第拾捌話 魔の棲む川〈二〉


 ……。


 ……ぴちゃ、


 …………ぴちゃ、ぴちゃ、



 今夜もまた、耳元で耳障りな水音が聞こえてくる。床板から少し上のところから滴り落ちてくる水音は徐々に枕元のすぐ側まで近づいてくる。この音に毎晩悩まされているのは屋敷の主、蝸牛カギュウだ。この音のせいで毎晩寝不足で、やっと眠りにつけたとしても、その音は彼の夢の中にまで入り込んできてしまう。

 男はその水音を発する正体をよく知っていたが、同時に決して思い出したくないものでもあった。それは昔、男のすぐ真横に立っていて横に寄り添ってくれることで何度安堵したことだろうか。しかしいつしかその存在は、彼の『自由』を妨げるものになってしまい、そしてその我慢が限界に達した際に彼は“その者”を手放した。


 しかしどれだけ手放しても、どれだけ忘れようとも、はどこまでも追ってくる。


 つい数刻前に娘の栗花落から伝えられた、“作戦失敗”の報告。目論見が外れた蝸牛は酷く落ち込み、毎晩床を共にしている妻とも添い寝する気になれず、そのまま一人で床に着いた。しかしそんな彼の心に追い打ちをかけるかのように響く水音で眠れぬまま空は白んできた頃、蝸牛の寝室に向かってドタドタと大きな足音を立てながら家臣の一人が駆け込んできた。


「――蝸牛カギュウ様! 大変でございます!!」


 家臣が明朝にもたらした報告は勿論、吉報ではなかった。



 いつの間にか止んだ水音は、蝸牛の寝室を離れて人知れず廊下を彷徨い、やがて屋敷の一番奥の座敷で未だ夢の中にいる“栗花落ツユリ”の部屋へと入り込んだ。だがその音は先程までの騒ぎ立てるような様子は一切なく、まるで眠っている赤子を見守るように静かに栗花落の枕元に佇んでいた。彼女の枕元でぼんやりと浮かび上がったそれは徐々に人の形へと変わっていき、真っ黒な人影になったそれは栗花落の顔を覗き込むようにしゃがみ込むと、眠る彼女の額を優しく指先で撫でた。そこに温度はないが、微かな存在感に気づいたのか栗花落は閉じられた両の瞼をゆっくりと開き、枕元から自分を覗き込む存在を黙って見つめた。傍から見れば異様なその姿を怖がる様子もなく、ジッとその人影の顔の部分を見つめる栗花落は寝起きの乾いた唇を微かに開いて、掠れた声で人影に挨拶をした。


「… おはようございます」


 栗花落の朝の挨拶に人影は返事ができるわけもなく、代わりに顔の部分から一滴ひとしずくの雨を降らせた後、障子の隙間から差し込む朝日の中に融けて消えていった。

 そこに人影のいた痕跡は一つもなかったが、唯一残された頬の一滴を指先で掬っては、名残惜しそうに指先を丸めて握り込む。


 冷たいはずの雫は、何故か少しだけ温かった。



 ❖ ❖



 瞼越しに感じる日光の熱と微かに聞こえる雀たちの囀りを合図に、ゆっくりと瞼を持ち上げた朔夜は欠伸を噛み殺しながら寝心地の良い布団から上半身を起こした。起き抜けのその動きはまだ気だるげで、徐々に重さを取り戻そうとする瞼を擦りながら取り去れない眠気と戦いながら唸る朔夜を、横の布団の上に身を投げ出したままの青葉がジッと観察していた。その興味津々な視線を鬱陶しいそうにしながら朔夜は一言「何?」と極端な質問をする。それに対して青葉はあっけらかんと答える。


「…いや、ここまで無防備なお前も珍しいから興味があるだけ」


「別に特別面白いものでもないでしょう」

「――それに、お前こそもっと寝汚いと思ってたよ」


 朔夜の的外れな思い込みに青葉は心外な、と頬を膨らませる。


「失礼な。俺はこれでも領主の息子なんだ。これでも、毎朝早朝に起きて城の中の道場の掃除をしてたんだ」

「ほぉ、流石は武家の息子。僕の幼少期では考えられないな」

「そういうお前は思ったより寝起きが悪いな」

「まぁね。昔は毎日律儀に起こしにきてくれる臣下がいたからね」


 大あくびを披露しながら遠く懐かしい過去に、自分を毎日生真面目な顔で起こしに来てくれていた忠臣を思い出して表情を微かに綻ばせた。すっかり目が覚めた朔夜は身支度の用意を始めようと寝間着の合わせに手を掛けようしたが、背中に刺さる青葉の視線を睨み返した。


「…あのさ、青葉。今は僕の肉体になってるけど、一応“六花の身体年頃の少女”なんだから、気を遣ってもらえるかな?」

「――っ悪い!!」


 朔夜の指摘にギョッと目を剥いた青葉は慌てて布団をすっぽり被って隠れた。そういう所は思春期特有だな、と揶揄うように笑った朔夜はこれで気兼ねなく寝間着を脱ぎ去った。


 二人が身支度を整え終えた頃、見計らったかのように屋敷の使用人から朝食の時間を告げられ、使用人に案内されて宴会場へと向かった。その道中屋敷内にて他に使用人を見かけないことを不審に思いつつ、二人が宴会場に到着するとそこにいるであろうと予想した家主の姿はなく、用意された五人分の膳の前には娘の栗花落ツユリしか着席していなかった。


「…蝸牛殿は、まだ就寝中ですか?」

「いいえ。お父様でしたら、恐らく“川”に」

「“川”…?」


 栗花落の言っている意味のわからない青葉が首を傾げていると、昨晩のこともあってか冷たい態度を見せる栗花落は小さく舌打ちをして女中を呼びつけ、蝸牛の膳の隣に用意された彼の妻の膳を指さした。


「そこのは下げて頂戴。

「え、でも、それは…」


 お母様の分では? と青葉が尋ねようとしたのを遮り、栗花落が珍しく大声で喚いた。


「――っもうあの女はいないのよ! !!」


 二人がその言葉の意味を知るのは、どんよりとした空気の中で朝食を平らげた後だった。



 女中に連れられて御成の間の座敷に通された二人は上段に座ると、下段で既に二人を待っていた蝸牛が随分と大量の汗を流していた。明らかに異常な蝸牛の様子に、青葉は何か嫌な予感を察知し、一方で朔夜は何か面白い事になりそうだとほくそ笑んだ。

 二人の様子など気にしている余裕のない蝸牛は、しどろもどろになりながら早朝に起きた『とある出来事』について語った。


「…実は、今朝早くに私の妻が川辺で発見されまして。その…、“遺体”で」

「い、遺体?!」

「…ほぉ?」


 蝸牛の妻が亡くなっていたことを栗花落は知っており、故に朝餉の席で彼女の膳を下げさせたことに対して合点がいった。突然の知らせに驚く青葉を余所に、朔夜は冷静に彼の話を聞いて分析する。


「…死因は、溺死ですか?」

「は、はい。何を思ったのか、深夜に川辺を歩いてうっかり足を滑らせたようです」

「成程。ところで蝸牛殿は、あまり悲しんでおられないようですね。もしかして、?」


 突然妻を亡くしたにしては甚く落ち着いた様子の蝸牛に少し揺さぶりをかけてみた朔夜だったが、どうやら図星だったようで目の前の肥えた男の顔色はみるみるうちに青くなっていった。それを面白そうに眺める朔夜は青葉を一瞥して彼を盾に話を進める。


「…蝸牛殿、私と若君は先を急ぐ身です。本日は一刻も早くここを発ちたいのですが、まだ何か用件があるのではないのですか?」

「若君はとてもので、蝸牛殿の御用件を是非聞きたいと、仰せです」

「…は?」

「ほ、本当でございますか!?」


 朔夜からの言葉を鵜呑みにした蝸牛は興奮気味に顔を上げると、少々食い気味に駆け寄ってきて青葉の両手を握った。鼻先が接触する寸前までの距離に青葉が引き気味になれば、その様子を朔夜は楽しそうに見つめる。成り行きではあるがここまで期待させて裏切るのは青葉の良心が些か痛むため、仕方なく観念して蝸牛の話を聞くこととなる。


「…では、話を聞こう」

「はい、はい!」


 まずは下がれ、と青葉が手を払い除ければ、蝸牛は元の位置に座り直して話を始める。


「この辰巳川では近頃、溺死による事故が多発しておりまして。それと同時に、船の転覆事故も増えております」

「あの丈夫そうな船が、ですか」

「はい。このことは既にお父様であられる領主様にお伝えしてあるのですが、その原因に確固たる確証がないため、本格的な調査には至っておりません」


 青林の政務には一切口出しを許されなかった青葉には全てが初耳の情報であり、まさかそんなことになっていたとは、と驚愕する。一方で朔夜は何かを突然閃いて、蝸牛の方から見えない左手で青葉の脇腹を突いて振り向かせた。


「…なんだよ」

「青葉。これからちょっと突拍子のないことを言うけど、僕に口裏を合わせて」

「え、え、なに」


 朔夜に突然小声で耳打ちされた青葉は何がなんだかわからないまま、目の前でとある提案が蝸牛に持ち掛けられるのを黙って見届けることになる。


「…蝸牛殿。ここで一つ、若君からご提案が」

「ご提案、なんですかな?」

「蝸牛殿の話によればこのままでは、私達も無事に陵光領に渡ることができません。そこで若君が直々に、調!!」

「な…っ!?」

「なんと!」


 よろしいのですか!? と食い気味に聞いてくる蝸牛に縋るような視線を向けられ、青葉は視線を泳がせながら返答を必死で模索する。元々正義感が強く、困っている人を見過ごすことのできない性格の青葉にこの状況で“断る”という選択肢はないに等しく、面倒事に巻き込まれたくないという気持ちとせめぎ合いながらも、青葉の口から絞り出すようにして零れた返答は…。


「ま、任せておけ…っ」



 ❖ ❖



 その言葉を何度も何度も反芻しながら、永遠と後悔し続ける青葉を横目に朔夜は二人を乗せて浮かぶ船の先を見据える。二人の乗った船が少しの波でガタッと揺れるたびに肩を小刻みに跳ねさせる青葉はついに抑えていた怒りを朔夜の背中に向けて吐き出した。


「ッあ――!! なんでこんなことになったんだ!?」

「青葉うるさい。男だろ? 腹を括れ」

「はぁ!? 元はといえば、お前が発端だろ! 俺はもっと穏便に陵光領に渡るつもりだったんだ!!」


 青葉の渾身の叫びに反応するように立った波がそれまでで一番大きく船を揺らし、船上で立ち上がっていた青葉はヒィ、と息を飲んでその場に蹲った。どうやら船に慣れない青葉は蹲ったまま未だ小言を繰り返していたが、朔夜にはどこ吹く風。


 一時間前、蝸牛の依頼を受けた二人は彼から小さな屋形船を借り受けて早速川へ向かった。蝸牛の話では、時間帯関係なく事故は起きているらしいので、夜を待たなくても原因を突き止められるだろうということで、朔夜は嬉々として船に乗り込んだ。


 そして今に至る。


 船首に近い場所に堂々と立つ朔夜は船の揺れなど一向に気にする様子はなく、それどころか身を乗り出して川の中を覗き込んでいる。一見なんの変哲もないただの川の水だが、よく見なければ気づけない“淀み”に朔夜だけが気づいていた。水中を漂う海藻のように度々現れる黒い影に目を凝らしていると、ようやく波が穏やかになって一息ついた青葉が今回の事故について朔夜の見解を聞いた。


「はぁ…。ところで、朔夜はこの転覆事故が“鬼の仕業”だと思ってるのか?」

「まぁ概ねそうかな。ここは川幅はあるけど、そうそう大きな魚が迷い込むことはないと思うし、何よりこの事故や溺死死体からは何かしらの『怨念』を感じる」


 そう言って朔夜は船に乗り込む前に対面した蝸牛の妻の亡骸を思い出して自分なりの、この事件の推理を語る。青葉も同じように頭の中で女の亡骸を思い出してみるが、すぐに振り払って消した。二人で対面した女の顔は、昨晩チラリと見た夫に従順な娘ほど年若い美貌を見事なまでに失い、最期に何を見たのか恐怖の残留した両目が限界まで見開き、誰かに助けを求めたのか将又はたまた絶叫を上げたのかは定かではないが、口が大きく開かれてその端は少々切れて血が滲んでいた。そしてなにより恐ろしいと感じたのは、女のはだけた首元にくっきりと残された“手形”である。青紫色に変色したその手形はよくよく観察すれば、誰かが女の首を両手を締めた確実な跡であった。

 そんな壮絶なものを生まれて初めて目の当たりにした青葉はその時、咄嗟に草葉の陰で若干吐いたのは墓場まで持っていくべき秘密の一つとなった。あんなものをまじまじと観察できる朔夜の感覚は、どこか他と外れているのだろうと青葉は眉尻を下げた。


「あー…で、その『怨念』ってのはどういうことなんだ?」

「彼女の命を奪った箇所から漂っていたもののことだよ。あぁいう箇所には有機物であろうと無機物であろうと、何かしらの『思念』が残るものなんだ」

「そんなもの、あったか?」

「…あぁ、青葉には見えなかったか」


 お前は死んでないしな、と小さく付け足した朔夜の声がどこか寂しそうで、青葉はその時朔夜が一度死んでいることを再確認した。人が生まれてから一度しか体験することのできない“死”を体験して戻ってきた稀有な朔夜は、やはり尊敬の念を抱くべきなのだと青葉が思い始めていた、その時。


「――

「は…?」


 朔夜が声を上げて船のへりに掴まると同時に、二人を乗せた小振りな船が波一つない静かな水面の上で大きく揺れた。グラグラと大きく波を立てて揺れる船の上で尻餅を着いた青葉は、必死にへりにしがみ付きながら船底を覗き込んで原因を探る。そこで見たのは、予想だにしない光景だった。

 二人の船の底に張り付いていたのは、黒い海藻―――いや、だ。海藻のように漂う髪が水中を埋め尽くし、その毛の隙間から青白く血の通っていない指先が何本も這い出てきて、船底を思いっきり叩いていたのだ。最初の何度かは規律よく均等に船底を叩いていた無数の手は統一性を失い、各々の律動リズムで船底を叩き始め、船の揺れは更に強まった。


「な、なんだよこれは!?」

「“死霊たたり”だよ。鬼に殺されて、その鬼の怨念に引きずられて意のままに動く、“鬼にさえなり切れない魂”の総称。しかしこれは、思ったより多いな」

「た、“たたり”? 初耳だぞ」

「余程強い鬼じゃないとできないし、鬼自体にその意思がなければやらないからだ」


 落ち着いた様子で青葉に説明する朔夜だが、自身も目の当たりにするのは初めてで内心驚いていた。それをおくびにも出さず、冷静に船底へと集まってくる無数の死霊たたりを観察し、それらを操っている“大本おおもと”を探した。

 しかしそんな猶予はなく、水中から強い力で叩かれた船底は遂に穴が開き、水の吹き出た穴から青白い手で這い出してきた。硬直した指をコキコキとぎこちなく動かしながら、船上の二人の生気ある肉体を探して動き回っている。その腕から必死に逃げながら船のへりにへばり付く青葉は、穴から噴き出す川の水によって徐々に船が沈みかけていることに表情が蒼白になっていった。


「お、おい! このままじゃ転覆するぞ!」

「…じゃあいっそ、

「………へ?」


 前言撤回。朔夜こいつはやっぱり血も涙もない奴だ。

 ――と、青葉は心の中の自分にそう告げた。


 怖がっている青葉の姿を見て愉快に微笑むと、沈みかけた船の右側に立って縁に足をかけて思いっきり踏みつけた。右側に寄った力は船を大きく傾かせて、未だ縁から手を離せずにいる青葉と共に、川の真ん中で見事にひっくり返ってしまった。船底を天空へと晒した屋形船は、早々に死霊たたりの群れによって半壊させられ、その残骸が水面に浮かんだ。

 その中の一番大きな残骸の上に、一時羽根を休める鳥が如く降り立ったのは、黒衣をまとった朔夜と『氷月ひょうげつ』に身体を絡めとられた蒼白顔の青葉である。一度川に落ちて溺れる寸前の青葉をどさくさ紛れに拾った朔夜は、びしょ濡れの青葉を傍らに浮いている別の残骸の上に放り出すと、呆れた眼差しで見つめた。


「…お前、泳げないのなら先に言え」

「ば、馬鹿を言うな! お、泳げないわけないだろう!?」

「先頃の沈んでいく様子を見れば一目瞭然だろう。下らない見栄を張るな」


 水上で青葉が役に立たないことを察し、朔夜は両袖から『氷月ひょうげつ』と『水月すいげつ』を引き出してその刃で足元に群がる死人たちを薙ぎ払い始める。死後操られるだけの死者たちの身体は脆く、他に攻撃手段を持たないために二対の刃が少し触れただけで腐った死者の四肢は簡単にバラバラとなってしまう。水月が首筋を横切れば腐蝕した首が胴体から零れ落ち、氷月が伸ばされた手首を横切れば血の気のない細い手は腕と離れ離れになっていく。もはや血液の通わない肉体はいくら切り刻まれたところで水面を赤く染めることもなく、ただただ茶色く腐蝕した細切れの肉体がプカプカと浮き沈みを繰り返すだけであった。


 数分後、粗方片付いた朔夜は水面に浮かぶ四肢を水月をかき分けながら、水中のその奥底を探る。本来の用途とはかけ離れたその作業に不満を抱いているのを示すように、水月の動きには若干抵抗があり、朔夜は申し訳なさそうに眉尻を下げて苦笑する。


「ごめんね、水月。ちょっと我慢して」


 その謝罪を受けて少し機嫌を直した水月は素直に水中を探索するも、目ぼしいものは引っ掛からない。これほどの死霊たたりを操るほどの鬼の気配を水月が見つけられないなんて、と朔夜が疑問に抱いた瞬間。


 ぐいっ、と“何か”に水月を引っ張られた。

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