第拾陸話 若き青龍〈六〉
じめじめとした地下通路は思いの外長く、ようやく出入口に辿り着く頃には既に日が落ち始めていた。通路の終着地は古井戸の中で、人一人が這って通れる小さな穴を抜けると今はもう水の枯れてしまった井戸の中に出る。手元の光源を持ち上げて上を見上げた青葉は、木製のフタできっちりと閉められている井戸の口に深く溜め息をついて行き詰ったことを物語った。
「…はぁ。さて、ここからどうやって上がるか」
「梯子とかないの?」
「なにせ、普段は使わない隠し通路だから。まぁこんな時に使えなくては意味がない気がするけど」
青葉のぼやきに、確かに、と朔夜も賛同する。常備されている梯子もなしに、一体どうやって城内に逃げろというのだろうか。首を捻って困り果てている三人の頭上、突如光が差し込んだ。上から差し込んだ正体の知れない灯りに、青葉は警戒の色を示して六花を庇うように背中の方に寄せる。謎の灯りの正体を突き止めようと青葉が手元の手燭を上に掲げて目を凝らせば、頭上の灯りから聞き覚えのある女性の声が青葉のことを呼んだ。
「――若様、ご無事ですか?」
「…お前、
井戸のフタを開いて中を覗いていたのは陽炎の女中の一人で、青葉もよく知る人物だった。女中—―
「これを被って、絶対に外さないでください」
「あ、はい。ありがとうございます…」
実年齢に比べて礼儀正しい六花に木綿はニコリと笑いかけると、次に青葉の方に視線を向けてキリッとした表情を浮かべて自分の役割を伝える。
「若様、御方様より“抜け道”までの道案内を仰せつかりました。必要な物も用意してありますので、こちらから」
「あぁ、すまない」
「いいえ。御方様の御遣いついで、ですから」
「…?」
木綿の最後の言葉の意味はわからなかったが、陽炎からの使いということで信用はできるため、青葉と六花は黙って彼女を背中を追いかけた。
微かに聞こえてくる喧騒にあふれた正門とは反対に、静けさを保っている裏門は常勤の門番二人が退屈そうに欠伸を噛み殺しており、なんとも緊張感に欠ける様子である。そんな彼等の目を欺くように、石垣の中に密かに造られている隠し扉を開いてそこから城外へと出た。城を囲んでいる堀を越えれば、見つかる心配は半減する。城の周りに植えられた
そんな人々の生活の様子を尻目に、余所見することなく進んでいく木綿の背中を追う青葉は、彼女の向かう方向にある“とある民家”について思い出す。
「…木綿、もしかしてこの道は」
「…着けばわかりますよ」
そう言って彼女が向かった先にあったものは、青葉の予想した通りのものだった。
そこは青葉もよく通っている、
「わ、若!? 何故また…」
「や、やぁ。さっきぶり、だね」
「――お久しぶりです、涼風様」
状況が把握できずに慌てた様子の涼風に対して木綿は落ち着いた様子で頭を下げた。城外に追われた身とはいえ、涼風を尊敬する者は青葉以外にもおり、木綿もその一人だった。久方ぶりに顔を合わせた木綿に涼風はハッとし、すぐさま事情を察した。
「木綿殿…。そうですか、わかりました」
「はい。説明の手間が省けてよかったです」
貴方は些か無駄話が多い、と棘のある言い方に苦笑を浮かべて何も言い返さない涼風に、木綿はムッと眉を顰めて頬を微かに膨らませる。
「…貴方に言いたいことは山ほどありますが、後にいたしましょう。今はまず、若様たちです」
「はい。若とお嬢さん、さぁこちらへ」
木綿に急かされて涼風は青葉と六花をさっそく家の中に招き入れる。一体何をするのか、と首を捻る青葉は既に見慣れた家の中に入ると、さっそく履物を持つように指示された。
「若、履物は持ってきてください。流石に裸足では危ないので…」
「“危ない”?」
「はい。なにせこの先は、土の中ですので」
ニッコリと微笑んだ涼風は家の小さな押入れを開くと、その中の一枚の床板に取り付けられた窪みに指をかけ、思いっきり持ち上げてみせた。長い間開けられてこなかったのか舞い散る埃の中、その下にあったのは石の土台ではなく、地中深くまで掘られた人工的な抜け穴であった。
「抜け穴、こんなものが…」
「若や殿の万が一の為ですよ。一本道で、進めば関所の下をくぐり抜けて角都の外まで行けます。出口は大木で隠してありますが、注意して出てください」
「わかった。協力ありがとう、涼風」
涼風に礼を言って抜け穴に入ろうとする青葉の背を追うように六花も入ろうとすると、後ろから木綿に呼び止められて「これをどうぞ」と大きな風呂敷を渡された。中には何かが詰め込まれており、受け取った六花は首を傾げて問う。
「これは…?」
「何かと入り用かと思いましたので、必要な物は揃えておきました。ですが残念ながら、“染め粉”だけは用意できませんでした。申し訳ございません」
「い、いえ! これだけでも十二分なくらいです。ありがとうございます」
親切で優しい木綿に涙腺を緩みつつあった六花はそれを振り切るように頭を深々と下げて青葉の後ろ姿を追った。灯り一つ設置していない暗い抜け穴の奥に消えていく二つの小さな背中を見送り、涼風と木綿はほぼ同時に「いってらっしゃいませ」と頭を下げた。
二人の姿どころか青葉の灯りすら見えなくなった頃、涼風は床板を元の位置に戻してその上から
「…はぁ。すまなかったね、夕飯の準備でもするつもりだったんじゃないの?」
「いやいや、緊急事態だからね。私の夕飯よりも大事なことさ」
そうは言いつつも、涼風の腹は空腹を知らしめるように大きく音を鳴らし、その音は二人だけの空間に異様なほど大きく響いた。予想以上の腹の虫の主張に視線を襲がせる涼風に対して、予想通りと言わんばかりに木綿は大きな溜め息をついた。
「…貴方、一体普段どれだけ食べていないのよ」
「…毎日二食は食べてるよ。常人よりちょっとだけ、量が少ないだけだ」
「ちょっとだけ…ねぇ?」
昔馴染みだからこそ、涼風の言う『ちょっとだけ』というのが殆ど絶食に近いことを木綿は勿論理解していた。だからこそ、規則正しい生活が義務付けられている城内から追い出された涼風の今の私生活に対して一抹の不安が消せないでいた。
「はぁ…。後で何か作りにきてあげるから、米だけ炊いておきなさいね」
「え、いや。そんな悪いよ…」
「貴方に餓死されでもしたら、私が御方様に怒られてしまうのよ。昔みたいに大人しく言うことを聞きなさい!」
強く念押しされて「はい」としか答えられなかった涼風は申し訳なさそうに俯いた。目の前の生活力皆無の男を見つめながら、木綿は思ったより元気そうなことに心中ホッと胸を撫でおろしていた。そのことをおくびにも出さず、それじゃまた後でね、と涼風の家を出た木綿は沈みゆく日を見つめ、陽炎との“約束の時間”が迫っていることに焦りをみせる。
「さて。早く老舗の羊羹を買って、御方様のところに戻らないと」
木綿は角都の老舗和菓子屋に向かって駆け出した。
因みに、涼風の今夜の夕飯は珍しく少しだけ豪勢であったとのことである。
❖ ❖
青龍城から密かに飛び立ち、天横山を空高く飛び越えて西の奎都に聳える『白虎城』に降り立った伝書鳩は、白秋が予想もしていなかった知らせを届けた。最初に知らせを受け取ったのは叔父の
「伯都! 今すぐに孟章領に向かうぞ!!」
「…かしこまりました」
半時前とは打って変わって生き生きとしている白秋を止められる者などいるはずもなく、伯都は急ぎ遠出の準備を整えて、今にも単騎で飛び出して行きそうな白秋を煩わしげにしながらも輿に押し込んで領地の境である天横山の麓の関所に向かった。
六花たちは都合上、天横山の中腹を抜ける危険な道を選んだわけだが、白秋たちは正々堂々と正規の順路で孟章領に入国する。四君主の一人である白秋の突然の来訪は関所の役人たちを驚かせたが、伯都は手際よく手続きを終わらせると、西側の門を抜けて次は東側の門に着く。各領地を隔てる境には関所が両側に設置され、例え来た方の関所を越えられても、目的の領地の関所を通れなければ通過することはできない。厳重な二重の関所を易々と通り抜けて、白秋を連れた一行は孟章領の都『角都』に入った。
白秋の来訪は関所を越えた時点で役人から伝書鳩で領主・
「――お待ちしておりました、白帝殿。青龍城にて、青帝殿がお待ちです」
各々の領主を最大限敬う際に用いられる尊称で白秋を呼ぶと、彼を乗せた輿を都の象徴である青龍城へと導いた。青林の家臣たちによって整備された道は町民たちを一人残らず近づけさせないようにしているため白秋の一行はまるで祭りの
「やぁ、左近。久しぶりだね、思ったより元気そうだ。
「…まさか。私の故郷は今でも、監兵領ですよ」
「は、よく言う。憶えてもいない癖に」
この嘘つきめ、と悪態を付きながらもどこか楽しそうに笑う白秋の表情を思い浮かべて、左近も釣られて不敵な笑みを浮かべた。左近の姿を見て次に思い出すのは白秋の為に青龍城に嫁いだ叔母のことであり、彼女が自身のことを“叔母”と呼ばれることを忌避しているので、白秋は幼い頃からの刷り込みで鈴蘭のことを『
「そういえば、姐さんは元気か?」
「えぇ、元気過ぎるくらいですよ。毎日毎日、無理難題を私におっしゃるくらいにね」
「ははっ、実に姐さんらしい。まぁそこが姐さんの可愛いところだ、大目に見てやってくれよ」
「はい、勿論」
誰よりも高飛車で我が儘で、そして誰よりも白秋を可愛がってくれた鈴蘭の送ってきたぐしゃぐしゃの文を見つめながら、文の内容について左近にそれとなく尋ねる。
「…ところで、この文の内容は間違いないのだな?」
「…はい。詳しくは我が殿から直接お聞きした方がよろしいかと」
そう告げた左近は正面に振り返って、目の前に聳え立つ青龍城を見上げた。真っ白な外壁に濃い青色の瓦屋根が旗印である青龍を彷彿とさせるものとなっており、その堂々たる姿は自身の居城を見慣れている白秋でさえ圧倒させられた。
無口な右近に案内されて謁見の間に通された白秋と側近の伯都は、城主の座す上段から一つ下の中段に座した白秋と、家臣としてその後ろの下段に控える伯都。静かに城主が来るのをただ待つというのに慣れない白秋が呆然と天井から睨みつけてくる青龍の両眼を見つめていると、あっという間に過ぎた時間は青林の参上を告げた。
「――“青帝殿”の御成り!」
若い小姓の
「…これはこれは、奥方様。お久しゅうございます」
城主たる青林のその隣に座すことができるのはこの世でただ一人、正室の
「本日はようこそいらっしゃいました、白帝殿。見ない間に、随分と立派におなりあそばしました。きっと亡き
「はい、ありがとうございます。奥方様も、お元気そうでなによりにございます」
想像よりも生き生きとしている陽炎に対し、白秋は噂が本当かどうかを見極めように鎌をかけた。しかし陽炎は動じることなく、余裕の笑みを浮かべた。
「ご心配いただき、ありがとうございます。この通りわたくしも、ここにはおりませんが我が子たちも皆息災でございますよ」
「…そろそろよろしいか? 陽炎」
二人の腹の探り合いをする会話を遮るように、青林が口火を切った。しまった、と肩を跳ねさせた白秋だったが、反対に陽炎は微動だにせず失礼致しました、と一歩下がった。そしてついに青林が本題に移る。
「さて、白秋殿。本日は何用でいらしたのか、伺ってもよろしいか? まさか、叔母上の顔を見に来たわけではあるまい」
青林は白秋の後ろに控えた伯都を一瞥しながら問う。一番の側近である伯都を連れての登城にのっぴきならない事情を察した青林に、白秋は懐から鈴蘭より届いた文を取り出して青林の前に差し出して事情を説明する。
「実は叔母上よりこちらの文が急ぎで届きまして。この内容によりますと、青林殿のもとで先日、白髪赤目の子供を捕縛したとのこと。その子供を引き渡していただきたいのです」
「…ほぉ。それはまた横暴な。理由を聞こうか」
「はい。実は数週間前、私の領内でとある農村が一つ消失しました。村は火事によって全焼し、村民は一人を除いて全滅。唯一生き残ったその一人というのが近隣の村人によれば、“十一歳ほどの白髪赤目の少女”だそうです。確か名は、六花」
白秋の口から飛び出たその名前に少しでも反応見せた青林はすぐに平静を取り繕うと、まったく心当たりがないように装った。しかしその少しの変化にすら、白秋は目敏く気づいていた。生来嘘を付くのが苦手な青林に助け船を出したのは、隣に控えていた陽炎だった。
「青林殿。貴方が捕縛した少女がその娘ならば、その詮議は領主たる私の役目。どうか、その娘を引き渡していただけませんでしょうか!?」
「そ、それは…」
「――白帝殿。先程から一体、なんのお話をされているのしょう?」
「は…。いえ、ですから先日捕らえた捕虜を…」
まったく存じ上げないといった様子で首を傾げる陽炎の態度に困惑する白秋が、再度六花の引き渡しを願い出るも、陽炎はにっこりと笑って首を横に振った。
「…申し訳ありませんが、その娘はもう既にこの地にはおりませんわ」
「そんな…っ、青林殿ともあろう御方が、取り逃がしたのですか!?」
「いいえ。実は彼女は我々の手違いで捕縛されてしまったことが判明いたしまして、昨日のうちに解放してもうこの都にはおりませんの」
「“手違い”だと…?」
陽炎の説明にそんなはずはない、と言いたげな表情を浮かべる白秋。白秋にこの情報を齎した鈴蘭が可愛がっている甥を
だが不敵に笑う陽炎とは討論で勝てる見込みはなく、隣で妻に任せきりの青林の方に白秋は訴えかける。
「っ青林殿! 貴方ほど白髪赤目の子供を憎んでいる御方はいないはずだ。お父上の仇である子らを滅したいと思っているのは、貴方をおいては他にいない。なのに、何故!?」
白秋の必死の問いかけに、青林は深く一息ついたのちにゆっくりと今の自分の心の内を語り出す。
「…白秋殿。貴殿は知らなかっただろうが、私は十年前の反乱を正しい選択だった、と思ったことは一度もない。確かにあの時は謎の疫病にかかった父を救うために行動したが、後に残ったのは“後悔”と“懺悔”の心だけだった。
「……なにを」
「白秋殿、私は自らの領地での“狩り”を、今後一切廃止しようと考えている。その後は子らを丁重に弔い、引き続き我が領民の為にこの命を捧げることとする」
それがどれだけの罪滅ぼしになるかわからんがな、と最後に自嘲しながら呟いた青林を前に、白秋は呆然とするしかなかった。一体この男に何があったというのか、その考察をしている暇は今の白秋にはなかった。
これ以上は時間の無駄だと判断した白秋は気づかれない音で舌打ちすると、畳を派手に叩いて立ち上がった。
「っでは、もうここに用はありません! 青林殿、これにて失礼いたしますっ」
「…鈴蘭には会っていかなくていいのか?」
「えぇ、結構です。青林殿の方から、よろしくお伝えください!」
明らかにご立腹な様子で礼すら弁えずにさっさと退室していく白秋に代わり、伯都が「失礼いたします」と頭を下げると去って行ったその背中を慌てて追いかけた。
案の定怒らせてしまったと深く溜め息を漏らす青林に、陽炎はぴしゃりと言い放つ。
「はぁ…」
「旦那様、しっかりなさいませ。事前に話し合って決めたことでしょう」
「あぁ、わかっている。しかしこれで、“白虎”から目の敵にされないことを祈りたいな」
「元々、四君主制度など一枚岩ではないのです。お互い人間同士、一度はぶつからなければ相手のことは理解できませぬ」
覚悟なさいませ、と背筋を伸ばして気丈に振る舞う陽炎と反して、青林から零れるのは今後の不安を含んだ深い溜め息のみだった。
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