山猫記

桐山じゃろ

白猫黒猫

 この世に呪いや妖怪変化というものは確実に存在している。

 断言している理由は、私が今まさにそういうものを目の前にしているからだ。

 ことの発端は、三年前に遡る。



 私の妻が病を得た。投薬すれば治るようなものではなく、医者も匙を投げる原因不明のものであった。

 意識は混濁し、食物は水とわずかな粥しか受け付けない。

 朝には燃えるような熱を出し、夜には氷のように冷たくなる。

 ふくよかだった妻は見る影もなく痩せ細り、艶のあった自慢の黒髪は殆ど抜け落ち、白い肌は土気色に変じてしまっている。

 どんな薬も、祈祷も、まじないも効かなかった。

 妻は恨みをかっているのかもしれぬと、呪詛返しを生業とする者にも相談もした。


「奥方は恨みはかっちゃいませんね」

 絹糸よりも細い伝手で家に呼ぶことができた道士は、一刻ほど妻の体に手をかざしたりまぶたに何やら液体をまぶしたりと様々なことをやった挙げ句、そう言い切った。

「しかし厄介なことになっております。助くる方法はなくもないのですが、ううむ……」

 道士は言い淀んだが、私は続きを促した。


「旦那様、猫はお好きですか?」


 猫に限らず、畜生は苦手だ。臭いし毛を落とすし鳴いて五月蝿いし、碌な事がない。


やはり・・・そうですか。ではこの話は無しですねぇ……念の為聞かせろ? はいはい、解りました」


 道士の話は寝耳に水であった。

 妻は、どこかでこっそりと猫を飼っているはずだと言うのだ。


「奥方は旦那様の猫嫌い、いえ畜生嫌いを知っておられるのでしょう。旦那様に内緒にしたいがために、猫を隠しておられたのです。猫の方は、毎日餌をくれる奥方が好きで好きで、独占したい。その猫が、奥方を……奥方の魂を欲して、このようなことをしておるのです」

 猫畜生の分際で、なんたる恩知らずな。

「旦那様からしたら、そうですよねぇ。しかし猫からしたら、旦那様こそ奥方を独り占めする憎き相手なのですよ」

 どうすればいい、その猫を探し出して殺せば済むのか?

「そんなことしたら奥方もあっという間に道連れですよ。方法は簡単なのですが、畜生嫌いの旦那様にできるかどうか」

 妻が助かるのなら、猫の一匹や二匹どうとでもしてくれよう。

 私の決意に、道士は細い目をさらに細めた。


「では、こちらへ」


 連れて行かれたのは、家の裏にある山の中だ。

 道士は山菜を採りに入るための道から早々に逸れ、確信を持った足取りで獣道をざくざくと歩いていく。

 藪をかき分けて進むと、ふいに開けた場所へたどり着いた。

 一番広いところで一間いっけんほどある円形のその地だけ草一本生えておらず、真ん中に黒い猫と白い猫が、並んで座っていた。


「彼らですよう、奥方の魂を抜き取ろうとしているのは」

 道士は私が猫を襲わぬよう、前に立ちふさがったまま話を続けた。

「彼らを最期のときまで家で飼う、と約束し実行すれば、奥方を解放してくれるでしょう」

 猫らは生意気そうな黄色い眸で、私を値踏みするように睨め回している。

 こんな奴らに、私の妻の生命が脅かされたのかと思うと、この場で縊り殺してやりたくなる。

 私も奴らの世話をせねばならぬかと問うと、道士は「その必要はありませんが、奥方と猫の邪魔をしちゃいけませんよ」と答えた。


 家の中に猫がいるというだけでも耐え難いが、妻の生命には代えられぬ。猫どもを連れ帰ることを了承した。


 妻が寝ている部屋へ、猫どもは迷わず入っていった。慌てて後を追いかけると、そこには起き上がることもできなかったはずの妻が、猫を愛おしそうに抱いていた。

 妻はその日から食事を受け付け始め、三月後には快癒した。

 道士には丁重に礼を言い、言い値の倍の謝礼を渡した。


 猫が家の中にいる暮らしは、思ったより苦にならなかった。

 二匹の猫はわきまえているのか、私の前に姿を見せず、一日中妻の部屋で過ごしていた。

 妻は、私が猫を飼うことを許したことに喜んだが、それ以上他の畜生を飼うとは言い出さなかった。


 全てがうまくいくと思っていたのは、妻が快癒して一年目までであった。


 ある日、朝餉の支度もせず部屋から出てこない妻を見に行くと、寝床の上で猫のように顔を洗う妻の姿があった。

 床には白い猫が全身を弛緩させて横たわっており、黒い猫は妻の横で身繕いをしていた。

 妻は私に気づくと、ふっと立ち上がり、慌てて部屋を出ていった。

 白い猫も何事もなかったかのようにひょいと起き上がり、黒い猫の横で同じように身体を舐め始めた。


 それから時折、妻が猫のような仕草を見せるようになった。


 家事を済ませた後は殆どの時間を眠って過ごし、焼き魚を頭からばりばりと骨ごと食べるのを好むようになり、外へ出れば空飛ぶ蝶々を年甲斐もなく追った。


 妻の異常行動に気づいてすぐ、あのときの道士と連絡を取ろうとしたが、行方はようとして知れなかった。



 朝寝をするようになった妻の枕元へ腰を下ろし、頭を抱えた。

 足元には二匹の猫が、魂が抜けたかのようにぐにゃりと倒れている。


 腰のあたりを、妻の手が触れた。

 こちらを見つめる妻の眸は、猫のように瞳孔が細かった。


「にゃあ」


 白か、黒か。猫の鳴き声など区別がつかない。

 どちらでもいい。妻を返してくれ。

 お前たちを家に置いてやっているじゃないか。妻は私の妻だ。お前達のやっていることは、強奪だ。


 妻は大きく目を見開いたかと思うと、ことり、と寝床に倒れた。

 私は病のことが脳裏をよぎり、慌てて妻の体に触れた。


「にゃあ」

「にゃあ」


 後ろから、死んだように眠っていた猫どもの鳴き声がした。

 その声には私にも、後悔の色が乗っていると理解できた。


「ごめんなさい、あなた」

 腕の中の妻が、意識を取り戻していた。


「私が望んだの。一度、猫のように生きてみたいって思ったの。でもあなたは、動物がお嫌いだから」

 妻の告白を、私は静かに聞いた。

「ねえ、たまにでいいの。こうして朝寝をしたり、無邪気に遊びたいの。そうしたら二度と、あの子達も悪さをしないわ」



 それから妻は時折、朝寝をし、子供に混じって外遊びをしたり、好きな魚だけを食べて過ごした。

 二年経つと、猫のような行動をする頻度は半分ほどに減った。


 そして三年が経った今、妻は久しぶりに朝寝をした。

 それにしてもなかなか起きてこない妻の様子を見に行くと、黒い猫が妻の枕元に座り、妻は寝そべったまま白い猫を腕に包んでいた。


 白い猫は、息を引き取っていた。


「あなた、ありがとう。この子は幸せに過ごせたわ」


 黒い猫が私の足元に降りてきた。

 私はやはり、畜生が嫌いだ。臭いし毛を落とすし鳴いて五月蝿いし、碌な事がない。


 今もこうして、妻の心を悲しみで埋め尽くしている。


 私は屈んで、黒い猫の頭を手の甲でそっと撫でてやった。

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山猫記 桐山じゃろ @kiriyama_jyaro

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