第6話
「おはよう。水無瀬さん」
「おはようございます。葵さん。こんなに早い時間に会うのは、初めてですね」
雲のない空には、これまでと同じ高さに太陽が浮かんでいる。然しそれは普段と逆の方向に位置し、劈くような赤色ではなく柔らかな桃色がかった白の光だ。
普段と違うのは時刻ばかりではない。
スカートの裾を宝石に触れるように指先で丁寧に摘まんで、左右に腰を捻りながら言う。
「……その、どうでしょうか。私、外で袖を通すのは初めてなのですが」
「似合ってるよ。とっても。ふふ、お揃いね」
紺のスカートと対比するように、真白いブラウスは朝日を孕んで眩しいくらい。ボタンはきっちりと一番上まで留められて、そのすぐ下には水色のリボンを結んでいる。その長い髪は今は一つに結ばれて、その背に一筋の黒線を引いている。
お人形さんみたいな印象は最早無くなって、ただ素晴らしく象徴的な中学三年生がそこにいた。
私はといえば第一ボタンは留めていないし、ブラウスの裾をスカートに入れてもいない。今は酷く暑いし、窮屈なのが嫌だからだ。水無瀬さんはそんな様子を一切感じさせることなく、むしろ開放された自由に頭の先まで包まれているように見える。……いや、彼女の境遇を思えば、この窮屈さこそが自由であるのかもしれない。
流石にこちらから聞くのは憚られるけれど、話してくれたことだけでも凡その状況は分かっていた。表面上は大丈夫でそれほど酷い自覚症状もない、それでも確かに身体の奥を致命的になりうる所まで侵す。そういうものが、水無瀬さんの内に住み着いていたらしい。それがどんな物なのか私には想像し得ないし安易にすべきとも思わない。確かに認められるのは少なくとも彼女が今ここに居る事──と、そんな陶酔した思考を遮ったのは、何時の間にか普段よりも近づいていた声。
「そういえば葵さん。私、まだ貴女に名前を申していませんでしたよね。初めて自己紹介致しました時にも」
言われてみれば確かにそうだ。私は水無瀬さんを水無瀬さんとしか知らない。
彼女は照れるように笑った。
「周りの方は皆下の名前でしか呼んでくれないものでしたから。はじめての外のお友達には、特別なほうで呼んで欲しかったんです」
成程確かに、小さい頃からずっと病院にいるのなら名字で呼ばれることはないだろう。そう思い当たるのと共に、私がその特別であれたという事がとても嬉しい。
「でも、これからはきっと水無瀬と呼ばれることが増えるでしょうから。それなら今の内に、お伝えしておこうと思いまして」
そこに多少の照れはあれど、緊張の色は見受けられなかったように思う。
「奏。奏といいます。私の、下の名前」
「奏……さん」
半ば無意識に鸚鵡返ししたその三音が、初めて聞いたはずなのに妙にすとんと嵌っていく。
水無瀬さんは……奏さんは、口を手で覆い隠しながら微笑んで、
「奏、と呼んでいただいてもいいんですよ?」
「……それなら、私の事は葵って呼んで?」
沈黙。そもそも二人ともこういうからかい方は慣れていないから、上手く返せもせず硬直する。
それでも、その静寂は長く続くことはなかった。
何かをリセットするように小さく咳払いをして、今度は隠そうともせずに笑った。悪戯な天使のようで、意地悪な悪魔のようでもあった。
「それでは」
身を翻して二歩歩き、再び振り返る。その頬は僅かに紅い。ひらりと腕を振る。慣性で置き去りにされた後ろ結びの髪が一拍遅れて空を薙ぐ。横殴りの太陽がその全ての動作を地面の影に映し出す。
輝く笑顔だけがそのシルエットに映らない。
「行こっか。──葵」
堕天 もやし @binsp
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