第拾弐話 若き青龍〈二〉


 同時刻

 孟章領『角都かくと』 “青龍城せいりゅうじょう


 長年、西の領地と東の領地を隔てていた魔境の地『天横山てんおうざん』は両方の領主にすら手出しできない場所であり、各領主は会談の結果天横山を放棄して通過を禁じた。しかしそれでも無謀にも山を越えようとする者は後を絶たず、山の中では人知れずに人々の死体が積み上げられていることだろう。二つの地の領主が頭を悩ませるこの問題が、突如として消え去ったのだ。


 六花を連れた商人の一行が天横山を無傷で通り抜けてきた。その報告を孟章領の領主、青帝せいてい青林セイリンは老中の一人から聞かされたのは数分前のこと。その予想外の内容に青林は思わず脇息きょうそくを派手に倒した。


「天横山を、通り抜けた…だと?」

「はい。関所の者からの報告によりますと、約二十人からなる商人の一行が全員無傷で通り抜けてきたそうです。その全員の検査を行わせましたが、特に不審な点は見受けられなかったようです」

「…念の為、何名か見張りをつけておけ。怪しい動きがあれば、すぐさま捕縛して連行するように」

「かしこまりました。何せ異例のこと、“念には念を”ですな」


 これまでの十年間、天横山を抜けてきた人間は一人もいなかったため、関所の役人によって綿密に検査したが、特に怪しい点は見受けられなかったため彼等をそのまま角都の中に入国させたという知らせだった。

 新たな悩みの種のせいで頭を抱えた青林を、彼の信頼する四人の老中の一人『右京ウキョウ』は心配そうに見つめた。青林の幼い頃から仕えてきた右京は彼をまるで息子のように可愛がっており、そんな彼が十年前の反乱以来、あらゆる難問を抱えて苦しんでいる姿に常に胸を痛めてきた。そんな彼の苦しみを少しでも肩代わりするために、右京を含めて四人の老中たちは彼の命令を忠実に実行してきた。故に今回も忠実に青林の命令を右京は受け入れる。


「右京。何人か腕の立つ者たちを連れて至急、天横山の調査に向かえ。噂の鬼がどうなったのか、確かめてこい」

「はい。ただちに」

「私も出向きたいところだが、今ここを空けるわけにはいかないから」


 自らの目で天横山の現状を確かめたいのはやまやまだったが、今はそれ以外にも『常夜衆とこよしゅう』という不穏分子の存在もあるため、領主である青林が城を空けるわけにはいかないのは仕方のないことである。

 そんな青林の代わりに名乗りを上げたのが、いつの間にか二人の背後に立っていた一人の少年。紺色の髪に金色の瞳をした青林と瓜二つの少々小柄な少年が、腰に刀を二本差して準備万端といった見た目で名乗り出た。


「じゃあ、俺が行こうか。父上?」

「“青葉アオバ”か」


 よく似たこの二人は紛れもなく血の繋がった親子であり、少年――青葉アオバは青林の嫡男であり跡継ぎである。十年前の朔夜たちと同じ十五歳の青葉は年相応に思春期の真っ最中であり、城の中で大人しくしていろ、という父の命令も聞けない様子で二人の前に現れたのだ。そんな息子に手を焼いている青林は顔を押さえて深い溜め息をつくと、すぐにその申し出を却下した。


「駄目だ。何があるかわからない危険な場所にお前を行かせられるわけないだろう」

「はぁ? 俺を舐めるのも大概にしてくれよ、父上。鬼の一匹や二匹、俺一人でも対処できる」

「十中八九、無理だ。それにお前はそろそろ剣術の稽古の時間だろう。師範はどうした?」


 青林が青葉の剣術の稽古の為に呼び寄せた名のある道場の師範の所在を聞けば、青葉は面倒臭そうにあぁ、と答えた。


「あの人の稽古ちっとも面白くないから、もう早々に帰した。大体俺に軽く一本取られるような人、師範としては役不足だろ」

「…まったく、お前という奴は」


 一向に許可してくれなさそうな青林の態度に青葉ついに不貞腐れてそっぽを向くと、踵を返して別の場所へ向かうことにした。その口にした目的地に、またもや青林は待ったをかける。


「はぁ…。それが駄目なら、俺は今日も“涼風スズカゼ先生”のところに行こう、っと」

「涼風、だと?」

「若様。涼風殿は既に。あまり不用意に関わりまするな」


 青葉の口にした『涼風』という名の人物に対して殊更厳しい物言いをする右京の態度に、青葉は更に不機嫌さを増して二人に背を向けたまま捨て台詞を吐いてやや強めに襖を閉じた。


「…俺は“先生”が間違っていたなんて、今でも思ってないから」


 パンッと力強く閉じられた襖を暫く見つめていた二人だったが、先に溜め息をついたのは右京の方である。


「はぁ。若様には困ったものですな」

「…あいつの言っていることもわからないでもない。しかし、涼風をそのまま傍に置いておくのは、他の者たちに示しが付かないからな」

「しかし、本来であれば重罪人としてこの地を追われても仕方のないところをただの解雇とは、殿は“あの一族”に甘すぎます」


 昔からの付き合いである右京からは耳にタコができるほど言われ続けている『甘すぎる』という単語に両肩を小さく跳ねさせた青林は居心地悪そうに視線を泳がせるのだった。


 そんな二人の会話を知らない青葉は座敷を出た後、広い屋敷内を正門に向かって一直線に進んでいくその途中、廊下の角で偶然出会った一人の美しい少女に優しく呼び止められた。


「あら、お兄様。どちらにお出掛けですか?」

浅葱アサギ。涼風先生のところだ」


 止めても無駄だぞ、と付け加えた青葉に対して少女――浅葱アサギはにこりと微笑んで、別に止めたりしませんわ、と答えた。お気に入りの萌木色の打掛のよく似合うこの少女は青林の長女であり、青葉の実妹。左右に丁寧に編み上げられた長いおさげの流れる艶やかな黒髪は光を反射する水のように輝きを放ち、兄弟揃ってそっくりな金色の瞳は丸々としていてとても愛嬌のある、なんとも可愛らしい姫様である。しかし可愛い見目とは裏腹に、気が強くはっきりと物を言う性格で、今も一人で出掛けようとする兄を自らの言葉で諫めていた。


「先生のところへ行くのはいいですけど、共の一人くらい連れていってくださいね。方向音痴なお兄様一人では心配ですから」

「俺のことはいい! それより、母上の様子はどうだ?」

「…相変わらずよ。父上の顔も見たくないようで、ずっと私の部屋に引きこもってるわ。そのせいで、今や“奥”を取り仕切っているのは鈴蘭」


 思い出すだけで腹が立つ、とこの場にいないあの華美な女のことを思い出しながら湧き上がるその怒りを噛み締めている妹の姿に苦笑しながら、彼女の悩みの種である父の側室の女と自分の母親のことを思い浮かべる。

 青林の正室であり青葉、浅葱の二人の母親である『陽炎カゲロウ』は元陰陽国の烏兎一族の分家の娘であり、十年前の反乱の折に両親と幼い二人の妹を失った。反乱より前に青林に嫁いでいた陽炎の命は助かったが、当時青林の母である義母とは随分と揉めて一時は離縁の話も持ち上がった。しかし青林が決して離縁はしない、と断固として拒否したため、最後には隠居の身である義父の「好きにせよ」の一言で事態は収束した。だが、反乱の際に両親だけでなく妹たちの助命嘆願を無視した青林への陽炎の信頼は地に落ち、以来陽炎は奥座敷の浅葱の部屋に引きこもり、一度として青林と顔を合わせていない。


 不仲な両親に挟まれた二人は各々に身の振り方を選択した。青葉はどちら側にも付かず、両親ともあまり関わらないことを徹底した。一方で浅葱は断然母親側に付いて、母の身を匿って父を決して寄せ付けないようにしていた。

 だがそこで浮上したのは、青林の側室のこと。青林は愛妻家で長年正室以外の女性を傍に置くことはなかったが、ほんの五年ほど前に西の白虎一族から先代の娘が側室として嫁いできた。それが『鈴蘭スズラン』である。青林からは一応敬われているものの側室として通ったのは一、二度ほどで、“奥”でもそれほどの権力があったわけでもなかった。しかし陽炎が鳴りを潜めると同時に、彼女の後釜に滑り込んだ鈴蘭は我が物顔で“奥”を取り仕切るようになり、今や女中たちを束ねる存在になりつつあった。それが気に入らないのが、同じように奥で暮らす浅葱である。当主の側室と息女の水面下の争いは、未だ決着がつかないままである。


「――母上には御身体に気を付けて、と伝えておいてくれ。それじゃ」

「わかりましたけど、たまには顔を見せに来てくださいね」


 いってらっしゃいませ、とにこやかに手を振って兄の背中を見送る浅葱の視界から青葉の背中が見えなくなる頃、後を追いかけてきた片眼鏡の初老の男が息を切らして後方から走ってきた。


「はぁ、はぁ、ひ、姫様。若の所在を、ご存じか?」

「まぁ大丈夫ですか、左京サキョウ? 兄上なら今日も、“先生”のところですわ」

「ま、またですか!?」


 片眼鏡の男――左京は右京と同じく四人の老中の一人であると同時に、嫡男の教育係も任されている人物であった。常に忙しなく動き、一所に留まることのない青葉を探している姿は既に日常茶飯事であるため、息切れした左京を見ても浅葱は動じることはない。

 そしてこの左京という男もまた、『涼風』という男の名前を知っていた。


「涼風殿、ですか。あの、のところとは…」



 ❖ ❖



 孟章領の都『角都』の城下町の南東の外れ、民家の少ない荒地にひっそりと身を縮めるようにして建つ小さな道場がある。常に静かな静寂に包まれた道場に門下生はなく、そこに一人で暮らし毎日のように道場をピカピカに磨き上げているのは、とある若い青年。三十代ほどに見えるその男はとある理由から追い出されるように九年前からそこに住みついており、剣術の腕に自信があるのかそこに元々あった古くボロボロになった道場を掃除して、新たに道場を開いた。しかしそんな身元の怪しい人物の道場の門を叩くものは一人としておらず、常に静寂に包まれている。

 だが男は決して悲観することはなく、今日も今日とて一人で道場の雑巾がけをしながら額の汗を拭う。男の正体は怪しいものであるが、その容姿だけ見るのならば随分と秀麗であり、掃除の際に邪魔になるため項でまとめた青みがかった銀髪はさらり、と風に舞い、常に穏やかな笑みを浮かべた目元は涼し気で、その見目だけを評価するならば好印象である。そんな彼の容姿を一目見ようと、町の若い娘たちが門の外に集まってくることも暫し。


 そんな男に会いにやって来るのはなにも、若い娘たちだけではない。その日も一人の人影が寂れた門の前に立った。その気配が素人の娘たちとは明らかに違うことに逸早く気づいた男は、雑巾を絞る手を止めて縁側に出てその人物に声をかける。その言葉には呆れを含んでいた。


「――若、もうここへ来るのはおやめくださいと申したはずですよ」

「やだね。俺の剣術の師匠は、今でも涼風一人だ」


 若と呼ばれた青葉が訪ねてきたこの男こそが、元老中の“涼風スズカゼ”である。涼風はまだ二十代でありながら青林に絶大な信頼を寄せられて老中になった彼だったが、十年前の“ある命令違反”を罪に問われて老中の席を追われた。死罪を免れたのは青林の慈悲故である。暇を出された涼風は領地も屋敷も取り上げられたため、都の片隅の平屋に引っ越した。元々独り身だった涼風は今や、着の身着のままの自由な生活を意外と満喫しているのだった。

 掃除を中断した涼風は青葉を縁側に座らせると、すぐに二人分の湯呑と細やかな茶菓子代わりに焼き栗を用意した。青葉が栗を好物なのを知っていて、涼風は前々から用意していたことを青葉を察して嬉しそうに頬張った。そんな青葉の顔を涼風も嬉しそうに見つめていたが、薄い茶を啜りながら今日この場にやって来た青葉をまた咎めた。


「若君。殿が心配いたしますので、ここへいらっしゃるのは今日限りにしていただきたいです。……という話を私は一体、あと何回すればいいのでしょうか?」

「父上のことなんて気にする必要ない。どうせ俺のことより“例の噂”のことしか、今は頭にないんだから」

「… 赫夜様の亡霊の噂、ですか」


 “烏師・赫夜が生きている”という噂は会合に出席していない青葉の耳にも届いており、その噂に父が怯えて夜な夜な魘されていることも知っている。そのことを涼風もまた、青葉から伝え聞いていた。その原因が十年前の自分にあると、涼風は己を責めずにはいられないでいた。


「…あの時、殿を諫めきれなかった私の不徳故の結果です。やはり反乱など、のです」


 そして涼風は十年前のことを思い返す。

 十年前の水張月みずはりのつき(六月)の夜のこと。陰陽国への挙兵を決めた青林の出兵準備の命令に対して、四人の老中の内涼風一人がそれを拒否した。青林はそのことに怒り、涼風に帰還するまで蟄居を命じた。そして無事に陰陽国を落として帰還した青林は蟄居の身の涼風にもう一度誠心誠意仕えてほしい、と頼んだが、それを涼風は拒否して自ら老中の座を下りた。

 最後まで自分の信念を貫き通したその涼風のことを青葉は今でも師匠と仰いでおり、新たに任命された剣術の師を無視してまでもこの場に通っているのだ。しかしそれを涼風は決して良しとはしない。それは青葉の立場を考えてのことであった。


「青葉様、私は家臣でありながら殿の命より、自分の信念を優先した男。そんな男に一体、何を学ぶことがありましょうか」

「俺は、貴方を解任したことを父の失態だと思ってます。父上に必要なのは、自分を諫めてくれる家臣だと俺は思う」

「若様…」

「だから、どうか戻ってきてくれ。何世代にも渡って我が青龍一族を支えてきてくれた一族の末裔の涼風だからこそ、父上には必要だ」


 涼風の血族は青龍一族が初代『伽藍ガラン』の代から始まって以来、何世代にも渡って仕えてきた一族であり、先代が一人息子を残して病死してからはその息子である涼風のみとなってしまったが、その先代には青林だけでなくその父も随分と世話になった。その恩を父の代で切ってしまうことを青葉はまだ未熟ながら恐れていた。

 しかし涼風の決意は断固としてそれを拒否し続けるのだった。


「若様、折角のお申し出ではありますが申し訳ございません。私は未だ、罪を背負う者故」

「その罪とは…?」

「…“忠義”を家訓としてきました青龍一族に、反乱をさせてしまった。それは、我々家臣一同の罪です」


 そう告げた涼風はあの日のことを思い出す。十年前に兵を連れて帰還した青林の様相からは血の臭いが立ち込め、その傍らの兵士によって掲げられたその桐箱に収められているであろう“首”をちらりと一瞥しては顔面を蒼白に染める、青林の顔を。その時に涼風は今までに感じたことのないほどの後悔の念に胸を痛め、その痛みに耐えられないからこそ、涼風は青林のもとを離れた。


 しかし、罪はなおも生き続ける。己が朽ちる、その時まで。



 今日も涼風の説得に失敗した、と落ち込んだ様子で帰路に着く青葉は、しょぼくれた顔を俯かせながらとぼとぼとした力のない足取りで、活気ある城下町を歩いていた。まさか青龍の若君が共も連れずに一人で城下を歩いているなど露ほどにも思わない町民たちは、一人歩く少年を見向きもせず、各々の生活を営むのに忙しない。

 活気のある町の中に相応しくない大きく深い溜め息をついた青葉は、思わずその手に握っていた涼風からの土産の巾着袋を落としたがそれに気づかず去ろうとするその背中を、小さな影が慌てて追いかけて声をかけた。


「――あの! 落としましたよ」

「…ん?」


 背後から呼び止められて生気のない顔で振り返った青葉だったが、その後ろに立っていた小さな人物の顔を見るや否や、目を見開いて静止した。青葉を呼び止めたのは彼の落とした巾着袋を持った、黒髪に石榴のような真っ赤で丸々とした瞳の愛らしい少女——六花リッカだった。突然呼び止められて驚いた様子の青葉を警戒させないように、六花は優しく微笑んで巾着袋を差し出した。


「これ、落としましたよね?」

「あ、あぁ。俺のだ」

「よかった。人違いだったらどうしよかと思ったの。中の物は大丈夫ですか?」

「平気だろう。知人から貰った焼き栗だから」


 巾着の中身は殻の付いたままの栗であったため、青葉が落としたとしても大丈夫な代物であった。そのことを伝えれば、六花はよかったと胸を撫でおろした。

 用が済んだ六花はそれじゃあ、と手を振って駆けていった。その背中を青葉は名残惜しそうに見送った。その姿は目に焼き付いた青葉は、暫しの間その場に呆然と立ち尽くしていた。

 その顔が尋常ではないほど紅潮していることは、本人だけが知らない。

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