Kirill―キリル―

市瀬瑛理

第1話 始まりの日・1

 それは雪が綺麗に解けて、少しばかり暖かくなってきたある日のこと。


 普段はとても静かな森。

 今日のように天気の良い日には小鳥のさえずりが時折聞こえてくる程度で、住んでいる動物はほとんどがおとなしい小動物ばかりだ。


 そんな森の中を、一人の少年が大袈裟なほどに息を切らせながら、後ろを振り返ることもなく一気に駆け抜けていく。今は小鳥のさえずりを聴いている暇すらないらしい。


 少年から少し離れた後方では、ほぼ一定の距離を保ちながら、大勢の人間の騒々しい声や金属同士のぶつかり合う音が響いていた。


 途中で少年の頭に巻いていたバンダナが取れ、栗色の髪が露わになった。しかし、それが乱れるのも構わずに走り続ける。


 最近十六歳になったばかりの彼の名は、キリル。質素な身なりではあるが、程よく日焼けした健康そうな肌に、母親譲りの髪色とシルバーグレイの澄んだ瞳が印象的な少年だ。


 途中で落ちている木の枝たちに何度も足を取られそうになりながら、どこに向かうでもなくただひたすらに駆ける。


 ようやくこの森の中でもひときわ大きな木を見つけると、その太い幹の裏に身体を滑り込ませた。しゃがみ込むと、大きな息をひとつ落とす。


(一体どうなってるんだよ……!)


 森中に響くほどの大きな声で叫びたかったが、今はそれをすることができないので、渋々心の中だけで我慢しておくことにした。


 事の始まりはほんの少し、小一時間ほど前にさかのぼる。



  ※※※



「この村に【災厄さいやくの王子】がいると聞いて来た」


 そう言って、大勢の甲冑姿の人間がキリルの住んでいるカーミス村に現れた。


 彼らは、デルニード国第一王子ユリウス直属の騎士団だと名乗ると、村の広場にまで押し入ってきた。


 カーミス村はデルニード国内でも、王城のある王都ルアールに比較的近い村である。小さいが、ルアールに向かう旅人や行商人がよく立ち寄る、活気のある村だ。

 今日は珍しく、外からの来客がない日だった。


「【災厄の王子】って何のこと?」

「さあ……?」

「でも、こんな小さな村に騎士団が来るなんて……」


 村人たちは突如現れた騎士たちに、当然のことながら困惑の色を隠せない。


 騎士団と村人、大勢の人々でざわめく広場。


 その頃、キリルは昼休憩のために午前中の畑仕事を切り上げ、早々に家へと戻っていた。

 ライ麦のパンをちぎって、口の中に放り込もうとした時のことだ。外の喧噪けんそうにその手を止めた。


「何だか、広場の方が騒がしいな……」


 放り込もうとしていたパンを皿の上に置き、立ち上がる。外に出て様子を見てみようとドアを開けた時だった。


「キリル!」

「――っ!」


 顔面蒼白の祖父母が飛び込んできて、思わず目を見開いた。


 キリルは母のオフェリアを五歳の時に病気で亡くして以来、ずっと祖父母と三人で畑仕事をしながら穏やかに暮らしてきた。


 しかし、これまでにこんなに取り乱した様子の祖父母を見たことはない。


「じいちゃん、ばあちゃん。一体何が……」

「いいから、早くこっちへ!」


 キリルの言葉は最後まで紡がれることなく、祖母の早口な言葉に遮られる。そして無言の祖父に腕を強く掴まれると、そのまま裏の勝手口へと引きずられるようにして連れて行かれた。


「いいかいキリル、よく聞きなさい」


 状況をまったく把握できずに戸惑うキリルの両肩に、祖母の手のひらが置かれる。

 いつもの温かいものとは違う、とても冷たい手。これは祖母の手ではない、本人が目の前にいなければ一瞬そう疑うほどだった。


「今、お前を探しにデルニードの騎士団が広場に来ているの。でも絶対にデルニード王家には関わってはいけないよ。もし騎士団に見つかれば殺されるかもしれない。だから今すぐここから逃げなさい!」


 祖母は一息にそれだけを言うと、祖父と共に、勝手口から追い出すようにしてキリルを村の外へと逃がしたのである。


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