第60話 酒、人を飲む。

 きっちり二日酔いになった俺がホテルの部屋から出てくることができたのは太陽が天高く昇った後のことになる。

 廊下に置いてあった姿見に映る姿は髪の毛も乱れたまま、青白い顔をしているせいかまるで幽鬼のようだった。


 おえ。

 こみあがるものを飲み下し、なんとか這うようにしてロビーに向かう。

 階段を降りるのが滅茶苦茶大変だった。

 すっかり身仕度を終え、お茶をしながらベティと話をしていたセディは目をぐるんと回転させる。


「お早う。オトール」

「お早うございます」

 声をかけられた俺だがそれどころじゃない。

 音が脳内に反響して脳味噌をかきまわす痛みに片手を額に当てた。


「う。頭が割れそう。マジ死ぬ」

 ため息を吐いたセディが椅子から立ちあがり、座っていた椅子に俺を座らせる。

 その間にベティはホテルの人にお茶を用意するように頼みにいっていた。

 腕を組んで冷ややかな表情のセディはうめき声をあげる俺を見下ろす。


「だからさ、ほどほどにしておきなよ、って言ったよね」

 俺は力なく手をあげた。

「御説ごもっとも。ぐうの音も出ないし、今後は気をつける。だから、今は俺に優しくしてくれ。ってとこかな?」

 セディが声真似をするので、俺は同意を示すために手を僅かに振る。


「師匠。新しいお茶をもらってきました。いっぱい飲んでください。治りが早くなりますよ」

 ベティがポットからカップに注いだ。

 馥郁とした香りが辺りに漂う。

 しかし、俺は背もたれに体を預けてぐにゃりとしたまま身じろぎもできない。


 セディの目が細くなる。

「ほら、オトール。せっかくベティさんが淹れてくれたお茶だよ。まさか飲まないなんてことはないよね」

 ドルネーの拠点のような凍てついた声に俺の体は無意識に反応してびくりとさせた。


 のろのろと体を動かしてテーブルの方に手を伸ばす。

 うぷ。

 ベティが俺の手にカップを持たせ、口に運ぶ介添えをしてくれた。

 ひんやりとした手が気持ちいい。


「棺桶に片足を突っ込んでいるお爺さんみたいだね」

 セディは呆れた声を出す。

 何とかお茶を飲むことができたが声を出せそうになかった。

 代わりにセディがベティにお礼を言う。


「ベティさん、ありがとう。こんな姿を見たら百年の恋も冷めるだろうけど、オトールを見捨てないで」

 後半は余計だ、相棒。

 ベティは笑顔を見せる。


「大丈夫ですよ。こういうところも師匠らしいなって思いますし」

 セディは感極まったようにベティの手を握った。

 あ、こら。

 額に当ててもらおうとしていた手を持っていくんじゃない。


「本当にベティさんは女神さまのようだね。オトールにはもったいないという気持ちも半分ほどはあるよ」

「それは言い過ぎです」

 大量にお茶を飲まされ、お手洗いに頻繁に連れて行かれたことで何とか俺も口をきけるほどまで回復する。


 その様子をおかしそうに観察していたセディはクスクスと笑った。

「結局、約束の時間に国立音楽堂には行かなかったね」

「正確には行けなかったですね」

 ベティも忍び笑いをする。

「……行かない方がいいって話だったじゃねえか。それに従っただけだぜ」

「負け惜しみもここまでくると大したものだと思うよ」

「そうかい。もう、面倒くさいしどうでもいいや」


 俺たちの宿泊しているホテルは居心地がいい。

 もちろん、心付けを弾んであるというのもあるが、それを抜きにしても宿の主の目が行き届いている快適さがあった。

 少しはお腹にいれた方がいいと、パンをスープに浸しチーズをかけて焼いたものを出してくれる。

 ゆっくりと食べると気力が沸いてきた。


 こうなると気になるのは金のこと。

「軍本部に行って金を受け取ってくる」

「元気になったらすぐこれだよ」

「いいじゃねえか。なんか早めに受け取っておくべきだって俺のここが告げてるのさ。ちょっと遅くなったが、その後大聖堂にも行こうぜ」


 三人で連れだって軍本部まで出かける。

 日射しはあるものの風が強く寒い日だった。

 さすがにベティを連れて入れないので俺一人で中に入ろうとする。

「あ、私一人で待ってますから、お二人でどうぞ」

「寒空の中、一人で待たせるのも悪いからな。あそこの王国陸軍博物館を二人で見学しててくれ。大して面白くもないだろうが風は防げる」


「じゃあそうしようかな。私もここの博物館は初めてだし。オトールは何度か来ていて面白くもないだろうからね」

 セディがすかさず賛意を示した。

 さすが察しが良いな。


「金を受け取ってくるだけだ。大して時間はかからないだろうよ」

「とか言って、また拘束されたりして」

「おい。嫌なことを言うなよ。本当になったらどうするんだ」

「まあ、そのときはそのときだね」

「ちゃんと救い出しにいきますから安心してください」


 満足そうににんまりと笑うセディをひと睨みすると俺は軍本部へと入っていく。

 前回来たときのようには誰何されなかった。

 警備兵たちは心なしか俺のことを関わり合いになりたくなさそうにしている。

 愛想笑いをしつつ敬礼して俺のことを中へと通した。


 どういうことだろうな。

 前回は公用中だったけど、今回はほとんど私用だ。

 少佐という階級は低くはないが警備兵が恐れおののくほどの高官というわけじゃない。


 通り過ぎた俺の後ろから微かな声が聞こえる。

「蛙の魔女……愛人……」

 なんか変な噂が一人歩きしているようだった。

 まあ、全く事実無根というわけでもないのが苦しいところ。


 俺とは違って忙しい魔術師や魔女たちは忙しく通常業務に取り組んでいるようだからいいが、もし手が空いたら面倒事に巻きこまれそうな気がした。

 思わず身震いが出る。

 不安を打ち消すように報酬のことを思い浮かべた。


 受付で訪ね先の部屋を教えてもらう。

 目的の人物のデスクは書類に埋もれそうになっていた。

 まあ、軍本部の仕事は書類をいじくることがメインになる。

 俺も真面目に勤め上げていれば、昇進してデスクワークをこなすことになったはずだ。


 想像をしただけで蕁麻疹が出る。

 そりゃ本部にいれば斬られることも撃たれることもない。

 出動する度に妻子と今生の別れの覚悟を決めなければならない既婚者には魅力的だろう。


 どうも俺は頭のどこかがイカれているようだ。

 刺激のない生活など考えられない。

 ま、俺には家庭は向いていないんだと思う。

 だから、ベティの気持ちには応えられないのだ。


 他の男へと関心が移ってくれればいいのだが、こればかりはベティの気持ち次第なので俺にはなんともしがたい。

 もっとも謝恩会で粉をかけてきたような軟派野郎は認めがたかった。

 これじゃ、俺がベティの父親みたいだな。

 自然と苦笑が浮かんでしまう。


 くどくどと俺に手紙を届けた意義を説明していた大尉は言葉を切った。

「少佐殿。退屈しておいでのようですな」

「まあな。俺に難しい話は必要ない。どうせまた退役申請するつもりだし」

 大尉は表情を変える。

「このご時世に?」

「そうだが」


 大尉は首を振って信じられないという顔をした。

「まあ、ここであんたと世界情勢について議論するつもりはねえよ。連れを待たしているんだ。さっさと金を渡してくれるとありがたいんだがね」

「取りにいかせている。1万といえばそれなりにまとまった額だ。デスクの引き出しに入れておくわけにもいかないのはわかるでしょう?」


「そうかもしれないが、それはそちらの事情だぜ。困難な任務でも期日に遅れれば叱責される。それと同じさ」

 大尉は嫌そうな顔をする。

「取りにいかせた者はもうすぐ戻るよ」


 ちょうどそのときに部屋の後ろの方でざわめく声がした。

 大尉がさっと立ちあがる。

 どこの誰がやってきたんだ?

 振り返った俺はあんぐりと口を開けて一瞬呼吸するのも忘れた。

 

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