第36話:修羅場⑤
「なに、え? あえ? お? ……え?」
玄関の扉を開けた紗は言葉にならない声を発して固まっている。
それを見て、俺もタオル姿一枚の市川さんも同じく固まってしまった。
「ッ!!」
そして市川さんは、ほんの数秒で我に返り、俺の手からそれを奪取すると慌てて洗面台へと引っ込んだ。
「す、紗……これはそういうんじゃなくて……」
「ひっ!?」
俺が紗を刺激しない様にゆっくりと小さな悲鳴を上げて、鼻血を出してその場に昏倒してしまった。
「……どうすんの、これ」
◆
「ど、ど、どういうことよ!! そういうこと!? そういうことなの!? こ、コウノトリなの!?」
意識を失ってものの数分で目覚めた紗は、目覚めたリビングで開口一番に叫んだ。
錯乱しているせいか、若干意味のわからないことを口走っている。
この場には介抱した俺、そしてしっかりとパジャマに着替えた市川さんがいた。
サテン生地のパジャマを着た市川さんの色っぽさに言葉を失ったのは言うまでもない。
そのせいでちょっとの間、紗を玄関で放置してしまった。
「落ち着きなさい。あなたは急に人の家に入り込んで叫んで倒れるのが趣味なのかしら」
「はぁ!? んなわけないでしょ!! ……てあれ? なんであんたがここに……?」
声をかけた市川さんを見て、紗はようやく落ち着きを取り戻した。
どうやら気を失った前後の記憶が曖昧らしい。俺に取っては願ったり叶ったりだ。
それほどまで男女が裸でいる光景がショッキングだったんだろうか。
……いかん。思い出したらまた顔が熱くなってきた。
そもそも俺は裸じゃなかったし。あれは事故だ、事故。
「そ、そうよ!! 思い出した! アンタが洋太の家に入ってくのが見えたから来たんだった!!」
「あなた、まさかあの後から私をストーキングしていたの? 流石の私でもドン引きなのだけれど」
「引くな!! 違うわ。偶然! 偶然、見かけただけなんだから!!」
あの後ってことはここにくる前に会ってたのか?
なんでまた?
「ふん! さっきアイツから助けてやったのになんなのよ、その態度は!!」
「別に助けてなんて言ってないけれど。あれはあなたが勝手に怒っただけでしょう? それを恩着せがましく言うなんて恥ずかしくないのかしら」
「ムカつく〜〜!!!!」
紗は、市川さんに言い負かされて悔しそうに顔を真っ赤にする。
やっぱ紗ってなんかアホだよな。自分で頭良いって言ってたけど。
それにアイツって誰だろうか……気になる……。
だけどそろそろ両者がヒートアップしてきた。
俺も目の前で繰り広げられる言い合いをただ黙って見ているわけにはいかない。ここは、俺が止めないと!
「ちょっと二人とも落ち着いて!」
「私は落ち着いているわ。小宮くん」
「そうよ、アンタは黙ってなさい」
あれ……全然止まる気配ない。
俺が口を挟むも虚しく二人は、お互いを睨み合っている。
この二人、やっぱり相性最悪だな……。
というか、前もこんなことがあった様な気がする。
「この際だからハッキリ言っておくわ」
「ええ、何かあるなら遠慮なく、言って頂戴。その方が私からも言いやすいというものだわ」
「いい度胸ね! じゃあ、言ってあげる。私はね、アンタが気に入らないのよ!!」
「奇遇ね。私もそう思っていたところだわ」
「きぃーーっ、その余裕な態度もムカつくのよ!!」
「あなたは、少しは余裕を持ったらどうかしら。昨日から騒がしいだけよ? 今日だってそんなだから転けたんじゃないのかしら」
「い、言ったわね!?」
あー、ダメだ。これどうしよ。テレビでも見ておこうかな。
この場から離脱したい。行けるか?
そろり、そろり……。
「大体ねぇ!! なんで洋太の家にアンタがいるのよ!」
「あら、そんなの決まってるじゃない」
「あ、え、市川さん!」
市川さんはその場から逃げようとする俺に腕を絡めた。
唐突に引っ張られて、フィールドに強制召喚される。
「そんなの……」
え? ちょ、まさか……?
「私と小宮くんが恋人だからに決まってるでしょう」
「なっ!?」
「ええ!?」
い、言っちゃった!?
「や、や、やっぱりそうだったのね!! そんなことだろうと思ったわ!!!」
「そう。だから恋人同士である私と小宮くんが一緒にいても別に不自然なことなんて何にもないわ。そもそも無関係なあなたがなんでここにいるのかもよくわからないの。さっさと帰ってくれる?」
「…………っ、ぁ……」
紗は、何かを言いたそうにしてこちらを睨んでくる。
どうしろと?
そもそも紗には彼女がいることは伝えてあるし、そこに文句を言われる筋合いはない。
ここで市川さんがバラすなんていうのは意外なことだったけど、いつかはバレてしまうのだ。良い機会だったかもしれない。
「くっ……へ、へぇ。で、でも恋人って言う割には? 苗字で呼び合ってるのね」
「……何がいいたいのかしら」
「別にー? ただ、私と洋太は名前で呼び合っているけど、彼女とは苗字なんだと思っただけ」
「す、紗……ま、っ……!!!!」
腕を絡めていた市川さんの首がまるでホラーに出てくる日本人形の様な動きでこちらを向いた。
そして墓穴を掘った。
紗に待てをかけようとして自分で紗を呼び捨てで呼んでしまった。
「へぇ……呼び捨て」
冷や汗をじわじわと掻き始める。横からの圧力にそちらを向くことができない……!
「それじゃあ、なんであなたは小宮くんのことを呼び捨てにしているのかしら。どういう関係?」
言うな! 頼む、言わないでくれ!!!
「そんなの」
何得意げな顔になってんだ、こら!! やめてっ!!!
「婚約者に決まってるじゃない!!」
「…………っ!!」
「…………」
逃げたい。逃げたいよぉ。本当は今日言おうと思ってたんだ。
本当なんだ。紗のことと……遠野さんのこと。
黙ってるまま付き合っていたくないと思ったから言おうと思ってたんだ。
やっぱり、タイミングってあるじゃん?
でも今じゃないんだよぉ。
「アンタが恋人関係で浮かれてるのか知らないけど、私は婚約者よ!! どう? 悔しい? 悔しいでしょ? ねぇ?」
「…………」
おい、煽んな!! ど、どうなるか分からないから、煽らないで!!
って、そんなこと考えてる場合じゃない!!
「小宮くん」
「は、はい……」
「説明して」
端的に必要最低限な口数でしか話さないのが怖いです。
「ち、違うんだ。市川さん。婚約者じゃない!! 正確には婚約させられそうになっただけで赤の他人だから!!」
「ふん、私は欲しいものは力尽くでも手に入れるわ。だからアンタは婚約者よ」
「うるせぇ、お前は黙ってろ! だいたいお前、言ったよな? 惚れなかったら潔く諦めるって!! 惚れてないから諦めろ!!」
「これから惚れさせるのよ」
「今までどこにお前に惚れる要素があったよ!?」
「とりあえず。二人とも静かにしてくれるかしら」
「は、はい」
「ふん」
市川さんによって強制的に黙らされた。有無も言わせない圧に紗もなぜか従った。
「ふふ、これがあなたの隠し玉ってわけね」
「……!」
でも意外にも市川さんは取り乱すことはなく、冷静に紗に笑いかけた。
紗も市川さんが悔しがらなかったことに顔を歪ませる。
「ずいぶん余裕じゃない。恋人と婚約者だったら婚約者の方が上だけど?」
「上も下もないわ。どうせ、そんな形だけの関係に意味はないもの」
お、おお! 言ってくれた。市川さん、俺のこともしっかり信じてくれたんだ!!
ありがとう、神様!!
「安心している様だけど、小宮くん」
「は、はい!」
「分かっているのでしょうね?」
やっぱり見逃してくれなかった。
「な、何がでしょうか……?」
「今夜は寝かせないわ」
「それ違う意味に聞こえるんですけど……」
「さぁ? それはどちらか楽しみね」
「……」
Sっ気しか感じないよ、市川さん。
「諦めないってわけ? こっちは婚約者よ?」
「残念ね、その程度のこと想定済みだわ。そんなことで私が諦めると思ったら大間違いよ」
想定済って……それホント?
「ふーん。でもそうでなくっちゃ面白くないわ」
こっちは全然面白くないんですけど。
「いいわ。そっちがその気なら」
「ええ」
「アンタから洋太を奪ってあげるわ!」
そう紗は、市川さんに向かって高らかに宣言した。
「望むところ。できるならやってみなさい」
そして市川さんも真正面からそれを受け止めた。
俺を取り合う図。なんでこんなことに……?
「じゃ、じゃあ、まず手始めに」
「……?」
そして宣言をした紗は市川さんから視線を逸らし、俺を見た。そのまま真っ直ぐに俺の方へと向かって──
「え、な、っ!?」
「!?」
俺の頬に柔らかい感触がした。
「へ、こ、こ、これで私のリードね!!! じゃじゃじゃ、帰る!!!」
流石の紗も恥ずかしかったのか、そのまま逃げる様に顔を真っ赤にして出て行ってしまった。
俺も市川さんも固まったままだった。
「い、市川さん……今のはし、仕方なく……不意打ちで……」
「唇に触れていたら、あのメスをその場で処分していたかもしれないわ」
怖い。
「市川さん……い、痛いんだけど……」
市川さんは、俺の瞳を真っ直ぐして、先ほど紗が触れた場所を自分のパジャマの袖で何度も擦る。
俺が痛いと言ってもやめてくれない。
ほっぺたなくなっちゃいそう……。
「ふふ……やっぱり今日は寝かせないわ」
そして市川さんはもう一度、俺の目をまっすぐ見て先ほどと同じセリフを言った。
「……それはどっちの意味で?」
「内緒」
……寝不足にならなきゃ良いけど。
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