18時の心理戦

寺音

18時の心理戦

 平日の夕方は戦場だ。

 仕事を終えて娘を保育園に迎えに行き、帰って夕飯を食べさせてお風呂に入れて寝かしつける。

 文章にするとこれだけだが、その間多くの不測の事態が起こるのだ。


 今日もまさか、自転車置き場にあった空き缶で遊ぶと駄々を捏ねるとは。無理矢理抱き上げようとすれば、両腕を上げ身体をぐにゃりと弛緩させてすり抜ける。猫か。


 そんな事が多々あり、予定よりも大幅に遅れて自宅へと辿り着く。

 すぐに娘と私の手洗いうがい、着替えを済ませる。


 さて次は夕飯の準備、と、その前にベランダに出っ放しの洗濯物を取り込まなければ。

 ここで私は、娘に大人しく待っていてもらう為の秘策を使う。


「ひーちゃん。ちょっとこのお椅子、コロコロしてお手伝いしてくれるかな?」

 そう言って、娘にコロコロ、粘着カーペットクリーナーを渡す。最近お手伝いブームが来ているので、これで意外と間が持つのである。

 ここ数日の経験によると、五分は稼げるはず。


「はーい!」

 案の定、片手を上げて気持ちの良い返事をする娘。そしてソファーに向かって、コロコロをかけ始めた。


 今のうちに、と私はベランダの洗濯物を部屋の中へと放り込む。我ながら雑だが綺麗にするのはその後だ。

 作業を終えて窓を閉めると、足下に気配を感じる。

 まさか。


「ひーちゃんも、おせんたくおてつだいするー!」

 やっぱりか。予想よりも飽きるのが早い。娘はコロコロを早々に放り出し、今度は洗濯物に目をつけたようだ。


 猫の手も借りたいほどの忙しさ、ではあるが、正直娘の手を借りると余計に手がかかる。しかし、ここで断れば、それはそれで大変なことになるのだ。


 それに、手伝いたいと言う気持ちは大切だ。ここは後処理が面倒にならない程度にやらせてみるか。



「じゃあ、この洗濯バサミから洗濯物を外してくれるかな?」

 私はハンカチなどの小物を干した、ピンチハンガーを娘に渡す。これならプラスチック製であるし、干している物もあまり皺になったりしない物だ。

 娘は再び元気の良い返事をして、洗濯バサミに手をかけた。

 そこでふと思う。そう言えば、娘は洗濯バサミを上手く開く事ができるのだろうか。


 ブチと言う音がして、ハンカチがハンガーから外れた。娘は洗濯バサミを開くことなく、力任せに引っ張って外している。次々に心配になる音を立て、洗濯物は取り外されていった。

 娘に布が痛まない様に外すと言う発想はない。外れればそれで良いだろうの精神だ。


 うん、分かってはいたのだが。


 一先ず見守っていると、娘が自分の靴下に手をかけた。ハンカチ程度であれば良いが娘の靴下はいけない。それは他所行きの、白いレースのついた靴下だ。


「うわぁ! ありがとうひーちゃん、助かった!」

 私はさり気なさを装って、娘からピンチハンガーを奪う。

 そしてすかさず文句を言われる前に、

「次はこのハンカチを畳んでくれるかなー?」

 娘に新たなお願いをした。



 娘は素直にハンカチを受け取り、床の上に広げ始める。上手く誤魔化されてくれたようだ。

 タオル生地のミニハンカチであれば、どんなたたみ方でも構わない。この隙に他の洗濯物を片付けてしまおう。


 私はハンガーから洋服を外し、皺になりそうなものだけを畳む。その他のものは後回し。籠に放り込んでいく。

 粗方片付いた所で、娘の嬉しそうな声が聞こえた。


「できたー!」

「あ、できたの? どれどれ」


 振り返ると娘は、両手にロール状に巻かれたハンカチを抱えていた。畳んでくれとお願いしたはずなのに、なぜ巻いたのか。


 それによくそのハンカチを見れば、ピンク色の布地の間から、何やら白い物が見えている。そう言えば、娘の靴下の片方がない。

 娘は得意げな笑みを浮かべ言った。


「ろーるけーき!!」

 あー、なるほど、そう来たかー。ハンカチで靴下をくるくるっと巻いたのか。確かにロールケーキだ。


 娘は私にその特製ロールケーキを、どうぞ、と渡してくる。

 この時、親の取るべき行動は一つ。


「わーありがとー。モグモグ、美味しー」

 若干棒読みなのは許してもらおう。食べてもらった事で、娘の機嫌も良さそうだ。

 私は娘に指摘されない内に、ハンカチの中から靴下を回収する。




 いけない、随分を時間をかけてしまった。夕飯の支度をしなければ。まだ片付いたとは言えないが……。


 そこで私は散乱した洗濯バサミを眺めている内に、妙案が浮かんだ。


「ひーちゃん、このカゴの中に、洗濯バサミをお片付けしてくれるかな?」

「ひーちゃんやる!」

 娘は私の思惑通り、洗濯バサミを律儀に一個ずつ拾っては小さなカゴの中に放り込んでいく。

 これだ。このお手伝いであれば、それなりの時間が稼げるはず。



 私は足音に注意しながら台所へ移動し、冷蔵庫を開けた。作り置きを取り出し、冷凍庫から冷凍したご飯を取り出し、電子レンジへと突っ込む。

 メインはレトルトカレーでも良いか。


 電子レンジの音を聞きながらそんなことを考えていると、私は気づいてしまった。


 娘が、静か過ぎることに。洗濯バサミをカゴに放り込む音すら聞こえない。

 幼児が静かな時ほど、ろくなことはない。


「ひーちゃん?」

 私は慌てて娘の元に戻った。



「——うわぁ」

 思わず声が出た。

 そこには、ありったけの洗濯バサミを自分のTシャツの裾につけ、ドヤ顔で佇む娘がいた。

 よく見れば。娘お気に入りの人形の服にも洗濯バサミが付けられている。ピンクの洗濯バサミは自分、青は人形と色分けまでしている。


「すてき? おしゃれー」

 ガチャガチャ鳴る音も楽しいのだろう。娘は元気にそこら中を跳ね回った。

 何をやっているんだと突っ込みたい気持ちもあったが、私は感動すら覚えてつい声を漏らす。


「洗濯バサミ、上手につけられるのか……」

 ここにきてまさかの、発見である。


 もうお手伝いでも何でもないが、娘が楽しそうなのでそれで良しとする。


 こちらも娘の意外な成長を見られて、少し得した気分だ。思わず顔が綻んでしまう。



「いっしょにやるー?」

 娘はニコニコしながら私に近づき、なんと私の洋服にも洗濯バサミをつけ始める。

 止めようかとも思ったが。もう、何でも良いか。


 私は娘にされるがまま、洋服に洗濯バサミをつけられていくのであった。



 今日も就寝時間は遅くなりそうだ。

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