マンサニージャ

深川夏眠

Manzanilla


 部下や見習いの弟子たちが帰った終業後、研究室に一人残って物思いに耽っていた。開け放った窓から夜風に乗って月明りと共にカロライナジャスミンの芳香が忍び寄る。猛毒を秘めた甘い香りだ。

 だが、忙しないノックの音が感傷を打ち砕いた。

「先生、まだいらっしゃったんですか。どうなさったんです、明かりも点けずに」

 アメリオが照明のスイッチに触れながら声をかけてきた。

「……うん。忘れ物かい?」

「ええ。それで……戻ってきて気づいたんですが……」

 彼はおずおずと封筒を机に差し伸べた。明日の第一便で発送してもらうはずの封書だった。

「デシデリオ先生の字ですよね。でも、リターンアドレスはデタラメな住所で、名前は別人。どういうことですか?」

 詰問口調ではなかった。アルコールの力が持ち前の好奇心を刺激したのだろう。私はピッチャーの水をグラスに注いで勧めた。彼は立ったまま勢いよく飲みした。

「前から気になってたんです。そこの……とても古い顕微鏡を手入れして、大事にしてらっしゃいますね。それと関係あることなのか、と」

「ふむ。酔い覚ましに、耳を貸してくれるかい」

 私は彼を椅子に掛けさせた。

「貧しかった子供の頃、つかず離れず、さりげなく世話を焼いてくれる兄貴分がいた。名前はボニファシオとしておこう。喧嘩っぱやくて無学、粗暴。気に入らない相手には青筋を立てて食って掛かり、言葉に詰まれば拳を繰り出す、村の嫌われ者。しかし、私には親切だった。彼が幼かった頃、私の祖父が何くれとなく面倒を見ていたので、恩に報いようとしたのだろう。私が喉から手が出るほど欲しがっていた顕微鏡をプレゼントしてくれたときは感激したよ。それから、彼には草花をでる意外な一面もあった」

 私は一旦、席を立ってお茶を淹れた。グラスマグにマンサニージャをなみなみと。

「蜂蜜は?」

「あ、はい」

 彼の前にハニーディスペンサーを置き、デスクチェアに戻って話を続けた。

「父は懸命に金を貯めて、私を町のいい学校へ送ろうとした。けれど、畑や家畜の問題でげんしゃと揉めた。仮にオダリスとでも呼んでおくか。オダリスは法に触れないギリギリの手段で父を追い詰め、苦しめた。見かねたボニファシオが、ある晩、オダリスの屋敷に乗り込んで……」

「……こ、殺したんですか……?」

 私は小さくかぶりを振った。

「荒くれ者にしては少々手の込んだやり方だった。気の利いた――と言っては語弊があるがね。寝つきをよくするため、就寝前にハーブティを飲む習慣がオダリスにはあった。マンサニージャをメインとするブレンド茶を。ボニファシオは、そこに自ら丹精した花を混入したんだよ。ほら、外から香りが入ってくるだろう、カロライナジャスミンさ」

「えっ、まさか――!」

 アメリオは椅子から飛び上がってあと退ずさりした。一気に酔いが醒めたと見える。私はつい、笑ってしまった。

「落ち着きなさい。これはマンサニージャだよ」

 恐々こわごわ座り直したが、もうお茶を飲む気は失せた模様。

「知ってのとおり、カロライナジャスミンは可愛い見かけによらず強烈な有毒植物だ。ボニファシオはそいつでオダリスを毒殺する心算だったが、たまたま用があって顔を出した長男のコルデーロが代わりに呷って事切れた。猛毒のナイトキャップティーをね」

「……」

「ボニファシオは拙い字で書き付けを寄越し、オダリス邸を飛び出したその足で遁走した。以後、行方知れず。自殺なんぞするじゃあるまい。生きていれば……さて、いくつになったかね? 今もどこかで誰かのためにアンチヒーローを演じているのじゃなかろうか」

 アメリオは薄れゆく湯気を漫然と目で追っていた。

「憐れなのは愛する夫の帰りを待ちながら未亡人となったパトリシア。子供を抱えてね。そこで私が僭越ながら、せめてもの罪滅ぼしに、些少ではあるけれど、こっそり偽名で援助し続けている次第さ」

 アメリオはフーッと大きく溜め息をつき、疲れ切った様子でうなじを背凭れに預け、天井を見上げた。




              Manzanilla【el fin】




*2022年3月 書き下ろし。

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の』にて

 無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

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マンサニージャ 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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