第伍話 青楼の中は夢幻〈一〉


 女は今日も夢を見る。いつ終わるともしれない悪夢の中、女は頼るもののない暗闇の中で一人孤独と戦いながら彷徨っていた。この暗闇ばかりの夢を見るのは、なにも今日が初めてではない。いつだってこの夢には決まって結末がある。


 ぼう、ぼう、と周りが燃え盛りはじめれば、この夢の終着が見え始める。かつて何人もの女官たちが行き来し、美しい女御たちや凛々しい公達たちが通う煌びやかな禁裏の中は過去の栄光の欠片も残さず、全てが灰と変わろうとしていた中を女は絶望に身を染めながらふらついた足取りで徘徊する。美しかった禁裏はそこかしこが焼け焦げ、真っ赤に燃える炎は庭先に咲いていた華やかな桜の木や梅の木も、ただの炭へと変わっていく。今目の前で燃えている梅の木は、自らが乳母を務めた御子の弟君の朔夜サクヤが大層愛でていた梅である。御子“赫夜カグヤ”の髪と同じ白い花をつけていた梅の木をまるで赫夜のように愛でる朔夜の姿を思い出し、女は静かに涙する。

 感傷に浸る女のもとに、夢の終わりを告げる者が現れた。その人物は金糸で編まれた太陽の紋章のあるうちきをぼろぼろにし、髪を返り血で乱し、生来端麗な顔にも血を纏わせながら呆然とする女を見上げている。その炎のように真っ赤な瞳は硝子玉のように何も写さず、女の姿を鏡のように写すだけで本当の意味では見ていない。怯える女の姿をその両目に写した瞬間、その人物はピタリと足を止めて血に濡れた手をゆっくりと伸ばしてきた。女よりも小さい、その手が女の無防備な首に触れるその瞬間。



「――っ!?」


 女は使い古した布団の上で目を覚ます。夢の中で炎に包まれていたせいか、女の額や背中は汗でびっしょりと濡れており、汗を吸った寝間着の気持ち悪さに起き上がっておもむろに手拭いを手に取って汗を拭う。手拭いが首に触れた瞬間、それまで落ち着いていた女の動悸が激しくなり、浅く小さく呼吸を繰り返した。夢の中で感じた爪の感触と指先のぬくもりが、今でも鮮明に思い出せる。

 だがあれは、夢ではなく彼女の記憶。心の奥底にしまい込んで忘れてしまいたい、十年前の記憶。その記憶は毎晩彼女の夢にすり替わり、後悔と懺悔で押しつぶそうとしてくる。

 本当の記憶は少し違った。美しい禁裏が領主たちの率いる軍勢に攻められ、朔夜の首が赫夜の前に晒されたのち、玄冬ゲントウの命令で火が放たれ、瞬く間に禁裏は炎に包まれた。逃げ惑う官吏や女官の間を縫い、女は自分の育て上げた御子の姿を必死に捜した。生まれた頃より乳を与え、亡き生母の代わりに育てた御子の姿がこの混乱の中どこにも見当たらず、女の脳裏には冷たい首になり果てた朔夜の姿が横切り、それが勝手に御子のものとすり替わって女の不安を更に煽ってくる。そんな不安を振り払って禁裏内を走り回っている途中、後宮の一番格の高い御殿『水芹殿すいきんでん』からゆらりと、探し人が姿を現した。血と灰で乱れた姿の御子——赫夜カグヤを目にした瞬間、女は憐れなその姿に涙した。どんな時にも美しく着飾り隙を一切見せることのなかった赫夜が、こんなにみすぼらしい姿になってしまっていることに、生涯を賭して守ってきた御子が、とようやくその時理解した。ゆらゆらと首を揺らしながらのっそりとした足取りで近付いてくるその姿をただ凝視するだけしかできない女に、赫夜は乾いた唇が小さく呟いた。


「――…… 


 その言葉が、女は十年経っても耳にこびりついたままであった。



 ❖ ❖



 永遠と続く田園風景をひたすら徒歩で歩き続けてきた六花リッカはついに、一歩も自分で歩いていない朔夜サクヤにどうしようもない愚痴を零し始めたのは、二人が宿場町を出て数時間後のことであった。髪も色がばれないように黒く染め終わり、一泊した六花は必要な物を持って腰元に確と朔夜の髑髏しゃれこうべの入った巾着を携え、意気揚々と町を出たはずだった。しかし次の町までの距離は長く、徒歩以外の選択肢のなかった六花は仕方なく永遠と続くと思われる田園風景の中、笠で強い日差しを遮りながら歩き続けた。噂ではこのところ雨はあまり降らず、作物の育ちも悪いらしく、その証拠に六花の頭上から降りかかる太陽光は厳しく、立っているだけでも眩暈がしてくるほど。

 そんな中、疲れ切った六花の口から久々に飛び出た言葉は愚痴であったことは仕方のないことであると言えた。


「…もうやだ。もう歩けない!」

「…六花、大声で喚くな。歩けなくば、ここで野垂れ死にするか獣の餌になるぞ。いいのか?」

「……やだ」

「じゃあ頑張れ」

「…朔夜は焚きつけるのがうまい」


 嫌味っぽくそう呟きながらも再び歩き出したのを確認し、朔夜は密かに微笑んだ。

 昔よく、面倒臭がりで我が儘な赫夜を焚きつけてはお役目をさせていた。家族と認めた以外の他人の前では凛として隙一つ見せない癖に、朔夜の前ではいつも我が儘な子供に戻っては朔夜の膝の上に甘えてくる、まるで猫のような人であった。そんな我が儘な赫夜に比べれば、六花を動かすことなど赤子の手をひねるように容易いことだった。

 暫く六花の歩く揺れに身を任せていた朔夜だったが、突然激しい揺れに襲われ、地面を擦る音がすぐ側から聞こえてきた。それからぴたりと止まった歩行の揺れから、故意か事故か六花が地面に尻餅を着いたことを察する。現状がわからない今、六花は小さな声で六花の名を呼ぶも返事はない。すると巾着の外側から聞いたことのない大人の男の声が複数名分聞こえてきた。


「――見た目は悪くねぇな」

「だが、ちと小さすぎねぇか? がつくとは思えん」

「いいさ。その辺の枯れ木みてぇな女よりよっぽど高値になるさ」


 男たちの下卑た会話から察するに、六花はどうやら質の悪い人攫いに出くわしてしまったらしく、一向に返事や反応がないことから気絶させられたのではないか、と六花の身を案じながら何もできない自分の無力さに打ちひしがれた。だが、ここで声を上げて存在を知られれば面倒なことになることは明白。朔夜は冷静さを保ちつつ策を練りながら、六花が目覚めるのを静かに待つことにした。粗暴な男に運ばれる揺れは、殊更不快だったことを恐らく朔夜は一生忘れないであろう。



 ひたすらに考えを巡らせていた朔夜だったが、どうやら道中眠ってしまっていたようで、ふと無い瞼を持ち上げて目覚めた朔夜の巾着の外側は先程までの静けさから一変し、人の活気に溢れていた。いつの間に次の町に着いていたのかと思ったが、二人が元より目指していたのは出発した町から南の宿場町だが、聞こえてくる会話はとても宿場町とはいえないものだった。


「――おにいさん、今夜寄ってってよ」

「お前さんまた今夜も太夫のところかい? いい加減にしないと、金も精も搾りつくされちまうよ」

「旦那さん。今夜の予定はもう決まってますの?」


 朔夜も知識でしか知らないし、年齢的に足を踏み入れたこともない場所であり予想ではあるが、恐らく今いる場所は所謂『遊郭ゆうかく』で、西の監兵領の遊郭と言えば領内の東寄りにある『天街てんがい』以外他にない。人攫いに出くわしただけでなく遊郭に売られることになるとは、つくづく六花と自分には運がないと朔夜は項垂れる他なかった。

 やがて男たちの足が止まったのか揺れが止まり、代わりに煙管の紫煙の香りを漂わせて誰かが男たちの前に姿を見せたようだった。


「――なんだい、お前さんたちかい。また碌でもないモンを売りつけにきたのか」

「こりゃ手厳しいな、咸池屋かんちやの女将は」

「当たり前だろう。前に売りつけてきた娘、剥いてみれば干物のような子でまるで役に立たないじゃないか」


 会話から察するに男たちがやって来たのは懇意にしている妓楼であり、その楼主の女主人にどうやら前にも女を売りつけたらしいが、その苦情を永遠と語られ男たちは萎縮していく。遊郭において力を持つのは女、故にその女たちを束ねる楼主や遊女たちの最高位である『太夫たゆう』には男といえど手出しはできない。大人しく楼主の文句を聞き続けた男たちだったが、一人が意を決して声高らかに本日の商品について説明を始めた。


「っ女将! しかし本日の商品は、一味違います。まだ餓鬼ですが、育てば太夫も夢ではないかと!」

「ほぉ? ではここへ」


 女将の説教が終わり男たちはいそいそと俵のように担いでいた六花を彼女の前に差し出す。既に目が覚めていた六花は女将の前に突き出され、どうしていいのかわからずオドオドするばかりで六花の緊張は巾着内の朔夜にも感じられた。下手に進言のできない朔夜はただ黙って見守り、無事に乗り切れることを祈った。

 緊張のあまり顔を上げることのできない六花の旋毛を見下ろしながら、女将は六花を吟味する。肌は白過ぎず健康的で、瞳は鮮血を零したような紅で、女将はとある人物を思い出して思わず視線を逸らした。未だ悩む女将に男の一人が大声を上げて六花の顎を掴んで顔を無理矢理上げさせた。


「どうでしょう! この真紅の瞳! かの噂の“悪逆非道なる双子”の片割れを連想させて妖しくも心動かされます! これで白髪であれば、更に価値も上がるというのに…」


 男の言葉にドキリ、とした六花は思わず肩を小さく震わせた。白髪赤目の子供は表向きの人間には恐れられ、近付くものは殆どいないというのに、裏向きの人間たちにとっては恰好の餌であり、その畏怖される見目は逆に客の目を惹き、客寄せにもなると考えられていた。そのことを初めて知った六花は生まれて初めて向けられた奇異の眼差しに背筋を震わせる。

 それを見落とさなかった女将は、六花の髪を今一度視界に収め、その艶のある髪に違和感を覚えると自ずと頭の中である結論に至った。その結論を信じた女将の次の行動は早かった。


「…いいでしょう。その娘、先日の女の倍の額で引き取りましょう」


 女将の言葉に動揺の隠せない男たちだったが、すぐに大声で舞い上がり六花そっちのけで大喜びし出した。女将は下男に金を用意させ、賑わっている男たちに手渡すと、自ら六花のもとに歩み寄ってその肩を叩いて視線を交わらせた。


「…ほら、そんなとこにいつまでも座っていないで、こっちへお入り」

「…はい」

「お前さん、名前は?」

六花リッカと申します」

「…私のことは、女将。もしくは、“揺籃ヨウランさん”とお呼び」


 女将のその名に一番反応したのは、巾着の中に身を潜めていた朔夜。この場にいる誰よりもその名に聞き覚えのある朔夜は動揺を示していたが、六花はそれを知らず女将の背に連れられ、妓楼『咸池屋』の門をくぐった。



「――えぇ!? それは本当なの?」

「しっ。声が大きい」


 女将により小さな座敷に通された六花は、周囲の人気ひとけがないことを確認し、ようやく落ち着いたところで腰の巾着を座敷の上に置き、広げた風呂敷の上に朔夜の頭を置いた。白骨の身でありながら何やら動揺している様子の朔夜に訳を聞けば、六花は仰天するしかなかった。


「…本当に、揺籃さんは昔陰陽国の後宮にいたの?」

「あの声と、名前。恐らく間違いない。彼女は後宮に仕え、僕らを育ててくれただ」

乳母めのとだった人がどうしてこんなところに…」

「そもそも、生きていたことに驚きだ。十年前の折、亡くなったとばかり思っていた」


 陰陽国の後宮の女官、それも烏師の乳母だった者が無事に生き延びることなど不可能にも近く、自然と死んだものと朔夜も思っていた。その揺籃ヨウランがまさか生きて、陰陽国とも離れた西の遊郭で楼主を勤めているとは、一体誰が予想できたことか。そして何より、巾着の口の隙間からちらりと見えた揺籃の姿は、昔朔夜の見た素朴で質素な女性の姿とは正反対で煌びやかに飾り、化粧も濃く厚く仕上げられていたため、朔夜は己が目を疑った。十年もの年を経た彼女の瞳からはどこか、生気のなさを感じ、かつて赫夜だけでなく自分をも育ててくれた彼女の面影を懐かしむ暇もなかった。


「…しかし、何やら騒がしい場所だな」

「そりゃ、妓楼だからかな?」

「そういうことじゃない。なんだか、浮足立っているようだ」


 そう言われてみれば、六花がここへ通されている間ここいる女達は物珍しそうに障子の隙間から見つめながら、こそこそと噂話をしていたのを耳にしたことを思い出した。

 その噂というのが、最近この妓楼では妓女たちが立て続けに自殺しているというものであった。


「妓女の自殺?」

「うん。そのせいで客もあまり寄り付かなくなって、楼主の揺籃さんも頭を抱えているみたい」


 ちらりと見た揺籃の目元の化粧が特に濃かったことを思い出し、朔夜は彼女が目元の隈を必死に隠そうとしていたことに気づく。そんな彼女の気苦労を感じた朔夜は、懐かしさと生来のお人好しな性格も相まって余計な親切心が芽生え始めてしまった。それにより、つい口を突いて朔夜はとんでもないことを言い出した。


「…六花。その事件少しきな臭い、調べてみよう」

「えぇ…?」



 ❖ ❖



 女と男が毎夜宴を催す愛憎渦巻く妓楼の中、人目を避けて暗く寒い地下の座敷牢には、女の怨念に満ちた声が染み付いていた。何年にも渡って染み込んだ怨念はやがて黒い塊のようなものになり、地下に吹き黙って彷徨っていた。そんな怨念たちが行き場を求めて彷徨う中、一つの入れ物を見つけた。絶望と憎悪の中で自害しそのまま座敷牢の奥で放置されたその亡骸を見つけた怨念が、その身体にするりと入り込むと、冷たく硬直していた身体がぎこちなく動き出し、乱れた髪を振り乱して起き上がる。ぐしゃぐしゃな髪とボロボロの肌、薄汚れた雑巾のような着物を着たそれは女であり、血色のないその唇は生前の恨み言をただただカラクリのように呟き続ける。


「…許すまじ、ゆるすまじ。わらわの怒り、災厄となりて、女どもに不幸をもたらしてみせようぞ…」


「この妓楼から、幸せな女が出ていくことなど、わらわは許さぬ――っ」


 この恨みに満ちた女の姿を見たものは数知れず、その噂は忽ちの内に妓楼内に広がり、皆が皆、と口々に言うのであった。



 それは今から、二年前のこと。

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