれは、朱雀一族の居城だろ?!」
そう。扶桑が可能性として考えて導き出した場所は、翼都の中心であり要、『朱雀一族』の住まう『朱雀城』であったのだ。しかし十年前に反乱を起こし、赫夜の命を奪おうとした四君主の一人がその赫夜と関係のありそうな組織と繋がりがあるのだろうか。その疑問は扶桑の中でもまだ解消されてはいなかったが、一つだけ心当たりがあった。
「…いや、そうとも言い切れないのが今の朱雀だ」
「どういうこと?」
「今の朱雀の当主はまだ十二歳の子供でな。実際に権力をにぎっているのは、代々朱雀に仕えてる“大老”と“老中ら”だ。そいつらの手引きかもしれない」
「なんでそんな子供が当主に?」
「…先代は十年前の反乱の最中に亡くなった。だから今の当主がその座を継いだのは、まだ二歳の頃だったらしい」
十年前の反乱、と聞き朔夜は口を閉ざした。あの日、命を奪われたのは朔夜の身内だけでなかったということだ。そして今は顔も思い出せないが、先代の朱雀の当主が朔夜にとって頼れる大人だったことは、なんとなく憶えていた。その彼が知らない内に亡くなっていたことに、朔夜は少しだけ寂しさを感じた。
「…そうか。それで幼い当主なのをいいことに、家臣たちは好き勝手やっているわけか?」
「あぁ。噂では南東側の農村が一つ、年貢が納められないっていう理由で一揆鎮圧と称して粛清されたらしい」
「あ。もしかしてあの廃村か! 通りで生活感が残ってるわけだ」
青葉は
「っ…
「…そう思うなら、青龍の未来は安泰だな。朱雀の幼君も、それに気づいてくれればいいんだが…」
この地で暮らす一人として、そして個人的に思うところのある扶桑がそう呟きながら城を眺める。そしてもう一つ、城に出入りしているであろう可能性についてある話を二人に聞かせた。それは彼が数時間前に受け取った手紙に記されていたことだった。
「とある人物からの手紙で、確かにあの城に最近見慣れない奴等が頻繁に出入りしてる、と書かれていたから調べてみる価値はあると思うぞ」
「…しかし問題はどうやって、城内に忍び込むか、だ。青葉の時のように有力な案内役なんて宛てがない」
「何言ってる。そんなの、目の前にいるだろ?」
仮にも朱雀の城に忍び込むなど易々とできるわけのない青葉たちが首を捻っているのを見て、あっけらかんと名乗りを上げた扶桑に二人の驚いた視線が突き刺さった。
「い、いやいや!? 流石に無理だろ!」
「扶桑、いくら君でも城に侵入するのはちょっと無理があるんじゃないかな?」
何でも屋といっても流石に警備の厳重さなら翼都一の朱雀城に忍び込むことなど難しいにも程があり過ぎると、首を横に振る二人に対して扶桑は落ち着いた様子で既に消火してしまった愛用の煙管に再び火を点してひと吸いすると、自慢げに語った。
「…実はな、俺は故あってあの城の内部構造を知り尽くしている。家臣ですら知らない抜け道、そこに案内してやろうじゃないか」
「…その話が本当なら是非お願いしたいね」
まだ半信半疑が抜けきらない朔夜だったが、今は少しでも人の手が借りたい状態であり、疑いながらも懇願した。すると扶桑は煙管を煙管箱に一旦置くと、姿勢良く座り直してまるで忠臣のように腰を低く
「――お任せを、
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