第拾壱話 若き青龍〈一〉
その昔、初代陰陽国の兎君と烏師に仕えた青龍の一族の始祖『
四方暦九年
東・
青林の朝は早い。毎日朝日が昇る前に起床する彼は、成人してから今まで一度として近侍に起こされたことはない。領主としてやることが山積みである青林は朝は寅の刻から、夜は亥の刻まで働きづめであり、彼の真面目さは周囲の家臣たちが過労死を心配するほどである。他にも、領主は基本的には城の一番奥の座敷で休むが、現在奥向きを取り仕切っている正室の奥方と青林は関係が酷くこじれており、今や顔を合わせることも稀な現状を家臣達は各々嘆いていた。
そんな悩みに小さく溜め息をつきながらも青林を起こすために小姓の“
「殿、お目覚めの時間でございます」
すぐに中から返答があると思って暫しの間待ったが、返事はない。それどころか物音一つしないことに一抹の不安を感じ、圓は失礼します、と許しの言葉を待つことなく襖を開いた。するとその向こうに広がっていたのは、一面の“赤紫”であった。
「え…」
「――そこを、どいてくれるかしら?」
一面に広がる赤紫のその頭上から聞こえてきた美しい女の声である。その声はこの城の奥を知っている者であれば誰しもが一度は聞いたことのある、正室とは別の女のものであり、圓はハッとして顔を上げた。そしてそこにいたのは、美しい赤紫色の打掛を身に纏った冷たい瞳の女、その女の名は『
「あ… 鈴蘭さま…?」
「そうよ。わかったのならさっさとどきなさい」
鈴蘭は目の前の圓を払い除けると、欠伸を噛み殺しながら奥の間へと戻っていった。その背中を見送りながら圓は彼女の出てきた寝所を覗くと、青林がまだ寝間着姿で布団に上半身を起き上がらせていた。その瞳はまだ虚ろで未だ寝惚けた様子の青林は、ゆっくりと首を回して圓を見ると、ハッと目を見開いて慌てて身なりを整えた。
「…おはよう、
「い、いえ! 本日は鈴蘭様が起こしとのこと、知らずに出向きまして申し訳ございません!」
「あ、いや。彼女は昨夜からいたのではない。つい先程来て、私を起こしにきただけだ」
だから気にするな、と寝起きの鈴蘭を目にして初心にも耳を赤く染める圓を青林は宥めた。まだ十代前半の圓には少し刺激が強過ぎたか、と思った青林は今後彼女にこの部屋に来ないようにきつく言っておく必要があると思案しながら布団から抜け出る。青林に宥められて頭を振って赤く染まった耳を治すと、ここへ来る前にされた“頼まれ事”を一つ思い出して懐から一通の手紙を差し出した。
「上様。実はこちらをお預かりしてきました」
「これは…?」
手紙を受け取った青林はその差出人を確認すると、その顔色は凍り付き息を飲んだ。封書の隅に書かれていた差出人の名は『
震える手で封を破る主人の様子に圓は首を傾げて見守る。中には一枚の手紙が入っており、丁寧に折りたたまれたそれを開いて中身を読む。
その内容を読んで青林は声を震わせて呟いた。
「…… 朔夜が蘇った?」
そう呟いた瞬間、青林の中で十年前の罪が呼び起こされる。それはかつて堕とした、首の感触。
❖ ❖
天横山を抜けるには休息の時間も計算して丸七日はかかる。六花が別の商人の一行と合流し、六回目の朝日を見る頃には鬱蒼とした森を抜けて、広い草原の風景のその先にある城下町が目の前に姿を現した。高い石垣に囲まれた孟章領の首都『
だが、六花の方には問題有りまくりであった。
「――さて、この未曽有の危機をどうやって切り抜けるか。それが問題だわ」
「…六花。確かに問題だけれども、そんなに壮大に言う必要はないと思う」
手に持った小振りな骸骨に向かって、六花は真剣な面持ちで壮大に今の問題点について語った。しかし六花が言うほど現状を問題視していない朔夜は、軽くさらりといつものように返答する。そんな朔夜を呑気すぎる、と六花は頭を抱える。
「だって、だって! 聞いた? 孟章領の関所はどの領地よりも厳しくて有名だって!」
この六花の話はつい先程、一緒に山道を抜けてきた商人の男から聞いた話であった。
森の中で
そこから丸四日間かけて深い山道を抜けてようやく草原地帯に出た一行の前に現れたのが、念願の孟章領の首都『角都』の高い石垣であった。長い山道をひたすら進んできた商人たちは目の前に現れた目的地の姿に喜びながら、その空気の中で六花も同様に歓喜の笑みを浮かべた、その時だった。顎鬚の商人は喜びの笑みを浮かべたまま、角都に入るためには関所を通過しなければならず尚且つ、その関所というのが稀に見る厳しさであることを軽く説明したところ、六花の喜びの笑顔はピシッと凍り付いたのだった。
そして今に至るわけだが、数分前とは打って変わり顔面蒼白な六花を巾着の中から朔夜は必死に宥めた。
「…はぁ。そんなに緊張してたら逆に怪しまれるよ。落ち着いて、深呼吸」
「はぁ…、無理だよ。どうしよう、このままじゃ角都に入れないかも」
完全に消沈している六花を冷静に宥める六花だが、内心では同じ問題に首を捻っていた。領地の首都というのは領主とその一族が住む場所であるが故に、他の町などに比べて出入りが困難であり、本来であれば『通行手形』というものが必要になってくるが、その問題は運よく商人の一行と出くわして一緒に入ることになったため思いの外簡単に解消された。しかしやはり最大の問題は、関所の役人たちである。領主自ら関所を任されている役人たちの執念は他の関所の比ではなく、女性や赤子であろうとも身体検査から手荷物検査まで全てが念入りであるという噂。六花の場合、身体の方には特に目を付けられるようなものはないものの、手荷物のことになると朔夜がいる。巾着の中を見られた時の言い訳をしっかり考えておかなければ、本番で焦ることになるのは明白。
さてどうしたものか、と朔夜が黙って頭を捻っていると、ハッと何か名案を思い付いたのか、そうだ! と声を上げた。
「六花。ちょっと耳貸して」
「なぁに?」
それは、朔夜が思いついた『秘策』であった。
孟章領の『角都』の三か所の門はどこも同様の長さの行列が出来上がっており、領内からだけでなく他の領地からやって来た商人や旅人、もしくは里帰りの人々が順番はまだかまだか、と首を長くしながら待っていた。その中でも西側の関所は一番の行列を成している正門の関所側を避けてきた人々が列を成しており、天横山からやって来たのは六花たちのみである。そんな六花たちを見るやいなや、物珍しそうに視線を送る人々も多く、ある者は好奇の視線、またある者は未知の恐怖を湛えた視線を流してくるため、六花たち一行は若干の居づらさを感じていた。そんな居心地の悪さを我慢しながら待つこと約三時間後、六花を連れた一行の番を迎えた。
次、次、と役人の声掛けを合図に商人たちが関所の中に一人ずつ入っていくのを最後尾で見つめていた六花は緊張で固唾を飲む。そんな六花を朔夜は大丈夫だよ、と小声で励ました。
そしてついに、六花の番がやってくる。
「次、入れ」
「……はい」
解けない緊張した面持ちで関所の扉をくぐった六花が最初に通されたのは、真っ暗な一畳半の小部屋。そこには一本の蝋燭の灯りしかなく、暗闇の中で一人の妙齢の女がゆらゆらと影を揺らしながら立っていた。入ってきた扉が完全に閉じられ、薄暗い闇の中で女は六花に命じる。
「…服を脱ぎなさい。これより検査を始める」
流石に子供とはいえ、女性の身体検査は女性がしてくれるのかと安堵した六花は命じられるまま着ていた衣服を脱いで、視界の悪い暗闇の中で日に焼けぬ素肌を躊躇なく晒して見せた。
役人たちが警戒しているのは何も暗器の所持だけでなく、身体に刻まれている『術者の証』である。この地には古くから『鬼道』の術者と、『法術』の術者の二種類が存在している。『鬼道』の術者は烏師以外ありえないが、逆に『法術』の術者はある特殊な修行さえ積めば習得できるものであり、領主たちの戦力の一つでもある。各領主たちはそれぞれの法術者の部隊を有しており、彼等を重用しているがその例に漏れた術者たちが存在し、彼等が今の『四君主体制』に不満を抱いた
特に怪しい物を所持している様子のない六花の身体を触れて念入りに検査すると、女はもう着ていい、と言って六花から離れた。第一関門の終了にホッと胸を撫でおろした六花は即座に衣服を着直す。その終わりを見計らった女は自身の背後に隠していた次に通じる扉を開くと、無言で六花に進むように促す。
一度深呼吸して次の扉に進めば、その向こうには先程とは一変して格子窓から差し込む日の光に照らされた明るい座敷であり、上座の一段上がった畳の上に置かれた文机の前には中年の役人が厳しい表情で六花を待ち構えている。六花はその下座に膝を折ると、文机の上に並べられた私物を見つけてその中に朔夜の隠してある巾着があることを確認してホッと胸を撫でおろした。どうやらまだ中身は見られていないようで、役人は一つひとつ私物を目の前で検査していく。
厳しい詮議の眼差しを光らせる役人の手がついに、朔夜の隠れている巾着に触れようとしたその時、六花が制止の声を上げた。
「――その巾着には、お手を触れないようお願いいたします。お役人様」
「…なに?」
それまで一言も発することのなかった六花の突然の言葉に、役人は顔を上げて疑惑の眼差しを六花に向けた。役人たちの厳しい眼差しの中、背中を冷たい汗がつーっと伝うのを感じながら、六花は意を決して朔夜に言われた通りの話を彼等に聞かせる。
「…実はその巾着は、私の生まれた村の“とある風習”に則って持たされた物でございまして。我が母より、中の物には決して触れてはいけない、と強く言い聞かせられております。故に、どうかご容赦を」
「ほぉ。 その風習とは、どういうものか聞かせてくれるか?」
「はい。私の村は西の監兵領の北西の外れにあります。村では旅立っていく村人に対し、一つのお守りを渡すのです。それは旅人を道中のあらゆる災厄から守るための物であり、旅の最中は肌身離さず持ち歩きます」
六花は出鱈目な嘘を吐くたびに渇いていく喉をなけなしの唾液を飲んで潤し、なんとか次の言葉を必死に紡いでいく。
「そして、その中身なのですが…」
「なんだというのだ?」
「……その旅人の、亡き親族の頭蓋でございます」
「な、なんだと!?」
手にしようとしていた目の前の巾着の中に人間の頭蓋が入っていると聞いた役人は咄嗟に手を引っ込め、周りに立っていた者たちも思わず一歩下がった。中身を知った途端、目の前に置かれた何の変哲もない巾着がまるで何か得体の知れない代物に見えてきた役人たちは、その根拠のない恐怖感を首を振って払い除けると、更に六花を問い詰める。
「…そ、そうか。ところでこの巾着はやけに小さいが、中にいるのは其方の親族に誰なのか、聞いてもよいか?」
「はい。そこに入っているのは、私の双子の兄でございます。兄は私と共に生まれるはずでしたが、残念ながら死産となりました」
ここで六花は更に目尻に涙の一粒を浮かべて、あたかも亡き兄を偲ぶように語り始める。
「故に母が、せめて私の旅に同行して共に広い世界を見てきなさい、と言って兄をお守りに選んでくださったのです」
「そ、そんな経緯が…」
「お役人様。どうか、ここで兄の姿を露わにして死者を辱めるのはご容赦ください」
嘘泣きする六花の姿を憐れに思った役人は先程までの厳しい眼差しを緩ませ、動揺した様子で承知した、と六花の願いを聞き入れて巾着から視線を逸らした。
その後の検査は順調に進み、すべてを検査し終えた役人は怪しい点がないことを確認して六花に荷物をすべて返却した。その際、六花はとある事を思い付いて声を上げる。
「あの、お役人様。先程はご容赦していただきましたが、やはり真に潔白を証明するためにも、この中も見ていただいてもよろしいでしょうか?」
「え。しかし、それは亡き兄上の…、それに中身を見てはいけないのでは?」
「はい。でも持ち主の私から見せれば大丈夫だと思います」
さぁどうぞ、と六花は巾着の口を開いて役人たちの前に差し出す。その中を恐る恐る覗き込んだ役人たちは、その中の物言わぬ白骨の頭蓋の姿に驚き全員三歩ほど後ろに下がって苦笑を浮かべた。
「だ、大丈夫そうだ。もう行ってよいぞ!」
「はい。ありがとうございました」
大分引き気味の役人たちに促されるまま巾着の口をきっちり閉めると、六花はにっこり笑って一礼してから彼等の後ろの扉を通って都入りを果たした。
木製の扉を通り抜けた先には活気ある城下町の風景が広がっており、それを見るや否や六花の膝の力はみるみるうちに抜けていき、そのまま必然的に地面に座り込んでしまった。
「き、緊張したぁ…」
「――お疲れ様」
大変な大仕事を見事成し遂げた六花を真っ先に労ったのは、それまで巾着の中で物言わぬ頭蓋を演じていた朔夜である。それまでよく口を出さずに気配を消していてくれた朔夜にも、六花から同様に労いの言葉がかけられる。
「朔夜もよく耐えてくれたね、ありがとう」
「まぁ何度か口を出しそうになったけどね。よく言ったよ、あんな大法螺」
「初めてあんな大嘘ついた…」
六花が役人の前で吐いた『御守り』の話は、つい数十分前に朔夜が考え出した真っ赤な嘘。作り話である。それを震えずに噛まずに見事熱弁した六花は、まさに見事としか言いようがない。
しかしそんな大仕事を終えた六花だったが、その顔は一向に晴れる気配はなく、逆に暗く沈んでいく一方であった。そんな六花の様子に疑問を抱いた朔夜はその理由を問いかけた。
「…どうかした?」
「実は、女性の役人に身体検査された時に…」
「まさか、何かされたんじゃ――ッ」
「……変わってなかった」
六花の身を案ずる朔夜の慌てた様子とは裏腹に、六花は非常に聞き取りづらい声でぼそりと呟いた。しかしその次に続いた言葉に、朔夜は思わず白骨の顎が外れそうになった。
「…胸の大きさ、全然変わってなかったの!」
「……はぁ」
もはや出てくるのは、重い重い溜め息だけ。
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