猫に化かされる

鬱金香

猫の手、貸します

『猫の手も借りたい』


その慣用句の初出は近松門左衛門による江戸時代中期の浄瑠璃『関八州繋馬かんしゅうはっさくつなぎうま』とされている。

かの有名な源頼光公の弟達の話の中で出てくる慣用句だ。

「上から下までお目出度と、猫の手もかりたい忙しさ」

めでたすぎて猫の手も借りたいくらい忙しいというシーンを表したものだ。

現代で言えば忙しすぎて誰の手でも借りたいという意味で使われることが多い。



しかし私は忙しいから猫の手を借りにここに来た訳ではない。もちろんおめでたい訳でもない。どっちかと言うと全然めでたくない。


先日ネットサーフィンをしていた時、ウェブページの端の方に黒い背景に白い文字で『猫の手、貸します』と書いてあった広告のバナーを見つけた。

何故かとても興味の惹かれた私はその広告をクリックしてしまったのだ。

明らかに怪しい広告をクリックするなんて未だに信じられないがその時は何も怪しさを感じることが出来なかったのである。

広告をクリックした後に飛んだページはさっきとは対称的な白い背景に黒の文字で『あなたの願い、なんでも叶えます」とだけ書いて有り、ページの下部にメールフォームが付いているだけの簡素なページだった。

私はメールフォームに手を借りたい旨を記載し送信し返信を待つ。

返信は意外にも早く十数分後に返ってきた。


『来週、10月23日の19時に下記の場所へお越しください。持ち物不要。』



当日私は指定された場所へ向かう。

指定された場所は東京都新宿区歌舞伎町のラブホ街の裏のビルの4階。

一見廃墟そうな怪しい雰囲気漂うビルの階段を指定された部屋に向けて登る。

403号室。

私はドアのベルを鳴らす。



「空いてるよ」



中から男性としては高めの声が聞こえてくる。



中へ入ると薄暗いコンクリート打ちっぱなしの部屋が広がっていた。

その部屋はまさに社長室と言わんばかりの一番奥に大きな椅子とテーブル。

そしてローテーブルを挟み対面にソファーが置かれているレイアウトが施されている。

しかしそんなことよりも私の目を引いたのは社長椅子に座っているのは猫であった。

黒い、とても黒い猫であったのだ。大きい黄色い目をした猫だった。

そしてその猫が先程の声で言う。



「あんたがお客さんか、まぁそこに座りな」



今までの人生で猫に話しかけられた経験があまりなかったので、いや、全くなかったので私は一瞬何が起きたのかわからなかった。



「で、お客さん、どうする?殺すか?」



猫は私の状況など気にもしない様子で話を進める。

何も説明していない状況で『殺すか』という質問になる時点で私の要件は把握しているようだった。

もちろんメールフォームで説明したわけではない。

何も説明をしていないのにこの猫は『知っているのである』。



「殺すのはちょっと……」



私は少し間を開けて返す。

今回、私が猫の手を借りたいと思ったのは職場内イジメから開放されたいが為だった。

4月に異動になり今いる職場に来たのだが先輩である井口さんから陰湿なイジメを受けていた。

挨拶をしても返さない、私の印刷物を勝手に捨ててしまう、みんながいる飲み会に誘われない、悪口等パッと思い当たるのだけでもそこそこ数ある。

表立ったことはないが小さなことの積み重ねだがそれが日々私を苦しめていた。最近はほんとうに会社にも行きたくないと思う日もある。

もちろん他の人に相談した事もあるが井口さんは表上人当たりが良く、快活でそんなはずは無いと言われてしまっていた。



「お嬢さん、いい子ぶらなくていいんじゃない?君を苦しめ続けてきた相手だよ?忖度もクソもあったもんじゃないでしょ。ぱぁと一思いに殺しちゃおうよ?」



猫はニヤッと大きく口を曲げて笑いながら言った。



「命を奪うのは……。社会的に失墜してほしいというか全部失うぐらいでいいのですが」



「ほう、命を奪うのと社会的に殺すというのは違うと?お嬢さんはそう言うわけね?」



私はその猫の返しに狼狽えてしまった。

あまりにも鋭い発言だった為に自分の気づきたくない所を抉られているようなそんな感覚に陥ったのだ。



「 まぁいい、手を貸してやろう、ただし1回100万円だ」



「100万……」



「当たり前だろう、願いを叶えるんだ。それくらいは要求させてもらうさ」



もちろんタダでとは言わないけれどそこまで高いのは想定をしていなかった。

しかし現状を打破出来る上に貯金を崩せば払えない金額では無い。



「これは私が依頼したとかの足は付くものなのでしょうか?」



「ハッハッハ!!」



猫は大きく口を開けて笑う。



「足がつくわけない!!やるのは私だよ!君は全くもって足がつくなんてことはないさ」



私はそう言われ胸を撫で下ろした。



「わかりました。お願いします。お支払いはどうしたらよろしいでしょうか?」



猫は目を瞑り少しの間無言になった。



「じゃあ、承った。支払いはもう済んだ。帰りに銀行口座を見てみればわかるよ。結果は数日中に分かると思うから楽しみにしていな」



何もしなくて100万と言う大金が移動しているというのはにわかには信じがたいが猫が冗談を言っているような素振りはない。



「そしてお嬢さん、契約は済んだので言わせてもらうが君は井口と何が違う?井口は間接的に君を苦しめた。それは許されることではないのかもしれないけれど君もまた間接的に井口を苦しめる道を選んだ。それは何が違うのだろうか?」



猫は一段低い声を出して淡々と続けていく。



「元々ここに来るような子はまともな状況じゃあないのだよ、お嬢さん。人間的に言わせてもらえば病気になる一歩手前だ。心はほんとうにギリギリかもしれない。しかし、この問題は君が向き合わなければならない問題だ。他の誰でもなく、君が向き合わなければならなかった問題だったのだよ。それを逃げた。捨てた。考えることを辞めた。その十字架を背負って君は生きていかないと行けないのだよお嬢さん。」



自分の中ではわかっていた。

誰かの手を借りて解決したところでどうにもならないかもしれないということを。

しかしそれを気づかないフリをしていた。

見て見ぬフリをしていた。

猫の言うように私は逃げたのだ。

どうしようもなく無様にそして卑怯に逃げてしまった。



「人間だから間違いを犯す。それは仕方のない事だ。ただ君はこのことを忘れることは出来ないし考え続けることになるよ。それを胸に刻んでおくんだね。そうすればもう会うことはないかもしれないからね。毎度あり。またお越しくださらないでください」



私はそう言われ部屋を後にした。

猫に言われたことが何度も頭の中をループする。

どうすればよかったのかはわからない。

だがこの結果が良かったものではないのはわかる。

色んなものに解放された気分と何かに囚われた気分が混在する不思議な気持ちを持って私は帰路についた。




「井口!ちょっと来い!」



翌日の昼過ぎ本部長怒号がフロアに響いた。

フロアの全員が一斉にパソコンから目を上げて本部長と井口さんの方へ向く。


井口さんが早足で本部長と奥の会議室へ消えて行った。

数十分後、井口さんがこの世の終わりのような真っ青な顔で会議室から出てきた。

その後の井口さんは見るからに完全に冷静さを失っており、定時になった瞬間にすぐさま退社して行った。

翌日から井口さんが出社することはなかった。

私が猫に望んだ通りになった。

そして陰湿なイジメからは解放された。

『君は井口と何が違う?』

猫に言われた言葉を思い出す。



「井口さんやばいらしいよ、発注に誰も気付けないぐらいちょっとだけ上乗せしてフィー貰ってたらしいよ?他にも内部情報売ってたりとか」



私の近くを他の社員が雑談しながら通り過ぎて行く。

どこまでが本当かわからないが井口さんは色々黒い事をやっていたらしい。

私が猫に望まなくてもたぶんこういう結果になったかもしれないが私が猫に望んだからこうなったのかもしれない・・・・・・・・・・・・

真実はわからないけれど実際の所はわからないけれど私は猫の手を借りた結果、現状を脱することは出来たが猫の言う通り『逃げてしまった』という後悔を抱えることになった。


その日の帰り、私は猫と会ったビルに行ってみることにした。何をするという訳ではないがなんとなく、ほんとうに気が向いたからというだけなのだが。

しかしあの場所へ行ってみるとそこには一見廃墟のようなビルは無く、そこにあるのはしっかりとした見た目のマンションだった。

怪しい雰囲気も無く、しっかりとオートロック付きのマンションになっていたのである。

猫と会ってから日付的にはそこまで経っていない。

取り壊して新しく建ったという訳ではないだろう。


『ここに来るような子はまともな状況じゃあ無いんのだよ』


猫の言葉を思い出す。


狸に化かされたのではなく、猫に化かされたというわけなのかもしれない。


『またお越しくださらないでください』


猫に言われたようにまたここに来ないように、ここに導かれないようにしようと私は唇をグッと噛みしめ私はその場所を後にした。

振り返って歩き始めたその瞬間、黒い、とても黒い猫が私の前を過ぎ去っていった。

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