煙草と酒と硝煙の匂い

九十九

煙草と酒と硝煙の匂い

 少女のヒーローはヤニ臭かった。何時も煙草を咥えていたから。ついでに酒臭かった。毎晩のように酒を飲んでいたから。ちゃらんぽらんなろくでなし、それが少女のヒーローだった。

 少女のヒーローは煙草と酒と硝煙の匂いが染みついた男だった。


 少女が打ち捨てられていたのは狭い廃屋の中だった。誰も寄り付かないようなその場所で少女は眠り続けていた。

 楽しい事なんて無かった。でも悲しい事も無かった。何も感じなかったかと言われれば嘘になるが、それでも喜怒哀楽は薄れていた。

 少女は眠り続けていた。眠っていれば時が過ぎていく。そうすれば夢を見ながら終われる、と少女は思っていた。

 空腹もいつの間にか感じなくなって、ふつり、と何かが途切れたように昔の事も思い出せなくなった。

 終わりまであと少し。終わりが来るその時までの微睡みを甘受する時間。多分そんなに少女に残された時間は多くは無かった。

 そんな時だった、ぎい、と木が軋むような音がして、廃屋の扉が開かれたのは。

 廃屋の中に風がふうわりと舞った。風は煙草と酒と硝煙の匂い、それに僅かに鉄錆びた匂いを少女へと運んだ。どこか懐かしく感じる組み合わせに、少女は身じろいだ。

「生きてんのか」

 降り注いだのは低い声だった。腹の底に響くような低い声が少女のすぐ近くで聞こえた。

 少女は声に誘われるように久方ぶりに目を開けた。久し振りに開いた目は瞼が重たい上に上手く機能してくれなくて、ただ大きいものが目の前に居る、とだけ少女に教えてくれた。

 暫く瞬いていると、ぼんやりと輪郭が浮き出て来たので、少女は目の前の大きなものをじっと見つめた。寝転がる少女の顔を覗き込むようにして身体の大きくて黒い男が立っていた。

「お前、生きたいか」

 問いかけにしては答えに興味が無さそうな声だった。そのくせ、男の目は少女の行動を見逃さないようにじっと少女を見つめていた。

 少女は声を出そうとして、喉を鳴らした。声は出ずに、掠れた空気だけが口から漏れ出る。

「生きたいのか」

 男は独り言ちるように呟くと、少女へと腕を伸ばした。少女は返事をするみたいに大きくゆっくりと瞬いた。

「帰るぞ」

 まるで荷物でも運ぶように軽々と少女を小脇に抱えた男は、少女を伴って帰路に着いた。

 沈む夕日が目に眩しくて、けれども少女は瞬きすらせずにその夕日を見ていた。

 

 その日、少女にはヒーローが出来た。煙草と酒と硝煙の匂いが染みついた、少女の帰る場所が出来たのだ。


「負けた」

 不機嫌そうに呟く男を見て少女は溜め息を吐いた。

 少女のヒーローは博打が好きだった。そのくせ弱かった。お金は依頼でそれなりに貰えていたが、大体を男がスってくるので生活は裕福とは言えない。それでも男が一人で暮らしていた時よりは賭け事を控えているらしいし、少女が暮らすに困らないだけのお金は別で用意されているので、少女は別に困ってはいなかった。

「お前が居ないから負けた」

 どちらかと言うと、お金が無いよりも負けた後に絡んでくる方が少女は困っていた。口をへの字にして少女の頬を永遠に突いてくるし、足で少女を巻き込んでは永遠に目が回るほど頭をぐりぐりと撫でまわされるので。

 少女は賭け事が強かった。強いと言うより、勘が良かった。何となくこの馬が来る、と少女が言った馬は大体来た。

 だから、男は博打に少女を連れ出すのが好きだった。少女が留守番を申し出ると男の方が駄々を捏ねるくらいだった。

「今日は家事が溜まってたから」

 未だに引っ付いて来る男を宥めながら、少女は手元の洗濯物を畳んだ。男から誘われて、三回に一回か五回に一回くらいは少女は留守番を申し出る。何せ男が家事をろくすっぽしないので溜まるのである。

 少女だって男が喜ぶのであれば何時だって付いて行ったって良いが、家の中が乱雑なままなのは頂けない。何故なら真夜中疲れて帰って来た男が布団まで辿り付けずに床に転がる事になるので。

 少女が家に来て直ぐの頃は、乱雑に掻き分けられた部屋の中、少女が布団で寝て、男はその辺に沈んでいた。何度か掻き分けたものが雪崩れて、寝ている男を埋めたことがあるので、少女は家事だけはしっかりしてあげようと心に決めている。

 少女は未だに絡まる男に溜め息を吐きながら、最後の一枚の洗濯物を畳んだ。


 流れ出る赤色をぼんやり見つめていると、不意に少女の視界が塞がれた。少女の周りには煙草と酒と硝煙の匂いが立ち込める。それだけで誰が視界を塞いだのか分かって、少女は笑う。

 男は依頼には三回に一回くらい少女を置いていく。それは危ないからと言うよりは少女に血の匂いが移ると臭いからと言う至極単純な理由だ。それでも三分の二は連れ出してくれるのは、少女がそれを強請るからであるし、家に置いといた方が危険と成り得るからでもある。

「終わった?」

「終わった」

 尋ねる少女に、男は無愛想に頷く。何時もより硝煙の匂いを濃くしたヒーローに少女は鼻を寄せる。

 大きく息を吸うと、硝煙の匂いに混ざって鉄錆びた匂いがした。何時もの煙草と酒と硝煙の匂いだけでは無い、依頼終わりだけに香る鉄錆びた匂いは、案外少女は嫌いではない。まだ少女が眠り続けていた頃、男が帰って来る度に同じ匂いをさせていたからだ。

「臭いから止めとけ」

 少女が息を吸うたびに、男は呆れたようにそう言った。けれど無理に止められはしないから、少女は遠慮なく息を吸い込む。

「安心する匂いだと思うけどな」

「お前だけだろ」

 呟く少女にやはり男は呆れた様子で、けれども少女を引っぺがしたりもせずに好きにさせている。

 暫くそうして少女の好きにさせていた男だったが、背後から物音を感じたと同時に振り返りもせず、後ろへと足を蹴り上げた。

 鈍い音と何かが折れた音がして、次いで何か固いものが地面に落ちた音がした。少女が男の手の中で瞬いた。

 男が地面に落ちた物体を後ろ脚に思いっきり蹴り上げると、離れた所にその落ちた物体は飛んでいった。

「何時までも出て来ないから隙を見せてやりゃ、随分とあっさり引っ掛かるもんだな」

 意地の悪い顔で男が笑うので、少女は溜め息を吐く。

 たまにこうして男は相手を引っ掛ける事がある。大体が引っ掛かるが、稀に用心深いのにしっぺ返しを食らうので、少女は揶揄うのは止めた方が良いと言っているのだが聞く耳を持たない。聞く耳を持たないと言うか、なかなかスタイルを変えられないのだ。しっぺ返しも男の前ではたかが知れているので、本当にお遊びみたいになっている。

「撃たれてたら危ないよ」

「持ってないから悠長にしてたんだよ。気配でわかる」

 口だけ言っては見たが、まあそうだろうな、とも思う。依頼中は自由なように見えて隙が無い男の事だ。家に辿り着くまでは何があったって常に気配に気を配っているから、下手にへまを踏むなんて事も無いのだろう。

 それでも少女が要らぬ心配をしてしまうのは、ひとえに己のヒーローが大事だからだ。大丈夫だと言う信頼も勿論あるが、やっぱり少しだけ心配してしまう。例えば留守番して何時までも帰らぬ男を待っている時なんかに。男もそんな少女の心情を知っているからか、何も言わないし、少女の心配を煙たがることも無い。

「帰るか」

 ぽつりと男が呟くと、少女はそれに頷いて男の手を握った。すると男は少女を持ち上げ小脇に抱える。

「歩けるんだけどな」

「この方が早い」

 何時かみたいに男は少女を小脇に抱えたまま帰路に着いた。


 少女のヒーローはヤニ臭かった。何時も煙草を咥えていたから。

 この間はそれで買ったばかりのズボンに穴を空けた。綺麗に丸く穴を空けたズボンを、穴が小さいからと言う理由で男は履き続けている。少女からしたら、穴が大きくなっても履き続ける癖に、と思う。

 少女のヒーローは酒臭かった。毎晩のように酒を飲んでいたから。

 外食に馴染みのバーに行った時なんかは酔った勢いで夜のお姉さんをナンパして、博打好きはごめんだ、とお姉さんに見事に振られていた。傍らに座っていた少女は、お姉さんに、あんなろくでなしになっちゃ駄目よ、柔らかく微笑みながら言われたので、素直に頷いた。

 少女のヒーローは硝煙の匂いと僅かに鉄錆びた匂いがした。それが男の生きている世界で必要な物だったから。

 でも、依頼で得た報酬は今日も博打でスりかけて、少女のお陰でとんとんになった。とんとんだったからと最後に賭けに行こうとする男に、少女はこれが来る気がすると己の勘に従って指差した。全額突っ込んで気持ち良く勝った上機嫌の男に、少女は笑った。

 ちゃらんぽらんなろくでなし、それが少女のヒーローだった。きっとどうしようもない世界で生きて、どうしようもない世界で死んで行く。けれど最後には笑って死ぬような、煙草と酒と硝煙と時々鉄錆びた匂いが染みついた男はそんなヒーローなのだ。

 

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