あたしだけのヒーロー ~イケメンな彼女 Another Story~

和辻義一

あたしだけのヒーロー ~イケメンな彼女 Another Story~

 あたしにとってのヒーローは、二つ年上の従兄弟だった。父さんのお姉さんの子供で、二人兄弟の弟の方。あたしはいつも「一兄いちにい」と呼んでいる。


 お兄さんの方の翔兄しょうにいは、いわゆるスーパーマンみたいな人だ。子供の頃から背が高くてハンサムで、頭が良くてスポーツも万能。おまけに誰に対しても優しいし、もう誰が見たって文句なしの優等生だった。


 ただ、それが故に子供の頃から、気安く近寄りがたいところが少しあったりもして――別に怖いとか嫌だとか、そういったことは全然なかったんだけれどもね。


 それに比べると一兄は、口は悪いしがさつだし、女の子に対するデリカシーなんて欠片もないような、文字通りの腕白小僧だった。見た目はまあ、そこそこ悪くはなかったけれども、何より自分の身長の低さをすごく気にしていて、翔兄からはこっそり「あいつの前では、身長の話は絶対にしちゃダメだよ」って言われていた。


 とはいえ、実は一兄も、翔兄と同じぐらいには優しかった。ただ、翔兄みたいな穏やかな感じじゃなくって、いつもぶっきらぼうな態度だったから、最初はそれが一兄なりの優しさだったってことがあたしには分からなかった。


 それでも、たまにしか会わない一兄はあたしのことを、何だか少し面倒くさそうな顔をしながらも、良く面倒を見てくれていたと思う。あたしも一兄と一緒にいると、日頃は見ることも聞くこともないような出来事がいっぱいあったから、それが何だか面白くって、一兄の後ろをよく追いかけていた。


 ちなみに、一兄の無鉄砲ぶりってのは、それはもう凄かった。小学校一年生ぐらいの頃から、あたしの家の庭の木によじ登って、家の二階ぐらいの高さから飛び降りるなんてのは日常茶飯事のレベルで、あたしが一兄の家へ遊びに行った時などには、たまたま出会った同じ小学校の上級生達から「チビ」ってからかわれて、二つ三つ年上の男の子達を相手にたった一人で取っ組み合いの喧嘩をしたり。勝ち目があるとかないとか、そういったことは一兄の頭の中には全然なくって、そりゃあもう無茶苦茶だった。


 でも、今までで一番の無茶だと思ったのは、あたしが近所の家から逃げ出した大きな犬に襲われた時だった。


 それは、一兄が父さんからもらったお小遣いであたしに「何か好きなものを買ってやる」って言ってくれて、家から少し離れた場所にあった駄菓子屋さんへ行った帰り道でのことだった。


 家までの近道ってことで、とある公園の中を通り抜けようとしたら、反対側から首輪のない大きな犬――確か秋田犬で、その時の一兄よりも少し大きいぐらいだったと思う――が、唸り声を上げながらゆっくりと近寄ってきたのだ。


 その場にはあたし達二人以外に誰もいなくって、逃げ出そうにもその犬の方が足が速いのは分かりきっていて。まだ小学校四年生だったあたしは、どうしていいのか分からず、今にも泣きだしそうだった。


 そんな時、一兄がすっ、とあたしの前に立ちはだかって、その犬に向かって両のこぶしを構えて言った。


「お前、俺がチビだからってバカにしてやがるな?」


 犬の方はというと、あたし達のすぐ目の前でずっと唸り声を上げていて、時々野太い声でワンワンと吠えていた。


 今になって思えば、確かに犬だって自分よりも大きくて強い者には喧嘩を売らないだろうとは思うけれども、それにしたって一兄の言うことには何の根拠も無かった。


 危ないから逃げようってあたしが言うと、一兄はあたしに背を向けたままで言った。


「こっちにゃ女の子おまえがいるんだ、背を向けて逃げるなんて真似はできねーよ」


 それから一兄は、犬に負けないぐらいの迫力で低く唸った。


「それに、俺の先生は『浪速なにわの虎』だ。たかが犬っころ一匹に負けてられっかよ」


 そこから先は、本当にもう無茶苦茶だった。いくら一兄が空手を習っているからって、普通に考えたらその犬に勝てるはずがない。例えここに父さんがいてくれたとしても、その犬をどうこうできたかどうかは分からないぐらいだったのに。


 でも、一兄はその犬と、文字通り取っ組み合いの喧嘩をした。犬が嚙みついてくるのをかわしながら、そして時々は手や足に噛みつかれながらも、一兄はその犬を殴ったり蹴ったりしていた。


 あたしはもうどうしていいのか分からなくって、ただひたすらにわんわんと泣き続けていた。手や足が血まみれになっていく一兄を見ながら、このままだと一兄が死んじゃうと思った。


 それでも、最終的には一兄の執念が犬にった。たまたま一兄の爪先つまさきが、その犬の下あごを真下から蹴り上げ、犬がひるんだところを一兄が血まみれの拳でぼっこぼこに殴りつけた。そこで犬も一兄には勝てないと思ったのか、最後にはキャンキャンと鳴きながらその場を逃げ去っていった。


「……よう、大丈夫か?」


 あっちこっち擦り傷だらけで、犬に噛まれたところからは幾筋いくすじもの血を流しながらもニヤリと笑った一兄を見て、あたしは思わずほっとして、さらに大きな泣き声を上げた。遠くの方では、その犬の飼い主らしいおじさんが、逃げていった犬とあたし達の方を交互に見ながら、何やら険しい顔つきをしていた。


 そこから先のことは、実はあんまり思い出したくない。その犬の飼い主が、一兄が自分の飼い犬をいじめたものだと思い込んで、まだ出血も止まらない一兄を引きずるようにしながらあたしの家へと怒鳴り込んできて、「まずは怪我をした子供の手当てが先でしょうが!」とブチ切れた父さんと言い合いになり、一兄は一兄で叔母さんから「全くこの子ったら、無茶をするもんじゃないよ!」などと𠮟られながらも、慌てて救急車で病院まで運ばれて。あたし達二人にとっては、まさに踏んだり蹴ったりな結果だったからだ。


 でも、一兄の怪我の手当てが一通り済んで、犬の飼い主も父さんが「警察に訴える」って言った途端に手のひらを返したかのように下手したてに出始めて、ようやく話がひと段落ついた頃に、一兄が白い歯を見せてにっ、と笑った。


「まあ、葵唯あおいちゃんが無事だったんだから、とりあえず良かったじゃねぇか」


 その時に、あたしは心底思った。一兄は腕っぷしも強くて優しいけれど、あんまりにも危なっかしすぎて、ちょっと目を離したらどこでどんな目に合ってくるか分かったもんじゃない。それに一兄は翔兄と違って、絶対に女の子にモテるタイプじゃない。


 だからあたしは一兄に言ってやった。一兄みたいな人は一人で放っておけないから、あたしがお婿さんで貰って面倒を見てあげる、って。


 そしたら一兄、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたけれども、やがて再び白い歯を見せて笑った。


「葵唯ちゃんなら、まあいっか……そんじゃまあ、よろしく頼むわ」


 自分でも、何でそんなことを言ってしまったのかは分からなかった。あの頃のあたしは、あっちこっち包帯だらけ傷だらけの一兄が、ずっと怪我を負ったまま生きていかなければならないんじゃないかって思っていた。だから、せめて自分がこれからの一兄のお世話をしてあげないと、って真剣に考えていた。


 それに、その――あたしの前で大見得を切って、文字通り身体を張ってあたしのことを守ってくれた一兄が、ものすごく格好良く見えた。当時は友達から「男女おとこおんな」ってからかわれることがあったあたしは、他の男の子のことを好きになるようなことなんてほとんどなかったんだけれども、実はあの時からあたしは一兄――あたしだけのヒーローに、心底惚れていた。


 でも、それ以来あたしが一兄と会う機会は、少しずつ減っていった。


 元々父さんがボートレーサーなどという仕事に就いていて、しかもそこそこ有名な選手でもあったから、だんだんと父さんが忙しくなっていくにつれて、叔母さんとの交流の機会が減っていった。それはイコール、一兄と会う機会も減っていくことにもなって――最後に一兄と会ったのは、確かあたしが中学校二年生で、一兄が高校一年生の時の冬休みだったっけ。


 その時でも、一兄は相変わらず背丈は低かったけれども、身体つきはしっかりとしてきて声変わりもして、凄く男らしくなっていた。顔立ちも幼さが抜けて、だんだんと精悍せいかんさが増してきて――あたしは一兄よりもほんの少しだけ高くなってしまった背丈と、母さんは「それなり」なのになかなか成長してくれない自らの胸に心を痛めつつも、早く大きくなって、自由に一兄と会えるようになれればいいなって思っていた。


 そして今日、大学一年生になった一兄が、久しぶりにうちへ来ると言う。何でも、父さんがコレクションの一つとして今まで大事にしてきたバイクを一台、一兄に譲るらしい。


 うちの父さんは車もバイクも大好きで、家のガレージに車やバイクを何台も持っていたが、母さんに言わせれば「身体は一つなのに、そんなにたくさん車やバイクを持ってどうするの?」といった感じらしく、お金も置き場所も馬鹿にならないから、もう乗ることがなくなったバイクは少しずつ処分しろと父さんに言ったのだ。


 で、考えに考え抜いた父さんは、せめて身内にそのバイクを引き取ってもらおうと考えたらしいのだが――。


 家のインターホンが鳴った時、あたしの胸はときめいた。久しぶりに会う一兄は、はてさてどんな風に成長しているのだろうか?


「はー……い?」


 だが、インターホンのモニターに映し出された光景を見て、あたしの声は思わず裏返った――いやいやいや、ちょっと待って。一兄の隣に、もんのすっごい美人の女の人がいる。


 何よそれ、あたしそんなの聞いてない。


『ちわっす、葵唯ちゃん。俺だよ、俺』


 背丈はそれほど伸びていないものの、かなり大人っぽくなった一兄がカメラ越しに、陽気に手を振っていた。全くこの男は――こっちの気も知らないで、一体何を考えているのか。


 あたしはしばしの沈黙の後、静かに言った。


「あの、どちら様でしょうか?」


 いやホント、あたし「だけ」のヒーローは、一体どこへ行ってしまったのだろう――。

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