第5話
漠然とした決意だとか、憧憬だとか、恐怖だとか、気勢だとか、喪失だとか、飛翔だとか、未来だとか、過去だとか、絶望だとか、世界だとか、星空だとか、雨雲だとか、林檎だとか、悪夢だとか、運命だとか、夕風だとか。
どろどろとした不確かな物が撚り集まって、今の私があるのでしょう。
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それが凡そ見た事のないくらい真剣な顔つきであったので、私は何と反応すれば良いか解らず、唯ベンチに腰掛ける事でその意思を示した。水無瀬さんも何も言わないまま隣に座って、十秒ばかりの間を置いてその口を開いた。
「……本当に、聞いて頂くだけでいいです。きっと、何と反応すればよいかお困りになると思いますから」
私が頷くのを見て、また数秒の時を置いて、
「初めて葵さんと出会った時、ここで何をしているのか、と問われましたね。そして私は、空を見ていると答えました。ですがそれは、正確には少し違います」
あの時のように空を見上げ──そのある一点を、真直に見つめる。
「私は、天使を見ているのです。この空から舞い降りて来る、無垢白の羽の使徒を」
そう聞いて思い浮かんだのは、一対の大きな羽を持ち、金色の楽器を携え空を飛ぶ少年のイメージ。
「特段何かの信徒という訳ではないので、これはただの妄想の類です。私にとっての──」
片手を掲げ、固く握り締める。それはオーケストラの指揮者のようでもあって、何かを求め縋るような動作だった。
「──死の象徴」
独白は続く。
「私、生まれつきある病気に罹っているようでして。それが随分珍しいものらしく、ずっと病院兼研究所のような所に居たんです──ああ、感染症ではないので御安心下さい」
「最近になってこうして外に出ることもできるようになってきたのですが、以前は何も出来なかったものですから。精々、空でも見て思索に耽る位しかする事が無いのです」
「それで、ずっと考えていたんです。こんな世界に天使さまが居るのなら、其れはきっと私の知っているどんな物より美しくて、私の想像し得るどんな物より純粋で、きっと何も知らないまま、私を連れて行くんだって」
ふと零れたその乾いた笑みには、はっきりと自嘲の色が顕れている。
「まあ、本気で思っている、という事は今どころか一度だってありませんが。一種の偶像というか、精神安定剤というか。最近は結構大丈夫になってきましたが、時折馳せてみたりする次第で」
「その、天使を。どうやって拒んで、どうやって堕として。どうやって、連れて行かれずにいられるのか。天に反する、悪魔の虚想。そしてそうして想う時、他のどんな時より明瞭に感じるのです」
海の方に体を向けて天を仰ぎ見、控えめに、然して確かに両手を広げて言祝ぐように。
「目を閉じて、瞼の裏に。目を開いて、青空のスクリーンに。同じように映る物が、嗚呼、こんなにも綺麗だなんて」
暫し惚けるように動きを止めてそれから体ごとこちらを向いたその相貌は、先のものとは違うただ純粋な笑顔に満ちていた。
「──病気は、結構良くなってきているんです。未来の事は、確実には分からないですけど、それでも、」
含羞んで、髪を掻く。変わらない夕陽はただ単調に私たちを照らしている。さざめく潮、微かに陽炎めく路と遠くの景色は私たちが受け取ることのできる情報を減らして、無意識の下に二人だけの隔絶を生み出す。
「いつかこの空に触れる事ができたのならと、想うのです」
「すみません、暗い話になってしまって。それに、上手く伝える事ができたのか自信も無いですが」
「大丈夫。多分……何となくだけど、ちゃんと伝わってる」
「有難う御座います。……ああ、それから。こんな話をした手前、烏滸がましいかとは思いますがどうか今後とも、今までのようにお話して頂ければと、思います」
「うん。約束する。……あ、でも、今度からここに来る時間を少しだけ遅らせたりできない? 夏休みが終わっちゃうと、この時間は少し厳しいかも」
「はい、………………いえ。それについては、問題ありません」
はじめて見る悪戯っぽい顔で水無瀬さんはそう言った。
「問題ない?」
「はい。……ふふ、今は、内緒です」
その時確かに想起する。絶対的な感覚。人としていつか得るもの。
どこまでも愉しそうに微笑んで、それからどう聞いてもはぐらかすこの不可解な自称悪魔に、私はどうしようもなく惹かれている。
凪いだ水面に跳ねて冠を象る。蒼天に爆ぜて霹靂を彩る。
認知し得ぬ心の臓に成り代わり、確かに未完成のままで在りながら鼓動に生が弾けている。
これを。この心象を。
恋と、呼ぶのだろうか。
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