第玖話 血涙流るる森の中〈二〉
夜も更けて宵闇の空に煌々と輝く満月の下、その優しい月明かりの一切届かない暗い森の中を六花たちは歩いていた。予定通り日が沈んでから出発した一行は、例の噂を鼻で笑い挙句の果てに、自らが夜の内に森を抜けて噂など真っ赤な嘘であることを証明する、と意気込んだはた迷惑な主人のせいで足元も碌に見えない夜の森を静かに進んでいた。その先頭を屈強な護衛の男十数名に歩かせ、その後ろを主人の乗った牛車が続き、その後ろを使用人たちが歩き、六花はその更に後ろの中心寄りのところを使用人の女達に混ざって参列していた。
一行の最後尾が森に入り切った時には前方の列の人々は既に奥深い森に足を踏み入れており、月明かりも届かないほどに鬱蒼と生い茂る背の高い木々の圧倒的な存在感に女中たちの一歩は少しずつ震え始め、ちょっとした夜風で揺れる木々のざわめきに混ざって野鳥が高らかに囀れば、それはまるで恐ろしい得体の知れない物の怪の声のようで更に人々の恐怖を煽り立てていく。そしてそんな一行の恐怖を更に煽るように、山の奥の方からは狼たちの遠吠えが無数に響き渡り、身の危険を感じた主人は牛車を引く者たちに急ぐように命じている始末。最初の意気込みはどこへやら、といった様子であった。
その例に漏れず、六花も消化できない不安を抱えたままひたすら歩き続けていたわけだが、その不安を押し殺せなくなっていた六花は堪らず、周りに気づかれないように腰の巾着を抱き締めて小声でその中にいる朔夜に助けを求める。
「うぅ…、ねぇ朔夜。どうしよう、すごい不気味で怖いんだけど…っ」
「…六花、あんまり人いるところで話し掛けたら怪しまれるよ。我慢して」
「むりむり、朔夜なんかしゃべってて。少しでも気を紛らわせてないと、今にも葉音一つで叫び出しそうっ」
ただの夜道ではまったく動じることのない六花だが、視界が悪く耳に入ってくる音といえば正体不明な不気味なものばかりの今の現状は精神的に堪えるものがあるらしく、涙声で必死に縋ってくる幼子のような六花を少しばかり可哀想に思った朔夜は仕方なく、周りに聞こえない程度の小声で何か気が紛れる話を始めようとする。だが一朝一夕にはいい話題が思いつかず、少し考えてからとても良い話題を思い出した。
「…よしわかった。なら僕が、今から赫夜の魅力について余すことなく語ってやるから、よぉーく聞いているのだぞ」
「あ、それはいいや」
「な…っ」
「あんまり興味ないし。朔夜の赫夜自慢は耳がタコになるほど聞いたから、もう飽きた」
先程まで震えていたのが嘘のように饒舌な六花の断りに朔夜が言葉を失って次に何かを言い返そうとした、その時。
「う、うわぁぁぁぁ―――!!?」
六花たちの更に後方から誰とも知れない断末魔が響き渡り、前方を歩いていた者たちは弾かれたように一斉に振り返った。しかし闇夜の暗さでは後方の状況を確認することはできず、暗闇の中でとめどなく響き渡る絶叫だけが木霊している。そんな状況の中で冷静でいられる者などおらず、一人の女中が逃げ惑い始めたのを皮切りに大勢の者たちが森の中を逃げ惑い、騒ぎは徐々に一行全体に広がって隊列は崩壊した。
叫び声を上げて逃げ回る人々の波に押し流され、自らの足では身動きの取れなくなってしまった小柄な六花はどこか逃げ道はないかと辺りを見回しながら戸惑っていると、揉みくちゃにされる六花の手を横から誰かが掴み、そのまま力強く引いて人の波から引き上げてくれたのだ。そして引かれるまま近くの茂みの中に身を隠すと、ようやく自分を助け出してくれた人物と対面することができた。
「ほ、包帯さん?」
「怪我はないか?」
「うん、大丈夫だよ包帯さん」
「…その呼び方はやめてくれ。俺の名前は、
「うん、棗さん」
包帯男――
慌てふためく騒がしい足音に混ざって、ざりざり、と若干摺り足で近づいてくるそれは逃げ惑う人々の中から適当に誰かしらの袖を掴むと、首を両手で抑え込むとそのままその人間の首を大口を開けて丸ごと飲み込んだ。砕けた首の骨を剝き出しにされた肉塊は、まるで用済みと言わんばかりに地面に放り投げられ、今しがた頬張った人の頭を咀嚼しながらその“鬼”は次の餌となる者を探した。そんな恐ろしい鬼を間近にした六花が思わず悲鳴を上げそうになるのを棗の手が塞いだ。なんとかやり過ごすことに成功した二人の耳に突如、凛とした少女の声が響いた。
【ソノ辺に、してオキナサイ。食べ過ギも、身体にヨくナいわ】
その少女の命令に暴れていた鬼はピタリと動きを止め、食い散らかしてきた己の通って来た道を振り返った。放り出した無惨な死体たちを払い除けて道を作る鬼に先頭を任せ、悠々と歩いてくる少女が一人、その身なりは薄汚れてはいるものの立派な白無垢姿であったことに六花は驚いた。話し声が人のそれとは違う少女は紛れもなく鬼であったが、その見た目は人間と殆ど変わらなかった。そんな少女に従うように大柄な鬼二体が、彼女の前に忠実に跪いた。よく見ればその鬼たちの影と白無垢の少女の影は地面上で繋がっていることに、棗は逸早く気づく。
【… 食べ過ぎテ、なにヤら身体が重イ。モウ帰りまショウ。この食ベ残シは、アトで処理シテおいテね】
少女の言葉に鬼たちは頷くと、立ち上がって護衛するように両隣を歩いて三人は転がった死体を踏みつけて森の奥へと帰って行った。三つの影は見えなくなる頃、それまで息を殺していた六花はようやく、大きく深呼吸して全身から力を抜くことができた。安心したせいか、両足に入っていた力がドッと抜けて六花はその場に尻餅をついた。
「っ…はぁ。死ぬかと思ったぁ」
「一先ず危機は去ったようだが、油断はできない。奴等に見つかれば次はない」
「…他の生き残った人たちは、どこにいるのかな」
逃げ惑う人々は皆散り散りとなってしまい、所在がわかっている者は誰一人としていない。六花は親しくしてくれた護衛の男たちのことが気がかりで、茂みから出て辺りを捜索し始める。数十人にもなる死体の数に恐れを抱きながらもそれを押し殺し、列の先頭を目指して進んでいけば、そこには商家の主人がみっちりとその身を詰め込んでいた牛車が横倒れになっていた。人一倍重い牛車を引いていた牛は鬼の手に掛かって既に息絶えており、倒れた牛車の
生きている者をどれだけ探しても、転がっているのは頭を無くした肉塊のみであり、肩を落として落胆する六花を追ってきた棗が慰めた。
「…鬼たちは時期戻ってくる。身を隠すぞ」
「はい…」
二人は数々の惨い死体たちを放置してその場を後にした。そして二人が立ち去って暫くしてすぐ、鬼たちは戻ってきて放置された死体を次々と木の枝に逆さ吊りにしていったのだった。
二人は惨劇の行われた山道からかなり離れた小川のすぐ側で、今夜は野宿することになり、棗が率先して手際よく焚火を起こして野宿の準備を始めた。そんな棗の手際の良さに手伝う隙などなく、六花はただ呆然するしかできなかった。それでも何かせねば、と視線を泳がせる六花の姿に、棗は可笑しくなって小さく吹き出した。
「な、なんで笑ってるんですか?」
「いやなに。そうしていると、亡き妹を思い出すな…」
「…妹君?」
焚火の傍に座りやすい丸太を置き、そこに並んで座る二人は棗の持っていた握り飯を分け合いながら、棗は落ち着いた声色で自分の身の上話を寝物語に話し始めた。
元々棗はここより南の陵光領のとある商家の生まれであり、その跡取り息子であったという。しかし一年前からとある思いに囚われたが故に、家も地位も捨てて野武士となり果てた。その思いというのが、一年前の輿入れの道中に行方不明となった妹『
目の前の焚火に薪をくべながら語る棗の瞳は、炎の揺らめきで輝いてそれはまるで涙で潤ませているようにも見えた。棗が顔に包帯を巻いているのは、それまで刀を持ったこともなかったため、野武士になったばかりの際に下手をして大火傷を負ったせいであり、そんなことがあっても尚行方知れずの妹を探して、何度もこの天横山を通る商人たちの護衛を務めてきたという。しかし一度として、通り抜けを成功させたことはない。
「…その妹さんを襲ったのは、やっぱりあの鬼なのかしら」
「そうだとしか思えない。見たか? あの鬼が頭を食っていた死体を」
「…死体?」
「あぁ。あの鬼は一見して無差別に人を襲っているように見えて、実は餌を選んで食っていた」
棗にそう言われて思い出してみれば、道端に転がっていた死体はどれも
「あの鬼は、女ばかりを狙っている…ってこと?」
「恐らくな。そしてそれをさせているのは、あの白無垢の方だ」
「確かに命令していたのはあの女の人だけど、どうしてあの人の命令に従っているのかな」
「“従う”というより、“操る”だな。あの鬼二体は、白無垢の鬼の分身でしかない。その証拠に、あの鬼二体は白無垢と“影”で繋がっていた」
人々を襲い食い荒らした鬼たちはまさかの分身であり、本体はあの白無垢を着たか弱そうな女の方であることに、六花も朔夜も驚いて言葉を失う。少し前に対峙した凩などとは比べ物にならない鬼を出し抜いて、森を抜けなければいけないことに六花も朔夜も心中で頭を抱えた。
そしてそんな鬼を相手取ろうとしている棗は、突然六花に向かって頭を下げてきてとある頼みをし始めた。
「六花。すまないが、この森を抜ける手助けをする代わりに、共に妹を探してくれないか?」
「え! で、でも、私別に何ができるわけじゃないんだけど…」
「小柄な君の助けが必要なんだ。どうか、頼む!」
必死の懇願ではあるが、六花にとってもこれは賭けであった。いくら切り札の朔夜がいるとはいえ、そう易々と人前で朔夜と替わるわけにはいかず、いざという時は自分の命すら危うくなる。それを考えれば断る一択なのだが、それまでの棗の話を聞いてしまった六花は、手助けしてあげたい気持ちでいっぱいになっていた。だが一人では決断することはできず、少し時間をください、と答えた。それを棗は快く承諾して、短時間だけ見回りに行くと言ってその場を後にした。その背中を見送った六花は、見えなくなったのを確認してから朔夜を取り出して真っ先に相談を持ち掛ける。
「ど、どうしよう。助けたいのは山々だけど、もしもの時朔夜を表に出すのもどうかと思うし…。ねぇ、どうしよう?」
「…最終的に決めるのは君だけど、僕の意見を率直に言うなら、やめた方がいい。もしこれが、“鬼神”によるものならいくら僕でも勝てるかわからないから」
「“鬼神”? 普通の鬼と何が違うの?」
「“鬼神”の最大の特徴は、その発生が自然的なものではなく『鬼道』による人為的なものであることだ。陰陽国の歴代の烏師が必ず備えていた、“鬼を造り出して操る力”によって生み出された鬼のことを、鬼の式神、訳して“
天横山の白無垢を着た鬼の力は既に他の鬼を凌駕しており、本体から二体もの分身を作り出すことのできるなど、更に上位の存在である“鬼神”でなければ説明がつかないことであることを朔夜は六花に説明した。そんな鬼神相手に、身体を取り戻せていない朔夜ではいくら神器があったとしても勝率は五分にも満たないという。それの圧倒的な力の差を聞かされ、六花は顔を真っ青にして断ろうと思考が傾きかけていた。
だがそれを思い留めたのは、朔夜の言葉であった。あくまで仮定の話をやめた朔夜は、次に自分の私情を交えた意見を述べる。
「…だた、これが“鬼神”の仕業なら、僕は放っておくことはできない」
「どうして?」
「この世で鬼道を使えるのは烏師のみ。そしてあの鬼の噂が流れ始めたのは十年前と聞けば、その発端は間違いなく赫夜にある」
十年前の陰陽国で朔夜の首を目にした赫夜は暴走し、鬼道で数体もの“鬼神”を造り出すとそれらに人々を皆殺しにするように命じたという。その際に解き放たれた鬼神の行方はいざ知らず、もし天横山にいる鬼が赫夜が生み出した鬼神の生き残りだとすれば、その責任は兄弟である朔夜にもあると言えた。六花は決してそんなことない、と首を横に振ったが、朔夜は納得していなかった。
「…すまない、六花。本心を言えば、棗殿に協力してあの鬼神を倒しておきたい。だが、六花が怖いなら無理強いはしない。後は、主人である君が決めてくれ」
そこまで言われて嫌だと言えない六花は、唸り声を上げて随分と考え込んだ後、深呼吸一つして自分の答えを出した。
「……わかった、朔夜のためにも棗さんのためにも、出来る限りで協力しよう」
「了解した。命の危機と感じたら、迷わず僕を喚べ。後のことは気にするな」
心強い朔夜の言葉に、六花は大きく頷き決心を固めるのだった。
こうして二人(三人)による、天横山の鬼退治が始まった。
❖ ❖
野宿で夜を明かした二人は日が高いうちに鬼の住処を探し出すため歩き出した。二人は夜に歩いた道を引き返し惨劇の起きた山道に再び戻ってみると、驚くことに道端に散らばっていた数々の死体が影も形もなくなっていた。唯一残されていた痕跡といえば、横倒しになった牛車のみ。その中にあったであろう商家の主人の遺体すらも、跡形もなく消えていた。しかし地面に染み付いた血の臭いまでは消すことはできなかったらしく、棗は血の乾いた土を抓みながら鬼の痕跡を探す。
「… あれだけの数の死体を掃除するとなると、あまり遠くへは行けないだろうから、奴等の拠点は思いの外近いかもしれないな」
「確か噂によると、残った身体は木の枝に吊るして血抜きをするのよね? でもこの辺の木にはないね」
「……いや、そうでもないぞ」
牛車から横に逸れた茂みの中を探していた棗はとある木を見上げながら呟いた。駆け寄って棗の視線を辿って六花が上を見上げると、そこには見るも無残な干物のようになった人の胴体が逆さまに吊るされていた。既に夜中の間に血がすべて抜けきったのか、血が滴ってくることはなかったもののその腐臭は凄まじいものであり、六花は思わずえずきそうになるのを堪えて鼻を塞いだ。そんな六花を余所にその周囲を捜索する棗は、地面や雑草に付着して乾いた血の跡を見つけてそれを追って山奥へと進んでいく。どんどん進んでいく棗を六花は伸びた草地をかき分けながら必死に追いかける。奥に進むにつれて強くなっていく鼻を突くような死臭は、やがて二人を山奥にひっそりと隠された古い山小屋へと導いた。
「…小屋? 誰か住んでるのかな」
「住んでるとすれば、恐らくあの鬼以外に考えられないな。昼間の間は動けないから中で身を潜めているんだろう」
この世の者ではない鬼という存在は、この世の者たちの時間である日の高い時間はまともに活動することができない。弱点とまでは言わないが、太陽光の下では力を発揮できない鬼は基本的日中は姿を潜めて、日が沈む頃に活動を始める。天横山の白無垢の鬼は二体の分身を自由自在に操ることから相当強力な鬼であると予想されるため、他の鬼に比べて日の光に敏感であると考えられる。その証拠に小屋の窓という窓は木材によってきっちりと塞がれ、一筋の光すら入ることを拒んでいる。
流石にその戸を開ける気にはなれず、二人は小屋のすぐ側の茂みに身を隠し、夜になるまで待つこととなる。日が落ちるのを待つ間、六花はその暇さに耐え兼ねてついに木の根元でうたた寝をしてしまう。
その夢の中で、六花は聞き覚えのない少女の声を聞く。
【…醜い、醜い、どうしてわたしはこんなに醜いのか…っ】
【誰もわたしを愛してくれないのは、この醜い顔のせいだっ】
【父も、母も、たった一人の兄でさえ、わたしのことを嘲笑う!】
【許せない、わたしは、わたしの醜い顔が決して許せない!!】
一人闇の中で嘆き悲しむその少女は、誰にも喜ばれることのない白無垢を身に纏っていたことだけ、六花の脳裏に深く焼き付いた。
「起きろ! 六花――!!」
突如響いた朔夜の呼び声に閉じていた両眼を勢いよく開くと、眼前に現れた巨大な二つの足に驚いて飛び退いたが、背中にあった巨木によって退路を断たれてしまう。心臓が口から飛び出そうになりながらゆっくりと視線を上げて、二本の足の正体を見出そうとすれば、突然眼前に伸びてきた大きな手に首を掴まれ持ち上げられてしまう。呼吸を遮られて藻掻く六花がぼやけた視界で見たその姿は、凶悪な顔をして額から二本の角を生やした鬼であり、何人もの頭を丸呑みにしていたことに六花の恐怖は増加した。
必死に鬼の手から逃れようとする六花を嘲るように、鬼が未だ血の臭いの漂う大口を開いて小さな六花の頭部を食い千切ろうとした、その時。
横から飛び出してきた白刃が、鬼の太い腕を肘から真っ二つに両断した。その白刃を振るったのは、包帯でその顔を隠した棗であり、斬り落とした腕から零れ落ちるようにして倒れた六花を小脇に抱えてその場から退いた。
鬼の視界から外れた木の陰に身を潜めた棗は六花を下ろすと、安否の確認をしながら鬼の気配を探る。
「…六花、怪我は?」
「大丈夫。ごめんなさい、うたた寝しちゃって」
「いやいい。俺も辺りの散策に熱中し過ぎた」
足音などに注意深く耳を立てるが、今のところ鬼が追ってくる様子はなく、ひと息ついた棗は落ち着いた六花にあることを訊いた。その内容は六花にとって触れられてはいけないものだった。
「…ところで、六花。さっき君を起こす声が聞こえたんだが、他にも誰か近くにいるのか?」
「え…っ」
棗が指摘しているのは咄嗟に六花を覚醒させるために上げた、朔夜の声のことだった。緊急事態だったとはいえ、軽率な己の行動に朔夜は心中で冷や汗を掻く。勿論その質問に答えなければいけない六花も同様で、言葉に詰まっている六花を訝し気に見つめる棗の視線に耐え兼ねた頃、運が良いのか悪いのか、二人の背後にある小屋の扉が軋んだ音を立てて開いた。
その音に二人が振り向けば、丁度扉の向こうから白無垢を身に纏って頭に被った角隠しで顔を隠した女が現れて月夜の下にその姿を堂々と晒した。
【なにヤら騒がシイと思ッたら、昨夜の食べ残シがおったカ】
角隠しの陰から覗く唇を長く細長い舌で舐めながら、二人の隠れている巨木に狙いを定める。そして月明かりに照らされた彼女の足元から伸びた影が不自然に巨木へ向かってきて、そこから這い出てきたもう一体の鬼が両手で巨木を掴むと、力任せに太い根っこを引きちぎりながら地面から引き抜こうとし始めた。慌てて左右に分かれてその場から退いた六花と棗は、まんまと鬼の目の前に引き出されてしまいついに眼前で対峙する。
すると鬼から六花を庇うようにして立ち塞がった棗が、片手に刀を握りながら白無垢の鬼に一年ぶりの再会の挨拶を交わす。
「…久し振りだな、
【…なに? オ前の顔ナゾ、わタしは知ラナい】
「そうだな。この顔では気づいてもらえないのも無理はない。お前を探すため、かつて美しいと持て囃されたこの顔も、今や見る影もないからな」
【美シイ…顔、だト?】
棗のその言葉に今までにないほど反応を示した鬼は、角隠しを深く被り俯きがちに決して顔を見せないようにしていたというのに、ついに顔を上げてギラリとしている金色の瞳で棗の姿を睨みつけた。未だ合点のいかない鬼に追い打ちをかけるように、棗はついに高らかと名乗りを上げると、鬼の顔をみるみるうちに怒りで真っ赤になっていった。
「俺の、お前の兄の、“棗”のことを忘れたか!?」
【な、つめ…? 兄、アニ、……
「…お前を探しにきた、棗子」
白無垢の鬼――
「えっ。棗さんの妹!? じゃあ鬼に襲われたっていうのは…?」
「今ここでようやくわかった。妹はこの山を彷徨う鬼に襲われて死んだ後、その身体に鬼の怨念がとり憑いてしまったようだ」
「…そんなことが」
未だ鬼の生態についてよく理解していない六花が首を傾げていると、紫色の巾着の中でじっとしていた朔夜が小声で六花に説明してあげた。
「推測だが恐らく、主人の手を離れて彷徨っていた鬼神はその身体が崩壊をはじめ、新しい依り代としてその時殺した棗の妹にとり憑いたのだろう。その時に彼女の中に潜む“負の感情”と混合して、このような強い鬼に変貌したんだろうよ」
それにしても、と朔夜はその肌で感じる棗子の激昂に率直な感想を述べる。
「随分と根深い感情だな。これじゃあまるで、あの妹の方は兄を心底憎んでいるようじゃないか」
そんな朔夜の問いに答えるかのように、棗子は目の前の棗に対する底知れぬ憎悪を吐き出し始める。どろりとして泥のように黒い言葉たちは、呪いのように棗の耳を侵食していく。
【こンなトコろまで追いカケテきて、今なおワタシを醜イと罵ルのカ!?】
【… 生まレてからズット、親とオ前に醜いと言ワレ続けてきた。父からは、自分の子デはナイと言ワれ、母からは不貞を疑われタせいで忌ミ嫌われ、お前からは出来損ないの妹ト罵ラレテきた。ヨウやク、ここデ自由になれたノニ、まだ、マダわたしを苦しまセる気カ――!?】
棗子の流れ出す憎悪の感情は分身たる鬼たちの力を忽ちの内に上昇させていく。一体の鬼はそのまま棗に向かって突進していき、もう一体の鬼は六花を狙って突撃してきた。常人よりも長身の棗を優に越す巨体の鬼を前にして、それを見透かして後ろに立つ棗子を睨みつけて言い放った。
「…棗子、俺はお前を失ってようやく気付いたんだ。見た目の美醜ばかり気にしてお前を罵り続けた俺たちは、お前を失って初めて気づいた。本当に醜かったのは、俺達の心だ」
【ソウだ。そうトも! お前タチは、心醜キ卑しい人間ヨ!!】
「――だから! 俺は全てを捨てて、お前を救いにきた! 覚悟しろ、棗子。この世の未練をすべて断ち切ってやる!!」
棗が本心を威勢よく言い放った、その瞬間。赤い絲は解かれた。
「――よく言った、棗。ならば露払いはこの僕が務めよう!」
それまで存在すら気づかせず、静かに息を潜めていた声が暗い森の中に木霊して、その場にいる者たちの視線は一点に集中した。棗の背後の木で身を潜めていた六花に集中した視線は、そこに立つ予想外の人物の姿に息を飲んだ。
【…そこにイルのは、誰ダ!?】
「……六花?」
巨体の鬼に隠れた六花の姿は先程までとはどこか異なり、暗闇の中で浮かぶ鬼の身体にはしゅるり、しゅるりと巻き付く赤いに“何か”が蠢いていた。いつの間にか棗子の鬼の一体が、何かに拘束されて動きを封じられていたことに気づいた棗子が声を上げて呼び戻そうとしたその時、拘束されたその巨体は突然横に振られたと思えば、その巨躯は本体の棗子に向かって投げ飛ばされた。それを受け止める力のない棗子の代わりにその前に躍り出て彼女を庇って鬼を受け止めたのは、もう一体の棗と対峙していた鬼だった。
無力に倒れた鬼の身体からしゅるり、と離れていったその蛇のようなものを目を追い、その先に立っている黒衣の少年をはっきりと捉えた。黒檀の髪を夜風に揺らし、闇夜に紛れるほどの漆黒の衣を纏って、“蛇”を操るその少年の碧い両眼がスッと細められる。
「この朔夜が、二体の分身の相手をする。その間に本体を討て、棗!!」
「っ… 誰か知らないが、その言葉に甘えさせてもらうぞ」
「よく言った! 後ろのことは気にするな!!」
棗が朔夜の声を信じて棗子に対して突き進んだのを見計らい、朔夜は両袖の中から“
一方で鬼二体を振り上げた朔夜は空中で二体を左右に分け、そのまま地面に勢いよく叩きつけた。その衝撃は常人であれば全身の骨が砕けてもおかしくないものであったが、残念ながら鬼はどちらとも無傷のままのっそりと立ち上がった。その丈夫さに、流石の朔夜は緊張で震えが止まらなかったが、両袖から伸びる蛇たちに妖しく微笑みかける。
「さぁ、“
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