第弐拾壱話 魔の棲む川〈五〉


 その後、朔夜と青葉はその日の内に事件が無事解決したことを蝸牛に伝えると、安全になった夜の川を通って早々に向こう岸に渡ったのだった。蝸牛自身は二人の功労を称えて盛大に宴でもてなしたい、と言っていたが、その誘いを朔夜はきっぱりと断って早々に屋敷を後にしたのだ。その時去り際の朔夜は栗花落に何かを耳打ちし、怪しい微笑みを浮かべていたことに、青葉は気づかないふりをした。きっと知れば何か厄介なことになると、本能で察したのだ。


 早々に荷物をまとめ、手配された船に乗り込んだ朔夜のあまりにも手早い退散に疑問しか浮かばなかった青葉は、川を渡り切った後の陵光領に向かう道中、そのことについて朔夜に聞いてみた。既に岸には着いているものの、どこで誰が見ているかわからないため未だ六花の身体を借りたままの朔夜は、青葉の問いに薄ら笑いで答える。


「――なぁ、なんでこんな急ぎ足なんだ? 別に出発なら明日でもいいじゃねぇか」

「ん、まぁね。でもあと少しで夜明けだし、だったら早めに出発して陵光領内に入った方がいいと思ったのと…」

「他に理由があるのか?」

「……あんまりあの屋敷にいたら、だからね。それで出発が遅くなっても嫌だし」

って、何に?」


 青葉の問いに「さぁ?」と曖昧に返す朔夜の意図がわからない含み笑いに、何故か背筋に悪寒を感じながら身を震わせる。そして意味はよくわからなかったが、一応不安そうに川の向こうに小さくそびえる蝸牛の屋敷に振り返って青葉はなんとなく手を合わせた。

 青葉のその無意識の行動は強ち間違いでもなかったようで、朔夜はクスリ、と笑って一人前を歩き出す。これから蝸牛とその家族に降りかかるであろう災難を思い浮かべながら心の中で、ご愁傷様、と手を合わせる上機嫌な朔夜だったが――、


「――っう!?」


 突然歩みを止めて胸を押さえた。


 ジクジクと痛む胸部と、同時に喉の奥からせり上がってくる鉄の臭いを感じながら大きく咳き込んだ。咄嗟に口を覆った右手の平に感じた生温かく湿った感触に、恐る恐る目を向けると朔夜は凝視したまま硬直した。そこにあったのは、手のひらに飛び散った真っ赤な、鮮血だった。吐血したのだと理解したと同時に、これを青葉に隠すべく慌てて行動した。すぐさま真っ黒な着物の袖口で吐いた血の付いた口元を拭い、手のひらから零れ落ちそうな少量の血も袖の内側で拭いて隠した。そして何も知らない青葉の後ろからの掛け声に、朔夜は何事もないような顔で振り返って笑った。


「朔夜…? どうかしたのか」

「…いや、なんでもない」


 うまく笑えていなかったことを懸念したが青葉はその小さな異変に気付かなかったようで何も言わずに先頭を歩き始めた。その背中を見つめながら朔夜は自分の首筋を指先でなぞりながら、意識を沈めている六花のことを危惧する。これまでの過酷な道中で体調不良を起こさなかった健康な六花の肉体に、何かしらの異変が起きていることに一抹の不安を抱きながらも、朔夜は陵光領に向かって歩き続けるのだった。


 これがのちに起こる“過ち”の、前兆とも知らずに。



 ❖ ❖



 栗花落ツユリは心底うんざりしている感情を隠しもせず、あからさまな表情で騒然たる宴の場の隅の席に座っていた。不機嫌さに満ち満ちた栗花落に敢えて近づこうとする者など一人たりともいるはずもなく、蝸牛も含めてその場にいる全員は遠巻きに彼女の様子を伺いながら酒を酌み交わしていた。

 彼女が不機嫌な顔をしているもの当然のことであり、その理由はこの宴の目的にあった。そもそもこの宴は本来、川の鬼たちを退けた青葉たちを招いてもてなすために催されたものであるが、その主賓である青葉たちが出席を拒否したため、仕方なく主催者の蝸牛とその家族、そして急遽招待された近隣に住む親族たちを交えて行わることになった酒宴。そしてその宴の席で最初に蝸牛はこう告げたのだ。


『——我々を数年もの間苦しめ続けてきた“悪鬼”が無事倒されたことを祝して!』


 その非道極まりない乾杯の音頭に栗花落のそれまでピン、と張り詰めていた堪忍袋の緒の最後の一筋がぷつり、と切れてしまったのだ。もはや切れた糸を直す気にすらならない栗花落はそれまで仕方なく貼り付けていた顔面の愛想笑いの仮面を簡単に剥がし、親族全員が陽気に酒を酌み交わすその滑稽な様を心底嫌悪した顔で眺めていた。

 目の前に置かれた食事にさえ手を付けようとしない栗花落にうんざりとした溜め息をついたのは、主催者である父の蝸牛。彼は両手に美人で若い娼妓の女たちを侍らせながら高価な酒を遠慮なしにガバガバと飲みながら、近くの席に座っている親族の中でも一番仲の良い 異母弟の“蝌蚪カト”に今後のことを聞かれて自慢げに自身の人生計画について大声で語り始めた。


「で、兄上。悩みの種から解放されて、今後はどうするつもりなんだ?」

「そりゃ勿論、今まで側室の一人も許されなかったからなぁ」

「まったく兄上も懲りないなぁ!」


 母違いだが根っこは同じである弟の蝌蚪も、兄に負けず劣らず無類の女好きである。正式な妻はまだいないという謎はあるが、年上から年下まで多種多様な側室を二十人ほど抱えている蝌蚪には亡き妻のせいで自由に女遊びのできなかった蝸牛の苦しみが痛いほど理解できるようで、周囲が呆れた視線を向ける中でも兄に対して同情の視線を向けていた。


「しっかし、生前の早良殿義姉君はそんじょそこらの女どもなんぞ比べ物にならないほど美人だったってのに、勿体ないことしたなぁ」

「そうだな。あのさえなければ完璧な女だった。あの女にはもっと娘を産ませておくべきだったと、今更ながら後悔しておるよ」

「あぁ、一人娘の栗花落はあの器量ならこれからいくらでも使があるしな」


 度数の高い酒のせいかいつも以上に本音が舌に乗る二人が、下卑た視線で嘗め回すように栗花落を見つめた。そんな二人の下世話な話し声は勿論栗花落自身にも聞こえてはいたが、一々相手にするのも面倒であったため敢えて聞こえていないふりをして完全に無視した。そんなことにも気づかないほど泥酔した蝸牛は更に、脂ののった舌で上機嫌に次の妻候補に狙っている女の話を自慢げに話し始めるのだった。

 自慢した女性の名前が二桁に達した時、それまで休みなく酒を飲み続けていた蝸牛はついに泥酔してそのまま船を漕ぎだした。手にした杯を指先から零しそうになった蝸牛を支えたのは、それまで壁の花に徹していた栗花落だった。


「父上、そろそろお休みになりましょう?」


 さぁ、と蝸牛の真っ赤な顔を覗き込んで栗花落が微笑んで促すと、その言葉の意味さえわからない蝸牛は彼女に言われるが儘立ち上がり、フラフラとした足取りで会場を後にした。その後ろ姿を半目で眺めながら蝌蚪カトは人知れず大きな溜め息をついた。


「…はぁ。ほんとに、勿体ないことしたなぁ。こんなことなら、早良殿を早い所横取りしておけばよかった」


 荒れに荒れた宴会場で、派手な女遊びとは裏腹に未だ独身を貫く一人の男が、捨てきれない初恋を嘆いては孤独に愚痴を零した。




 辰巳川周辺の管理を任される一族の一人として生まれた男『蝌蚪カト』には、長年兄の陰に隠れてずっと片想いし続けている人物がいた。同じでありながら母親の身分の違いから優劣がある兄弟の下に生まれ、それでも一番格上の兄“蝸牛”に気に入られるために幼い頃から必死に生きてきた蝌蚪はなんでも兄の言う事に肯定し続ける人生を送って来た。そんな中で彼が初めて兄から“奪いたい”と思ったのが、兄嫁の早良サワラだったのだ。兄の婚約者として初めて対面したその時から、彼の心の片隅には必ず早良の存在が居座り続けた。

 しかし彼は自分たちの一族の宿命さだめをよく理解していた。古き良き男の一族の者は、皆一様に『恋多き者たち』であると同時に、『一つの愛を得られない者たち』であることを。本当に欲しい愛が手を伸ばすことすら許されないことに、蝌蚪は密かに絶望し悲嘆に暮れた。

 だがその後も兄夫婦との交流は勿論続き、のちに生まれた娘である栗花落のことも殊の外他大勢よりも好意的に接してきたが、常に兄の腰巾着に徹してきた蝌蚪が母娘おやこから好かれることはなかった。それでも親族の一人として彼女の幸せを願い、娘の成長を願った。そんな彼の人生に突き刺さるように訪れたのは、早良の死。その死を誰が招いたのか、その死によって誰が一番得をしたのか、その答えたはすぐ目の前にあったが追及することはのちの人生の破滅を示唆していた。そんな勇気など端から持ち合わせていない蝌蚪は、気づかないふりをした。

 つい先頃の席でも兄に意見を合わせて早良や栗花落のことを貶したものの、本心では残された栗花落には今後の人生で幸せに生きてほしいと願っていた。


 もし、もしも。

 蝸牛が、今後他の子を授かることなく、何らかの理由でこの世を去れば、或いは……。




 そんなことを想像しながら、男は残った酒を煽ってその後味の悪さにしかめっ面を浮かべるのだった。



 ❖ ❖



 泥のように重く圧し掛かる睡魔から抜け出して浮上した意識が閉じた視界の中で最初に蝸牛が感じ取ったのは、身体を隅々まで覆いつくす冷たい水の感触と、肺まで達した水の息苦しさ。無防備な鼻や口から次々に流れ込んでくる水が蝸牛の呼吸を遮り、鈍い痛みと共に体内へと侵入していく違和感は一気に酩酊してフワフワとした蝸牛の意識を引き上げた。そして開放された視線へ真っ先に飛び込んできたのは、満天の星々が輝く夜空に毅然と浮かぶ満月の光。そしてそれを背にして蝸牛を見下す冷たい、栗花落の顔だった。


「っつ、栗花落!! た、たすけ――」


「――あらお父様、お目覚めになりましたの? そのまま眠っておられれば、苦しまずに逝けたというのに」


 必死に助けを求めた実の娘からの冷酷な一言に、蝸牛は顔色を真っ青にして言葉を失った。月明かりに照らされてより一層輝いて見える栗花落の微笑が、普段であれば美しいと嘆息を漏らすところを今だけはただただ恐ろしく、その恐怖は栗花落の顔をかつて見た『早良の顔』と重ね合わせた。その底知れぬ恐怖に身を震わせる中でも、蝸牛の衣は更に水を吸収し、身体は益々沈んでいこうとしていた。それに抗って藻掻く蝸牛の滑稽な姿に決して手を貸すことなく、栗花落は鼻で笑い嘲った。


「…惨めなお姿ですわね、お父様。きっとあの日の夜のお父様は、こんなお気持ちだったのでしょうね?」

「っな、なんの…っはなし――」

「覚えていらっしゃらないのですか? あの日、ですよ」

「ッ!?」


 何故自分しか知らない早良の死の真相を栗花落が知っているのか、驚愕の顔を浮かべた蝸牛は栗花落の本意を察した。“娘が自分を殺そうとしている”ことに。

 それに気づいたと同時に蝸牛の背後、川の底から這い上がってきた二本の真っ白い腕がその頭をがっしりと掴んだ。骨ばっていながら鋭利に伸びた真っ黒い爪が光る手が蝸牛の顔を強い力で鷲掴み、その力で蝸牛の顔を無理矢理に後ろへ向かせた。恐怖で強張る蝸牛はその力に抗う術がなく、無抵抗のまま首は後ろへ向くしかない。首の筋が悲鳴を上げても、首の骨が嫌な音を立てても、腕の力が抜けることはなく蝸牛の首を無理矢理に捻じ曲げて背後へ向かせた。


 そして蝸牛がそこで見たのは、生前と変わらぬ美しさで笑う、“早良サワラ”だった。


「ひ――っ!?」

、ようやくお会いできましたね』


 青葉たちによって退治されたはずの早良の姿に驚く蝸牛に、栗花落は心底楽しそうに種明かしを語った。


「…実はね、お父様。わたくしが、卯月殿あの方に頼んでおいたの。“お母様を退治せずにおいてください”とね」

「な、な、なぜ…!?」

「勿論、ここへお父様を連れてきた時にお会いしていただく為です」


 実は卯月――もとい朔夜に、栗花落はとある“頼み事”をしていたのだ。

 蝸牛から早良討伐を命じられたその直後、朔夜に選択を迫られた栗花落は“母を救ってくれ”と願った。その願いに対して朔夜が提案した作戦について栗花落は語る。


「お母様を退治したようにみせかけて、この時まで川底で身を潜めてもらったの。その為に今まで捕らえていた死人たちは解放してもらったから、うまく目くらましができたわ」

「で、では! あの二人はこのことを…っ!?」

「えぇ、恐らく」


 実はいうと青葉は何も知らないが、この二人はそのことを知らないため領主の息子にまんまと嵌められたことに蝸牛は憤慨して顔を真っ赤にする。しかし身動き一つまともにとることのできないその状況を栗花落は愉快な笑みで見つめながら話を続けた。


「そして卯月殿が、わたくしの伝言をお母様に伝えてくれたおかげで、お母様のもとにお父様を誘い出すことができたのよ。ねぇ、お母様?」

「で、伝言…?」


 栗花落が言っているのは、朔夜が水中で早良の身体を捕らえて耳打ちした時のことである。あの時、朔夜は栗花落に言われた通りに、こう言ったのだ。


“――貴女の願いを叶えて差し上げます ” と。


 その言葉の真意を悟った早良はすぐに敵意を収め、朔夜の命じるがまま川底に身を潜めた。そのことを知らされた栗花落は早々に屋敷を発った朔夜たちの背中を見送ると、ついに計画を実行に移したのだった。

 栗花落の計画の全容を聞かされている間も徐々に沈み続ける身体を必死に藻掻きながら、蝸牛は娘の今後について叫んだ。


「っこんなことをして、ただで済むと思うなよ!? 今後のお前の人生は、誰よりも惨めなものとなるぞ!」

「…ご心配なく。お父様亡き後のことは、すべてわたくしがなんとかいたします故」

「私無しで、この地を管理できると、申すか!?」

「いいえ。もうこの地を治めるのは、わたくしたち一族ではありません」


 蝸牛は自身の死後の不安要素を示唆するも、栗花落は既に今後の身の振り方も視野に入れていたようで、冷静に自身の今後の人生設計について恐らくもう最期であろう父の顔を見ながら語った。


「お父様の死後、この地の所有権は領主様にお返ししようと思います。ですので、我々の一族が今後一切この地を管理することがありません」

「な、な、!?」

「わたくしのことは心配なさらず。お家が御取り潰しになられても、潔く尼になりますので。今後の余生は、お母様唯一人の供養の為に生きて参ります所存ですわ」

「そ、そんなことっ! わたしが、許すとでも――っ」


 一族の破滅を語る栗花落に憤慨の叫びを上げる蝸牛だったが、背後にぴったりとくっついた早良に不意に首を両手で掴まれた。細いながらも強い力で気道を圧迫された蝸牛が呼吸困難に陥っている姿を眺めながら、早良の冷たい唇が彼の耳に近付いて枯れた声で囁いた。


『さぁ、あなた。そろそろわたしのあいても、してくださいまし』

「ひっ」


 怯える蝸牛の視界の端に浮かぶ早良の顔は生前と大差ないほど美しかったが、その両眼の埋まっていたであろう真っ黒な空洞の奥に潜む得体の知れないものに対する恐怖は蝸牛の表情を更に歪めた。やがて硬直した蝸牛の首に腕を巻き付けた早良は、沈みゆくその男の身体にその身を委ねた。二人分の自重に従って沈んでいく現状で蝸牛は必死に栗花落に助けを求めて叫びを上げる。


「た、たすけ――っ!」


「――さようなら、お父様」


 必死の懇願も虚しく、身動きの取れない蝸牛は夜の闇に染まった川の底へと沈んでいった。最期に彼の頭部を飲み込み、とぷん、と波紋を立てた水面は、やがて何事もなかったかのように穏やかな水辺に戻った。

 静寂の水辺に一人残された栗花落はその場にしゃがみ込むと、水面を覗き込みながらそこに映った今にも泣きそうな自分の顔を見ながら呟いた。


「… だって、一つのものしか愛せないなら相応しくない、のでしょう。なら一つの“父性”を求めたわたくしも、一族に相応しくないもの」


 家族に飢えた一人の少女は、一粒の雨を流してのちにその場を立ち去ったのだった。





 その後、蝸牛の一族が御取り潰しになったことは言わずもがな。残った親族たちは財産を没収されて全員散り散りとなり、行方の知れている者は数少ない。うら若き一人娘がどこへ行ったのか、それは誰にもわからない。




 しかし風の噂によれば、とある尼寺にひっそりと暮らす若い尼のもとを月に一度、必ず訪れる男の姿が、あるとか、ないとか…。

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