第漆話 青楼の中は夢幻〈三〉


 若菜ワカナの不幸続きの人生において、唯一幸せな時を挙げるとするならば親友のコガラシと共に暮らしていた日々であろう。同じ頃に妓女見習いとなった凩と共に、芸を磨き、時には姐さんたちに歯向かって仕置きを受け、時には意見の食い違いで喧嘩もした。そんな他愛もなく、何不自由ない人であるならば瞬きする間の短い日々であったが、若菜にとってそれはこれからの人生を生きてく上で大切な動力源になった。


 しかし、そんな思い出に浸る日々も今日で終わる。夢にまで見た人が、今宵自分に会いにやって来てくれるのだから。



「――太夫、聞いているのかい?」


 近々若菜を身請けする予定の商家の若旦那の呼びかけに、彼女はゆっくりと閉じていた瞼を開き、真っ直ぐ男を見つめた。二人が向かい合う二階の奥の座敷は既に人払いがされ、太夫である彼女付きの禿たちですらこの場にはいない。若菜の表情に一切の笑みはなく、ただ無感情に自分を見つめる若菜に若旦那は息を飲む。


「た、太夫。どこか具合でも悪いのか?」

「…いいえ、どこも悪うないですよ。ご心配なく」

「ではどうした? 先程から上の空だ。私の身請けに、何か不服があるのか?」


 若菜の身請けを申し出た男は監兵領でも有力な両替屋の若旦那であり、三年前に妻に先立たれて以来後妻を娶らないでいたが、付き合いで訪れた天街で若菜に一目で惚れてからは彼女に後妻になってほしいとずっと願い出ていた。だが当初、若菜は自分では分不相応という理由で首を縦に振らなかったが、最近になって突然若旦那の要求に頷いたのだ。理由は自分にも太夫として限界が近づいてきたことを悟った、と語っていたが、若菜には別の本当の理由が存在していることを若旦那は知らない。

 心ここに在らずといった若菜の様子に眉を顰める若旦那に、若菜はふと柔らかな笑みを浮かべて首をゆっくりとした動作で横に振った。


「いいえ、旦那様。このような妾を身請けしてくださるお優しい旦那様に、なんの不満がありましょうか。ただ――」

?」

「…

「は…?」


 若菜の言葉の真意を男が問おうとしたその時、座敷の外で女達の無数の悲鳴が響き渡った。何事だ、と慌てふためく若旦那を無視して、若菜は階段を昇って近づいてくる足音に耳を澄ませる。ぺた、ぺた、と不気味な裸足の足音は、階段を昇り切ると確実に二人のいる座敷に向かってくる。襖の向こうから感じる得体の知れない気配に若旦那は襖を開けることを躊躇い、二人は黙ってその人物がやって来るのを待った。

 やがて足音が襖の前で止まると、ゆっくりと時間をかけて襖を開けて二人の前にその姿を現した。誰がやって来たのか、若菜には見ずともわかっていたため、視線が合う前からその人物を歓迎する。


「…いらっしゃい。待っていたわ、“コガラシ”」


 襖を開けて現れたのは、ボロボロになった白装束に身を包み自分の血で汚れ固まった髪を振り乱して俯いたまま立っている一人の女性。痩せ細りふらつく身体を辛うじて支えている四肢の先は土と血で汚れており、乱れる髪の隙間から血の気のない唇が言葉を紡ごうと動き出す。


【ゆ… ユルサナい… わ… わた… わたしを、おいて… いくナンテ…】


「…えぇ、わかってるわ。わたくしはここよ、ここにいるわ」


【あ あぁ… アァァァ…ッ ココからでていくナンテ ユルサナイ――!!】


 変わり果てた姿の凩を心底愛おしそうに見つめ、呆気にとられる若旦那を無視して若菜は両手を広げて凩に自分がここにいることを伝えた。すると凩の血走った眼が若菜の姿を捉え、一目散に駆け出した。その凩から若菜を庇うように前に飛び出してきたのは、それまで恐怖で動くことさえできなかった若旦那だった。未だ手足を震わせている若旦那の必死の勇敢な姿を嘲るように、凩の乱れた髪は独りでに動き出して若旦那をいとも簡単に払い除けた。まるで生き物のように動く髪の束は、若旦那の身体を壁に打ち付けると、次は座して待つ若菜に向かって伸びる。伸ばされた若菜の両手首に巻き付くと、彼女の腕を意のままに操って髪から簪を抜かせてるとその先端を自らの首に向かって掲げた。

 この時を若菜はずっと待っていた、と言わんばかりに嬉しそうに微笑んで目を閉じてその身を委ねた。そして今まさにキラリと光る簪が若菜の白い首を刺し貫こうとした時、彼女の手首に巻き付いた凩の黒髪に、


 突然横から飛びついてきた“二匹の蛇”は手首に絡みついた髪を引きちぎると、しゅるりと二人の間を通って来た道を引き返し、元いた朔夜の袖の中に戻っていった。いつの間にか二人の背後の襖に立っていた朔夜は、怪訝な表情で自分を見つめてくる二人の姿を一見してすぐに状況を把握した。


「…もうそのくらいにしておけ、コガラシ。どれだけ殺しても、お前のその無念が晴れることはない」

「……誰?」

「若菜太夫も。そんなことをしても、凩の心が晴れることはない」


 この場にいる二人のすべてを見透かしたような朔夜の空色の瞳に圧倒されて言葉に詰まる若菜とは対照的に、自分の行動を否定された凩は獣のような唸り声を上げながら対象を朔夜に変更してすぐさま引きちぎられた髪を伸ばして朔夜の首を狙った。しかし朔夜はそれをひらりと躱し、左の袖口から蛇――水虬みずちが飛び出して凩の右足首に巻き付くとグイッとそれを引っ張って彼女の不安定な身体を座敷に転がした。暴れて足に絡みつく水虬を振りほどこうとする凩の動きを更に封じたのは、右の袖口からシュッと飛び出したもう一対の水虬。水虬は暴れる凩の右手首に巻き付いて止めた。二つの水虬を操る朔夜の身体は小柄で軽そうだというのに、凩がいくら藻掻こうともその体幹がブレることはなく、静かに畳の上で這いつくばっている凩を見つめた。


「…凩、貴女のその願いはもう叶うことない。ここを最期の場所と定めたその時から、貴女がここから出ていくことはできなくなった。だからもう二度と、誰一人としてここから出ていかせたくなかった。でも、貴女が殺した人たちの最期の場所は、ここじゃなかった。もうこれ以上、貴女と同じような人を増やしてはいけない」


【…ど ドウ どうシテ ? わた わたし ココから ただ アノひと といっしょに…】


「もう貴女の捜している人はいない。だからもう、諦めて世を去るんだ」


「――いいえ、まだよ」


 朔夜が必死に凩を説き伏せようとしていたところに思わぬ横やりが入り、朔夜は思わず振り向いた。そこにいるのは未だ簪を握ったままの若菜であり、簪を引き抜いたせいで散らばった髪に埋もれた顔がゆっくりと持ち上がって朔夜を見た。そして彼女はこんな場であってもなお、美しく微笑んだ。


「…わたくしの死をもって、凩の願いようやく叶うのよ。凩はずっと、わたくしのことを憎んでいたのだから。だってわたくしが、

「っ!? 凩の鬼化は、人為的なものだったのか?!」


 咸池屋で事件を起こした凩は地下の牢に入れられたのち、自ら命を絶った。半日放置されやがて食事を運んできた女に発見されてすぐ、その亡骸は姿を消した。そのことを朔夜はずっと鬼化して自ら逃げ出したのだと考えていたが、そうではなかったことが若菜の口から語られる。


「…わたくしが凩を連れ出したの、その時には既に鬼と化していたけれど、とても静かでわたくしの引く手に従順について来てくれた。嬉しかった。いつでもわたくしの手を引いて、先を行くのは彼女の方だったから――」

「――でも、彼女はもうわたくしのことを見てはくれなかった。暫くはわたくしの座敷の屋根裏で匿っていたのだけど、いつの間にか消えてしまった。きっと、こんな店から出ていってしまったのだろう、とわたくしは思っていた。けれどいつか帰ってくると信じて、旦那様からの身請けの話もずっと断り続けてきたの」

「…でも、ということですか」


 朔夜の言葉に若菜は頷く。


「えぇ。彼女はまだこの見世にいて、身請けされていく幸せそうな彼女達を殺し始めた。それまで他の女達に見向きもしなかったのに」

「…鬼とは、そういうものです。一つの“未練”や“感情”によってのみ動き出し、それだけが目的と化す。彼女の場合、自分の叶えられなかった夢を叶えていく女達への激しい“憎悪”が、行動原理になっている」


 生前、心ない男によって夢を砕かれ、身も心も壊れていった凩は自分と違って身請けされていく女達の幸せそうな顔を見て、どうしようもない悔しさと嫉妬に苛まれ、やがてその感情は混ざり合って“憎悪”となり、彼女の魂にこびりついた。

 それを払ってやることこそが、若菜の本来の身請けを引き受けた目的である。


「…彼女に殺されることで、わたくしも彼女も救われる。そう思って断り続けた身請け話をお受けしました」


 若菜は座敷の端で気絶して倒れている若旦那を一瞥してすぐに朔夜に拘束されている凩を見つめて微笑むと、握った簪を再び首に向かって掲げた。今度は自分の意思による行動に、朔夜も自我を失っているであろう凩でさえ驚愕する。


 彼女はずっと、死にたかったのだ。“最愛の人”のいないこの世界からいなくなりたい、とずっと思っていた。生来内気な若菜にとって、明るく外向的な凩は憧れの存在であるとともに、長年の叶えられない片想いの相手であったことは彼女しか知らないこと。故に彼女の身請け話を聞いた当初、若菜が最初に抱いた感情は“男に対する嫉妬心”であった。彼女が自ら命を絶ち、その亡骸をその手にした時は若菜の人生の中で一番幸福な時間であったが、凩はまたどこかへ行ってしまった。

 『もう、どこにも行かせたくない』 それが若菜の本心である。



「…凩。これでお終いにして、わたくしと共に逝きましょう」


 意を決した若菜が簪を振り下ろすのを朔夜は両手が塞がり止めることができず、ただ見ていることしかできなかった中、朔夜の水虬に囚われた凩が今までにないほど暴れ、囚われていない左手を若菜に向かって伸ばした。彼女はその手で凩自らトドメを刺してくれることを予想して、静かに眼を閉じる。

 しかし彼女の予想とは裏腹に、若菜の銀製の簪の先端は彼女の首のすぐ手前でぴたり、と止まったのだ。だがそれは若菜の意思によるものではなく、彼女の手首を懸命に掴んだ凩の手によるものだった。血の気のない冷たい指で温かな若菜の手首を懸命に掴み、未だ振り下ろす力を緩めない若菜を必死に抑え込んでいる姿に、傍で見ていた朔夜をも驚かせた。


「…どうして、死なせてくれないの?」


 若菜の切ない呟きに答えるように、凩はぱくぱくと唇を動かしながら簪を手から抜き取り、それを自分の首に向けた。


【…ゆ ユルサナイ ここカラ デテイくことは ゆるさない。

「――っ!?」


 彼女が口にしたその言葉に、ようやく若菜は気づいた。凩がずっと口ずさんでいた言葉が、彼女自身の恨み言ではなくだったことを。身請けされることになった凩を若菜は恨み、自分から離れていくことを何よりも嫌がった。そんな黒々とした恨み言を若菜は、鬼となった凩にまるで子守歌のように聞かせていたことを思い出し、凩はその言葉をただ繰り返していただけだったのだ。故にこの言葉は、凩の怨念でも本音でもなかった。ただの、若菜の歪んだ愛憎。


「…凩、ごめんね。わたくしのこんな思いに、死んでまでも振り回されて。さぞや迷惑であったであろう。ごめんなぁ、ごめんなぁ」


 握っていた簪を手の中で弄び、いつの間にか敵意を失った大人しい凩に縋り付き、若菜は一身に謝りながら涙を零した。赤子のように大泣きする若菜の声に反応した凩は、簪を足元に落とすと空になった左手で膝に乗った若菜の頭を優しく撫でて宥め始めた。それはまるで泣く赤子をあやす母のように。

 その情景を目にした朔夜の瞼の裏に浮かんだのは、幼い頃に赫夜と喧嘩をして泣いていた自分を膝の上であやしてくれた、揺籃の姿。それを思い返して朔夜は、静かに二対の水虬を袖の中に収めた。


 瞼を真っ赤に腫らし、一旦ひとしきり泣いて落ち着いた若菜の様子に満足した凩は、立ち上がって若菜から離れると見守ってくれていた朔夜の方に振り向いて、ただ黙って見つめ合った。朔夜は凩が自分の命を差し出していることに気づき、少しの躊躇いを見せながらも右袖の水虬をしゅるりと見せた。


「…今、その身体の呪縛から解き放ってあげますね」


 右袖から出てきた刃は朔夜の命令により、真っ直ぐ伸びて無防備に差し出された凩の胸を刺し貫いた。もはや朽ちて血の一滴も出ない身体から水虬が抜き出ると、刺された傷口から徐々に崩れ始め、凩は着ていた白装束を残して灰となって消え去った。そんな想い人の最期を看取った若菜は、ある決意を凩の亡き姿に告げた。


「――凩、わたくしは約束通り、どこへも行かない。ずっと、ここにいる。ずっと、ずっと……」


 いつの日かまた、巡り合うその日まで…。


 余談ではあるがそれから数年後、若菜は揺籃から見世を継ぎ、楼主となって生涯この見世を出ることはなかったという。



 ❖ ❖



 揺籃の前で姿を見せてしまった朔夜はその姿のまま、見世の裏口からこっそりと出ていこうとしていた。騒ぎになって人々があたふたしているその隙に、天街を出ようと裏道を進む朔夜は揺籃の存在に後ろ髪を引かれながらも、背を向けて歩き出そうとした朔夜を必死の呼び声で引き止めたのは、息を切らした揺籃であった。


「おっ、お待ちください!! 朔夜様!!」


 息を切らして裏口の扉から飛び出してきたのは、髪を乱した揺籃であった。簪一つでまとめ上げられていた髪が走った風圧で乱れるもの気にせずに追いかけてきた揺籃の姿に、朔夜は少し目を見開くと振り返って毅然とした態度で冷淡に接する。


「まだ、何か用か?」

「っ朔夜殿下! 申し訳ございません!!」


 夢にまで見た朔夜を目の前にした揺籃は、突然彼の前に跪いてこうべを垂れた。謝罪を繰り返す言葉の端々は震え、地面に接した額は更に擦りつけるようにして深々と頭を下げている揺籃を朔夜は尚も、冷たい眼差しで見下ろす。


「…なんの話だ? 突然理由もなく謝るでない」

「いいえ、理由ならございます! 十年前のあの日、朔夜様の大切な赫夜様をお守りできず、このようにのうのうと生きて参りましたこと、どう申し開きすることもできませぬ!」

「……」

「未だ行方知れずの赫夜様のことを思うと、あの日に死んでおかなかったことを後悔するばかり。亡き貴方様のご遺言であった“赫夜を頼む”というお約束を守れず、申し訳ございませんでした!」


 先程まで毅然と振る舞っていた彼女の心の内に隠された本音を聞き、朔夜はこれ以上冷たく接することに我慢ができなくなってしまった。冷たく突き放せば、もう自分達のことなど忘れて幸せに余生を過ごしてくれる、そう願っていたが、彼女の今でも消えない忠義に朔夜は根負けしたのだ。小さく溜め息をついた朔夜は、揺籃の傍に膝を着くと穏やかな声で優しい言葉を掛けた。


「…揺籃、それはもうよい。終わったことだ。僕も赫夜も、幼過ぎたが故に自ら身を滅ぼしただけのこと。揺籃が負い目を感じる必要はない。寧ろ其方には十五年間我らを育ててくれた大恩がある。感謝してもし切れないほどだ」

「も、勿体ないお言葉でございます!」

「僕がここで其方と再会した時、最初に感じたのは“喜び”であった。其方が生きていてくれたこと、心の底から嬉しく思う。よく無事でいてくれた」

「朔夜さま…っ」


 自分を気遣う朔夜の優しい言葉に感動し、涙を流す揺籃の震える肩を優しく宥めた。名残惜しいがあまり長居すると他の者に見つかる危険性があるため、朔夜は立ち上がり踵を返した。その背中に揺籃の呼び声が突き刺さる。


「朔夜様! この後、どちらへ…?」

奎都けいとへ行く。赫夜の行方を探すために」

「なりません! 奎都に行ってはいけません!!」


 揺籃の突然の叫びに驚いて振り返ると、必死の表情で朔夜にとあることを訴えかける。それはまったく予想していなかった情報であった。


「…この西の地を治める“白虎”が、朔夜様の首をお探しであると小耳に挟みました。今都に行ってはなりません」

「……そうか。ありがとう、其方のおかげで助かった。この恩はまたいずれ、赫夜と共に返しにくる」


 二人の背後の表通りでは咸池屋の騒動を聞きつけた奉行の者が駆け付けたらしく、騒がしい声が聞こえてくる中、揺籃は裏の小道を駆け抜けていく朔夜の背中を見送ると煌びやかな表通りに戻っていく。

 奉行所の者たちが十手を片手に声を上げる中に、揺籃は堂々とした面持ちで現れ苦言を呈する。


「――なんの騒ぎだい? ここを天下の咸池屋と知ってのことかい?」

「女将! またお主の店の女が騒ぎを起こしたそうだな!?」

「…はて。男と女の惚れた腫れたの痴話喧嘩など、天街ここでは日常茶飯事にございます。一々目くじらを立てていては、キリが御座いませんよ」


 揺籃は毅然とした態度で奉行所の人々を引き留め、その間に朔夜が無事に天街を抜け出せたことを願った。



 そんな揺籃たちのやり取りを別の店の二階から眺めていた、朱色の髪の男が一人。

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