第2話 始まりの日・2

 そして現在。


「逃げろって言われたって……」


 キリルはまだ息を切らせたまま、木の幹の裏でぼやいた。


 どこまで逃げればいいのか、またどうして自分が騎士団から逃げなければならないのか、疑問は尽きない。


 木の幹に背中を預けると、おもむろに懐を探る。そして母の形見である銀の懐中時計を取り出すと、何とはなしに眺めた。


 上蓋に四つ葉のクローバーの綺麗な細工が施されたもので、偶然だろうが、それはキリルの左肩にあるあざによく似ていた。


 とてもキリルのような一村人が持てるような代物ではない。そのような高価なものを、なぜ母のオフェリアが持っていたのかは今となってはわからないが、キリルにとってとても大切なものだということだけは事実だった。


「母さん、これからどうしよう……」


 神にでもすがるような思いで天を仰ぎ、懐中時計を握りしめる。木々の間から覗く空はキリルの心の中とは正反対に、どこまでも青く透き通っていた。


「……魔法が使えたら、騎士団と戦えるかもしれないのに」


 今度は視線を落とし、小さく呟く。


 この国では魔法を使えない者も多いが、キリルは生まれた時から魔法の素質を持っていた。しかしそれを訓練で伸ばすことはしなかった。いや、できなかったと言った方が正しいのかもしれない。


 幼い頃は指先に小さなファイヤーボールを出したり、飛んできたボールを弾く程度の物理障壁ぶつりしょうへきをたまにお遊び程度で使うことはあった。


 それは今から七、八年くらい前のことだ。


 キリルはカーミス村ではただ一人の魔法の素質持ちだった。

 そんな彼はある日、近所の少女にせがまれてファイヤーボールを出して見せた。驚くと同時に満面の笑みで手を叩く彼女の様子に気を良くしたキリルは、もっと大きな炎を見せようとした。


 結果、巨大な炎を出すことには成功したが、まだ子供だったキリルには制御しきれずにその少女に火傷を負わせてしまったのである。


 術者であるキリルが火傷を負うことはなかった。魔法を使う者は自分の魔法で怪我をすることはないのだ。


 ちょうど村に旅の魔法使いが来ていたおかげで炎はすぐに鎮火され、少女の火傷もそこまで大きなものではなかったのだが、その魔法使いは治癒魔法を使うことができなかったので火傷を治すことはできなかった。当然、治癒魔法の素質を持たないキリルにできるはずもなく、彼女の足には痛々しい火傷の痕が残ってしまった。


 幸いと言うべきか、彼女の両親や彼女本人から責められることはなかった。だが何となく気まずくなり、会って謝ることができないでいるうちに、彼女の一家は父親の仕事の都合で王都ルアールに引っ越してしまう。


 その一件から魔法というものが怖くなったキリルは、訓練することはおろか、魔法を使うこともなくなってしまった。実際、魔法を使わなくても何ら生活に困ることはなかったし、使う必要にも迫られなかったので、これでいいと思っていたのである。


 おそらく今は、ファイヤーボールを出すこともできなくなっているかもしれない。


「……」


 懐中時計を懐に大事そうにしまい込むと、目の前で右手の人差し指を立てて、意識を集中させる。幼い頃はそれだけでファイヤーボールを出すことができた。


 しかし、今は指先にパチンと小さな火花が散っただけだ。


「やっぱり無理かぁ……」


 剣で戦おうにも今は持っていない。これでは騎士たちと戦うこともできないじゃないか、と意気消沈した時だった。


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