届く言葉はありますか

詠月

届く言葉はありますか


 私の声は誰にも届かない。



 私の言葉は、誰にも届かない。






◆◆◆



 ガヤガヤと騒がしい町の喧騒。

 人で溢れ返った駅前は夕方の帰宅ラッシュに差し掛かったのか、スーツ姿や制服姿の人達で朝よりも賑やかだった。少しでも足を緩めれば体が持っていかれそうになる人の波。


 必死に足を動かすけれどその速さについていけず、ドンッと肩に軽い衝撃が走った。


「ごめんなさい、大丈夫?」


 ふらつき地面に膝をついた私に、ぶつかった人が律儀にも声をかけてくれる。二十代くらいのスーツ姿の女性。


 普通は人混みで謝られることなんてないから、想定外のことに私はどうすればいいかわからなかった。


 だからつい、背負っているリュックからいつものものを取り出すことも忘れて。


「だ、大丈夫です」


 咄嗟にそう口にする。

 その人は不思議そうに私を見つめた。かと思えばすぐに心配そうに私の顔を覗き込んでくる。


「もしかしてどこか怪我をしてる?」

「あ、いや」

「辛いようだったら病院に、」

「あ、あの、本当に大丈夫です……!」


 私は制服の裾を掴み勇気を出して声を上げた。いや、違う。正しくは……


「え……何か話してる?」


 唇を動かした、だ。


 あっとようやく気づき、私は急いでスマホを取り出してホーム画面に出ているメモ帳を引っ張り出す。


『大丈夫です、こちらこそぶつかってしまってすみません』


 それだけを素早く打ち、女性に画面を見せるのと同時にぺこりと頭を下げる。その一連の動作で何となくの事情は察してくれたようだ。


「そうなのね、怪我がなくてよかったわ。じゃあ私はこれで」

「はい。ありがとうございました」


 離れていく女性の後ろ姿はすぐに人に埋もれていく。打つことが間に合わなかった、私の声の言葉は届かないまま。


 スマホをぎゅっと握ってからリュックに仕舞う。辺りに飛び交う様々な人の声から逃げるように、私は俯いて再び歩き出した。





◆◆◆


 【心因性失声症】


 紙面の上部に大きく書かれたその文字を初めて目にしたのは忘れもしない七歳の誕生日。


 幸せだった。

 惜しむことなくたっぷりと愛情を注いでくれた両親。口は悪いけれどいつも遊んでくれた兄。おいしいおやつを作ってもらったり夜皆で一緒に寝たり、休日には色々なところに連れていってもらったり。


 毎日が楽しくて、輝いていた。

 だから納得できなかった。


「おそらくストレスか何かでしょう。文字通り精神面での何かしらの原因で一時的に声が出なくなってしまうというものです。琴葉ちゃんのような年齢でというケースは少ないですが、最近ではよくある症状ですので……」

「そんなっ……!」


 診察室に響くお母さんの悲痛な声。

 室内に満ちる重い空気。


 椅子に座るお母さんの肩を、お父さんがそっと抱き寄せるのが見えた。


「何か原因にお心当たりはありますか?」


 力無く首を横に振る二人。昨日までいつも元気に笑っていた私にそんな素振りはなかったと。


 だってそうだ。

 当時の私はまだストレスなんて言葉は知らなかったけれど、不満だとか心労だとかそんなものは一切感じていなかったのだから。


「先生、これはいずれ治るんですよね?」


 顔を上げたお父さんの言葉に医師が顔を曇らせるのが見えた。


「私にはなんとも言えないです。心因性のものは発症も完治も当人次第ですので、原因を解決さえできれば治る可能性も高くなるかと思いますが……現代では、症状と年月を共にしている人も少なくはない、ということだけお伝えします……」


 お父さんが無言のまま目を閉じる。

 お母さんの肩が震えた。


「なんで……」


 どうして。


「どうして……どうして、琴葉が……っ!」


 その先は続けられずお母さんは泣き崩れた。目を潤ませながらその背中をさするお父さん。


 どうして泣いてるの?


 何も理解していない私が二人の方へ足を踏み出そうとした時、後ろから抱きしめるようにして回っていた腕に力が込もって。


 見上げれば、お兄ちゃんが泣いていた。


 大好きな家族が、みんな泣いていた。


「……泣かない、で?」


 力強く抱き締められながら私は言った。

 誰も反応してくれなかった。


 どうしてという叫びが、いつまでも頭に響いていた。





◆◆◆


 甦ってきたあの日の記憶を振り払うようにふうと息をつき、私は家までの最後の角を曲がった。

 赤い屋根が特徴的な一軒家。門の所にお母さんが立っているのが見えて、私はパタパタと駆け寄った。


「お母さ、」

「おかえりなさい、琴葉!」


 私の声に被さるお母さんの声。

 胸に走った痛みをいつものように押し殺して、私は『ただいま』と打った液晶画面を見せた。


「何もなかった?」


 お母さんは私の頬に手を当ててから怪我がないかと全身を確認する。すっかり見慣れたその慎重な手の動きに私はそっと微笑む。


『大丈夫だったよ』


 その文字を見てようやく胸を撫で下ろしたお母さん。もう一度おかえりと抱き締めてくれて。


 もう子供じゃないのに、なんてくすぐったくなる。


「ご飯できてるから食べよっか。先に荷物置いてきたら?」

『わかった』


 手洗いを済ませてから二階に上がり自室へ。

 リュックを机の上に置いて手早く制服から着替える。スマホは充電が少なくなってしまっていたから充電器に挿して。代わりにノートとシャーペンを持ってリビングに下りた。


 開いていたドアから入れば、美味しそうな香りとトントンという心地いい音に包まれる。


 お母さんは私が下りてきたことにまだ気がついていないようだった。


「……」


 もう、これは習慣。

 体が震えるのは緊張なのか、それとも別のものか。


 いや、本当はわかっているんだ。


「……お母、さん」


 絞り出したのはついさっきも口にしたはずの言葉。


 今度は……今度は。


 祈るような思いでカウンターのそばに立つ私に、両手にお皿を持ってキッチンから出てきたお母さんは驚いたように目を見開いた。


「あら、もう下りて来てたの。早かったのね。肩でも叩いてくれればよかったのに」


 やっぱり。


 ほら座っててと促され私は曖昧に笑みを浮かべた。


 痛い。

 胸が痛い。喉が、熱い。


 キッチンへと戻っていくお母さんにバレないよう喉をぐっと押さえる。


 また今日も届かない。私の声は……届かない。


 もしかしたら治ってるかも、なんて。

 今なら届くかも、声で気づいてもらえるかも、なんて期待して。


「……馬鹿みたい、私」


 ぽつりと呟く。

 この声も、誰にも届くこと無く空気に溶けていった。





◆◆◆


 「おやすみ、琴葉」

『おやすみなさい』


 パタンとリビングのドアを閉める。自室に向かいながら私は、シャーペンを使いすぎてすっかり固くなってしまった指を喉に当てた。


「……あー」


 とにかく声を出してみる。合唱の時にあった発声練習みたいに声を発する。


 しばらく待ってみても廊下は変わらず静かだった。

 今の声は何、なんてお母さんがリビングから飛び出してきて。声が出た、良かった、なんて騒ぎが起きる……そんな、想像するシチュエーションとは真逆の現状。


「だから何してるんだろ……」


 私はブンブンと首を振って暗い思考を振り払った。


 やめた、早く戻って課題でも終わらせよう。

 そうして今日は早く寝て、明日はゆっくりしよう。


 学校休みだし、と考えながら階段を上がる。

 自室のドアに手を掛けたとき、ガチャっとドアノブが回る音が後ろから聞こえて振り返った。


「……琴葉?」


 丁度出てきた男の人とバチッと目が合う。


「お兄ちゃん」

「早いな、もう部屋に戻るのか?」

「うん。今日は……あ」


 忘れてた、と急いでノートを開く。


『課題があるからやっておこうと思って』

「うわ、琴葉は真面目だな」


 課題なんてやんなかったぞ、と呟くお兄ちゃんに笑う。大学生も課題くらいありそうだけど、きっとそれもやっていないんだろうな。


「おやすみ、課題頑張れよ」

『お兄ちゃんもね。おやすみ』


 一階へ下りていくお兄ちゃんの背中を見送ってから部屋に入る。ドアを閉めてそっと息を吐いた。


 カーテンを閉め忘れていた室内には外の電灯の灯りが仄かに忍び込んでいて。それがなんだか嫌でシャッと勢いよくカーテンを閉めた。代わりに電気のスイッチを押す。


 眩しさに目を細めてから私はノートを机に置き、今日書いたページを数えていった。


 全部で五ページ。枚数に表すと二枚半。


 あと半分書けるのに勿体無いな。

 そう苦笑した後、その三ページを破った。書かれた言葉ごとくしゃくしゃに丸めて足下のゴミ箱に投げ捨てる。トンと音が立った。


 その音はとても軽かった。


「……課題、やろう」


 リュックから取り出した課題を机の上に広げて筆記用具も用意して。準備はすぐに整った。

 けれどどうしてもやる気が湧かなかった。


 はあっとため息をついて握ったばかりのシャーペンをポイと投げ出す。今日はダメな日みたいだ。


 椅子の背にもたれ眠くもないのに目を閉じた。考えるのはいつもと同じ一つのことだけ。


 どうして私の声は聞こえないのだろう。


 手で喉に触れる。正常に動いているはずのそれは私にしかわからない。

 この十年間ずっとそうだった。失声症と診断されたあの日から、ずっと。


 私は普通なんだ。声だって出るし話せる。

 失声症なんかじゃない。


 それなのに周りの人には私の声は届かない。聞こえない。声が出ていないと言う。


 私には聞こえるのに。出ていることもわかるのに。


 自分には聞こえている声が届かない。それほど悲しいことはなかった。声をかけても反応してもらえなくて。紙やスマホで文字を使うしかなくて。気づいてもらうのを待つしかなかった。


 どうして、と頭の中であの日のお母さんの叫びが再生される。


 どうして、どうして琴葉が……


「どうして私なんだろう……」


 理由がわかればまだ良かった。ストレスなんて対策だって治す努力だってできただろうから。

 けれど今でも原因は不明で謎に包まれたまま。変わらない日々が続くだけ。


 不安が胸を満たす。出掛けた言葉を私は急いで呑み込んだ。口にしてしまったら終わり。そう感じたから。


 カチッとシャーペンを鳴らし課題と向き合う。

 考えてもどうしようもない。今は忘れてしまおう。


 今度こそと私は頭を自分のことから課題へと切り替えた。





◆◆◆


 「……おかあさん?」


 どこからか声がする。

 不安そうに揺れるまだ幼い声。


 導かれるように振り返った先はよく見知った光景が広がっていた。いつものリビングだ。壁に飾られているのは昔私が描いた絵や、お兄ちゃんが大会で入賞したときの記念写真……


 いや、違う。


 絵も写真も見当たらない。どこを見回しても見つけることができない。


 何かが違うという違和感を覚えたところでようやく、誰かがダイニングテーブルの椅子に腰掛けていることに気づいた。その見慣れた背中に私はハッとする。


 お母さんだ。


 どうしてと混乱する頭が次に捕らえたのは、お母さんのすぐ側で不安そうに瞳を揺らす幼い少女の姿。


「どうしてないてるの?」


 お母さんは答えない。

 聞こえていないかのように反応すらもしない。


 少女はねえと服を引っ張った。


「おかあさんどうしたの、どこかいたい?」


 そこで初めて少女がいることに気づいたようだった。驚いたように顔を上げ少女を見つめる。

 急いで拭ったその目元は腫れており濃い隈ができていた。心なしか顔も疲れて見える。


「あ……ごめんね、どうかしたの?」

「ううん、へいき。どうしてないてるの?」


 もう一度同じ言葉を口にする少女。お母さんは少し困ったように微笑むと彼女の頭を撫でた。


「ごめんね……何て言ったかこれで教えてくれるかな?」


 近くにあった平仮名表を手に取り差し出す。

 少女はキョトンとそれを見つめた。


「これなあに?」


 聞いてもお母さんは曖昧に笑うだけ。答えはなく少女も戸惑ったまま。


 習ったばかりの平仮名をそこまで覚えているわけではなくて、少女にとっては見覚えの無いものも多い。会話なんてできるはずがなかった。


 その事実にお母さんが悲しそうに顔を歪めて。椅子から下り少女を強く抱き締めた。


「おかあさん?」

「ごめんね……ごめんね、琴葉……」

「どうしてごめんねなの?」

「私のせいで……ストレスなんて感じさせて……声を、奪っちゃって……っ!」


 肩を震わせ声を絞り出すように謝罪を繰り返すお母さんに少女は不安そうに名を呼ぶけれど。


 お母さんがそれに応えることはなかった。


「ごめんね……ごめんねっ……!」


 二人を残したまま、リビングが歪んでいく。

 待って、と私は手を伸ばした。


 届かない。戻れない。

 完全に視界が闇に包まれて……


 目を覚ました先は明るかった。

 背中が痛い。いつの間にか机に突っ伏していた体を起こせば光に包まれた自室で。


 ふわ、と堪えきれなかったあくびを一つ。パタンとテキストを閉じ今は何時だろうと時計に視線を送る。結構長いこと眠ってしまったようだ。


 今の夢、とざわざわする胸を押さえ思考を巡らせる。確かに覚えがあった。おそらく失声症と言われて間もない頃にあったこと。


 お母さん、やつれてた。

 優しいお母さんのことだ。娘さんが声を失ったのはストレスが原因ですなんて言われて気を背負わない訳がない。


 私は……


「だめだめ、やめよ」


 首を振り沈みかけた気持ちを無理やり上げる。考えても落ち込むだけだ。


 水でも飲もうと部屋を出る。ノートもスマホも持たない手ぶらで。電気を付けるのは迷惑になりそうだからドアを少し開けたままにして慎重に階段を下りる。


 リビングに明かりが点いていた。


「あれ、誰か起きてるのかな」


 こんな時間にと不思議に思う。

 お父さんだろうか。


 ドアに手を掛けて、開こうとした時。


「……は……」


 消え入りそうな程小さく震えた声が聞こえた、気がした。咄嗟に手を止め耳を澄ませる。


「……は……ね……」


 誰かが話している。


 いや、泣いてる……?


 ドクンと心臓が波打った。さっき見た夢が甦る。


 まさか。


 私はそっと扉を開けた。

 徐々にはっきりとしてくる泣き声。

 開けたのは少しだけ。それでも中の状況を知るには十分だった。


 椅子に座り俯くお母さんの背中。お母さんの隣にお父さんが座っている。震える肩をそっとさするその姿は見覚えがあった。


 あの、診断されたときと一緒。


 一度気づいてしまえばもう止まらない回想。あの日の光景が鮮明に浮かび上がる。泣き崩れるお母さんと耐えるように唇を噛み締めていたお父さん。どうしてと響き渡る叫び……


「……ごめんね……っ」


 耳に届いた言葉に私は顔を上げた。


「琴葉……っ、ごめん、ね……」


 ……なんで。


「ごめんなさい……」


 なんで謝ってるの。


「ごめ……」


 なんで今も謝ってるの。

 なんでまだ泣いてるの。


 だって、もう十年も経ったのに。

 お母さんが悪い訳じゃないのに。


 ある一つの予感が浮かんで私はまさかと呟いた。


 ずっとこうして、自分を責めていたの……?

 ずっと、泣いていたの?


 体から血の気が引いていくのがわかった。昔で済む話じゃなかった。お母さんは今もまだ。


「っ……ごめんね、琴葉……」


 ぎゅっと胸が締め付けられるようなその声に私はよろよろと後ずさった。


 二人から目を逸らす。喉の乾きなんてとっくにどうでもよくなっていた。

 ただここから離れたくて。


 身を翻した瞬間、ドンッと正面から勢いよく柔らかい何かにぶつかった。


「うおっ……どうした琴葉?」


 おにい、ちゃん。


 声は出なかった。


「部屋空いてたし電気点いてたから見に来たんだけど……顔色悪いぞ、大丈夫か?」


 出ない。


 届かない。聞こえない。


「琴葉?」


 ぐっと唇を噛み締めて、私は走り出した。お兄ちゃんの驚いたような声が上がったけれど、振り返ることなく階段をかけ上る。

 暗闇で何度かつまずきながらも自室に駆け込んで。バタンと閉めたドアに背を預けしゃがみこむ。


「……っうぅ……」


 熱い。


 喉が、熱い。


 手を当てても一向に治まってくれなくて。

 階下から慌ただしい音が聞こえてくる。お兄ちゃんの声に混ざってお母さんとお父さんの声も。


 きっと心配かけた。また迷惑をかけた。


 わかっているのに動けなかった。


 熱い。喉が。息が詰まる。


「琴葉……!」


 名前を呼ばれる。早く出ないと。


 そう思うのに。まるで違う何かにでもなってしまったかのように私の体は動かなかった。


 何してるんだ私。早く出て笑って。これ以上迷惑はかけられないでしょ。


 そう思うのに。行きたくないと体が訴えかけてくる。私は耳を塞いだ。


「や……だ……」


 迷惑を、かけていた。


 ずっと。


 背負わせてしまっていた。

 泣かせてしまっていた。


 その事実が重くのし掛かってくる。


「な……んで……」


 自分だけの問題だと思っていた。

 自分が受け入れればいいだけだと。自分さえ受け入れればそれでいいと。そう思っていた。


 だから悲しくなる度に、受け入れなきゃと言い聞かせ続けて。そうしてきたにも関わらずまだ期待している自分に嗤って、やめようと切り替えて。


 でも違った。

 治らないとダメなんだ。


 治らない限り、私は……私は、家族の重荷でしかない。負担にしかなれないんだ。


「う……っ……」


 迷惑をかけたくないのに。

 声を届けられないから何もできない。


 届けられないこの声で何を言っても。

 皆には意味がない。


「どうして私なのっ……」


 私の声が届けば。私の言葉が届けば。

 皆を悲しませずに済んだのに。


 私の声が届けば。私の言葉が届けば。

 迷惑をかけなくて済んだのに。


 体を抱き締めるように丸める。塞いだままの耳からは何も聞こえない。


 私の声と一緒だ。届かないし聞こえない。

 そんな声はいらないのに。


 私はぎゅっと、滲む視界を閉じた。


 私の届く声はどこにあるのだろう?

 私の届く言葉はどこにあるのだろう?


 誰か教えて、と。


 呟いた声は誰にも拾われることなく部屋に吸い込まれていった。

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届く言葉はありますか 詠月 @Yozuki01

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