第拾肆話 若き青龍〈四〉

 久々に顔を合わせた母――陽炎に言われて地下牢に向かった青葉は、領主の息子としての権限を使って易々と地下牢へと入り込んで牢屋を一つひとつ確認して回った。外の光の一切入ってこない寒々として薄暗い地下牢は決して居心地の良いものではなく、この中に何カ月も幽閉されて気が狂った者もいることを思い出して、その者の気持ちがようやく理解できてしまった。それほどまでに劣悪な環境を目にした青葉は、こんな場所に本当に人がいるのか疑念を抱くも、その疑問はすぐに解消された。


 と同時に、そこに囚われている人物を目にした瞬間、青葉の息が一瞬止まった。


 そこに繋がれていたのはつい先頃、青葉に落とし物を届けてくれたあの少女だった。しかし唯一違っていたのは、その少女の髪が黒い色から真雪のような真っ白な色に変わってしまっていたことだった。


「…きみは」


 辛うじて口から零れた青葉の言葉で彼の存在を認識した少女は俯いた顔をゆっくりと上げ、白髪の奥からぎらりと光らせた真紅の瞳で青葉の姿を睨みつけた。剥き出しの敵意に満ちた視線だったが、それはすぐに驚きの色へと変化した。


「あなたは、町で会った…」


 どうしてここに、という疑問が顔にありありと浮かんでいる少女に近付き、青葉は顔色を蒼白に染めて震える両手で格子を掴んだ。


「なんで、君が…」

「さぁ。私にはさっぱりだけれど、貴方たちにとっては日常茶飯事なのでは?」


 少女の言う通り、この地下牢に誰かが囚われているのを青葉が見るのは今回が初めてではない。父・青林の命令で捕縛されてくる者を城内で度々目撃しており、その年齢層は様々。時には青葉よりも小さな子供さえも、大人たちに囲まれて連行されているのを見たことがあった。その父の行いを青葉や浅葱は止める術はなく、今までただ黙って見守ってきた。

 傍観者に徹してきたことを少女に見抜かれて図星な青葉は、ついカッとなって突発的に牢に囚われた少女を非難する。


「っそういうお前は、ここにいるということはやはり“忌み子”だったということか。父上の流した噂もあながち嘘ではなかったのだな!」


「――ほぉ? それは聞き捨てならないな、小僧」


「! 誰だ!?」


 無力な少女への暴言を吐く青葉に対して、身体の芯まで底冷えしてしまうような冷酷な得体の知れない声が降りかかる。二人しかいないはずの地下牢に突如響いた謎の声に青葉が狼狽する一方で、少女は驚いた表情で自分の腰に付いた巾着を凝視して抗議の声を上げる。


「黙ってて言ったのに、どうして…!?」

「六花のことをここまで言われて、僕が黙っていられるわけないだろう」


 無機質な巾着と話しをしている少女――六花の姿を奇怪な視線で見つめる青葉は、どこからともなく聞こえてくる声の主がそこにいることを察し、青葉は両目を見開いた。


「…まさか、?」

「……えっと」


 どうしよう、といった六花の視線をヒシヒシと感じた巾着の中の主は、開いて見せよ、と一言と告げた。その言葉の言う通りに、六花は腰から巾着を外してその中身を両手で包み込むように大層大事に持ち上げると、自分の座っていた筵の上から退いてその上にそっと乗せた。そこに置かれたものに、青葉は思わず恐れ慄いて飛び退いた。背後の石壁に張り付きながら、青葉は震える声でそこに置かれたものを指さして叫ぶ。


「な、な、ど、どどど、髑髏!?」

「…確かにそうだが、指をさすのは失礼だぞ」


 筵の上でカタカタと顎の骨が動き出したのを目にした青葉は更に慄いてヒィ、となんとも情けない悲鳴を上げた。それまでとは打って変わった情けない姿の青葉に、表情の強張った六花の頬が若干緩む。なんとも奇怪なしゃべる髑髏こと――朔夜は、青葉に自分の名を名乗り、まずは落ち着けと宥めた。


「はぁ。いいかい、僕の名前は朔夜。この名前に聞き覚えがない君ではあるまい?」

「さ、さくや…?」

「そうだ。順番に説明するから、まずはこっちにこい」


 しゃべる髑髏に言葉で手招きされた青葉は腰が引けた状態で恐る恐る格子の前まで戻ってしゃがみ込む。未だにしゃべる髑髏の異様な様に慣れないのか、キョロキョロと視線を泳がせている青葉に対して、朔夜は深く溜め息をつくと自分と六花のそれまでの経緯について順を追って語り始める。

 六花がどういう経緯でここまでやって来たのか、彼女が今までどんな生活を強いられてきたか、そして六花のような子供がどんな目に遭っているのか、を。それまで父たちが故意に風潮した噂のせいで、都から離れた農村ではどのような現状になっているのかをまったく知ろうともしなかった青葉は、朔夜の話を現実のこととして素直に受け止めることができなかった。


「…そんな、父上たちが流布した噂のせいでそんなことになってるなんて」

「…まぁ、若君は知らなくても当然だな。だがな、現実に六花の育った村にある洞の中には、実の母の手によって投げ込まれた乳飲み子も眠っている。その現実をお前は知らぬ存ぜぬではいけないんだ」


 それを青葉に説いている朔夜は一つ、忘れていた過去の断片を思い出す。かつて自分たちがお互いのことばかりを考えていたせいで、その周りの人間や民たちがどれだけ苦しんでいたかを知らなかったが為に、己が身を破滅させたことを。

 同じ轍を目の前の若者や青林に踏ませるわけにはいかない。その一心で朔夜は青葉の誤った認識を正そうと説得を続けた。やがて長い時間深く思案した青葉は、いつの間にか額に浮かんだ脂汗を乱暴に拭うと、突然立ち上がってその場から逃げるように立ち去った。

 その後ろ姿を驚いた表情で見送った六花に対し、朔夜は酷く残念そうな溜め息をついた。


「…どうしよう。駄目だった、てこと?」

「そうだね。残念ながら」


 落ち込んだ六花に追い打ちをかけるように朔夜は「それと――」と振り返って、次は六花へのお説教を始めた。その内容は六花が青林と直接対面した時のことであった。


「六花、何故あんな無茶をした?」

「え、えっと、なんのことかなぁ?」

「恍けるな。青林を前にして、あんなことをするなんて。しかも僕には一切しゃべるな、とまで『厳命』して。僕が尸霊しれいである限り、主である君の命令には逆らえないのをいいことに…」


 六花によって喚び起こされた尸霊である朔夜は主人である彼女の命令の、特に『厳命』を拒むことはできず、そのことを六花に前以て教えていたことに朔夜は今頃になって少し後悔した。そして六花は役人に拘束された時、巾着の中の朔夜に“今後許可なくしゃべることを禁ずる”ことをひっそりと厳命しておいたため、朔夜は青林の前では一切しゃべることができなかった。


「…僕がどれだけあの場で叫びたくて憤っていたか、わからない君じゃないだろう。無茶が過ぎる」

「ごめん。でも、どうしても言ってやりたかったの。“私たち”のことを」

「…きっと、青林にも伝わったよ。よく頑張ったね、お疲れ様」


 色々まだ説教したいことは多いが、とりあえず朔夜は青林の前で一歩も引かなかった六花を素直に褒めて労った。

 すると二人の聴覚が遠くから徐々に近づいてくる早足の足音を拾い、慌てて口を噤んで様子を伺った。ジッと格子越しに足音が近づいてくる方向を凝視する二人の前に現れたその人物の姿に、六花の赤目が丸々と見開かれた。


「…?」


「――逃げるぞ、準備しろ」


 六花の格子の扉を開けたのは、彼女の没収された手荷物を持った青葉だった。



 ❖ ❖



 没収した六花の荷物が何者かに奪われ、彼女自身が牢から脱獄したことはすぐに家臣から青林の耳に届けられた。窓から覗く沈みかけの夕日を背に青林と家老の右近は目を丸くしながら、若い家臣の報告を聞く。


「…逃げた、だと? 一体どうやって」

「はい。見張りに付けていた者も不意を突かれたのか倒れているのを発見しましたので、第三者が鍵と手荷物を盗んで脱獄させたと思われます」

「まさか、行方をくらました例の商人たちが…?」


 考えられる中で一番有力な可能性を呟く右近に対し、青林は別の犯人像に心当たりがありその姿を思い浮かべて深く溜め息をついた。


「…違うな。仮にも見張りを任された者が、見ず知らずの人間に不意を突かせるとも思えない」

「では、誰が?」

「こんな馬鹿げたことをしでかす奴を私は一人しか知らん。…好物の栗でも焼いて、おびき寄せるか?」

「ま、まさか、若が?!」


 この城内で“若”と呼ばれている人物は一人しかおらず、その場にいる全員の視線はその“若”の守役である老中の左京サキョウへ必然的に集まった。途端、老中の中でも最年長の左京は威厳も何もなく、その場に深々と土下座を披露したのだった。


「も、申し訳ございません! わたくしがしっかりと見ていなかったばかりにっ」

「…はぁ。右近、左京、手分けして城内を捜索しろ。多少手荒でも構わんから、見つけ次第拘束して連れてこい」


 次々に積み重なっていく問題に眉間の皺を新たに刻みながら青林が命じれば、二人は短く返事をしてその場から去ろうとした。しかしその二人の進行を突然駆け込んできた人物に阻まれた。二人に正面からぶつかりそうになりながらも座敷に駆け込んできたのは、天横山の調査に出掛けていたはずの右京ウキョウであった。今しがた調査から戻ったのか、右京はあちらこちらに土汚れが付いたままであり、身綺麗にする手間すら惜しんで青林の前に膝をついた。


「っ只今、戻りました」

「ご苦労だったな、右京。さて、身なりを気にする右京おまえがそのままの恰好でやって来たということは、何か重要な収穫があったということか?」


 普段誰よりも身なりを気にする几帳面な右京の衣服の乱れようからすべてを悟った青林が期待を込めて尋ねれば、右京は重々しく頷いた。青林と同じく右京の帰りを待っていた右近と左京もその報告を聞く為、暫しその場に留まり右京の言葉に耳を傾ける。必然的に出来上がった沈黙の中、右京はゆっくりと唇を開いて目にしてきたことをありのまま報告し始める。


「…まず、例の商人たちが通ったであろう道を進んで天横山の山奥にて、聴取にあった別の一行の残骸を発見しました」

「そこは話の通りか」

「はい。噂通り、近くの木には無数の遺体が逆さ吊りにされていたので下の者たちにすべて回収させました。そしてその遺体たちの跡を追っていったところ…」


 何人かの侍を連れて山に入り、そこに無惨な姿で逆さ吊りにされた死体たちの続く先に進んだ右京が見たものは、長年青林や他の家臣たちが探し求めていたものであったため、右京は一息置いてから告げた。


「我々がどれだけ探しても発見できなかった、“鬼の住処”です」


 右京たちが見つけたのは、天横山の山深くにひっそりと隠れていた古い小屋。そここそがまさに、天横山の鬼の隠れ家であり、朔夜たちが鬼神『棗子ソウシ』を葬った場所であった。何者の気配もない小屋の傍にひっそりと作られた真新しい墓のことを報告すれば、青林はその墓が誰の者かをすぐに察した。


「…我々や、白虎の白秋ハクシュウがあれだけ探して見つからなかった鬼神の住処を容易に発見して退治した者がいるわけか。やはりあの娘か…?」

「いえ、流石にそれはないかと。見たところあの娘の所持品には武器になりそうなものはありませんでしたし」


 青林が真っ先に怪しんだのはやはり六花の存在だったが、六花の所持品を検査した右近がそれを否定した。それに加えて、右京がもう一つ現場で発見した“奇妙な痕跡”について語り出す。


「実はもう一つ、その小屋の周辺に妙なものが」

「妙なもの?」

「はい。です」

「それはやはり…」


 その足跡が示すものが何かを青林が話そうとした、その時。その場に招かれざる下級の家臣の一人が「急報!」と叫びながら飛び込んできた。大層慌てた様子で走り込んできた家臣の男は青林の前で頭を下げることすら忘れ、率直にその急報の内容を大声で告げた。


「大変です! 例の行方を晦ましていた商人の一行が、城内に侵入してきました!!」

「なに!?」


 青龍城は一気に混乱の嵐に包まれた。



 ❖ ❖



 突然慌ただしく城内を家臣たちが駆け回りはじめ、方々からは状況を把握しようと声を上げる者も多数いる中、彼らの話し声に密かに聞き耳を立てる人影があった。


「何事だ!?」「城内に侵入者だと?」「番兵は何をやっている!」

「敵の数は?」「急げ!」「絶対に奥には入れるな!」


 騒ぐ家臣たちの声と足音に聞き耳を立てながら、徐々に静かになっていく廊下の様子を覗こうと空き部屋の襖の隙間から、青葉の金色の瞳が光る。足早に過ぎていく影をいくつも見送ったのち、一片の影もなくなった頃を見計らって襖を開くと周囲の気配に細心の注意を払いながら部屋から脱出する。その背中を追って後に続くのは、青葉より頭一つ分小柄な六花である。


「六花、早く」

「わかってるよ。でもなんか騒がしくない? 大丈夫?」


 青葉が六花を連れて地下牢を出たのはつい先程のこと。すぐにはバレないと思ったいたが、案外青葉の詰めが甘かったようで六花の脱獄はすぐに青林にバレたわけだが、城内の異常な騒がしさに青葉は違和感を感じていた。


「…俺たちを探してるにしては、なんか様子がおかしいな」

「違うな。彼等は”番兵”と言っていたから、恐らく外からの侵入者があったのだろう」

「まさか。どこよりも守りの固い青龍城が、敵の侵入を許すなんて…」


 自分の居城の守りに余程の自信があったのか、青葉は驚きを隠せない様子だったが、朔夜はこれを好機と捉えて二人に早く脱出するように呼び掛けた。


「さぁ今のうちにさっさとずらかるよ」

「言われなくても」


 朔夜に急かされて青葉は脱出の当てがあるのか、どこかを目指して再び歩き出す。しかし城内はどこも家臣たちが目を光らせており、青葉が向かおうとしていた自室への道は既に絶たれていた。どうにか突破方法を思案していた青葉の背中を不安げに見つめていた六花だったが、その腕の中で朔夜が小さく声を上げた。


「――六花、後ろっ」

「え…」


 朔夜の声で咄嗟に振り向いた六花の背後に立っていたのは、浅葱色の打掛を身に纏った可憐な少女で突然のことに叫び出しそうな六花の唇にそっと指を添えて塞き止めると、未だ彼女の存在に気づいていない青葉の名前を呼んだ。


「…お兄様。どうやらお困りのようですわね」

「! 浅葱か」

「はい。さぁ、こちらへ」


 妹の浅葱に導かれるまま青葉はその後を追い、六花も慌ててそれに続いて歩き出す。浅葱の歩く道は不思議と人気のない暗い廊下で、的確に誰とも遭遇しない経路を選択していた。彼女にとって歩き慣れた薄暗い廊下を歩きながら、初対面の六花に対して自己紹介を始めた。


「そういえば、ご挨拶がまだでしたわね。初めまして、青葉の妹の浅葱です」

「あ、私は六花。助けてくださってありがとうございます」

「ふふ。お礼を言われるほどのものではありません。当然のことなのですから」


 一見して六花と変わらない年齢の浅葱の落ち着きを払った大人顔負けの受け答えに、六花が思わず見とれていると、横から青葉が呆れた様子で横やりを入れてくる。


「はぁ、何猫被ってるんだよ。六花、聞いて驚くなよ? 浅葱こいつ今はこんなだが、少し前に城内の百日紅さるすべりの木に登って怒られたばかりなんだぜ」

「え」

「お兄様。少し黙ってね」


 破天荒で活発な青葉の妹として、浅葱も相当なお転婆娘であることは城内では誰もが周知の事実であった。ちなみにその木登りにはちゃんとした理由があり、浅葱は百日紅の木に咲いたその花を元気のない母に送ろうとしたのである。母はそれを知っていたが、無鉄砲すぎる浅葱はその後しっかりと御叱りを受けた。

 見た目に反した浅葱の意外な一面を更に披露しようとした青葉だったが、その続きは冷たい微笑みを浮かべた横顔に阻止され、青葉は口をピタッと閉じて背筋の悪寒に身を震わせた。

 そんな他愛もない会話をしている内に、浅葱は目的の部屋の前まで到着して襖の前で足を止めた。その部屋がどこなのか、青葉は勿論知っている。


「お、おい。ここって、まさか…」

「はい、母上のお部屋です」

「で、でも、母上はお前の部屋に…」

「今は、こちらに戻っておられますよ。さ、入りましょう」


 青葉と浅葱の母親、その存在を聞いて最初にその姿を思い浮かべたのは六花の腕の中でただの物と化している朔夜だった。青葉が狼狽し、浅葱が信頼するその存在について、この場において六花よりよく知っている朔夜は決して会うわけにはいかないという固い決意のもと、六花に小さく耳打ちして巾着の中に戻してもらう。青葉はその様子を目撃していたが、あえて何も言わずに黙って襖の奥へと進んだ。この部屋の主が自ら望んで作らせた白兎と黒い鴉の襖を開け放てば、薄暗く灯りの灯った座敷の中央に黄金色の癖のある髪を流した女が立っていて、六花たちを歓迎した。


「いらっしゃい、可愛いお客人。二人の母、陽炎カゲロウと申します」


 暗がりでもわかるほどの絶世の美貌に六花がポカン、と口を開けて見惚れていると、伸ばされた白く細い指先で六花の頬に触れて、そこにまだ残った打撲痕を心配そうに、申し訳なさそうに優しく撫でた。


「…ごめんなさいね、あの人のせいでこんな怪我をさせてしまって」

「…大丈夫ですよ。こんなの、へっちゃらですから」


 本当は少し痛むがそれを堪えて六花は笑みを浮かべてみせた。六花の頬に優しく触れる手付きや心配そうに見つめる慈愛に満ちた表情は、彼女の亡き母親の面影を思い出させ、陽炎がこれ以上悲しい顔に歪むことを六花は自然と望まなかった。しかし瘦せ我慢なのはすぐに見抜かれ、陽炎は文字通り手当するように頬を撫で続け、不意に六花の柔らかな白髪を見て懐かしそうに微笑んだ。


「あぁ…。この髪を見ていると思い出すわ、私の大切な従弟おとうとたちのことを」

「それって…」


 陽炎が誰のことを指しているのかは六花にもすぐ理解でき、咄嗟に巾着を開こうとしたが、中の朔夜がそれを望んでいないことも同時に理解して黙ってそれをやめた。まだ静かな余韻に浸っていたい陽炎だったが、部屋の外が騒がしくなってきたことに気づいた青葉が急かした。


「母上、そろそろ」

「…えぇ、そうね」


 青葉に急かされてさぁこっちよ、と手招きする陽炎は座敷の奥の壁に掛けられた掛け軸を暖簾の捲り、その奥に隠された狭い通路の続く穴の存在を二人の前に現した。


「あの人が作らせた脱出用の通路よ。城の裏手に続いていて、出口は今は使われていない古井戸よ。青葉、そこからは貴方が先導しなさい」

「はい」

「二人とも、気を付けていってらっしゃい」


 青葉だけでなく六花にまで見送りの言葉を贈る陽炎に、二人はほぼ同時に「いってきます」と元気よく返事をして暗い通路の奥へと消えていった。二人の姿が見えなくなっても、それを静かに見送り続ける陽炎と浅葱。


 その後ろ姿を、終始覗き見る人影が一つ。


「――ふふ、使



 ❖ ❖



 常日頃使われることのない避難通路はその機密さが故に常設する灯りが一つもなく、自分の足元さえ視認できない暗闇の中で青葉の持つ手燭の灯りだけが唯一の頼りだった。石積みの壁に囲われた狭い通路は人一人がやっと通れるほどの幅しかなく、灯りを手にしている青葉が先頭になり一列で先の見えない闇の中をゆっくりと進行していく。入ってきた入口から随分と離れた頃に、手にした灯りで先を照らしながら青葉が朔夜に尋ねた。


「…どうして母上の前で名乗らなかったんだ? 朔夜」


 通路に入ってからは六花の巾着の中から脱してその腕の中に抱えられていた朔夜は、今の今まで黙ったままであった。

 実子である青葉は陽炎の実家や親類については勿論知っており、そのせいで十年前以降から随分と城内でも肩身の狭い生活を強いられていたことも嫌と言うほど知っていた。その母親の唯一残された親類の朔夜が何故、あの場で名乗らなかったのかを青葉は疑問に思い、凡その理由については察していながらも朔夜自身に問い質してその口からしゃべらせようとした。

 心配そうな六花の腕の中で沈黙を守ってきた朔夜だったが、案外にもあっさりと口を開いた。


「名乗れるわけがないだろう。僕たちの未熟が故の身勝手さで故郷と家族を失って、他に帰る場所もないのに今いる家で随分と肩身の狭い辛い思いをさせてしまった。そんな僕が、今更彼女の人生に関わるべきではないと思わないかい?」

「それは…」


 そう言いつつも本心では奇跡の再会を喜びたかった朔夜だったが、嫁いでいたが故にこの十年間相当な苦労を重ねた人生だったであろうと思えば、一体どの面を下げて再会を喜べるというのだろうか。


「…でも、言葉を交わさずとも彼女が母親として立派に二人の子供を育て上げたことはよくわかった。陽炎の傍にお前たち兄妹きょうだいがいてくれてよかったよ」

「…まぁ、俺は何もしてないけどな。母上のことを一番気にかけていたのは浅葱の方だ。浅葱あいつは昔から母上にべったりだからな」


 思えば末っ子の特権というのだろうか、浅葱は幼い頃から常に母の傍を離れることはなく、そんな娘のことが可愛くて仕方がない母に青葉の分まで甘やかされて育った。嫡男で跡取りの青葉を手ずから可愛がる機会の少なかった代わりに、陽炎はその愛情の殆どを浅葱に注いだのだ。そのためか浅葱が今でも家族の中で一番好きなのは母である。

 陽炎の腕の中で得意気な顔をした幼い頃の浅葱の姿を思い出し、その時感じた微かな嫉妬心を蘇らせながら少しむくれる青葉に六花は気づかれないように笑った。朔夜もいつか親子三人でまた笑える日を夢見て、その輪の中に自分がいることを想定して希望的な夢について語り始める。


「もしまた会えるならば、ちゃんと肉体を取り戻したその時にしたものだ」

「身体…、そういえば自身の身体の行方と、赫夜の行方を同時に探しているんだったな」


 地下牢の中で聞いた朔夜たちのこれまでの話を思い返した青葉は、その時に話しそびれたことを今になって思い出して声を上げる。


「あ、そうだ。その朔夜の身体についてなんだが、俺が知ってる限りではこの城内にそれらしきものを隠している様子はないな。父上からも特に立ち入り禁止にされている部屋はないしな」

「そうか…。てっきり青林のところかと思ったが、やはり首と同様に何らかの理由で予期せぬところにあるようだ」


 そもそも朔夜の首のみが六花の故郷の辺鄙な村にあったことから、分かたれた身体もまた、朔夜の予想を超えたところに現存しているのだろうと考えた六花は朔夜の言葉に共感するように何度も頷いた。

 そしてもう一つ、青葉は二人にどうしても話したいことがあったのだ。


「…それともう一つ。これは、お前の探し物のもう一つに関係していることだ」

「赫夜か!?」

「そうだ。二人とも、『常夜衆とこよしゅう』という名前に聞き覚えは?」

「いや、ないが…」


 『常夜衆』という聞き馴染みのない言葉に朔夜はまったく知らないことをすぐさま示し、その朔夜を抱えた六花も青葉と目が合うや否や首を横に振った。この話題を持ち出した青葉自身もつい最近までは聞いたことすらなかったが、ついこの前に父と大老の右京が話していたことを盗み聞きして初めて知ったのだった。二人の会話の内容を思い出しながら、青葉は六花と朔夜に説明を始める。


「最近、あちこちの領内で目撃されている謎の覆面集団らしい。全員が僧兵のような恰好で顔は覆面で隠していて見れば見るほど怪しい奴等で、そいつら曰く“龍神を鎮めた烏師こそが神”だと、文字通り烏師“赫夜”を信仰する集団だそうだ」

「ほぉ、それは随分と興味深い連中だな」

「…で、噂ではその常夜衆を率いているのが、密かに生き残った“赫夜”だって言われてるんだ」

「赫夜…!?」


 死んでから十年間、再会はおろか生死すら不明だった双子の片割れの名前に、朔夜は今までで一番驚愕した様子で声を上げた。自分の身体よりも優先すべき対象が現れた朔夜は、動けない状態ながらも言葉で青葉に詰め寄る。


「どこだ! その常夜衆とかいう奴等は、どこにいる!?」

「私も知りたい。青葉、教えて」


 一心に見つめてくる四つの瞳——そのうちの二つはただの空洞であるが――に気圧され、振り返った青葉は圧倒されながらも軽く咳払いして二人がこれから向かうべき『目的地』について語り出す。


「――奴等の最新の目撃情報があるのは、南の、『陵光領りょうこうりょう』だ」


 思い出の中だけで微笑む赫夜の姿を求めて、朔夜の思いは南へ向いた。

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