第拾話 血涙流るる森の中〈三〉


 鬼になった棗子は、決して一人で戦えないわけではなかった。彼女が常日頃から使役している分身の鬼たちは、彼女の全戦力というわけではなく、ただ多くの人間を襲い食べるための“器官”に過ぎない。彼女の本当の戦力の要は、その強靭な“皮膚”である。鬼としての爪と牙は勿論だが、彼女の最大の強みは月光の下で淡く輝く白磁の肌であり、それは美しいだけでなく頑丈をもって並大抵の刃ではかすり傷一つ付けることが叶わない程。防御こそが最大の攻撃、それを体現しているのが鬼神・棗子ソウシである。


 棗子は角隠しと羽織っている白無垢の打掛を脱いで地面に落とすと、その額から伸びた黒い二本の角をその姿を現し、揺らめく袖から覗く白磁の肌は身に着けた白無垢に劣らず輝いていた。その強固な皮膚の防御を前に振るった刃を弾かれた棗は一歩後退して手にした刀身が刃こぼれしていないか確認すると、すぐさま突きの構えをとった。一息つく暇もなく突撃していった棗は伸びてきた棗子の鋭利な爪の攻撃を紙一重で避け、恐らく生身の弱点と思われる彼女の眼を狙って刃を突き出した。

 が、その今にも突き立てられそうな刃を彼女の“瞼”がいとも容易く受け止めてしまった。硬い皮膚に衝突した刃はその衝撃に耐えられずついにパンッと音を響かせて折れてしまい、棗もその隙にできた懐の空いた箇所に棗子の鋭い爪の三本が突き刺さった。そのまま棗の脇腹を抉り取ろうと棗子が腕を動かそうとした瞬間、棗はその腕を掴んで無理矢理に引き抜いて即座に後退する。


 その様子を横目に捉えながら鬼二体と対峙していた朔夜は、折れて使い物にならなくなった刀を投げ捨てた棗を見て、何か些細な違和感を抱いてそのまま観察していようとするも、それは襲い掛かってきた鬼たちによって阻まれた。地面を割ってしまうほどの強力な拳をひらりと躱し、余裕の笑みを決して絶やすことはなかった。


「…うーん。流石にただの人間に鬼神一体を倒させるのは無理があったか。やっぱり加勢に行こうかな…」


 そんな思案をしながら独り言を呟いている朔夜の右の袖からは、いつも先陣を切りつつある水虬みずちの一対『水月すいげつ』が飛び出して向かってくる鬼の一体を牽制しながら朔夜から距離を保っていた。一方左の袖からは、そんな無鉄砲な水月を援護するように動くもう一対の『氷月ひょうげつ』が鬼の足元を陣取ってそれ以上朔夜に近付けさせないようにしていた。

 自由自在に動く水虬に翻弄されて満足に攻撃のできない鬼たちに気づいた本体の棗子が朔夜を危険視して向かって来ようとした。しかしそれは目の前に立ち塞がった棗によって妨げられた。脇腹から流れる血を必死に押さえながら、武器もなく立ち塞がる棗の姿を目にし、棗子は忌々しく舌打ちを響かせた。


【…邪魔をスるな、兄様。もハヤお前に、興味はナイ】

「っ… お前の相手は、兄である俺で十分だ」


 その言葉を聞き逃さなかった朔夜は生身の人間でありながら鬼神を前にして一歩も怯まない棗の姿勢をいたく気に入り、水月で鬼二体をまとめて大木に括り付けて頑丈に拘束すると、棗の傍に自ら歩み寄った。


「…気に入った。ならば本気を出せ、棗」

「なに…?」

「お前、?」


 そう確信を突いた問いを投げかけながら、朔夜は先程棗が投げ捨てた刀を一瞥してその雑な扱い方について考察する。棗の帯刀していた刀は刀身に若干の刃こぼれもあり、柄も使い古されているようで一見すると鍛錬を重ねて使い慣れているように見えるが、当の使い手である棗の動きにはぎこちないものが多く、かつて兎君として剣術も一通り学ばされた朔夜の眼からしても棗は決して刀の扱いがうまい方ではなかった。それも彼が一年前まで商人であったことを踏まえればごく当然のことではあるが、それよりも気になったのが棗が刀を振る時の“間合いの詰め方”であった。棗が刀を振るう時、敵の距離感が遠目から見ても刀を振るう者とのそれとは違い、明らかに間合いが。それはどちらかと言えば、もっと長物の武器を扱う時のようだった。それで朔夜の中でようやく合点がいった。


「棗お前、本当の武器は槍か何かだろう?」

「… まったく本当にお前何者だ。俺の動きを少し見ただけでそこまで見抜くとは」


 朔夜の碧眼に鋭く見抜かれて棗は降参、と言わんばかりに両手を上げて肩を竦めた。どうやら朔夜の言ったことはすべて図星だったようだ。しかし棗の持ち物には得意の長物は見当たらない。


「で、その相棒はどうしたんだ?」

「ない。ちょっと事情があってな」


 包帯の裏で苦笑する棗の軽い雰囲気に、それまでの“妹の行方を必死に捜す兄”の仮面が剥がれたようで妙な違和感を感じた朔夜だったが、その疑問を今は後回しにしてとある名案を思い付いて徐に足元に落ちていた太めの木の枝を拾って棗に渡した。朔夜の意図が汲めず首を傾げた棗だったが、瞬間しゅるりと巻き付いた氷月ひょうげつに驚いて半歩退いた。


「な、なんだ!?」

「即席だが、刃の鋭さは保証するぞ。これで本気を見せてくれるな?」

「……しょうがないねぇ」


 木の枝に赤い胴の部分を巻き付けて、先端を枝の先に固定した氷月の即席の槍を手にした棗はそれの使い心地を試すように軽く振り回すと、不敵に笑って棗子をもう一度眼前の敵として鋭く捉えた。二人のやりとりにさして興味もなくただ黙っていた棗子は、棗の向けた氷月のただならぬ“霊気”に勘付き、再度殺気を露わにして身構えた。

 巻かれた包帯の下でニヤリ、と笑った棗は力強く踏み込むとあろうことかせっかく手にした槍を棗子に向けてそれを投げつけた。向かってくる槍の先を自慢の皮膚で弾き返そうとするが、普通の刃ではない氷月の穂先は強靭な棗子の皮膚を掠め、ついにその皮膚に掠り傷を負わせた。傷つくはずのない自分の皮膚にできた初めての傷に驚いていた棗子だったが、すぐに槍を投げた棗を姿を捜すもそこに立っていたのは、朔夜一人であった。


【っ…奴はドコに?】

「…さぁ? よぉーく、目を凝らしてごらんな」


 朔夜のそんな言葉通りというわけではないが、棗子は周囲を見回すも棗の姿を捉えることはできない。が、視線の端で解けた包帯がヒラリと舞った。それに気づいて自分の足元を見下ろした時には既に遅かった。槍に気を逸らされた棗子の懐に潜り込んだ棗は狩猟用に所持していた小刀を構えるとそのまま見下ろした彼女の右目を突き刺した。一瞬のことで瞼で防御することのできなかった右目には小刀が突き刺さり、痛みに悶える棗子の隙をついて投げて地面に落ちた槍を拾うと、棗子の心臓に向かってトドメの一撃を容赦なく突き刺した。



 その瞬間、棗子の脳裏を過ったのは自分が“人間を捨てた時”のこと。


 家族から疎まれ、遠く離れた親戚筋の商家に奉公に出された棗子は彼女の意思とは関係なく、次は更に東の地に嫁入りすることになったが、その時の棗子にとって嫁入りは一筋の希望の光であった。まだ見ぬ相手ではあるが、その人と結ばれて子を産み育て、自分の家族を持てばようやく幸せになれる。そう、純粋な心で信じていた。

 そんな彼女のたった一つの小さな希望すらも打ち壊したのは、実家から彼女に付き従うよう命じられてきた二人の女中だった。高飛車で自己顕示欲の高い彼女たちはまるで幸福な棗子を妬んで、態と聞こえるようにとある噂話を始めたのだ。深い森の中、暇を持て余していた女中たちは棗子の乗った輿のすぐ側で、信憑性の欠片もない噂話を語り出し、それは勿論棗子の耳に確と届いてきた。


『——聞きました? お嬢様のお相手、今回で初婚ですけれども既に寵愛する側女がおられるとか』

『知ってますよ。身分はただの女中だそうですけれど、大層お美しい方だそうで。お嬢様では到底、勝ち目はなさそうですねぇ』

『そりゃそうでしょう。だってお嬢様の御顔には、生まれつきがあるのですから』


 棗子は母の腹から出でたその時から額に大きなアザがあった。父にまったく似ていない容貌と相まって両親から疎まれる原因であったそのアザを、棗子はまるで仇のように憎んでいた。必死に白粉で隠してきたそれを揶揄され、尚且つ自分にとって唯一の希望であった結婚相手への失望に、彼女の中で何かが壊れてしまった。そんな彼女の心の砕けた音に気づいた鬼神は、崩壊を始めた己が身体を捨て魂のみとなって棗子の耳元で甘い言葉を囁いた。


【――コレデイイノカ? オ前ハコノママ、自分ヲ嘲笑ウダケノ奴等ノトコロニ、行クノカ?】


【コンナ奴等ナンテ、全員消シテシマエバイイジャナイカ。今マデ散々好キ勝手ニ言ッテキタ奴等ダ。ココデオ前ガ殺シテ、何ガ悪イ?】


【殺セ、コロセ 殺シテシマエ! ソシテ何モカモカラ、自由ニナルノダ!!】


 鬼神は崩壊寸前の自分の身体の代わりになる“器”を探していたこともあり、丁度出くわした棗子の身体を乗っ取るために非道な甘言を囁いたのだ。長年に渡り降り積もった負の感情を貯め込んだ棗子の身体は“器”としては最適であり、なんとしても手に入れなければ、既に崩壊寸前の身体から魂だけ抜け出してしまった鬼神はこのまま消滅してしまうところであった。そんな鬼神の事情など知る由もない棗子は、鬼神の甘言に耳を傾けついに胸の内に秘め続けてきた激情がその場で爆発してしまった。


「……そうだ。わたしを醜いと言った者、嘲笑った者、遠ざけた者、すべての者を、殺して殺しつくして、地獄の業火の中に叩きこんでやる。そうでなければ、わたしのこの心は決して安らがないのだから――!!」


 自分を少しでも苦しめた人々への復讐を決意した棗子と、彼女の身体を手に入れたい鬼神の利害が一致し、その瞬間棗子の身体は鬼神へと変貌していった。暗闇の中輿から飛び出した棗子は、忽ちの内に辺り一帯の人々を皆殺しにしてそこに血の川を作った。

 ようやく解放された棗子だったが、激情を吐き出して空っぽの心に残ったのはどうしようもない“虚無”であった。それを味わった彼女はその時初めて自分の本心に気づいた。自分は誰かに復讐して見返してやりたかったわけではなかった。彼女の本当の望みは“誰でもいいからたった一人でも、自分を認めて愛してくれる”ことであった。しかし既にその手を血で染めて、人の道を踏み外した彼女にはもうその望みは叶うことはない。


 血で染まった自分の手を見つめた棗子は、その時何もかもを


【………もう、ドウでもイイや。全部、ぜんブ、壊しテしまエば楽になれるヨね】


 …


 ……


 ………


 …………?



『—――あのっお嬢様! こ、これ、よければ!!』


 幼い棗子の目の前に差し出されたそれは、なんの変哲もない一輪のシオンの花。それは棗子が西の商家に奉公に出る前日、突然下働きの少年に突然渡されたものであった。顔は見たことあるが、面と向かって会話をしたのはその時が最初で最後だった。


 彼のくれたシオンの、花言葉は… なんだったかしら?


 ……それをくれた少年は、どんな顔だったかしら?


 ……


 ———もう、思い出せない。




 それは死ぬ間際の、走馬灯。鬼になり果てても尚、死ぬ時には走馬灯を見るものなのだと知った棗子は、最期に安らかに苦笑した。


【… しょうがない、人生だった、な】


 そう自分自身に呟いて、棗子はその場に倒れた。虚ろに開いた瞳には何も映しはしなかったが、その表情は少しだけ微笑んでいるようであった。倒れた棗子の生気のない身体に歩み寄った棗は、彼女の両の瞼をそっと閉じさせると、その胸元に一輪のシオンの花を添えた。

 その行動を遠目から見つめていた朔夜は、拘束していた鬼二体も同時に消滅したのを確認して水月と氷月を袖の中に呼び戻して、ずっと頭の片隅で淀んでいた棗への疑問を口に出して問うた。


「…で、?」


 そう質問した朔夜には、ある核心があった。それは彼に得意の槍を急ごしらえで与えた時のこと。その素人とは思えない動きに、朔夜は彼が『本物の棗』ではないことをその時ようやく確信した。そんな朔夜の疑惑の目にも気づいていた“棗を名乗る男”はもう誤魔化せないと悟った男はついに顔の包帯を解いた。しゅるり、しゅるり、と丁寧に解かれた包帯は土の上に折り重なっていき、最後のひと巻きが彼の手を離れたその時、淡い月光の下でその相貌が露わになった。

 夜空から降り注ぐ月光で輝く朱色の癖のある髪はまるで燃え滾る炎ようで、その隙間から覗く黄金色の瞳を細めて不敵に笑ってみせたのは、傷一つない綺麗な容貌の青年だった。


「…やっぱり。お前、本当の名は?」

扶桑フソウだ。宜しくな、少年」


 先程までの固い口調とは裏腹に、砕けた気安い口調になった青年――扶桑フソウの軽薄な態度に朔夜はあまりの変わり様で苦笑しか出なかった。


「で、そっちは? こっちに名乗らせておいてまさかだんまり、なんてことはないよな?」


 鋭い視線で射貫いてくる扶桑に、朔夜は下手に隠し立てして怪しまれるのは得策ではないと判断し、素直に自分の名前を告げる。


「…朔夜サクヤ

「…なに? それは本当の名前か?」

「勿論。正真正銘、僕の名前だ。今借りている身体は、六花のものだが」


 朔夜の名前と六花の身体を借りているという事実に扶桑の警戒心は一層強まり、このままもう一戦交えるのは六花の負担を考えて避けたい朔夜は、手短に事情を説明した。自分が元陰陽国の兎君である事、六花とは契約関係にある事、そして自分の身体と双子の兄の行方を探している事、を。

 嘘のような朔夜を話に対して扶桑は真面目に耳を傾け、最後にはなるほど、と一言で納得したことを告げた。


「…信じるのか? こんな突拍子もない話を」

「信じる他ないさ。こんなものまで見せられてはな」


 すると二人が話している間に崩壊を始めていた棗子の身体が、ついに完全なる灰と変わって夜風で舞い上がった。その様はまるで散華のようで儚くもあり美しかった。その灰の一片を名残惜しそうに扶桑が撫でるのを見て、朔夜は何故赤の他人である彼が棗子の兄と偽って彼女を捜していたのか、その理由を問い詰めた。


「扶桑お前、何故兄の名前を名乗って棗子を捜していたんだ?」

「… 依頼されたんだ。に」



 ❖ ❖



 時は、六花たちが天街てんがいを出た二日前に遡る。


 時を同じくして天街にいた扶桑と、依頼者の商家の若旦那“棗”はとある依頼の内容を聞くために本拠である南の『陵光領りょうこうりょう』から離れて西の天街までやってきていた。天街でも有名な天園屋てんえんやの座敷にいるというのに、そこに妓女も呼ばず男二人で酒を酌み交わすのは、なんとも寂しいな、と心の中で扶桑が苦言を呈していると、既に少量の酒でしまっている棗が随分と大きな声で身の上を語り始めた。


「聞いているのか!? 扶桑殿には一刻も早く、を始末していただきたいのです!!」

「あー…はいはい。わかってますよ、旦那」


 南の都でも名高い反物屋として長く続く商家である棗の一家の繁栄には偏に、初代の主人が美しい反物の似合う絶世の美女であったことが関係している。棗の実家である反物屋『名花屋めいかや』を起こした主人は若き日に一人の美しい花嫁を貰った。仲睦まじい夫婦の姿は周りが羨むほどであったが、その姿は一年後には消え去ってしまった。最愛の妻とまだ生まれてすらいない一人息子を置いて旦那が死去した名花屋は、次の跡取りを誰にするかで随分と揉めに揉めたが、そこに堂々と名乗りを上げたのは大きな腹を抱えた後家の“鳳梨ホウリ”であった。周囲の反対を押し切り、生まれた子が男児であればその子こそが正当な名花屋の跡取りである、と主張して息子であればたなを彼女に任せるという約束をした。

 そしてその後生まれたのは、立派な男児であった。約束通り店を譲り受けた彼女の商人としての手腕は見事なもので、ものの一年で名花屋を大店おおだなへと発展させた。その中でも有名な話が、彼女が豪奢な反物を自ら着て見せて売り込んだ、というものである。

 その美しさは代々名花屋の一族に受け継がれていたが、数十年後のある日その美貌の血は突然途絶えた。顔に生まれつきの痣と、小さな目と薄い唇の素朴な容貌の“棗子ソウシ”が生まれたのだ。生まれた娘を見て夫が最初に思ったのは、妻の不貞である。しかしそれはすぐに否定され、疑いは晴れたものの母は不貞の疑惑の原因となった娘を忌み嫌い、その腕に抱くことは生涯一度もなかった。それと同じように、父も実の兄も決して彼女を家族の一員として認めることはなく、厄介払いのように西の親類の家に奉公に出した。

 その後六年の間、東の大商家の家との縁組みの話が持ち上がるまで、家族全員彼女のことを忘れていた。東とも繋がりを持ちたがった父は、厄介払いした娘のことを思い出し、これは好機と奉公先に手紙を出して棗子を東の商家に輿入れさせることになった。その時は誰もが喜んでいたが、その歓喜は数日の後に沈下した。輿入れの途上、棗子を含む一行が天横山の森の中で消息不明となったのだ。日の高い内に捜索するも見つかったのは、棗子の乗っていたとされる輿の残骸。しかし家族がそれを聞いても、悲しんだのは棗子の死ではなく、東との婚姻の白紙のことであった。そんな沈んだ家族を更に驚愕させたのは、それから間もなくして噂されるようになった『天横山の鬼』のこと。女ばかりを殺している白無垢の鬼を姿を遠目から確認した棗の家の下男の話を聞き、家族はそれが棗子ではないかと推測し、その噂がもし広まり店が潰れることを恐れ、棗は密かに南で有名な『何でも屋』の扶桑フソウにとある依頼をすることになった。


 それこそが、『棗子の生死の確認、もしくは始末』である。


 棗の身の上話を頭の中で反芻しながら一人酒を飲む扶桑はふと視線を落とし、真っ赤な顔で座敷に大の字で眠りこける棗を睨みつけた。今しがた血の繋がった妹の始末を他人に頼んだというのに、彼は一片の罪悪感もなく寧ろ憑き物が落ちて清々しい表情で眠っている男に、扶桑は内心嫌悪感しか抱いていなかった。しかし仕事に私情を挟むほど、彼は若くも青くもない。どうしようもない私情を押し殺して天横山へ向かう算段を静かに練っていると、突然人払いをしている座敷の襖の裏に人影が写る。


「…誰だ?」

「――失礼いたします。棗様の付き人の者でございます」


 若い男の声へ返答がきて、扶桑は警戒しながらも入れ、と入室を許可する。そうしてゆっくり開いた襖の向こうにいたのは、少し薄汚れている着古した着物を着た十代後半ほどの男で、低い身分のためか頭を下げたまま用件を述べた。


「若旦那様をお迎えに上がりました」

「あぁ、でも今この通りだ。すまないが、奥の布団まで運ぶのを手伝ってくれるか?」

「も、勿論でございます! 寧ろ、私がやりますからっ」


 扶桑の提案で二人がかりで座敷の奥の部屋に敷かれた布団に爆睡の棗を運び終えると、付き人の男は主人の眠りを妨げないように布団の敷かれた部屋の戸を閉めた。雑音であった鼾が消え、ようやく落ち着いたところで飲み直そうとする扶桑であったが、それは突然座敷に膝を着いて頭を下げた男によって阻止された。


「……なんのつもりだ?」

「あの、貴方は南でかの有名な『何でも屋』の扶桑殿とお見受けいたします。その扶桑殿に、一つお願いがございます!」


 扶桑は南の都“翼都よくと”の城下ではそこそこ名の知れた『何でも屋』であり、そのことは本人も自負していたが、まさか一日に二件も依頼を受けることになるとは終ぞ思っておらず、思わず面食らってしまう。しかしすぐにいつもの調子に戻り、軽い口調で如何にも面倒そうな男の依頼をやんわりと断ろうと行動し始めた。依頼が舞い込むのは大いに喜ばしいことだが、扶桑は何より“面倒事”を嫌う気質であったからである。


「…は。俺も有名になったものだ。そうさ、この俺こそが翼都でちょっとした有名な扶桑だ。重要な用心棒から些細な猫探しまで、なんでもござれな『何でも屋』さ」

「…そして裏では、もやっておられるとか」

「よく、知っているな」


 腕の立つ扶桑は頼まれれば、危険な用心棒から貴人の猫探しまで請け負うが、裏では密かにその腕を持って暗殺の依頼もこなすが故、何でも屋と名乗っている。男はそれを承知で何かを依頼しようとしているところから、依頼はどうせ誰かの暗殺であろうと推測し、その対象がもし今眠りこけている依頼人だとすれば面倒だ、と内心頭を抱えていたが、それは杞憂に終わる。


「…私は名花屋で幼き頃から下男として仕えております、一吉カズキチと申します。若旦那様の依頼について、私の方から一つお願いしたいことがあります」

「棗殿の、依頼で?」

「はい。どうか、どうか! !!」

「…なんだと?」


 下男の男――一吉カズキチの依頼は予想外にも、棗に依頼された棗子のことであった。しかし現時点では生死すら不明な棗子を助けろ、とは一体どういうことなのだろうか。軽く流すことのできなかった扶桑は手にしたお猪口を窓辺に置くと、真剣な眼差しで一吉と向かい合った。


「お前、棗子殿のことを知っているのか?」

「はい。私は幼い頃に大旦那様に拾われて以来ずっと、名花屋で働いておりますので、お嬢様のことも勿論存じ上げております。…お嬢様は、幼い頃から周囲の悪意を受けて育ちました。やっと解放されたのに、なおご家族からそのお命を狙われるなんて…」

「…だが、今は生きてるか死んでるかわからないんだぞ? 俺が依頼されたのはあくまでも生死の確認。たとえ生きていたとしても、助けるのは依頼内容に反する」


 人間として無事である可能性は万に一つもなく、生きていたとしても高確率で鬼化している棗子を助けることは扶桑の命すらも危うくする。客からの信頼第一の扶桑としては、棗の依頼内容に反する行為をするわけにはいかなかった。


「…それは承知しております。もとよりお嬢様の命を助けていただけるとは思ってはおりません」

「では、何を助けるという?」

「…お嬢様にこれ以上苦しんでほしくありません。ですので、出来る限り安らかな死を、お願いします。そしてを、お嬢様に」


 今にも泣きそうなほど歪んだ表情で一吉が懐から取り出して見せたのは、一輪のシオンの花。まだ摘んだばかりのその花は瑞々しく、美しい紫色の花びらを開花させていた。


「…それは?」

「昔、奉公に行かれるお嬢様にお渡ししたものです。覚えておられるかは、わかりませんが」


 それを受け取った扶桑はこの男が今でも、棗子のことを誰よりも想っていることを感じ取り、その想いを尊重して特別に報酬なしで依頼を引き受けた。


 一吉は最後に、よろしくお願いいたします、と頭を下げて静かに涙した。



 ❖ ❖



 俺にも妹がいたから柄にもないことをした。地面に残されたシオンの花を見つめながら扶桑はそう呟いた。

 家族にも憎まれた彼女にも、たった一人だけ想ってくれる人がいたことに朔夜は何故かほっとして、彼女の冥福を願って静かに手を合わせた。するといつの間にか夜も明けて、辺りが薄らと明るくなっていることに気づいて扶桑は朔夜に別れを告げる。


「っと、そろそろ夜が明けるな。俺はここらで退散させてもらうからな。お前らはどうするよ?」

「僕と六花は他の商人たちと一緒に、昼の間に森を抜けて東の孟章領もうしょうりょうに行く」

「…孟章領か。そうか、気を付けていけよ」


 ただ、と扶桑は背を向けたまま朔夜に不穏な言葉を続けた。


「孟章領では、その姿は見せないほうがいい。あの地は特に『陰陽国に関するモノ』に対して過剰なほど敏感だ」

「…忠告ありがとう。それじゃあ、また」

「あぁ、


 扶桑は軽く手を振ると、決して振り返ることなく森の奥へと消えていった。

 その背を見送りながら朔夜は自分が何故、“またな”などと言ったのか今頃になって首を傾げながらも、首の絲を解いて六花に身体を返した。表に戻した六花はすぐに朔夜にそのことを質問した。


「ねぇ、なんで“またな”なんて言ったの?」

「さて、僕にもよくわからないけど。なんとなく、感じたんだ」

「…なにを?」

「……“えにし”を」


 そう答えた時の朔夜は不完全が故に『感じること』しかできなかったが、全てを取り戻した時に朔夜は『思い出すこと』ができるであろう。しかしそれは今から遠く、先のこと。



 ❖ ❖



 時を同じくして。

 西の監兵領・首都『奎都』 領主居城『白虎城びゃっこじょう


 まだ朝日も昇らない空を見つめながら、城の天守の高欄こうらんに肘を着いて城主――白秋ハクシュウは探し人へと思いを馳せる。徐に懐から取り出した紅玉の耳飾りを取り出し、それを見つめながら想い人を思うと同時に恨めしい人の顔も思い出して顔を歪める。


「…忌々しい。さっさと世間から忘れ去られてしまえ、赫夜」


 そんな恨み言を呟いた白秋のもとに、早足で側近の伯都ハクトが駆け上がってくる。最上階である天守までくるのに相当急ぎ足でやってきたのか、息を切らした伯都が整うまで待ち、何用だ、と白秋は尋ねた。


「…白秋様。先日の村の詳細を報告いたします」

「聞こう。あれは、誰の仕業だ?」


 それは先日白秋たちが訪れた北西の端の小さな村のことである。白秋はとある『道しるべ』を頼り、十年前からずっと『朔夜の首』を探し回っていた。そしてようやく、その所在が北西の村にあることを突き止め、数十人の家臣だけを連れてその村へ向かった。しかしそこは何故か無惨な焼け野原になっていた。だがそんなことは白秋にはどうでもいいことであり、それよりも本来の目的のものの方が強く白秋を突き動かした。

 しかしそれすらも叶わず、首の気配は欠片も残っていなかった。故に白秋は首の失踪と村の全焼が関与していると踏んで、その詳細を重臣であり大叔父の伯都に調査を命じていた。そして白秋はまさにその待ち望んでいた報告を黙って聞いた。


「はい。近隣の村の者に話を聞いたところ、あの村には実にがいたようで」

「よくない者…?」

「…どうやら、“白髪赤目の忌み子”が一人いたようで。それを知っている隣村の村長に遺体を確認させたところ、その子供の遺体が見当たらない、とのことでございます。どれだけ関係があるかは、わかりませんが…」


 随分と念入りに調査をした伯都だったがその結果の信憑性は不明であったため、わざと濁して報告したにも関わらず、伯都の口から『白髪赤目の子』の言葉が紡がれた瞬間、白秋の瞳に強い怒りの炎が宿った。怒りを露わにしてその感情に支配されているそんな白秋を嘲笑うように、昇ってきた朝日に照らされて手の中の紅玉が鈍く輝いて、白秋の瞳を鋭く刺した。強い光で眩む瞳で忌々しい赤を見つめながら、白秋は自らをどこまでも阻む存在を呪った。


「どこまで私の邪魔をする、忌々しい赤と白め――っ!!」



 白秋の求めるものは、更に遠くへ去っていく。

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