それでも、歩いていく。
月代零
第1話
朝。わたしはいつもより早起きして、急いで朝食をかき込み、身支度を済ませて家を出た。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母親の声を背中に、学校への道を急ぐ。夏休みが明けて9月に入ったが、まだまだ残暑が厳しい。少し小走りに走っただけで汗がにじむ。
まだ始業時間には早いせいか、グラウンドで朝練をする運動部員がいるくらいで、生徒の姿はまばらだ。
校門をくぐり、覚悟を決めるように深呼吸して、下駄箱を開ける。
「あ……」
予想はしていたが、ショックは大きい。
そこにあるはずの上履きは、やはりなかった。学校にものを置いておくと隠されたり壊されたりするから、私物は置いていかないように気を付けていたのに、昨日はうっかり油断してしまった。
固まっていると、不意に視線を感じた。顔を上げると、下駄箱の先の廊下に、3人ほどの女子生徒がいた。全員、同じクラスの子だ。
彼女たちはわたしを見てくすくすと笑い、連れ立って教室の方へ消えていく。
泣いたりするもんか。
わたしは唇を噛みしめ、彼女たちを見送った。
小さい頃から、わたし――宮川桜子はいじめのターゲットにされやすかった。元々人付き合いが得意な方ではないが、わたしが悪いのだろうか。わからない。ものを隠されたり、無視されたりは当たり前。暴力や暴言、数々の人格否定の言葉も日常茶飯事だった。
両親は共働きで忙しく、子供にあまり興味がなさそうで、相談できなかった。先生は事なかれ主義で、頼りにならない。
そんな中で、わたしは本の世界にのめり込むようになった。物語の世界だけが、辛い現実を忘れさせてくれる。
物語の中では、危機にはヒーローが駆けつけてくれる。でも、現実のわたしの前にヒーローは現れない。
欝々とした学校生活は続き、気付けば中学2年生。友達と呼べる人はおらず、何か行動する度に揚げ足を取られ、嘲笑され陰口を叩かれる日々。
わたしは学校の備品のスリッパを借りて、何食わぬ顔で席に座った。朝礼までに軽く心当たりを探したが、上履きは見つからなかった。時間を見つけて探さないと。
「今日は転校生を紹介するぞ。入って」
担任教師がやって来てもざわざわしていた教室は、転校生を見た瞬間、静まり返った。
まず目に入ったのは肩まで伸ばされた明るめの茶色い髪。ヤンキーだろうか? しかし、雑に染めて痛んだ様子でもない髪は、歩く度にさらさらと揺れて、光沢を放つ。
制服を作るのは間に合わなかったのだろうか、うちの中学の制服は女子はセーラー服、男子は学ランだが、彼女は紺色のベストにYシャツを着ていた。夏休みが明けて少し経ってからの、やや季節外れの転校生。
真っ直ぐ伸びた背筋、スカートから伸びるすらりとした脚。その姿は、野暮ったい制服に身を包んでいても風格を感じさせて、生徒たちの視線を釘付けにした。まるで、物語の主人公みたいだ。
「
落ち着いた耳に心地いい声。
彼女はぺこりとお辞儀をして、顔を上げる。
長いまつ毛、色白の肌。瞳の色素も、髪と同じく若干薄いようだ。一言で言うと、美人だった。
しかし、彼女はにこりともせず、視線を真っ直ぐ前に向ける。全てを射抜くような、力のある視線だった。
わたしの席は、窓際の一番後ろ。運良く、目立たない席。転校生――和泉さんの席は、その隣になった。
朝礼が終わると、すぐに1時限目の授業が始まる。今日は英語。真面目に聞いている生徒、お喋りをしている生徒、居眠りをしている生徒。いつもの光景だ。
隣をそっと覗き見ると、和泉さんは教科書を広げずに、頬杖をつきながらつまらなさそうにノートに板書を写している。教科書はまだもらっていないのだろうか? しかし、当たる順番は彼女に回ってきそうだ。あの先生は席順で当てていくから。
隣の席だし、わたしが教科書を貸してあげるべきだろうか。しかし、わたしと関わったら、一緒にいじめられるかもしれない。どうしよう。
少し悩んで、
「……教科書、一緒に見る?」
わたしは彼女にそっと声をかけた。
和泉さんはちょっと驚いたように目を見張って、
「……ありがと」
ふっと微笑んだ。わたしはその笑顔の美しさに、少しどきりとした。それから、彼女は一瞬、わたしの足元に目を向けた気がした。スリッパを履いていることに気付かれただろうか。少し恥ずかしい。
和泉さんは、とてもクールだった。転校生にありがちな、クラスメイトの質問攻めには淡々と言葉少なに対応し、慣れない場所におどおどする様子も、にこにこと周りに合わせることもなかった。
移動教室の時には、クラスのボスで、わたしをいじめている主犯でもある
「来る前に調べてあるから、大丈夫」
と断って、一人でさっさと行ってしまったときは、わたしもはらはらした。自分たちとは異質なもの。それだけで、いじめの対象になるには十分なのに。
昼休み、わたしは急いで弁当を食べて、上履きを探しに行こうとしていた。和泉さんはいつの間にかいなくなっていた。クラスメイトに話しかけられるのを避けて、どこかで一人でお昼を食べているのかもしれない。
弁当を食べ終え、教室を出ようとすると、ちょうど戻ってきた和泉さんと鉢合わせた。
「これ、君の?」
そう言って差し出されたのは、わたしの上履きだった。名前も書いてあるから、間違いない。奇跡的に、落書きされたり破損を受けたりはしていなかった。
呆気にとられて、わたしはそれを受け取った。
「……どうして」
どこにあったのかとか、探してくれたのか、言いたいことが頭を駆け巡って、うまく言葉にならない。
「お昼食べてたら、見つけたから」
それだけ言って、彼女は席に戻って本を読み始めた。
そして、その様子はクラスの注目を集めていた。もちろん、藤堂さんのも。
それから早速、いじめの標的は、わたしから和泉さんへ移った。そのことに安堵している自分が、酷く醜いと思った。
とは言っても、和泉さんはあまりダメージを受けていないようだった。
転校してきて数日経ったが、彼女は一人でいても堂々としていて、一匹狼という言葉がよく似合った。そもそも周りと慣れ合おうとは決してしないから、無視などはやりようがなかったし、陰口を叩こうものなら「君らに何か迷惑かけてる? それなら謝るけど」と詰め寄り、数で取り囲もうとしても、格闘技でもやっているのか、見事に撃退していた。美しい容姿も相まって、その様子はあっという間に一目置かれるようになり、藤堂さんたちもうかつに手が出せなくなっていた。
和泉さんを敵視するあまり、どうでもよくなったのか、いじめの標的が私に戻ることもなかった。彼女は、わたしのヒーローになってくれたのだろうか?
和泉さんも、よく本を読んでいた。図書室や、屋上や、中庭の隅で、よく彼女を見かけた。いつも一人でいるけれど、彼女は堂々としていた。
ある日の昼休みの終わり際、図書室で時間を潰し、教室に戻ろうとしていたわたしは、前を歩く和泉さんを見つけた。
話しかけてみたいな。そう思った時、彼女が小脇に抱えていた文庫本から、ひらりと栞が落ちた。
わたしは駆け寄ってそれを拾い、彼女に差し出す。
和泉さんは最初の日と同じように、少し驚いた顔をして、
「……ありがと」
と言った。
それから、教室までの短い距離を一緒に歩く。
「わたしこそ、あの時はありがとう」
言うと、「あの時って?」と彼女は首を傾げる。
「上履き、探してくれたでしょ?」
やや空中を睨んで考える仕草をし、ああ、と思い出したようだ。
「別に。たまたま見つけただけ」
何でもないことのように、彼女は言う。
それ以来、わたしは和泉さんと少しずつ話をするようになった。
といっても、主に本の話ばかりだったけれど。どんな本が好きかとか、最近読んだ本の感想とか。
わたしには、和泉さんは輝いて見えた。逆境に立たされてもびくともしない、物語の主人公のような強さが、うらやましかった。
そんな恥ずかしいことを言ったわたしを、彼女は笑ったりしなかった。「あたしは強くなんかないよ」と、彼女は言う。
「自分を救えるのは、自分しかいない」
それは、ある有名な冒険小説の一節だった。台詞を言った主人公のように、強がってカッコつけて生きてるだけだ、と。
「自分を嫌いにならないためには、それしかないと思わない?」
自分だけは、自分のヒーローでいたいからと、彼女は言った。
穏やかな日々がしばらく続いたが、わずか3ヶ月足らずで、彼女はまた転校してしまった。後から聞いた噂によると、親がいなくて、親戚の間をたらい回しにされているらしい。そんな生活の中で、一体何を思って生きているのだろう。聞く術は、もうない。
和泉さんがいなくなったことで、わたしへのいじめは再燃するだろうか。その時わたしはどうすればいいだろう。
わからないけれど、彼女のように強くなれたらいいと思う。目の前にヒーローは現れないけれど、わたしはわたし自身のヒーローになってみよう。
了
それでも、歩いていく。 月代零 @ReiTsukishiro
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