約束
此糸桜樺
約束
あれは、蝉の声がうるさい日だった。本当にうるさくてうるさくて、君の声が聞こえないほどだった。耳の近くで鳴いているような、直接頭に響くような、そんな鳴き声だった。
鳴き声……泣き声……?
◇
病室の窓から見える美しい緑色。青葉色、萌黄色、深緑、ビリジアン。目にも鮮やかな色とりどりの色彩が林立している。
「もうすぐ夏だね。プールとか夏祭りとか行きたいな」
私は白いベッドに横たわりながら、遠い目をして言った。何回この言葉を発しただろう、何回この願望を言っただろう。絶対に叶わないことだと分かっていながら、毎年、微かな期待を込めて考えてしまう。
「そうだね」
太陽に照らされた彼は、目を背けたくなるほどに眩しく輝いていた。今にも天へ昇っていってしまうのではないか、遠いところへ行ってしまうのではないか、そう心配になるくらいだった。
「セミっていつ頃から鳴き始めるのかなあ。夏っていったら、やっぱりセミだよね」
「うん」
「でも虫が増えるのは嫌だな。私、虫は苦手なの。鳴き声だけで十分」
「僕も」
口数の少ない彼。私の言葉には、短い単語単位でしか返してくれない。私は、ぎゅっと毛布の端を握った。
拓斗くんはもともと活発で明るい子だった。
私たちが出会って間もない頃、私の病気がまだあまり進行していない頃、拓斗くんがまだ元気だった頃。通院の帰り道、公園で四つ葉のクローバーを一緒に探したことがある。その頃の拓斗くんは、間違いなく「笑って」いた。崇高な微笑みではない、少年らしい快活な笑顔で。――打ち上げ花火のような笑顔とコロコロとした鈴のような笑い声。私に差し出された、小さくて柔らかい手と黄緑色のクローバー。
そこにあったのは、将来への幸福な希望だけだった。もちろん「死」なんて考えもしなかった。
それなのに、どうして。
「拓斗くん」
拓斗くんは、そっと頷いた。コクン、という相槌のオノマトペそのものだった。
「……死なないでね」
病室が急に暗くなる。床にくっきりと映し出されていた二つの影は、うっすらとした灰色になった。灰色の影と鼠色の影が重なり合い、濃淡の増したグレーが所在無さげに揺れている。
拓斗くんは優しく微笑んだ。まるで私を諭すかのように。――僕は死ぬよ、と。
分かってはいるんだ。拓斗くんも、私も、死ぬ。そんなに遠い未来じゃないことも分かっている。
でも、でも。せめて……
「私より先に死なないで。私を一人にしないで」
それが、それだけが、私の切実な願い。
「うん……分かった。約束する」
再び病室が明るくなる。彼はそっと私の手を取った。白い掛け布団の上に、くっきりとした手の影が映し出される。白い陽光に照らされた拓斗くん。儚くて、弱々しくて、美しい。
拓斗くんは静かに立ち上がった。時計は16:00を示していた。
「明日も来るね、
「……うん。拓斗くん、じゃあね」
彼は病室を出た。私は一人、病室に取り残された。
私は、完治不可能と言われている病気にかかっている。新薬の開発は進んでいるらしいが、実用化はもう少し先らしい。しかし、実際はそんなことどうだって良かった。
死よりも何よりも、本当に怖いのは「孤独」だ。私が生きていても死んでいても、世界は何も変わらない。いつだって私は一人ぼっちなのだ。
「うう……はあ……はあ……うっ」
目の奥がかすむ。激しい吐き気と共に、ぐるんぐるんと部屋が回る。意識が段々と薄れ、呼吸が浅くなるのが分かる。空気の粒が膨張したのか、それとも私の気道が封鎖したのか、とにかく酸素が肺に入ってこない。これじゃあ足りない、生命維持のためには酸素が必要だ、もっと取り込め、もっと吸い込め……と脳がヴーヴーとサイレンを鳴らしている。――いつもの発作だ。
いっそのこと、このまま、眠ってしまえばいいのに。永遠に起きなければいいのに。
朦朧とした意識の中で、ふとそんなことを考えた。
「先生! 佐々木さんが発作です!!」
「すぐに用意を!」
看護師さんたちが、忙しく動き回っている様子が伝わってくる。苦しい、辛い。でも、なぜか頭の中は不思議と冷静だった。
――今日もまた死ねなかったな。
だんだんと呼吸が楽になる中で、誰にも聞こえない溜息を、一つついた。
◇
次の日、拓斗くんはいつもより少し早く来た。
「今日は早いね。どうしたの」
「診察があったから」
「そっか。拓斗くんも診察あるもんね。どうだった? なんか言われた?」
拓斗くんは、すうと息を吸った。いつもの柔らかい微笑みのまま、私を真っ直ぐに見つめる。
ひと呼吸の間に産み落とされた静寂は、なんだか少し怖い感じがした。
「余命三ヶ月、だって」
しんとした空気に漂う蝉の声。水色の爽やかな快晴。風にたなびく白い雲。外の世界はこんなにも穏やかなのに、部屋の空気は押しつぶされそうなほど重い。
私の心臓の音が、ドクンと大きく鳴り響びく。
「そんな」
昼間なのに薄暗い病室。規則正しい電子音。低く唸る空気清浄機。病院ならではの臭いが、鋭い痛みを持ってつんと鼻を突いた。
私の心臓の音が、ドクドクと速くなる。
「そんな」
目の前から色が消えたようだった。
白、白、白、無。明暗も濃淡も全てが消え、ただただ
「嫌だ……私を置いていかないで。嫌だ、嫌だ!」
行かないで。逝かないで。生きて。
お願いだから。
「私より、先に死なないで……」
拓斗くんは優しく微笑んだ。何度も頷きながら、天の無慈悲な笑みを、私へ降り注ぐ。
ねえ、無責任に笑わないでよ、頷かないでよ。守れない約束はしないで。
色の消えた世界に、拓斗くんだけが鮮明に浮かび上がっていた。ブラウンダイアモンドの瞳、ホワイトトパーズの肌。水彩絵の具のような
彼の持つ全てのものが、美しい輝きを放っていた。そこには邪念と言われるものが一切存在していない。
ああ、本当にいってしまうんだ。
行ってしまう……逝ってしまう。
その日から、私は泣いてばかりだった。拓斗くんが死んだら、私は本物の独りぼっちだ。誰も私に構う人などいなくなってしまう。
診察のときに来る医師と看護師。発作と診察のときにだけ駆けつける両親。誕生日にのみ送られてくるクラスメイトからの千羽鶴。あとは? その他は?
何も無い。お見舞いに来る人もいない。心配してくれる人もいない。喋り相手も、遊び相手も、何もかも。
そんなの嫌だ。泣いて泣いて泣いた。目は赤く腫れ、じんじんと痛んだ。涙袋の水を全て使い果たしてやろうとも思った。しかし、不思議と、一向に涙の枯れる気配はなかった。
◇
そうしているうちに、あっという間に三ヶ月が経とうとしていた。そんなもの一生来なければいいのに。
私の病状は、彼の死を追い越す勢いで悪化していた。拓斗くんに先に死んでほしくなかった。私の分まで生きていてほしかった。……どんなに願っても叶わないけれども。
大人になったらやりたいことってなあに? 拓斗くんの将来の夢ってなあに?
たくさん話したはずだった。未来への希望と願望を、好きなように好きなだけ。それなのに今では、拓斗くんの命が消えつつある。こんなのおかしい。世界は、神様は、あまりにも非情だ。
そして、今、私の口元には酸素発生器がつけられている。息と唾が混ざりあったような音が、スースーと耳の近くで聞こえる。自分の呼吸音がこんなに大きいなんて、なんか変な感じだ。
無駄に生きたくないのにな。
「
看護師さんがそう言って私に笑いかけた。でも。こんな悪あがきをしている最中にも、彼の死は刻一刻と迫ってきているのだ。生きたくない、生きたくない。
そのとき、静かに扉が開いた。看護師さんと入れ替わりで、誰かが入ってくる。
「舞佳ちゃん、久しぶり」
「た……くと……くん……」
私の口から、スコースコーと息が漏れる。目の前が一気に霞んだ。頬が冷たい。
彼は私のベッドの横に座った。マットレスが少しだけ沈む。しばしの間、沈黙が流れる。
「僕、延命治療してないんだ。だから、僕のほうが先に逝きそうだ」
「そ、んな……嫌……だ、よ」
「ごめん」
拓斗くんは静かに言った。私の口に酸素発生器がつけられてから、拓斗くんは少し悲しい顔をするようになった。
そんな顔をしないで。私まで悲しくなるじゃないか。
「……ねえ、笑っ、て……」
拓斗くんには笑顔でいてほしい。ずっと笑っていてほしい。願わくば、あの頃――四つ葉のクローバーの日のように。
拓斗くんの姿がぐにゃりと曲がった。私の目には、ふくれた涙が今にも零れ落ちそうになっていた。すると、不思議なことに、拓斗くんの瞳に映る私の姿までもがぐにゃりとぼやけた。彼の目から光の水滴が落ち、鴇色の頬に一線が引かれた。はじめて見る、拓斗くんの涙だった。
「僕は、約束守るから」
拓斗くんは低い声で言った。声が強ばっている。
私は、約束とは何のことだろう、と少しの間考えた。でもすぐに、ああ、あのことか、と理解した。
――約束、守ってくれるんだね。
ブチッという汚い音がなった。五台余りの機械音が一斉に消えた。ガタンと床に電源コードが横たわる。少女の肺に送られていた酸素は、抜かれた電源コードとともに供給を
空色の空。草葉色の葉。華やかな花。脳内に美しく穏やかな景色が広がっていく。これは、走馬灯か。それとも、極楽浄土か。……いいや、なんだっていい。
――拓斗くんは、いつだって、私のヒーローなんだ。
蝉が泣いている…………
少女は、天人のような笑みで、静かに意識を手放した。
約束 此糸桜樺 @Kabazakura
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