第拾玖話 魔の棲む川〈三〉


 水中の奥深く水月の刃を繋ぐ赤い紐の先が“何者か”に掴まれ、朔夜の軽い身体が強く水中目掛けて引っ張られた。咄嗟にその力に抵抗して踏ん張るも、朔夜一人の抵抗力では足りず今にも投げ出されそうな身体を引き留めたのは、袖の下から出ていたもう一つの刃、氷月だった。朔夜の立っていた残骸に刃を深々と突き立てると、赤い紐の部分を手首に巻き付けて主の身体を支えた。しかし氷月の力を以てしても、朔夜の身体が水中に引きずり込まれていくのを止めることはできなかった。このままでは腕が引きちぎれると察した朔夜は氷月に向かって叫ぶ。


「っ駄目だ。一旦引け、氷月!!」


 朔夜の命令に素直に従って氷月が袖の中に引っ込むと、抵抗力を失った身体はそのまま水中深くへと沈んでいった。その光景を呆然と見ているだけの青葉は、一人になった残骸の上で朔夜の名前を叫んだ。


 引きずり込まれて漂う水中は不思議なほど澄んでおり、太陽の光が差し込んで明るい。しかし徐々に深い深い深淵へと落ちてゆき、頭上に輝く太陽の光すら届かない場所へと引き込まれていく。その水の流れにただ身を任せて溜めた息の心配だけをしながら、朔夜は水月の紐が続く深淵の先を見つめた。鬼たち彼等の嫌う太陽光の一切届かない川底の暗闇の先に身を潜めているであろう、“朔夜の敵”の姿を捜して両目を凝らしていると、魚の一匹も見えない暗闇の底から、白く伸びるが朔夜の頬を包んだ。


「――っ!?」


 謎の両手が頬を包むのと同時に、水月を引っ張っていた力が失われたことで朔夜はこの手が自分を水中に引きずり込んだ犯人であったことを察した。繊細な指使いで朔夜の頬を撫でる手はおよそ生きている人間のものではなく、血の気のない肌の色、骨ばった指の関節、鋭く光る鋭利な爪、それらのすべてがこの手の人物を“鬼である”と確証付けているが、相手からは不思議と敵意を感じ取れなかった。

 敵意のないその手の好きなように身を委ねていると、腕の伸びてきている暗闇の向こうからか細く、声が響いた。


【……… ドウしテ、ワタシでは、いけナいノ?】



 その言葉を朔夜の耳に残して、その鬼は再び暗闇の中へと沈んでいった。そしてその時ようやく、朔夜は自分の息が限界だったことに気づいて急いで水上へ浮上した。


 慌てて水面に顔を出して肺に大量の酸素を吸い込む朔夜の目の前に突然差し出されたのは、大きな大人の男性の手だった。


「――おい、もう一人いたぞ!」

「早く引き上げろ!」


「朔夜――!!」


 暗闇に慣れた視力が太陽光に眩んでいる中で飛び交う他人の声の中に、聞き慣れた朔夜を呼ぶ声の方に振り向いた。そこに浮かぶ小舟の上に立って必死に手を伸ばしてくる青葉の姿を捉え、朔夜はその手を取った。青葉の乗った船の上に上がり、呼吸の整った朔夜は周囲を見回して、今の状況を確認する。

 朔夜の乗った船の真横には別の小舟が漂い、少し離れた水面には先程まで足場にしていた屋形船の残骸が浮かんでいる。次に乗った船の上を見回し、そこに乗っている青葉と、見慣れない船頭の男が一人いた。


「…青葉、これはどういう状況だ?」

「個人で船頭をしている人達が、俺たちを助けてくれたんだ」

「そうですか、ありがとうございます」


 船頭から渇いた手拭いを受け取りながら朔夜が感謝の言葉をかければ、ガタイの良い中年の船頭は気さくに笑った。


「あぁ、別に大したことじゃないさ。よくあることだ」

「…そう、らしいですね」

「しかしこの川に落ちて無事だった人を見るのは、お前たちが初めてだ」


 船頭が言うようにこの川では度々事故が起こっているらしく、朔夜は川底で見た犯人の言葉を反芻しながら話の続きに耳を傾ける。


「だけどな、不思議なのさ。

「え。ちょっと待ってください、それはどういうことですか?」

「どうもこうも、この川でしょっちゅう転覆事故が起きているのは全部、蝸牛様の所有する船ばかりなのさ。不思議なことに」


 本心から不思議そうな顔をする船頭を見てハッとした朔夜は、今乗っている船の船底を慌てた様子で覗き込んだ。すると未だ水中の深くを漂っている死霊たたりの姿が無数にあるというのに、この二隻の船にだけは一切手出しをせず、黙って見つめるだけで留めていた。死霊彼等にとって、この二隻の船は標的からは外れているということを物語っていた。


「…船頭さん。良ければ後で、少しお話を聞かせていただいてもよろしいですか?」

「あ、あぁ? 構わないよ」

「おい。どういうことか説明しろよ」


 朔夜の思考にまったく付いていけない青葉は、置いてけぼりの状況に不満げな声を上げて説明を求めた。しかしその要求は完璧に無視された。


「…青葉。陸に戻ったらお前は蝸牛の屋敷に戻れ」

「え、俺一人で…?」

「なんだ。一人で帰れないほど子供じゃないだろ?」

「え、い、いや、まぁ…」


 歯切れが悪いながら青葉が肯定すれば、ならいいだろう、と言わんばかりに朔夜は帰り道を顎で指した。それ以降背中を向けたまま船頭の話に夢中の朔夜を睨みながら、青葉は大きく溜め息をついてボソッと呟いた。


「…俺の方が主人の設定、忘れてね?」


 しかしその問いは、朔夜の耳には届かず宙に消えた。



 ❖ ❖



 朔夜の言い付け通りに徒歩で蝸牛の屋敷に戻った青葉。その姿を見た蝸牛は驚いた様子で屋敷から飛び出してきた。船頭から手拭いをもらった青葉だったが、その髪の先は少し濡れており、蝸牛は急ぎ使用人に清潔な手拭いを用意させる。


「若君!? よくぞご無事でっ」

「あ、あぁ」

「濡れていらっしゃる。このままではお風邪を召されます! おい早く身体を拭いて差し上げろ!!」


 主人の怒号を恐れる使用人たちは、青い顔をしながら慌てて青葉の身体を拭い始める。そんな使用人たちを黙って下がらせると、青葉は蝸牛の前に立って朔夜のことを話す。


「蝸牛殿。我が従者の卯月ウヅキが、今例の事件について調べております。暫しの間、屋敷にて彼の者帰還を待ちましょう」


 蝸牛が頷くのを見届けると、青葉はくるりと方向転換して使用人たちに彼の娘の栗花落ツユリの居所を尋ねた。すると女中の一人が、恐らくお庭に、と答えたため、青葉は足早に紫陽花の咲き誇る庭に向かった。

 水を与えられて雨粒に濡れる幻想的な風景を作り出している色とりどりの紫陽花の咲き乱れる小道を抜けて、その先に佇む東屋の下でひとり静かに庭を眺める女の後ろ姿を見つけた青葉は、深呼吸の後でゆっくりと彼女に近付いて声を掛けようとする。しかし、既にその気配に気づいていた女の方から先に声を掛けてきた。


「――昨日の今日で、わたくしに何の御用かしら? ねぇ、若君」

「…その話はまた今度お願いしたいです。今は貴女にとっても、とても大事な話を」

「わたくしにとって?」

「はい。です」


 青葉が口にした言葉に、それまで背を向けたままで会話していた女――栗花落がようやく振り向いて、冷たい視線で睨みつけてきた。


「それは昨晩死んだ女のことかしら。わたくしは一度たりとも、あの女を“母親”などと思ったことはない」

「いいや。俺の従者が話したいと言っていたのは、だ。こう言えば、わかるか?」

「……何故それを」

「いや、実は俺も詳しくは聞いていない。後でさく…、卯月から直々に説明がある。だから貴女にも、屋敷で待機しておいてほしいそうだ」

「まぁ随分と、優秀な従者ですのね」


 昨晩朔夜に見事言い包められた栗花落の素直な関心の言葉に、青葉はまぁね、と肯定しつつ肩を竦める。同時に随分と苦労させられていることを察した栗花落は小さく笑うと、青葉の言う通りに屋敷の中へと共に戻った。


 それから一刻後、天上で燦々と輝いていた太陽も西の空に傾き始めた頃、朔夜は自信ありげな顔で堂々と屋敷に帰還した。いかにも収穫有り、といった顔で広間に青葉、蝸牛、栗花落の三人を集め、彼等の前でまるで推理を披露する探偵のように語り出した。


「――まず初めに蝸牛殿、貴方が我々に提示した情報にがあったことを詫びてもらいましょう」

「なんですと…?」

「貴方はあの川で事故が多発していると、そう告げた。それは事実だったけれども、一つだけ我々と貴方との間に理解の相違点がある」

「“相違点”とは、どういうことだ?」


 青葉が疑いの視線で蝸牛を見つめながら問えば、朔夜は微笑んで答えた。


「辰巳川で事故に遭っている船は全て、殿わけ。つまり例の敵の狙いは、蝸牛殿というわけだ」

「無差別なものじゃなかったわけか。だからあの船頭たちの船はまったく襲われなかったのか…!」

「ご明察。彼の妻ばかりが溺死するのも、すべては“呪い”だ」


 朔夜は三人の前で今までに手に入れた情報をもとに、一つの仮説を語り始める。


 数時間前に朔夜が船頭の男達から聞いた話によると、蝸牛には人生で四人の妻がいたという。その内の最初の妻、即ち一人娘の“栗花落”の実母の話である。その妻は栗花落がまだ九つの時に酔って川に溺れて死んだという。朔夜の予想では、その妻が鬼となって蝸牛を狙っている。

 その予想は概ね合っているのか、蝸牛はその妻のことを思い出して顔を真っ青にした。


「…まったくもってその通りです。最初の妻、栗花落の母であるその者の名は、“早良サワラ”と申します」


 蝸牛の話によると、彼女が嫁いできたのは今から二十年ほど前。川と船の管理を任されている名家の蝸牛に嫁いできた彼女もその婚家に相応しい令嬢だった。二十代の蝸牛が一目惚れするほどの美しい十代の娘で、若く美しい早良を蝸牛は格別に扱い、栗花落が産まれてからもそれは変わらなかった。そう、“変わらないこと”が蝸牛には問題だった。蝸牛は代々の家の血をしっかりと受け継いだ、正真正銘の『浮気者』であったのだ。

 気の多い蝸牛はすぐに美しいと噂の遊女に入れ込み、彼女を身請けして側室とした。そのことを良しとしなかったのは、勿論正室の早良。彼女は貴族の娘としての自尊心があり非常に嫉妬深かった。彼女は蝸牛が気に入った女に片っ端から嫉妬し、そのたびに原因である蝸牛は頭を悩ませていた。最終的には離縁も考えていたが、その頃に事件は起こった。


「――早良が宴の席で酒を飲みすぎ、泥酔状態で真夜中の川に飛び込んだのです」

「“自分”で?」

「……はい。さぞかし、無念だったでしょう。まだ九歳の栗花落を残して逝ったのですから」


 そう、亡き妻への思いを語る蝸牛は一見して悲しみを湛えているようだったが、その視線はあちらこちらを泳いでいた。その挙動の不審さを朔夜は見逃さなかったが、見なかったフリをして話を続ける。


「奥方の狙いは十中八九、蝸牛殿あなたでしょう」

「どうすればいい! 誠心誠意に彼女を弔えばいいのか!? 一体いくら必要だ!!」

「…蝸牛殿、お金の問題でも貴方の心の持ちようの問題でもない。今更何をしたところで、彼女は止まらない。彼女は既に一つの感情に支配された鬼だ」


 鬼という存在をまったく知らない蝸牛に現実を突きつければ彼は恐怖に押し黙り、その隣に座っていた栗花落がそれまで一切動かなかった表情を歪ませ、悲しそうな顔で救済を求めるような眼差しで朔夜を見た。


「…で、どうするつもりなんだ?」

「それは蝸牛殿が決めることですよ、“若君”」


 朔夜と青葉両名の視線が一点に蝸牛を凝視し、彼の返答を待った。自分の身が一番に危ういことにようやく気付いた蝸牛は慌てた様子で叫んだ。


「ど、どんな手を使っても構いません! どうか、どうにかして、彼女を始末してください!!」


「――承知いたしました、我々にお任せを」



 ❖ ❖



「――わたくし個人に話とは、なんでしょうか?」


 夕焼けを覆い隠す曇天の空の下、どんよりとした風景を彩る紫陽花の中に凛と立つ栗花落が、同じく紫陽花の中で微笑む卯月――もとい朔夜にそう問いかける。

 大広間での推理劇を終えて、朔夜は一人こっそりと栗花落を庭へと呼び出していた。その理由は、大広間での彼女の眼差しの理由わけを聞くためでもあり、“とある選択”を彼女に突きつけるためでもあった。


「実は今から貴女に、非常に酷な選択を迫ることになります」

「酷な選択?」

「えぇ。お父上の前ではああ言いましたが、実のところ僕も若君も迷っています。早良殿を、このまま退治するべきか」


 今の置かれた状況に困り気味に眉尻を下げる朔夜を栗花落は驚いた様子で一瞬凝視した後、眉間に深く皺が寄るほど眉を吊り上げてギリ、と奥歯を噛み締めて栗花落が初めて淑女を捨てて吠えた。


「ッ――いいわけないじゃない! これ以上お母様が蝸牛あの男のせいで苦しむなんて、許さない!!」


 それまで冷静沈着な令嬢の仮面を決して剥がすことのなかった栗花落が、遂に本心から自分の父親を罵倒し、亡き肉親に対する想いを爆発するようにして吐き出した。ようやく引き出した栗花落の本心を聞いた朔夜はしてやったり、といった笑みを浮かべて彼女に問う。


「ならば選べ。早良をこのまま奴の思い通りに始末するか。それとも、

「…母の、願い?」

「えぇ。どんなものかは想像に難くないが、それを叶えれば恐らくお父上の方の命の保証はし兼ねます」

「…そうでしょうね。母は父をさぞかし恨んでいるでしょう。あの日の夜、


 栗花落の言葉を聞いて朔夜はやはり、と心の中で納得した。


 早良の死んだあの日の夜、蝸牛は彼女が自ら川に落ちて死んだと語ったが、実はその光景を密かに目撃していた人物が一人だけいたのだ。それが、当時九歳の栗花落だった。真夜中に母のぬくもりを求めて屋敷を徘徊していた栗花落は、父親が泥酔して意識が混濁した母を抱えて川へ向かうのを目撃した。栗花落はその後を追いかけながら、虫の羽音一つしない静寂の闇の中で二人の囁き程の会話に耳をそばだてる。


『…だんな様? どこへ行かれるのですか?』

『…散歩だよ。偶には二人だけで散歩をしたくなったんだ』

『まぁ嬉しい…。さいきんの旦那様ときたら、あの妾にご執心で、わたしの相手をしてくださないんですもの…』

『……』


『ねぇ、旦那さま。どうしてわたしひとりでは、駄目なの…?』


『それは…』

『わたしとあの女たちとの間に、いったいどんな差があるのです? 何故、わたしではいけないの…?』


『——それはね、早良』

『——お前がわたししか、愛さないからだ』


『え―――』


 その時、父は抱えていた母を、手放した。

 ドボン、と水しぶきを上げて川に落ちた母はまだ泥酔のせいでうまく泳ぐことができず、水分を吸って重くなった着物が徐々に身体を川底へと引き摺り落としていく。その様を冷酷に見下ろす父の背中の恐ろしさに釘付けになった幼い栗花落の耳に、母への最期の父の言葉が水音と一緒に流れ込んでくる。


『早良。私たちの一族は代々、“愛多き一族”なのだよ。私の祖父はね、生前に二十人もの側室を囲っていた。それでも祖母は、その祖父を責めることなく、側室の女たちにも分け隔てなく接した。それこそが、この家の正室に相応しい“資質”なのだよ』


『一つの者しか愛せないお前には、相応しくない』


 母がその言葉を聞いているのかはわからないまま、蝸牛は彼女を殺す理由を述べると、未だもがき苦しむ早良を放って踵を返した。栗花落はこちらへ向かってくる父から身を隠し、去って行くのを静かに待った。

 やがて父の足音が過ぎ去ったのを聞き、栗花落は物陰から立ち上がって川辺に駆け寄る。未だ這い上がろうともがく母に栗花落は必死に小さな手を伸ばして母を呼んだ。


『おかあさんっ早く手をっ』

『っ…! ………』


 父に気づかれないように母に呼びかける栗花落の姿を捉えた早良は、初めはその手を取ろうと腕を伸ばしたが、何を思ったのか心変わりをしてその腕を静かに引っ込めて、水面に浮かぶ顔は最期に栗花落に向かって、優しく母親らしい笑みを浮かべたまま沈んでいった。



 栗花落の心に焼き付いて離れない母の最期の笑みは、父への憎悪を日に日に募らせて、娘の父を見つめる眼差しを憎しみ一色へと変貌させた。あの夜も、父の言い付けで青葉の寝所に赴いたが決してそれは父の為などではなく、父よりも権力を持って母の復讐を行うためだった。


 そんな栗花落の迷いを感じ取った朔夜は今一度、彼女に問う。


「栗花落殿、今一度お尋ねいたします。貴女は御母上を“救いたい”ですか? それとも、そのまま“消し去りたい”ですか?」


「……」


 そして今、その母の為に自分が何をするべきか、栗花落は決心する。


「――卯月殿。どうか母を、


「…その願い、承りました」

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