第弐拾話 魔の棲む川〈四〉


 すべての準備は整った。そう告げた朔夜はその夜の内に決着をつけるため、青葉と共に再び小舟で漕ぎ出した。夜風一つない静かな辰巳川は波一つなく穏やかで、二人で漕がなければ小舟は動かないため、朔夜と青葉は左右に分かれて必死に漕いだ。櫂を動かしながら青葉は今回の算段について問う。


「おい。どうやって水の中の早良を引っ張り出すんだ?」

「引っ張り出さない。こっちから出向く」

「はぁ? 潜って戦うのかよ!?」


 いくら尸霊しれいでも無理だろう、と驚愕の声を上げる青葉に朔夜は余裕の笑みを見せて答える。


「心配するな。これでも龍神に仕える元兎君だ、水の扱いには慣れてる」


 話しながら来た道を振り返って屋敷から大分離れた距離まで着いたことを確認した朔夜は櫂を手放し、小舟の上に立った。青葉もここが終着地かと櫂を手放して自分の両の腰から下げている太刀の柄に触れてその存在を確認する。

 青葉が十歳の祝いの際に父・青林が名のある刀工に頭を下げて作ってもらった、二振りの太刀。それぞれに『比良八荒ひらはっこう』、『鳥曇とりぐもり』と銘の彫られた太刀を実戦で振るうのは初めてで、青葉は本心では少し緊張していた。何度か師範の涼風スズカゼと共に真剣で稽古をしたことがあるくらいで、その時も涼風に随分と手加減されていたことを思い出し、密かに恨み言を心中でぼやいた。

 朔夜はというと、船の上に立ったまま垂らした両袖から『氷月』と『水月』を覗かせ、二つの刃を指針代わりに水中深くに身を潜めている早良の気配を探っていた。くるくると水面に円を描くようにして動く二つの刃だったが、氷月がぴたりと動きを止めてそれに合わせて水月も動きを止めて氷月の傍に移動した。


「…


 朔夜が早良の居所を見つけたのと同時に、水面から無数の青白い腕が伸びて天を仰いだ。水中から這い出してきた無数の青白いは朔夜たちの小舟目掛けて徐々に襲い掛かってきた。その手が船に取り付く前に、朔夜は縁に立って青葉に別れを告げる。


「じゃあ行ってくる。少しの間、留守を頼む」

「あ、おい。無茶すんなよ!」


 それあくまでも六花の身体だからな! と強めに付け足した青葉に朔夜は承知しているという意味で微笑むと、その身一つで水中へと飛び込んでいった。その背中を見送り、留守を任された青葉は目の前の現状を直視して再度大きく溜め息をついた。


「…はぁ。さて、この場をどうやって切り抜けるか」


 青葉の眼下に広がるのは彼の乗る小舟に群がる動く死人たち。朔夜の計画の妨げになる危険のある彼等の足止めこそが、ここに残った青葉の役割。随分と朔夜に焚きつけられ、つい先程まではやる気に満ちていたが、いざ目の前にしてみれば些か無理難題を押し付けられたな、と頭痛がした。だがこのまま惚けていてもいずれ小舟は転覆してしまうため、青葉はようやく愛刀の柄を握る。


「――“疾風流しっぷうりゅう抜刀術 『鎌鼬かまいたち』”」


 柄を握る青葉はグッと腰を低く構え、敵を刃の範囲に収めたことを認めると、二振りの刀を目にも留まらぬ速さで抜刀した。その際に発生した風圧は刃のようになって刀身から放たれて青葉の目下の敵の四肢を容赦なく切り裂いた。切り刻まれた四肢は宙を飛びバシャバシャと水面に叩きつけられ、腐った四肢を失った死人たちの身体からはどろり、とした赤黒い液体が滲み出た。しかし当の刀身は二振りとも曇り一つないままで、青葉はそれらを再度鞘に収めるとホッと一息ついた。


「はぁ…、よかった。なんとか当たった」


 実のところ青葉がこの剣術を披露するのは今夜が初めて。今までは道場で師匠の技ばかりを見学しており、青葉の剣術のすべては師である“涼風”の見様見真似でしかない。そのため一応護身用として愛刀を下げてはいるものの、涼風本人から本格的に伝授されたことはない。故にぶっつけ本番で無事成功したことに、ここが敵地のど真ん中であることを暫し忘れてホッと胸を撫でおろした。


 青葉が我流で会得した剣術流派『疾風流しっぷうりゅう』は、代々青龍一族の当主が受け継いできた流派である。各領主たちは伝統的な武具は様々だが、代々その一族が受け継いできた流派というものがあり、その全てが武具と“霊力”を駆使したものであるのだ。大昔、かつての烏師と兎君と共に“龍神”を封じることに協力した各領主の先祖たちは、烏師より“霊力”を操る業を授けられたため、それを後世の子孫たちに伝え残してきた。それがいつしか領主たちが一番に信頼した臣下にそれを伝授し、彼等を師範として領主の嫡男にそれを指南したという。

 だが歴代の青龍の当主には、この流派を会得できない者もいたという。青葉の父・青林セイリンもその一人である。幼い頃から剣術の腕は天才肌だったが、何故か“霊力”の扱いについての才能はだったのだ。勿論剣術だけでも賢君として名を残した当主も歴代には何人かいるが、当の本人の気持ちは別。青葉は父がそのことで悩んでいたことを密かに知っていた。故に自分が涼風のを見て我流でできるようになったことは、未だに打ち明けられていない。

 ちなみに、涼風やその家族は皆『疾風流』を当然の如く完璧に伝授していたという。


「…うわ。まだまだ沸いてくる」


 そうこう考え事に耽っている内に、無傷だった死霊たたりが次々に群がってきていた。その腐乱した腕が船を掴んだ瞬間、青葉は生まれた時から大嫌いな水の中に落ちてしまうため、それだけは避けたい青葉は渋々柄を握る。


「――― 早く帰ってこいよ、朔夜、六花」



 ❖ ❖



 ぷく、ぷく、と最小限の気泡を漂わせながら真っ黒な着物の裾から伸びる両足を懸命に動かして、朔夜は川の底を目指して泳いでいる。時折水を掻く両腕の袖からはするりと伸びた神器の『水月』と『氷月』が懸命に朔夜の周囲の気配に気を配り、敵の接近を常に警戒している。しかし今のところ、死霊たたりは水上の青葉が気を引いているためか一体も見かけることなく、順調に進めている。

 だが、朔夜の息もそう長くは続かない。六花の身体を借りている朔夜はその身体の構造が“鬼”とほぼ同じであるため、生者の人間よりは長く呼吸を止めていられる。しかしあくまで今の朔夜は六花の身体を間借りしているため、あまり無理をすればその負荷は元に戻った六花の身にも降りかかる。そのため、あまり無茶をするわけにはいかない朔夜は内心焦りながら、川底に潜む怨念の元凶を探した。


『…いない、な』


 前回のように簡単に見つからないことに朔夜が痺れを切らし、いっそのこと闇雲にでも攻撃を仕掛けてみるか、と思案し始めたその瞬間。


 真っ暗な闇に覆われた川底から、その“闇”が朔夜に向かって伸びてきた。


『っ――!!』


 朔夜の手足に巻き付いたそれはよく見れば細く伸びて密集した髪の毛であり、朔夜はその時初めて川底に見えていた闇の正体がすべて“女の髪”であることに気づいた。まるで生き物のように朔夜の手足に絡んで離さないそれを敵と認識した氷月が瞬時に飛んできて、髪の毛の束を易々と切り裂いていく。

 水の中では普段のように自由に動けない朔夜の代わりに、水月は氷月が開いた道を通って川底に直進していき、何かにしっかりと巻き付いて朔夜に引け、と合図する。


『——掛かった!』


 川底で水月が目的の人物を捕らえたことを察した朔夜は、グッと腕を引くのと同時に伸びた赤い紐を収縮させて思い切り水月を引き上げた。勢いよく上がってくる水月の気配を察知したのか、川底を覆い隠していた長い髪の束は朔夜への攻撃をやめると、そそくさと赤い紐の周りの髪だけが避け始めた。視界の邪魔になっていた髪が消え、開けた道のその奥から引き上がってきて最初に朔夜の両目に映ったのは、“爪”。


『っ――わ!!』


 浮上する水月の力を利用して朔夜の前に突き出していた真っ黒くなった鋭く長い爪が朔夜の眼球に触れる寸前、全力の反射神経で上半身を捻ってなんとか避けることができた。眼球から逸れた爪は朔夜の右頬を掠め浅い傷口を開かせただけに留まったが、あの鋭利なものが万が一眼球に直撃していたら、と想像して身震いする朔夜を氷月が守るように刃を身構えた。

 不意打ちを避けられたその人物は水月の巻き付いた腕をだらりとさせて背を向けたまま、首を有り得ないほど反らして真っ黒に染まった両目で朔夜を睨みつけた。水中で漂う黒い髪の隙間から覗く口元は不気味に半月の形に笑みを浮かべている。よくよく目を凝らして見れば、人魚のように一尾の尾びれを覗かせている奇妙な下半身を隠している着物は随分とボロボロになっていたが、それが上等な物であることに気づいた朔夜は確信した。


 この女こそが、蝸牛の元妻で、栗花落の母親で、そして元凶の“鬼”の、“早良サワラ”だ。


 目的の彼女を見つけた朔夜の次に取るべき行動は、既に決まっていた。朔夜は水月を軽く引っ張ると早良の腕から離れるよう命じた。その命令に素直に従った水月が腕から離れた瞬間、それまで大人しくなっていた早良が水中で自在に方向転換して身を翻すと、水魚のように一尾のヒレになった下半身をバタつかせて朔夜に向かって突進してきた。その速度はもはや魚と大差なく、ヒレのないただの人間の身体の朔夜には避ける術はなかった。もとより、避けるつもりなどなかったのだ。


『——“蛇紋術式じゃもんじゅつしき 籠目かごめ”』


 朔夜が両腕を左右に広げて伸びた水月と氷月の赤い紐に自身の霊力を流し込めると、主人の意思を受け取った二つの刃はぐるりと旋回してお互いに複雑に編み込まれた赤い紐を解いて細い無数の糸になってそれらを絡ませ合って、まるで網のような形を作り上げると、向かってくる早良の前に立ち塞がった。

 既に最上まで上がった速度を落とすことのできなかった早良は待ち構えられた水虬みずちの網に見事に引っ掛かり、早良の身体が網に掛かったのを見計らって広がった網は彼女の身体を包み込むように囲み込んで動きを封じたのだ。

 身動きのとれなくなった早良が藻掻く姿を認めた朔夜は、すかさず網目の隙間から手を伸ばして彼女の青白い顎を掴んで強引に目線を合わせた。真っ黒に濁った瞳の奥から憎悪と怒りを滲ませる彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、朔夜は彼女の耳元に唇を寄せると、残った酸素を犠牲にして生の声で耳打ちした。その声量は早良にしか聞こえないほど微かで、とても短く簡潔的なその言葉を伝えると、それまで敵意を剥き出していた早良の表情が崩れて強張った身体は力を失った。


 早良から敵意を感じなくなったことでホッと胸を撫でおろして一瞬隙を見せた朔夜は、その時両側から伸ばされた早良の両手に気づくのが一瞬遅れた。


『っしまった――!』


 両手で頭を掴まれて不意打ちの攻撃をされると予想した朔夜がギュッと両目を閉じて身構えるも、真っ暗な視界で感じ取ったのは頬に感じる微かなぬくもりと、額に感じる柔らかで優しい感触。その感触に、朔夜は身に覚えがあった。その昔、まだ言葉もまともに話せないような幼少の時、乳母の揺籃ヨウランがよくしてくれた…、


『…?』


 状況を把握しようと朔夜がゆっくりと目を開けると、眼前には早良の青白い首元があり、視線だけで上へと辿れば早良はその唇で朔夜の額に優しく口付けしていた。感謝の意味の込められた口付けを終え、向かい合った早良は先程までの鬼のような形相を潜め、栗花落とよく似た美しい容貌で微笑むと一言呟いた。


【――ありがとう、坊や】


 雑音一つ混じっていない鈴を転がすような涼やかで儚げな声で告げると、朔夜から手を離してそのまま水の流れに身を任せて深く暗い川の底へと沈んでいった。早良の姿を見えなくなった頃、それまで月明かりの一筋もなかった水中に眩しいくらいの月光が差し込み、その光りの柱は水中に浮かぶ朔夜の姿を照らし出した。そして同時にその優しい月明かりに焼かれた死霊たたりたちが、次々に力を失ってただの動かぬ骸に戻ってそのまま川底へと沈んでいった。

 粉々に砕けて川底へ沈んでいく骸たちの姿を見上げながら、まるで水中に振る雪のようなその光景に目を奪われていると、突然それまですっかり忘れていた呼吸のことを思い出し、一気に息苦しくなって慌てて水面に向かって泳ぎ出した。酸素の足りない頭ではもはや水虬たちを使うという選択肢は出てこず、必死になって水を掻く朔夜の呼吸は既に限界で、ようやく見えた水面に手を伸ばして浮上しようとした、


 その手を水上から誰かが掴んで引き上げた。


「っおい! まさか死んでないだろうな!?」

「…… お前といっしょにするな、かなずち」

「もう一回沈むか?」


 慌てて引き上げたにも関わらず皮肉を吐かれて静かに憤慨する青葉に、朔夜は息絶え絶えにも笑みを浮かべてみせた。

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