地下シェルターのインスタントコーヒー

うたう

地下シェルターのインスタントコーヒー

 狭い地下シェルターの中にインスタントコーヒーの香りが漂うと、夫は呻くのをやめた。目の前にカップを置いてやると、険しかった夫の表情はやわらかくなる。

 肌は土気色に変色してしまい、眼球も濁りきってしまったけれど、夫の精神はまだどこかに残っているに違いない。


 シェルターにインスタントコーヒーをストックするのを私は反対した。コーヒーは利尿作用が強く、避難生活には適していないのだ。けれど、夫は避難生活だからこそ、コーヒーを飲んで安らぐ必要があるのだと聞かなかった。結局、小さい瓶のものならと私が折れた。

 今はもっと大きな瓶のものにしておけばよかったと後悔している。


 夫がゾンビに噛まれていたことに気づいたのは、シェルターに逃げ込んで程なくしてからだ。

 夜中に突如窓ガラスの割れる音がして、夫が様子を見に走った。

「シェルターに行け! ゾンビが来る!」

 夫が叫ぶのを聞いて、私は悩むことなくシェルターに向かった。夫の冗談だとはまったく思わなかった。夫の鬼気迫った声と確かに耳にしたガラスの割れる音が真実なのだと告げていた。

 私がシェルターに逃げ込んで三分くらいして、夫もシェルターにたどり着いた。二人で安堵の表情を浮かべたのも束の間だった。夫は青ざめた顔で「噛まれている」と自身の右腕を見ていた。

 すぐにシェルターを出ていこうとする夫を私は引き止めた。映画では、噛まれるとゾンビになってしまうけれど、現実も同じと決まったわけではなかった。ゾンビが実在することを知ったばかりだった。情報は皆無に等しかったのだ。

 夫はゾンビになってしまったときに私を襲ってしまわないようにと言って、ロープで自身の体をシェルターの真ん中にあった太い柱に括り付けた。

 夫の無事を願っていたけれど、柱にもたれかかって眠りについた夫は、翌朝ゾンビになって呻き声をあげていた。


 異変と惨状を伝えていたラジオは、一週間前からノイズだけを放っている。

 パイプを通して屋外まで延ばしたアンテナケーブルがどこかで断線してしまったのかもしれない。しかしそれよりも人類のほとんどが息絶え、文明が崩壊してしまった可能性を考えてしまう。


 あと二週間は生きられるだろう。食料と水のストックはまだそのくらいある。

 けれど、インスタントコーヒーの粉は、もうあと一杯分ほどしか残っていなかった。

 夫と違って、私はカフェイン中毒ではなかったのに、シェルターに逃げ込んでからは毎日コーヒーを飲んでいる。

 明日、最後の一杯を淹れたら、穏やかな表情をした夫に噛まれよう。狭いシェルターの中、睦まじく朽ちていくのもきっと悪くない。

 夫の呻き声を聞きながら、私は冷めて香りの立たなくなったコーヒーを飲み干した。

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