【9】世界一のお返し
池田春哉
世界一のお返し
ダイヤルを回すと、じりじりという音がキッチンを占拠した。
窓から外を見れば雲一つない青空が広がっている。しかし冷気を乗せた北風は音が鳴るほどに強く吹き荒んでおり、三月にしては気温が低い。うちの
今日は何曜日だっけとスマホを確認すると、どうやら今日は日曜日らしい。曜日感覚なんてとうに捨て去ってしまった。
なぜなら僕は今、高校最後の春休みを謳歌しているからである。
「よし」
キッチンの作業台にずらりと並んだ材料を見渡してひとつ頷く。
曜日感覚を捨て去った僕だったが、記念日感覚まで闇に葬ったわけではなかった。むしろ今日に至るまでに研ぎ澄ましてきたと言っても過言ではない。つまり、忘れないようにがんばっていたわけだ。
三月十四日、ホワイトデー。今日はその前日だった。
この一ヶ月間、お返しは何が良いだろうとずっと考えてきた。
けれど、この世に彼女の手作りチョコよりおいしいものなんてあるはずがない。
困り果てた結果、手作りには手作りで返そうと僕はクッキーを作ることに決めたのだった。
「じゃあやりますか」
時計の針は午後二時を過ぎたところだ。母が夕飯の準備を始めるのが大体四時半。つまりあと二時間半で
僕は青いエプロンの紐を背中に結び付けて材料を手に取る。同時にスマホの画面にレシピを表示させた。最近は動画で説明してくれるものも多く、とてもわかりやすい。
「まずは材料を混ぜる」
レシピに従って僕は木べらを振るって材料を混ぜ始めた。かつかつと金属のぶつかる音がする。その音が不快だったのか、猫太は僕の脚に鋭い猫パンチを放った。痛い。
「おお、固まってきた」
猫太の攻撃に耐えながらしばらく混ぜ続けると、はじめは液体だったものがどんどんと生地になっていく。粘土のようになるまで混ぜ続けてから、仕上げは手で生地をこねる。
「そうだ、プレーンとココアを作るんだった」
僕は大きな生地を二つに分ける。
二色のほうが見栄えもいいし、味が変わったほうが彼女も途中で飽きずに食べてくれるかもしれない。そう考えてココアパウダーも買っておいたのだ。
分けた片方の生地にココアパウダーを練り込んで、二種類の生地が完成した。
出来上がった生地をラップで包んで冷蔵庫に入れる。三十分ほど寝かせなければいけないらしい。
「この間に洗い物しちゃうか」
先程使った木べらとボールを洗う。猫太は床でごろごろと転がって、たまに僕の脚をパンチする。どうして。
まあ作業台に登ってこられるよりはマシだ。僕はこの攻撃を受け続けることを決意する。
洗い物を終え、クッキーの構想を練っていると三十分はすぐに過ぎた。
「できたのか……?」
僕は冷蔵庫から生地を取り出す。正直寝かせることで何が変わったのかはよくわからないが、大人しく従っておこう。
取り出した生地を平たく伸ばしていく。麺棒があれば一番いいのだが、うちには無かったのでラップの芯で代用した。
「さあて、ここからだぞ」
平たくなった生地の前で、あえて大きい声で自分に言い聞かせる。気を引き締めなければ。
次の作業は『型抜き』。
手作りクッキーにおける最大の見せ場だ。
「どうする……?」
生地を寝かせている間に思いついたアイデアは正直ぴんと来なかった。楠谷さんに渡すものだというのに、どうにも一般的なものしか思いつかなかったのだ。
どうせなら彼女を驚かせたい。彼女の想像を上回るものを贈りたい。そんなことを考えてしまうのだった。
「どんなのがいいんだろう。新進気鋭、前代未聞のクッキーを作るには一体どうしたら……」
「にゃ!」
「痛っ」
何が気に入らなかったのか、猫太が僕の脚に一際強烈なパンチを放った。しかも執拗に何度も同じところを狙ってくる。
性格悪いなあと思った直後、僕の頭に天啓が舞い降りた。
「リアル猫の足跡クッキー……!」
これはいけるんじゃないか?
猫の足跡グッズはよく見かけるが、猫太の足跡グッズはこの世界のどこを探しても僕にしか作れない。つまり世界でひとつのクッキーというわけだ。
これはきっと聡い彼女も想像していないだろう。そもそも彼女はうちに猫がいることも知らないはずだし。
僕は生地を一口分に千切って丸め、クッキー一枚分の大きさに伸ばした。
いける、いけるぞ。
自らのアイデアに興奮しながら猫太の前脚にラップを巻いていく。その際何度かパンチを食らったが、痛みはまったく感じなかった。
「……さあ、猫太」
両前脚にラップを巻き付けた猫太を持ち上げた。目の前には丸く伸ばされた生地がずらりと並んでいる。
このクッキーの中心に猫太の足跡を付ければ完成だ。
「やっちまえー!」
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ!」
僕の号令を受けて、今まで見たことのない猫太の連続パンチが繰り出された。
***
「え、なんでドーナツ?」
「クッキーだよ」
翌日の月曜日。
楠谷さんは自宅の前で、二色のクッキーが詰まった小袋を覗きながら首を傾げた。
「だって真ん中に穴開いてるよ」
「ほら、あれだよ。先が見通せると縁起がいいから」
「おせちのレンコンと同じ理論なのね」
開けていいかな、と訊きながらも彼女はすでに封を開けて、猫太パンチクッキーを一枚摘まんでいた。その中央に空いた穴から春の風が吹く。
「こうくるとは思わなかったなあ」
あたたかい風に前髪を揺らしながら、彼女はクッキーを口に運ぶ。
僕もまさか猫太のパンチが生地を吹き飛ばすほどの威力とは思わなかったよ。彼女の想像を超えるどころか、飼い主の想像まで超えてくるとはさすが我が愛猫。
「いただきます」
そう言って、彼女はベージュのクッキーを半分ほど齧った。
サクッ、と軽い音が聞こえる。
「おいしい?」
僕が尋ねると。
「うん」
楠谷さんは口をもぐもぐと動かしながら頷く。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「世界一おいしい」
(了)
【9】世界一のお返し 池田春哉 @ikedaharukana
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