第35話 穏やかなひと時

 その後、ノエルの工房を後にしたキリルとニールは少しだけ寄り道をしていた。


 キリルはまだまだお礼を言い足りないとぼやいていたが、あれ以上ノエルを困らせるわけにもいかないだろう。

 そう考えたニールはキリルを上手く言いくるめて、噴水広場へと引っ張っていった。


 ちなみにキリルの祖父母については、きちんと村へ帰したとノエルから聞き、キリルは胸を撫で下ろしていた。


「せっかくですから、噴水広場だけでも回ってみませんか?」


 ニールが誘ってみると、キリルは途端に瞳を輝かせた。


 キリルの気を逸らせるためとはいえ少々子供だましのような気もするが、このまま放っておけばまたノエルのところに行ってしまいそうだし、押しかけられる彼のことを思えばそうも言っていられなかった。


 それに、まだルアールの街を見たことがないと言っていたキリルに街を見せてあげたかったのも事実だ。


 実際には反乱軍のアジトに向かった時に、デルニード城からルアールの正門へとまっすぐ続く大通りは通っているのだが、その時は雨の中を急いで走り抜けただけで周りを見ている余裕はなかったのである。


「そういえば初めて見るんだもんな……」


 噴水広場で物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回すキリル。


 田舎者丸出しだが、実際にそうなのだからこれは仕方ないだろう。


 お金は城を出る時に十分過ぎるほど持たせてくれていた。こんなにいらない、と断ろうとするキリルとニールにユリウスが無理やり押し付けたものだ。


「キリル様の好きなところに行きましょう」


 ニールが笑顔を向けると、キリルはさらにぐるりと周りを見渡す。どこに行こうか考えているようだ。


「……じゃあ、あれ!」


 キリルが指差したのは、小麦粉を使った白いパンを売っている屋台だった。いや、よく見ればパンだけではなく、焼いた豚肉をパンに挟んだものも売っているらしい。


 すぐさまキリルは駆け出してその屋台に向かう。ニールもその後を追った。


「美味しそう……!」


 屋台の前で、初めて見る食べ物にさらに瞳を輝かせる。


 カーミス村にもパンはもちろんあるが、それはライ麦を原料に作られたもので食感もそれほどいいものではない。このように高価な小麦粉を使った白くてふわふわのパンは初めてだった。


 しかも、そんなパンにこれまた美味しそうに焼かれた豚肉を挟むのだという。

 これが美味しくないわけはないだろう。


「キリル様、さっき朝食を食べたばかりでは……?」


 追いついたニールが背後から声を掛けると、


「これは別腹!」


 キリルは言いながら振り向き、目を細めた。


 さすが成長期の少年だけある、そんなどうでもいいことにニールは感心する。そして自分にもこんな時期があったんだろうな、などと昔のことを思い返した。


「それなら買って、あっちの噴水の前で食べましょうか」

「うん、ありがとう!」


 ニールの嬉しい言葉に、キリルは大きく頷いてお礼を言う。


 そして豚肉を挟んだパンを二つ買うと、近くの噴水の方へと移動した。ちょうどベンチが空いていたので揃って腰を下ろす。


「いただきます!」


 そう言って、キリルはまず両手を合わせる。それから膝の上に置いていたパンの入った紙袋から大事そうに中身を取り出した。


 大きく口を開けてひとくち頬張ると、柔らかなパンの食感の後に豚肉のジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。キリルはその美味さに思わず唸った。


「んー! 思った通りやっぱり美味しい!」


 幸せそうにぱくぱくと食べているキリルの隣でニールもひとくち食べてみると、それは本当に美味しいもので、城下にもこんなに美味しいものがあったのか、とこれまで食べる機会がなかったことを少し残念に思う程だった。


 パン自体の美味しさもそうだが、この澄んだ青空の下で食べるのがこれまた美味しさをさらに引き立てているのだろう。


「これは美味しいですね」

「うん、じいちゃんとばあちゃんにも食べさせてあげたいくらい! あとユリウス兄さんと、エリオット兄さんにも。エミリアもこういうの意外と好きかもしれないよね。 あ、父さんはまだ食べられないかな」


 指を折りながら年相応の無邪気な表情を見せるキリルに、ニールは思わず笑みを零した。


「じゃあ、また今度皆の分も買いに来ましょう」

「うん!」


 元気に答えると、キリルは最後のひとくちを放り込む。


 こうして久々に穏やかな一日はゆっくりと過ぎていったのだった。


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