ちっぽけな町の神様が消えた
空原海
第1話
こんなことを言うと、男からも女からも。老いも若いも。
たいていの方面から反感を食らうことはわかってる。
あたしは、容姿に恵まれてると思う。
それも結構、トクベツに。
好みは人それぞれ。だから誰も彼もがあたしに夢中になるなんてバカけたことは思ってない。
でもあたし自身はあたしを気に入ってるし、トクベツだってわかってる。それで十分。
長過ぎる毛のカットと、毛流れを整えるだけで済ます眉毛。
あとはオークルベースの日焼け止めクリームに、ビビッドなチェリーピンクのグロス。
アイカラーもチークもマスカラもいらない。
ヤってる最中、絵の具がドロドロに滴り落ちてるピエロが目の前にいたら、アレが萎えるに決まってるから。
ヘルシーなビキニが覗く、胸元のあいた、ぴったりとしたタンクトップ。
おばあちゃんのズロースみたいな色気の欠片もないのじゃなくて、Tバックみたいな
履きつぶしたボロボロのオプティカルホワイトのコンバースはローカット。潔いレッドライン。
フォトショップなしで、グラビアの一面ドアップに耐えうる顔。
きれいで張りがあって、谷間に札束を挟むのが似合うおっぱい。
くびれてうっすらと縦のラインに腹筋が見える、セクシーなおへそ。
重力に負けることなんて一生ない、カーシートやマットレスの上で最高のベリーダンスを披露するおしり。
長くてまっすぐな脚は、そのつま先でボクサーパンツをズリ下すのが大の得意。
一滴垂らすだけでノドが焼けつくような、度数の高いスピリッツの器に最適なくぼみ。それがあたしの鎖骨で、そこからのびた細いけれど生命力に満ちた二の腕には内側にマグノリアのタトゥー。
男たちは決まって、そこにキスをする。
アソコにとりかかる前に。
「今日はどーすんの」
「仕事だよ。港でな」
「送る?」
「冗談だろ。クソまぬけなこの車、目に留まりでもしたら、おまえ、明日には海の底に沈んでるぜ」
ヤり終えた男がタバコをくわえてTシャツを頭からかぶろうとしている。
Tシャツにクロスした腕を差し込んで、丸められた背中。それでも背骨の場所は凹んで、それを挟むように浮かび上がる隆起と、そこに刻まれた彼岸花とレタリングのタトゥー。
「くそっ。焦げた」
タバコの火がTシャツをかすめたらしい。
どうせ布地は黒だし、古着屋で手に入れたらしいソレは、80年代のヘヴィメタバンドTシャツで、
焦げようが穴があこうが。そんなものはどうせ明日になれば、どこが新しいシーラ・ナ・ギグなのか、わかりやしない。
「そりゃ、くわえたまんま着ればね」
「いつでも
教会のバザーでも鼻先に突っ返されそうな服を神経質に可愛がる男。
鼻で笑ってやれば、片方の眉をあげた男の額にシワができる。いたずらっぽくキラキラ光る目と、からかうように歪められた口の端。
左手の親指と人差し指でタバコをつまんで「おら。くわえとけよ」と口に捻じ込まれた。
「タバコをくわえる趣味はないよ。あたしがくわえるのはアレだけ」
ダッシュボードにある黒い、夜間オートライト機能LEDつきの灰皿を手に取り、口に突っ込まれたタバコを灰皿に突っ込む。
男がハッと短く強く息を吐き出すと、フロントピラー近くの天井に拳を打ち付けた。
衝撃で車体が揺れる。
「ちょっと。やめてよ。壊れちゃう」
「知るか。車なんざ壊れちまえば、おまえも諦めて家にこもってんだろ」
「それなら誰かがうちに上がり込んでくるだけだよ」
「くたばれ、ビッチ」
噛みつくようにキスをして、お互いヨダレでベトベトになった口を拭って、まだ日の昇らない薄暗い空の下、男は港へと向かった。
ドアの隙間から突き刺すような、冷たくて痛い、乾いた風が入り込んだ。
「今月末に引っ越すんだって?」
「は、はい。そ、そそそそその、とととと年明けにオ、オオリエンテーションをひ、ひひ控えてい、いるので……」
「ふーん。あんたはこっから『出て行ける』人間なんだ。いーね」
ヤり終えた坊っちゃんはまるでいたいけな乙女のように、その生っ白い華奢な身体にシーツを巻きつけた。
高くて繊細な声で繰り返される音は、きんきんと引っかかったりして時々は少しばかり神経質ではあるけれど、だいたいにおいて天使の歌声みたいだ。
教会のエロジジイが精鋭をよりすぐった、美しいボーイソプラノとボーイアルトの少年合唱団なんか、全然目じゃない。
ら、らららら、るる、るるる。
オ、オオリエンテーションヲヒ、ヒヒヒカエテイ、イルノデ。
吸って、吐いて、歌って。
坊っちゃんの血色の悪い薄いくちびるに指をはわせてみると、引っ込み思案な生ぬるい吐息と、歌うための振動。
「あ、ああのっ!」
眼鏡をかけたヒョロヒョロの青白い顔を、真っ赤に紅潮させ、鼻息を荒くして、目の前の坊ちゃんが叫んだ。
「よ、よよよよよよかっ………たら……っ! あ、ああなたが、よかったら!」
「うん。あたしがよかったら?」
坊っちゃんの歌が好き。
坊っちゃんとのセックスで何が楽しいかって、この美しい歌を、たくさん歌ってくれること。
坊っちゃんの弦を爪弾き、鍵盤を優しく激しく叩く。鳥のさえずりのようなトリルを坊っちゃんが歌う。
「ぼ、ぼぼぼぼくっ……と、い、いいいい一緒に、こ、こここここのま、町をで、でて出てっ! く、くく暮らし、しまっせ、せんか……っ!」
ぜぇぜぇと荒く息を吐いて、真っ赤な顔で歌いきった坊っちゃんの愛らしさ。
「あはっ。あたしを連れ出してくれるの?」
ぱあっと花が咲いたようにほころぶ笑顔は無垢で、誰の手垢もついていない、天使のよう。
「は、ははははいっ! が、が学生なのっで……っ! あ、ああなたに…は、くくく苦労を、か、かけてしまい……ますっが……っ!」
「苦労かー。苦労はやだなぁ」
喜色満面だった坊ちゃんの顔は、真夏のソフトクリームみたいに崩れていった。あたしはそれを舌ですくって舐め取るように、さめざめと泣く坊ちゃんの頬にキスをして、車に乗り込んだ。
オンレジ色の光がシルバーグレーの車体を黄色に塗り替えていた。
手をかざすと、ばらばらな指それぞれに、光と影の濃いコントラスト。息を吸い込めば、鼻腔にピタリとはりつく痛みと、目に見えない冷たくキラキラとした結晶が気道をかすめて肺へと下っていく。
「そういうときは、なりゆきに任せるままでいい」
「なりゆき?」
「そう。なりゆき」
紳士は葉巻とカッターを手に取り、キャップを押さえ、慣れた手つきでカットした。
スパン。思い切りよく。見ていて気持ちのいい切れ味。
「パンチカッターもいいけれど、私はせっかちでね。綺麗に切ってやれば、葉屑もそう口に入ることはない」
紳士は葉巻用のガスライターをゆっくりと回し、丁寧に火をつける。ウォルナットカラーが灰白色に変わったところで「どうぞ」と手渡された。うやうやしく指でつまみ、ひとくち吸って口の中で煙を転がす。
ナッツの香ばしさ。モカチョコレートのコク。古びた紙きれ。インクの苦み。
紳士がこうして分けてくれる葉巻は好きだ。
男が口寂しさにくわえるタバコとは違う味わいがある。
口腔内をふくらませて、くちびるをすぼめ、ゆっくりと煙を吐き出していく。
「そう。上手だ」
紳士はあたしの頭を撫で、葉巻を受け取った。
「いいかい。彼らにきみを与えすぎる必要なんてないんだ。彼らは彼らで、自らを満たす」
「自らを満たす」
「そうだ。きみから受け取った愛情と幸福を、培養キットでいくらでも。つまりその才がないのならば、きみがなにを奉仕しようと無駄だということだ」
「よくわからないな」
「いずれわかるよ」
あたしの信条は相手に正直でいること。相手を気持ちよくさせてあげること。いつもうまくいかない。
男とは別れ際、仕事前だというのに苛立たせてしまった。キスはしたけれど、あれは男の傷ついた自尊心と、それをごまかすための「てめえなんざ知るか」だった。
それから大事な出立前の坊ちゃんを泣かせてしまった。きらめくマリガーネットみたいな目に、いっぱいのこぼれ落ちるマリガーネットの欠片をためて、それがあとからあとから。こんこんと湧き出る泉のようにとめどなく。
「現実味がないの」
「いつでも夢の中にいるみたいだと」
「うん。あたしがどこにいるのか。これは夢なのか。今はリアルなのか」
「コカインのやりすぎだな。これだからマリファナだけにしておけとあれほど」
紳士はわざとらしく顔をしかめ、眉間におそろしいほどの皺を刻み、威厳に満ちた教授らしい顔つきであたしを見下ろす。
そして麻薬探知犬みたいなラブラドール・レトリバーは、大きな口をあけて破顔した。
「わたしの培養キットなら、いつでも分けてあげるよ」
「それは胸に響く?」
「さあ。どうかな」
紳士は葉巻を美しいクリスタルガラスに置いた。曲線と直線。そのバランスや配置、光の屈折が芸術的で実用的な、バカラのシガー用灰皿。
紳士が体をねじると、輝くオフホワイトのシーツがジムで鍛え上げた体から滑り落ちた。
シャワーの水滴はもはや弾かないけれど、トレーニングマシンの上で肉体を彫刻に変貌させることが、紳士の日課。
手の甲をつねってつまめば、そこにはちゃんと年齢が表れているし、笑えばくしゃくしゃになるシワも、紳士の脳みそに詰まったたくさんの知性と経験と自信の、
落下する隕石が白と緑とオレンジの光をまとって、薄闇の空を粛々と切り裂いていくように。
紳士の経験と自信に裏打ちされた培養キットは、あたしの胸にそれなりの衝撃をもたらして、分け与えられた。
紳士からは与えられて、与え返す。
ただし紳士には美しく貞淑な妻も、愛らしく聡明な娘もいる。だからあたしは、シーツの隅にチェリーピンクのグロスを必ず残していくのだ。
紳士はそこに唇を寄せ、「またのお越しを」とニッコリ完璧なスマイルをつくり、ぴんとのばした指を綺麗にそろえて、大きな手のひらをこちらに向ける。そしてバイバイ。
「久しぶり。変わりなさそうだね」
「そっちも。久しぶりのこの町はどう?」
兄はぐるりとあたりを見渡すと、肩をすくめた。
「ガソリンスタンドとモーテルと、ドラッグストア。婆さんの雑貨屋。何か変わった?」
「なんにも。先月父さんが芝刈り機を新調したくらいかな」
兄はあたしにそっくりな顔を思い切り歪めた。
「……父さんが? 芝刈り機?」
「うん。退院して帰ってきたら、あちこち伸び放題の庭の芝生を見て。あの父さんのいつもの口癖だよ。『おお、なんてことだ。神は死んだ!』って」
両手を大きく開き、天に差し伸べ、指と指の間をしっかりと広げて第一間接も第二関節も折り曲げる。そして肘から上にかけて力を込めて、腕全体をぶるぶると震わせる。
衝撃と絶望でどうにかなってしまいそうだ、という。あの父の表情を真似る。
「父さんはニーチェかぶれだったから」
ゆっくりと腕をおろして兄へと振り返る。
首を傾げ、歯を見せて微笑みかけると、兄は額に手を当て俯いていた。長い前髪が兄の骨ばった手の甲をかすめて揺れる。
「……父さんがニーチェを読んだことはなかったけどね」
ゆっくりと息を吐きだす兄の肩に手を置いた。
顔はそっくり。だけど体は違う。
指に感じる筋張って固い肉のかたまり。そして青白い。
やわらかですべやかな、こんがりと日焼けした小麦色のあたしの丸い肩とは違う。父と母から受け継いだ血潮の巡る熱は、きっと同じ。
「父さんにニーチェが理解できるはずがないでしょ? 兄さんじゃないんだから」
兄は両手で顔を覆ってしまった。あまり背丈の変わらない兄の肩に肘でのりあげ、鬱陶しいような前髪を指でつまむ。
「あたしもわからないしね」
「俺も、わからないよ」
骨ばった手の下で、兄の少し高い声がくぐもっている。
兄がニーチェをわからないなんて。そんなはずがない。
だって兄はニーチェを読んでから、徹底的なキリスト教の批判者となったのだ。
さびれた町で、たった一人の神童。それが兄で、父は兄をまるで新しい神のように崇拝していた。兄の否定した神から代わって、兄自身を神と見なすかのように。
そして兄はスカラーシップを獲得して、大学へと進んだ。
ずきりとこめかみが痛む。
前髪をぴんと弾いて、それから兄の細くて長い指をほどいていく。
兄のマリガーネットのような瞳が現れる。いや違う。兄の瞳はサファイアのような、くっきりとした青。あたしと同じ。父と同じ。
小さく首を振って、ぎゅっと目をつむり、それからまぶたを開けると、チカチカと小さな星屑が見えた。
「兄さんの信仰心は、
くちびるを耳元に寄せ、息を吹きかけてからそっと囁くと、兄は目を見開いた。
「覚えてるのか?」
「
目玉をぐるりと回して笑ってみせると、兄の細くて長い手が背中に伸びてきて、きつく抱きしめられた。
兄の栗色の髪が鼻先で揺れ、その向こう側に見えるのはつるんと凹凸のない真っ白な壁。視線を左に揺らすと、小窓のついた扉。
ああ、そうだった。
ここは、あのさびれた町じゃない。
あたしの肌は、もう小麦色ではなく、兄と同じく青白い。
「父さんはいない。いないんだ」
「うん。わかってる。ヤクの売人だった男も、年明けに進学を控えてた吃音症の坊ちゃんも、女性問題で逃げてきた金持ちの元大学教授も。みんな死んじゃった」
兄の背中にひとり、またひとり、と指でノックして彼らを数えていく。兄が身じろぎし、短く鋭く息を吐いた。
「……まるで正気だ」
からかうような調子の声と、寄せられた眉根。哀しみに染まった青い瞳と震える唇は、今にも泣きだしそうな子供の頃の兄の顔。
「あたしの信条は相手に正直でいること。相手を気持ちよくさせてあげること。兄さんも知ってるでしょ?」
「よく知ってるよ」
ぼんやりと兄の微笑みが揺らいでいく。もう眠い。ここまではっきりとした意識は久しぶりだったから、仕方がない。
鼻腔をかすめるのは、幻想のマグノリア。甘く蠱惑的な、白い花の香り。
ああ、この二の腕から香るのか。
「おやすみ。よい夢を」
やわらかく空気に溶けていくような、静かな男の高い声が聞こえた。
「だから、来んなっつったじゃねーか」
アップバングにツーブロックのソフトモヒカンという、ギャングらしい髪型が、今はいくぶんか崩れている。
男が大事にしていたヘヴィメタバンドのTシャツ。別れた時も小さなシーラ・ナ・ギグがたくさんあった。男がタバコで焦がしたところも、きっと。
だけど今は、一つの大きなシーラ・ナ・ギグ。それがぽっかりと、まるで誘うかのように。「ここよ」と。
そしてベッタリと赤黒い、何か。同じものがお腹をおさえる男の指の間からも。ニヒルに吊り上げた口の端からも。
「そのマヌケな車。見つかったらやべーんだって……」
膝から崩れ落ちる男。駆け寄って背中を支えると男は言った。
「かっこつかねぇなあ……。まったくよ」
ふう、と細く震える息を吐きだして、男は血の気の失せた顔で無理やりにニカっと笑った。まっすぐに矯正されていない、黄みがかった歯。ごぽりとわき出る血。
「おまえをさ、この町から出してやりたかったよ」
男の力が抜けていき、ずるりと滑り落ちる。あたしの手にTシャツがひっかかってめくれ、彼岸花とレタリングのタトゥーが、もう動かない、逞しい背中の上で露わになった。
フロントピラーに取りつけられていた盗聴器が、男の手のひらから転がり落ちて、アスファルトの上、ゆっくりと小さな曲線を描いて止まる。
それをぐりぐりと踏み潰すつま先。汚れた焦げ茶色の安全靴。
男の体は、海の底へと沈んでいった。
「あ、ああああああなたは……っ! じ、じ自由にな、なってい、いいいいんですっよ……っ!」
去り際に人参色の髪を振り乱し、真っ赤な目と鼻から水を垂らし、拳を握りしめていた坊ちゃん。
そのマリガーネットの瞳が。その眼球が。ふたつ揃って、とぷんとガラス容器の中で泳いでいる。
ひびわれてかさついた太い指が、容器をつまんで揺らすと、小さな気泡が壁を伝ってのぼっていく。それが鼻先につきつけられ、胃からせりあがってくる苦いもので口の中でいっぱいになる。
ア、アアアアアアナタハ、ジ、ジジユウニナ、ナッテ
あの美しい天使の歌声は、もう聞こえない。
元大学教授が買った豪邸は、もちろんこの町じゃない。
お金持ちがたまに訪れる、休暇用の別荘。森や林があって、川や湖があって、自然に囲まれて、田舎で。高級別荘街というわけじゃない。だけどお金持ちが別荘に求める条件をちゃんと備えた、そんな場所。
もちろんその豪邸にはセキュリティシステムがあった。赤外線モーションセンサーがあって、ショックセンサーがあって、非常用ボタンがあって。
だから足がついた。
あたしの胸に分けられた培養キットは、紳士と一緒に死んだ。
「またのお越しを」
紳士はもう、あたしを待っていない。
父にとって、兄は神だった。
さびれた町で生まれ育ち、十代で結婚した相手はどこかの男と手を取り合って出ていき、残された息子と娘の世話と自動車整備で一日が終わり、父自身は一生ここから出ていくことはない。
泥に塗れて歯を食いしばり、地を這いつくばって過ごす父の一生の中で、兄は何より輝かしい星だった。
兄は言った。
神は死んだ、と。それはニーチェだったけれど、兄の口から出た言葉は、父にとって兄の啓示だった。
神と
父にとって大事なのは、神とは人間が疚しさから生じる良心の、その負い目によって考え出した存在。ただそれだけに過ぎない、ということだった。
だから、神の説く禁忌は、父にとって禁忌ではなくなったのだ。兄がその禁忌を望んでいるというのならば、なおのこと。
従来の神は死に、兄は父の新しい神になった。
長過ぎる毛のカットと、毛流れを整えるだけで済ます眉毛。
「美しい眉の形をしてる。そのままでいいよ。少しだけカットするくらいで」
あとはオークルベースの日焼け止めクリームに、ビビッドなチェリーピンクのグロス。
「あまり塗りたくると綺麗な肌が
アイカラーもチークもマスカラもいらない。
「ヤってる最中、絵の具がドロドロに滴り落ちてる
兄に乞われて、兄のボクサーパンツをつま先にひっかけて、ずり下した。
鎖骨に父のスキットルからバーボンを垂らされ、兄が音を立ててそれをすすった。
兄に連れて行かれて、マグノリアのタトゥーを揃いで彫った。兄は右腕。あたしは左腕。対称的な図柄。ミシシッピ州の州花であるマグノリア。
ミシシッピ州。
アメリカ音楽発祥の地。ジミー・ロジャーズ、エルヴィス・プレスリー、B.B.キング。
広大な田舎。見渡す限りの黄金色の小麦畑。
共和党を支持する住民達。南北戦争で南部連合として参戦した、生粋の南部っこの住まうところ。
低い最低賃金。WASPではない貧困する白人。ホワイトハウス曰く、アメリカの恥部。
敬虔なクリスチャンだらけ。十代の出産率のアメリカ最大値を誇る州の一つ。
兄は決まって、揃いのタトゥーにキスをする。それからあたしにも口づけるよう言って、セックスのスタート。
そこで香り充満していくのは、マグノリアの濃い、甘い匂い。
兄とあたしと。父と母から受け継いだ血潮の。かつて南部バプテスト派であった我が家の。
紳士が言う。
「だから言ったろう? 与えすぎてはいけないんだ。彼は彼で、自らを満たすべきだった」
坊っちゃんが言う。
「あ、ああああ愛情……と、こ、こ幸福を、ば、ばばば培養キ、キット、で。そ、その、さっささ才、が、あ、あああの人に、は、か、欠けていた……ん、で、ですね」
男が言う。
「おまえの奉仕は無駄になっちまったな」
白い蛍光灯に導かれ、ひたひたと薄暗闇を突き進む。無機質で、脅迫的な薬品の匂い。
そして濃くて甘い、マグノリアの匂い。
「そうだね。でもあたしの信条は相手に正直でいること。相手を気持ちよくさせてあげること。兄さんも了解してくれたから」
あたしの前を紳士が。隣を男が。後ろを坊っちゃんが。
それぞれ付き添ってくれている。
「みんな、手伝ってくれてありがとう。大好きだよ」
「どういたしまして」
「ぼ、ぼぼぼぼく……もっ! だ、だだい、好きっ! で、ですっ!」
「おうよ。惚れた女の頼みくらい、叶えてやれなきゃ、男じゃねえよ」
きっと兄は、とても気持ちよかったはずだ。
禁断の愛というものに、ずっと苦しんでいたから。
月は異様に眩しく、水面は凪ぎ、墨黒色の海にはもうひとつの月と波を象る白い光。
かすかな水平線を残して海と同化しそうな空には、紫がかった灰色の雲が流れもせず、そこでじっとしている。
裸足で進んできた砂浜。病室のベッドの上で長く過ごした柔らかな足裏は貝殻やガラスの欠片で傷つき、その傷に細かな砂が入り込む。
波打ち際に足を静かに寄せると、つま先から甲を泡立った波が優しく撫でて、去っていく。
「行こうか」
うっすらと霞む水平線の彼方。
あたしによく似た顔に美しい微笑みを浮かべて、兄が手を差し伸べていた。
ちっぽけな町の神様が消えた 空原海 @violletanuage
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