第拾漆話 魔の棲む川〈一〉

 角都を出て約三日後。鬱蒼とした森を抜けた三人は森の出口付近の小川で一時的な休息をとっていた。



 背後の奥の方で跳ねる水音が聞こえてくるのに耳を傾けながら、“青龍”の若者——青葉アオバは目の前の岩の上に置かれた一つの髑髏しゃれこうべと相対していた。暫しの沈黙の後、最初に語り出したのは真面目な表情を浮かべた青葉だった。


「…さて、ここからが問題だ。お前の意見を聞こう、朔夜サクヤ

「朔夜、だろ。年長者には礼儀をもって接しなよ」

「何言ってんだ。お前だって同じ十五歳だろ」

「死んでた年数も入れれば、僕の方が年上だ。ほら敬え」

「お断りだ!」


 人里離れた森の中でどうでもいい話題で口論している二人だったが、当初の論点とズレてると気づいた青葉は頭をかぶり振って瞬時に切り替えて本題に話を戻す。


「って、違う。そんなことより、ここからどうやって“陵光領りょうこうりょう”に入るか、真剣に考えなければ…」

「どうやってって、船に乗るしかないだろう? なにせ陵光領は他の領地と違って唯一、領境りょうざかいが“川”に隔てられているのだからな」

「やっぱり知ってたか…」

「見くびるなよ。元兎君として、この地で僕が知らないことはない」


 生前、陰陽国の主君として英才教育を受けてきた朔夜が得意気に自分の知識を披露し始める。

 聖地の南方の“朱雀一族”が治める『陵光領』は聖地の一部であるが、聖地を両断するように流れる川によって他の領地から分断されているのだ。聖地において最大の川『辰巳川たつみがわ』は常に流れが速く誰もが知る暴れ川であり、故に人が安心して渡れる橋を架けることができないため、南方の領地に渡る手段はたった一つしかない、それは『船』だ。しかし船といってもただの小舟では暴れ川を無事に渡ることは難しく、安心安全に渡るにはやはり大型の船に乗るより他ない。だがそこに、青葉の“最大の問題点”があった。


「…さて、青葉。一体何がそんなに気がかりなんだ?」

「あぁ。実は辰巳川の船着き場と大型の船を管理している男は、俺と顔見知りなんだよ」

「あぁ…、成程。その男にどう言い訳するか、頭を抱えているわけだな」


 実際に朔夜の目の前で頭を抱えている青葉は、この問題をどう処理するかに頭を悩ませて大きく溜め息をついた。折角母の陽炎カゲロウが青葉たちを密かに逃がしてくれたというのに、ここで見つかって噂にでもなればいずれ父の青林セイリンの耳に入ってしまう。青林が既に六花たちの追跡をしていないことを知らない青葉は、なんとかこの場を穏便に切り抜けたいと願っていた。だがここで邪魔をするのは自身の“青龍の嫡男”という立場であり、どうやっても隠密に行動することは不可能だった。


「あぁ! 一体どうしたら…!?」

「…はぁ」


 背後では当初より恐らく一目惚れしている六花が水浴びしているというのにそれに一切目もくれず、思わず吠える青葉の姿を気の毒に思った朔夜は、仕方なく重い腰を上げてとある提案を青葉に持ち掛ける。


「仕方ない。青葉、一ついいか?」

「…何?」


「――なんの話?」


 顔を突き合わせる二人の陰から出てきた、まだ濡れた白髪から雫を滴らせた六花がこてん、と首を傾げた。染め粉の用意のない六花の白髪は嫌というほど悪目立ちしてしまうため、これも三人が船に乗るのを妨げる原因の一つだった。しかし当の本人はそんなこと知る由もなく、無防備にその髪をなびかせている。

 その見慣れない姿に青葉がほんのりと頬を染めるのを横目に、朔夜は話をまったく聞いていなかった六花にも自身の提案を聞かせた。


「丁度いい、六花も聞いてくれ。六花の協力が何よりも不可欠だからね」

「…?」





 暴れ川の辰巳川の度々の氾濫の被害を防ぐために敷かれた堤防から少し離れた場所に建てられた邸宅は、この川の横断する船を管理しながら門番の役割を果たしている豪族の当主“蝸牛カギュウ”の御所であり、彼が金に物を言わせて作り上げた庭園は先々代の好んだ色とりどりの紫陽花が咲き誇り、通称『四葩園よひらえん』と呼ばれている。先々代の頃から贅の限りを尽くした暮らしが目立ち始めた一家は現当主の蝸牛になってからその贅沢三昧は更に過激化し、家人に命じて改築させた四葩園の茶室は、なんと内部の全てに金箔が張られている有様だという。

 そんな贅沢三昧と共に増える贅肉だらけの男――蝸牛カギュウは、屋敷の正門に突然現れた少年の姿に脂汗を吹き出しながらあんぐりと口を開いた。


「こ、これはこれは、若君!?」

「や、やぁ、蝸牛殿。久し振りですね…」


 心底驚いた様子の蝸牛を目の前に、精一杯に取り繕った笑みを引きつらせながら青葉が挨拶をすると、突然の領主の息子の登場に蝸牛は我に返って慌てて訪問を歓迎する。


「よ、ようこそお越しくださいました! いやぁ、本日お越しになるとは聞いておらず、失礼をいたしました…っ」

「いや、突然すまない。実は陵光領に渡りたくてな、貴方の船を一隻お借りしたい」

「ぜ、是非とも! 一番乗り心地の良いものをご用意させていただきますとも!」


 しかしながら、と少々渋る様子で蝸牛は続ける。


「本日は日も落ちてきましたので、出航は明日にいたしましょう。今夜は是非、我が屋敷にお泊りください!」

「…あぁ、世話になる」


 快く承諾した青葉にニッコリと胡散臭い笑みを貼り付けた蝸牛は側仕えの男に「急ぎ宴の支度を」と大声で命令し、自らで青葉を屋敷内に招き入れる。その際、青葉の背後でずっと控えていた無口な人物の姿をようやく捉え、はて、と首を捻る。


「若君、こちらの方は?」

「あ、えっと、こいつは俺の従者の…」


「――初めまして。若君の護衛役の、“卯月ウヅキ”と申します」


 そう名乗ってお辞儀をしたのは、澄んだ碧眼を細めて美しく微笑む、“朔夜”だった。



 ❖ ❖



 朔夜が提案した作戦は、六花との入れ替わりで相手の目を欺こうというものだった。身体を持たない朔夜が六花を守る時のみに使用される『縁ノ緒えにしのお』は、入れ替わればその容姿や身長さえも生前の朔夜そのままに変化してしまうため、その性質を利用しようというのだ。幸い、有名人の朔夜の顔をまともに知る者はこの場にはおらず、剥き出しの朔夜の素顔を見ても誰一人として声を上げる者はいなかった。むしろ、美少女かと見紛うほど中性的な朔夜の容貌は周囲の人々の視線を一瞬で釘付けにしたことで、二人は作戦がうまくいったことに心の中で安堵した。

 一見して女だと思って見惚れていた蝸牛だったが、声を聞いてようやく男だと気づいて我に返った。


「そ、そうですか。護衛は、卯月殿おひとりなのですか?」

「はい。本日のことは内密のことなので」

「然様ですか。ままっ、積もる話は食事でも召し上がりながら」

「はい。お言葉に甘えさせていただきます」


 見たことのない完全なる社交辞令な朔夜、もとい“卯月”の笑みに、青葉は必死に噴き出しそうな笑いを堪えた。それでも両肩が震えるのは止められず、悶絶する青葉に気づいた朔夜は前を歩く蝸牛から距離をとって後ろに下がると、青葉の横に並んで小声で注意する。


「…青葉、間違っても“ぼろ”を出すなよ?」

「わかってるよ。でもお前の完璧な演技を見て、笑うなってほうが無理だ」

「…作り笑いは昔から得意なんだ」


 任せといて、と自慢げに笑う朔夜に青葉は密かに苦笑した。朔夜も顔を少し綻ばせながら遠くなってしまった蝸牛の背中を追って、無限に咲き誇る紫陽花の中を進んでいく。その途中、色とりどりの紫陽花の中に佇む人影を一つ視界の端に捉え、ふと視線を正面から逸らしてその影を見つめた。訝し気な朔夜の視線に気づいた人影はやがてゆっくりと振り向き、青紫色の二つの瞳が朔夜の碧眼と交わった。濡れているようにしっとりとした墨色の長い癖毛の隙間から覗く青紫色の瞳はまるで、取り囲むように咲いている紫陽花のようで、何をするわけでもなくただ佇む少女のその姿はまさしく幽霊のようであった。

 会話のない見つめ合いが暫く続いたのち、屋敷の方から「お嬢様」と年老いた女中が呼ぶ声が木霊してきたことで、その少女は朔夜から視線を逸らして屋敷の方へと歩いていってしまった。

 朔夜はその少女の姿が不思議と目に焼き付き、落ち着きを払ったその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってしまい、後に青葉に呼び掛けられて急いで屋敷の中へと入ったいった。



 主人の蝸牛の命令通り、青葉と朔夜に用意された宴の席は随分と豪勢で大袈裟なものであったことに、二人は引き笑いを浮かべながら互いの顔を見合わせた。しかしこういった場に慣れている朔夜はすぐに平常通りの柔和な笑みに戻り、下手に目立たないように息を潜めながら静かに久し振りの食事を楽しんだ。なにせ、死んでから約十年ぶりの食事故に心の底では少し浮かれていた。目の前の膳に並べられたあらゆる料理に舌鼓を打つ朔夜だったが、ただ一つ、“あわび”にだけは過去に嫌な思い出があるため、一切手を付けることはなかった。

 朔夜がこういった場に慣れている一方で、元々厳格な父のもとで育った青葉が知る『宴』といえば、もっと厳かで質素なものであった。しかしその常識が覆された今、青葉はこの場の居心地の悪さで、折角の食事も満足に喉を通らない状態だった。そんな青葉の状態などいざ知らず、既に酒気を漂わせた蝸牛が青葉の横にどっかりと座り込んで、上機嫌に自分の娘を紹介し始めた。


「若君! 楽しんでおられますかな?」

「あ、はぁ。まぁ…」

「…実は若君に是非、紹介したい者がいるのですが」

「紹介したい人?」

「はい。私の一人娘の、“栗花落ツユリ”でございます」


 青葉が少しの興味を見せたのをいいことに、蝸牛は大声でその娘の名前を呼んですぐ側まで呼び寄せた。父の呼び出しに従順に従って歩み寄ってきたのは、先程朔夜が紫陽花の中で視線を交わらせた、あの青紫色の瞳の少女だった。間近で見るその少女――栗花落ツユリは朔夜が思っていたよりも大人びており、年は青葉より一、二才上であると推測され、ニコリともせずにただ黙って頭を下げた。


「――お初にお目に掛かります。蝸牛が娘、栗花落でございます」

「どうですか、我が娘は。親の私が言うと親馬鹿になりますが、稀に見る美人でありましょう?」

「あ、はい。その通りですね」


 グイグイと迫ってくる蝸牛の勢いに押されて青葉が当たり障りのない曖昧な返事を返すと、それを肯定と前向きに捉えた蝸牛はニヤリと笑って青葉の傍に寄り添ってとある提案を耳打ちする。


「――いかがです? 今晩、栗花落を御傍にお仕えさせてはいただけませんでしょうか?」

「……はぁ?」

「若君がよろしいのであれば、是非とも栗花落を若君の“室”に…」


 蝸牛の言う“室”とはつまり、『青葉の正室』という意味であり、彼は堂々と紹介した自分の娘を次期領主の妻にしてもらおうと進言してきたのだ。そのあまりの大っぴらで明け透けな下心に、側で聞き耳を立てていた朔夜は思わず口にしていたあつもの(汁物)を吹き出しそうになってなんとか留まった。

 この予想外の状況に困惑する中、青葉は縋る視線で朔夜に助けを求めるが、ここで従者が口を挟むのは流石に空気が読めてないにも程があるため、朔夜は頑張れの意味も込めて肩を竦めた。その瞬間、青葉は後で嫌というほど嫌味を吐きかけてやろうと、心の中で決意したのだった。

 しかし今優先すべきは、この場をどうにか穏便に切り抜けること。青葉は経験不足な頭を必死に回転させて、打開策を捻り出す。


「えっと、蝸牛。お前の気持ちは有難いんだが、俺の独断で正室それを決めるのは難しい。やはり父と母に一度聞いてみないことには…」

「おお! それもそうでしたな。勝手に決めては、奥向きを取り仕切っていらっしゃる奥方様に叱られてしまいますなぁ」

「はい、その通りで。ですが、心には留めておきますので」


 青葉の僅かばかりの配慮にさえ大いに喜んでいる蝸牛の様子に、なんとか切り抜けられたとホッと胸を撫でおろした。そんな茶番を楽しそうに眺める一方で、朔夜はその場で一切口を開こうとせずになんの感情も汲み取れない無表情な栗花落ツユリの様子を注意深く観察していた。



 ❖ ❖



 宴も終わりを迎え、蝸牛に案内された客室の座敷に入るや否や青葉は外には漏れない声量で「酷いじゃないか!」と朔夜に文句を吐いた。しかし朔夜は一切動じることなく、いつもの余裕な笑みを浮かべていた。


「何が? 何が“酷い”んだよ」

「さっきのあの場で、俺の視線を無視しただろう?! なんで助け舟を出さなかった?」

「あの程度の場も一人で乗り切れないようじゃ、この先領主なんてやってられないよ。僕だって生前は随分と悩まされていたが、途中で処世術を学んで慣れた」


 朔夜は自身が生きていた頃の苦労話を青葉に語って聞かせた。

 十年前まで四方の領主たちをまとめ上げ、彼等の上に立っていた現人神あらひとがみのような存在であった陰陽国の男の王『兎君ときみ』の地位にいた朔夜には、十五歳で元服の儀を終えたのち、あらゆる方面から縁談の話が持ち掛けられた。代々兎君の妻たちは陰陽国内で選ばれ、決して国外から嫁入りしてくることはない。その理由は平等の地位である四方の領主の権力が偏らないように、という第五代目兎君の配慮によるものだった。現に第四代兎君の正室は南の『朱雀一族』の娘であったが故に、他の領主たちとの間に確執が生まれ、聖地は一瞬ではあるが乱れたのだ。そのため、以降は兎君の妻は全員陰陽国の女性であり、朔夜の正室候補も全員陰陽国の有力な貴族の娘ばかりだった。その中でも特に有力な候補者として名前が挙がっていたのが、朔夜たち『烏兎一族』の分家の次女であり従姉妹にあたる『夕陽ユウヒ』であった。身分的にも最適な人物だったが性格に難があり、なにより朔夜が彼女を正室とすることを忌避した。そんな朔夜の態度から、まだ付け入る隙があると判断した他の貴族の娘の父親たちは、ここぞとばかりに朔夜を自身の邸宅に招いて宴を開き、その時に娘を紹介した。

 そんなことが生きている間に何十回も行われれば、嫌でも処世術は身につくもの。朔夜は独自にそれらを躱す方法を身につけたのだと語る。精々頑張れよ、と元気づける目的半分、煽り半分で朔夜が声援を送れば青葉は余計なお世話だ、と完全にへそを曲げた。


「もういい。俺は明日に備えてもう寝るからな!」

「……僕もそうしたいのは山々だけど、どうやら

「…?」


 夜も更けてきて完全に寝る支度を整えていた青葉を余所に、襖の外の廊下から近づいてくる気配に気づいた朔夜が意味深に含み笑いを浮かべながら、襖のすぐ側に寄って耳を澄ませる。着物の裾を引き摺る音と一緒に足を滑らせる音が徐々に近づいてきて、その音の正体に逸早く勘付いた朔夜はさてどうしようか、と思案し始めるも、やはりここは『当事者』に意見を求める方がいいだろうという結論に至り、背後で首を傾げたままの青葉の方へ振り返る。


「…さて、青葉君。君はこの状況についてどう思うかね?」

「はぁ? 一体のなんの話だよ」

「何って、これから来る“夜の訪問者”の話さ。君はどう対処すべきだと思うか、と聞いているんだ」

「来るって…、誰が?」

栗花落ツユリ殿」


 朔夜は近づいてくる音のみでその人物を蝸牛の娘の栗花落だと推測し、その名前を挙げた瞬間、青葉の顔色はみるみるうちに真っ青に染まっていった。鈍感な青葉にも、夜更けに栗花落が訪ねてくる理由や蝸牛の思惑がありありと読み取れたからである。


「あ、蝸牛あいつ…っ! 自分の娘に夜這いさせる気か!?」

「明け透けな物言いだな。ま、要はそういうことだな」

「冗談じゃない。俺は何がなんでもゆっくり休むからな!」

「あぁ、そう。じゃあ彼女の対応は誰がするのさ?」


 腰に手を当てて朔夜が聞けば、青葉は縋るような視線をちらちらと向けてくる。暗に朔夜に助けを求めているのだ。部屋の中を宛てもなく泳ぐ青葉の瞳に負けた朔夜は、大きく溜め息をついたのちに覚悟を決めた。


「…仕方ない。僕がやり過ごすまで、絶対に物音一つ立てないように」

「…頼んだ」


 朔夜にすべてを託した青葉は言われた通り、掛布団を頭から被って息を潜めた。従順な青葉の様子を見守った朔夜は、やがて襖の外から呼び掛けてきた栗花落の声に返事をして襖を開けて出迎える。


「こんばんわ、栗花落殿」

「…えぇ。青葉様はいらっしゃるかしら?」


 襖の向こうに立っていたのは、白の長襦袢に紫色の打掛を肩に掛けた無防備な栗花落の姿だった。こんな状態の嫁入り前の娘を若い男のところに訪問させるとは、彼女の父親は相当必死なのだ、と朔夜は苦笑が漏れるのをなんとか抑えた。

 一方で出てきたのが目当ての青葉でなかった栗花落は、不満そうな顔を隠そうともせず、朔夜のことなど眼中にないかのように真っ先に青葉の所在を聞いてきた。しかし栗花落を青葉と会わせるわけにはいかない朔夜は、眉尻を下げながら首を横に振った。


「申し訳ありませんが、若様は既にお休みです。御用でしたら私が伝えておきますが?」

「それはおかしな話ですわ。お父様からは、“若君が今夜、わたくしを御呼びだ”と、伺っておりましたの」

「それはそれは…」


 それは、真っ赤な嘘だ。蝸牛はそんな見え透いた嘘を娘に伝え、その娘自身も恐らくはそれが嘘だと理解している。理解した上でこの場にやって来た。今現在朔夜の身分は若君の従者であり、故に栗花落からしても立場は下。そのため朔夜は栗花落の言葉を疑うような指摘はできず、この場で栗花落を強く言って追い返すこともできない。

 そのため朔夜は自身の持つ“話術”を駆使して、栗花落の対応する。


「栗花落殿、申し訳ないがそのような話は存じておりません。お父上の聞き間違いでは?」

「そんなはずがないわ。きっと若君が伝え損なったのよ」


 引き下がろうとしない毅然とした態度の栗花落は、ハッとあることに気づいて「或いは…」と疑惑の視線を朔夜に向ける。


「――貴方が意図して、邪魔しているのかしら?」

「…さぁ。だったらどういたしますか?」


 その問いに対しては図星だったが、朔夜はそれをおくびにも出さずに白々しくしらばっくれる。質問を質問で返された栗花落はムッと眉間を寄せると、一歩前に出て物理的に圧力を掛ける。


「これは命令よ。どきなさい、卯月ウヅキ

「その命令は聞けません。何故なら私は若君の従者であって、栗花落殿の従者ではないのですから」

「…このわたくしに、恥をかかせる気? ここまで呼び出しておいて、のこのこと部屋に帰ったりしたら、屋敷中の笑いものだわ」

「大丈夫ですよ。栗花落様はこの場を引いて、ただ一言お父上におっしゃればよろしいのです」

「……何を?」


 自身の自尊心プライドが邪魔して一歩も引けない栗花落に対し、朔夜はある秘策を伝える。それはこの場の状況に本当は乗り気ではない栗花落にとって、一つの抜け道であった。


「――“若君は青龍の者としてとても誠実で、故に婚前の自分には手を出さなかった”のだと、お父上にお伝えください。皆、若君の青龍としての素質に感嘆して、栗花落殿に後ろ指を指す者などおりますまい」

「……それは良い考えね。いいわ、お父様には今の通りに伝えておきます。若君にはよい夢を、とお伝えくださいませ」

「はい。おやすみなさいませ、栗花落殿」


 朔夜は栗花落の自尊心プライドを保ちつつ、尚且つ青葉の人柄の魅力アピールを付け加えた体の良い言い訳を授け、満足した栗花落はようやく大人しく踵を返した。その背中を見送って襖をぴったりと閉じると、布団の中から様子を伺っていた青葉はそろり、と顔を覗かせた。


「……行った?」

「行った。まぁ、出来るだけ穏便に済ませたよ」


 そっか、と胸を撫でおろして布団から這い出てきた青葉は、丸まっていた分身体をグッと伸ばした。凝り固まった肩をぐるぐると回しながら部屋に一つだけの丸窓の障子を開けて、そこから吹き込む夜風に目を細めた。朔夜にはああ言って栗花落を追い返させたが、実際のところ歩き通しの青葉の疲労感は相当なもので、床に着けばすぐにでも眠りに落ちれそうだった。

 少し風に当たって涼んだ青葉が障子を閉めようとした時、眼前に広がる暗闇の中でぼんやり、と光る人魂のようなものを見つけて咄嗟に朔夜を呼びつける。


「…ん? 朔夜、あれはなんだと思う?」

「あれって、何かあるの?」


 手招きされて布団を整えていた手を止めて朔夜が窓に近寄れば、青葉は窓の向こうの暗闇の中に浮かぶ怪しげ光りを指さして示した。青葉の言う通り、確かに遠くで暗闇の中ぼんやりと漂うように光が一つ浮かんでいた。

 二人が今いる座敷は屋敷の二階の端に辺り、その窓から見えるとすれば屋敷の塀も超えた『辰巳川たつみがわ』である。しかし夜も更けて今夜は雲が厚く月も隠れてしまっている暗闇であり、そんな中で川の畔を歩いている人物がいるとは考えにくい。だがその光はどうみても、提灯の灯りにしか見えなかった。


「…屋敷の誰かかな?」


 青葉がそう推測するが、既に人の域を超えている朔夜にはわかった。ことに。

 それに気づいた朔夜は、面白そうに微笑んだ。


「これは、面倒だけど面白くなりそうだね」


 朔夜の鼻は既に、波乱のニオイを嗅ぎとっていたのだった。

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