藍緑色のお別れを
@Milky_delusion
藍緑色のお別れを
あの日のあまりの衝撃を今でも鮮明に記憶している。
眠りから目覚めると私は静かに涙を溢していて、目を覚ましたのが自分の嗚咽によるものだったと気づいて驚いた。眠っている間に脳内に刻み込まれたそれが夢ではないと確信を持って思えたのは、異能力を使った直後独特の感覚がそう教えてくれたからだ。私が無意識下で異能を発動するのは珍しくはなかったけれど、それが『別の世界の自分の記憶』を受け取るなどという結果になったのは初めてだった。
今日、私は別の世界の自分に希望を託す。
「こんばんわ。お隣いいですか?」
このバーに来るのは間違いなく初めてであるのに、間違いなく覚えがある。懐かしさともまた違う不思議な感覚が体を巡って、ここに私一人だったのなら涙を流していたかもしれない。
声をかけられた彼がほんの一瞬だけ信じられないものを見たような顔をして、それからすぐに目を逸らして微笑んだ。
「どうぞ」
そう簡単に本心を見せない彼──厳密には『私の記憶にある彼』にしては珍しく動揺していて、予定外なことを口走りそうになる。早まってはならない。私と彼はあくまでも初対面なのだから。
「エバーグリーンをお願いします」
世界が違っていようと私が変わらず好きなカクテル。もしかしたら私が知らないだけで、このカクテルが存在しないさらに別の世界なんていうのもあるのかもしれないけれど。
「そんな怪我でお酒を飲んで大丈夫ですか?」
「ああ……これは怪我ではないから大丈夫さ」
だったら包帯を無駄遣いしないの、と別の世界の私なら云うんだろう。
目の前にいる彼は私の知る彼とは明らかに違っている。全身を黒で包み、包帯の白だけが存在を主張するその姿はポートマフィア首領としては似合いの様相だ。私としては別の世界の、幾分か柔らかな印象の彼の方がずっと好きだけれど。
空間にはそのまま沈黙が流れて、少ししてからグラスの置かれた音が僅かに響いた。
「エバーグリーンです」
光を反射したカクテルの藍緑色が私の覚悟を映す。なるべく揺らさぬようにグラスを持ち上げた。その揺らめきが私の心にまで侵食しないように。
「乾杯させていただいても?」
訊いた私を、堪えきれないといった様子で彼が笑った。
「君は私に何か訊ねてばかりだ。積極的な女性は嫌いじゃないけれど、私と駆け引きをしようとするのはお勧めしないよ」
自信家、だと云ってしまうのも少し違う気がするが他に表現が思いつかない。私が口説いているとでも思っているのならそれは彼の勘違いだ。私は今日ここに、それとは真逆のことをしに来たのだから。
「深読みしないでください。誰かと楽しく飲みたいだけです」
私がそう云うと、彼は静かにグラスを掲げた。
「何に乾杯する?」
「じゃあ、晴れやかな心で迎える今夜に」
「君はとても晴れやかな心でいるようには見えない」
「私がどうなのかは問題ではないので。それに、ちょっとした遊び心ってだけですよ。『晴れやかな心で』ってエバーグリーンのカクテル言葉なんです」
「······知っているよ。教えてくれたのは君だもの」
時間が止まった気がした。
金縛りにあったように動けない私に対し、彼は何でもない顔でグラスに口を付ける。
「だから云ったじゃないか。駆け引きをしようとするのはお勧めしないって」
◆◇◆◇◆
この世界で出逢うはずのない彼女が現れて、どうするべきか迷ってしまったのが正直なところだった。
すぐにでも席を立って終わりにするのが最善だと理解はしていたのに、この世界でも変わらず隠し事が下手な彼女に一瞬でも焦がれてしまった。
「だから云ったじゃないか。駆け引きをしようとするのはお勧めしないって」
知っているかい? 隠し事をしているときの君は質問ばかりだ。普段は楽しそうにあれこれと話すのに、隠し事があると途端に相手に話をさせようとする。
「素直なのは結構だけれど、それをいいように利用されない強さも必要だよ」
「······判っています。そう忠告してくれたのは貴方ですから」
晴れやかな心で。思い返せば確かに、そう云った彼女の横顔に浮かんでいたのは沈んだ色だけではなく強さを湛えたそれでもあった。
「······そうか、なるほど」
君は何もかも知ってここに来たのだね。
「一つ教えてほしい。本は好きかい?」
「本? 読みますし好きですよ、別の世界の私と同じで」
「そう、それは善かった」
不思議そうに首を傾げて答えた彼女に安堵する。この様子では、本──『白紙の文学書』については彼女は何も知らない。あくまでも偶然に本来の世界の記憶を受け取ったというだけで、恐らくは幾つもの可能世界の記憶を持っているというわけでもないのだろう。
「それにしても随分な異能だ。いや、考えてみれば何もおかしくはないのだけれど。そもそも君の異能は『記憶』を司るものなのだし、別の世界との記憶を共有するような特性を発動する可能性は十分に考えられる」
本来の世界、などという言い方を間違ってもしないように過剰なほど抑制をかける。ただただこの世界とは別の世界が存在するのだと思っているだけの彼女が、これ以上を知らないように。この世界で君を心中に誘う心算などないのだから。
「さすがにポートマフィア首領というだけあって、情報がほとんど出てこない。苦労したし、今日も来るべきか迷いました」
「それなら何故?」
「今日ここに来ないと、貴方がこうやって存在したという事実が何もなくなるような気がして。莫迦げているかもしれませんが、何となく」
「莫迦げているよ。本当に」
この世界の真実については知らないというのに、感覚だけでそんなことを云い出すだなんて大した才能じゃないか。
「莫迦げているのは私ですか? それとも貴方ですか?」
「この世界の君は別の世界の君よりも意地が悪いみたいだね」
彼女は何かを答える代わりに、グラスに残った液体を飲み干した。寸刻前まであれほど綺麗な液体がそこに在ったとは思えないほど、グラスの中身は空っぽで美しかった。
◆◇◆◇◆
「ではお嬢さん、お気をつけて」
別の世界の彼ならば「心中するのに相応しい月夜だ」と夜空を見上げているところだろう。生憎、別の世界の私がそれを承諾したことはないのだけれど。
どう答えるべきか考えあぐねていると、彼が困ったように目を伏せた。
「送ろうか?」
私が断ることを判っていて、さようならの代わりに彼が適当に選んだ言葉。
闇に溶け込んでしまいそうな黒衣を纏っているくせに、表情だけがどこか馴染まず不釣り合いなほど穏やかだった。
「初対面の貴方に送ってもらう理由はありませんから」
さようなら。
続けてそう云おうとして、言葉が喉に詰まる。呼吸は問題なくできているのに苦しい。
「······ありがとう。楽しかったです」
無理やりに絞り出した自分の声が滑稽で仕方ない。もう少し上手に笑うはずだった。だってこの世界の私は別に彼とは何でもないのだ。今日が初対面で、今日だけで。
「それは善かった」
私も楽しかったなどと云わないのが、この世界の彼らしいなと思った。莫迦げているのが彼か私か、なんてそんなこと。どちらも莫迦げているに決まっている。今日が初対面の彼を好きだと思っている私も、とことん突き放すことすらしてくれなかった彼も。
背を向けて歩き出した彼に追い縋る気は少しもなくて、彼がしようとしている『何か』を暴く気もない。
他人だ。初対面だ。この世界はこの世界でしかない。他人だ。他人だ。他人だ。
しかし呪いのように脳内で繰り返したそんな言葉も、終いには効力を失った。
「······晴れやかな心で、と云ったのは君だ。もう少し取り繕い給えよ」
駆け出して掴んだその黒は、触れていても遠い。呆れたように、面倒そうに。横並びで言葉を交わしていた先ほどまでの彼の面影はもうここにはない。
「晴れやかな心でいるために伝えるべき言葉を忘れていました。こんなことなら、ギムレットにするべきだったかもしれませんね」
ギムレット、と云った瞬間に彼が纏う空気が一変したのが判った。私の持つ別の世界の記憶が凡てであるなら、私はギムレットなど彼と飲んだことはない。かと云って、別の女性との一杯でこれほど動揺を見せるような人でもないと、私は知ってしまっている。明確なことは何も判らないのに、ただほんの少しだけ違和感の正体を掠めてしまう私のなんと優秀なことか。
もし私の知る別の世界の他にも幾つもの世界が在るのだとしたら、その何処でだっていい。一人にしないよと抱きしめてほしい。そう、莫迦げていると評された私らしい言葉を吐く心算だったのだけれど。
「······太宰さん。何処かの世界では、貴方のグラスがギムレットで満たされませんように」
どうか、そのグラスが甘く爽やかなもので満たされますように。
「さようなら」
彼の背を押すようにしながら自身の手を引いた。
視界の端で風に煽られて散っていった花びらが、やがて何処かへ消える。私と同じで、色づいたまま消えていけるだけ幸せそうに見えた。
その日、私はふと見知らぬ店の前で足を止めた。薄明かりを頼りに階段を下ると、落ち着いたジャズが流れるそのバーには一人の先客がいるのみ。
「ああ、芥川の件は片付いた。もちろんだ。借りは返すと云っただろう安吾」
静かな店内に電話の声はよく響く。奥に腰掛けた私に気を遣ったのか、はたまたあまり聞かれたくはない電話だったのか。どちらにせよ、すぐに電話を切った男が私に視線を移す。
「騒がしくしてすまない」
後から店に入ってきたのは私だというのに、人の好い男だ。
「いいえ、お気になさらず」
答えてから、何を飲もうかと少し考える。偶然目に入った場所に足を踏み入れたにしては、なかなかの店を引き当てたかもしれない。
そういえば今日、風の噂でポートマフィア首領が死んだらしいと耳にした。別の世界の記憶を受け取ってからというもの、散々彼のことを調べて別れまで告げに行ったというのに、その一報を驚くほど穏やかに受け止めている自分がいた。同時にあの日、「会いに行かなければ」などという得体の知れぬ使命感や焦燥感に襲われた理由がようやく判った気がした。まさか彼が死んでしまうなどと思っていたわけではないけれど、別の世界の記憶を受け取ったあの日から最後のあの日までは、神様がくれた
ああ、今日も私は莫迦げた思考をしている。
自嘲してから、こんな日には爽やかなものが飲みたいなと思い至る。それなのに、よりにもよって辛口のそれが脳内を支配して離れないのは何故だろう。
「ギムレット。ビターは抜きで」
「ギムレット。ビターは抜きで」
店内にいた男と注文の声が重なった瞬間、私は漠然と思った。
もう二度と、この店に来ることはないと。
<了>
藍緑色のお別れを @Milky_delusion
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