老婆と犬とその明日

あきのななぐさ

あの日、あの時、その場所で。

 父が死んでからもう一年。


 その間、ごくたまに電話するだけとなっていたのは、たぶん避けていたのだと思う。もちろん、仕事で忙しかったというのもある。だが、電話で話す母の声が、次第に生気を感じさせないものに変化していると気づいた時から、その電話すら何かと都合をつけて先延ばしにしていた。


 だから、妻からその話題を振られても、話半分に聞いていた。いや、実は全く聞いていなかったのではないかとも思う。それほどに、目の前の出来事が信じられなかった。


「あれ!? あっ、あそこだよ! おばあちゃーん!」


 その姿を見つけて車を降り、そのまま駆け出す娘よりも、私はその光景を先に見ていたのだと思う。だが、見たものをそう認識する事が出来ずにいたから、私はその場で車を止めていた。実家からはそう遠くない、昔よく遊んだ公園の前で。

 

 確か、最後に実家に行ったのは、もう半年以上も前の事。近くに出張にいった帰りに、妻から『母の様子を見て来て』と言われて行った時。それが境だったとおもう。その時から、私は母と話すことを極端に避けていた。


 車を降り、ゆっくりと娘のあとを追う。そこにたどり着くまでの道すがら、頭の中でこれまでの事を整理するために。


 父が死んでから、最初は気丈に振舞っていた母も、次第にその気力が落ちていったのだろう。家から一歩も出ず、日がな一日ぼんやりと過ごしているということだった。近くに住んでいる兄貴が面倒を見ているから、その生活面は心配していない。だから、余計に足が遠のいていったのだと思う。


 あの時見た母の姿は、本当にショックだった。


 だが、目の前の光景はどうだ? あんな状態だった母が、近いとはいえこの公園まで歩いて出てきている。


「お父さん! 早く! 早く! この子、かわいい!」

「あら、あら、孫に可愛いって言われてるわね。太郎も照れちゃって、まぁ、ふふふ」


 公園のベンチに座っているのは確かに母。その母と娘の間に座っているのは、柴犬のような感じの犬。見覚えのないその犬は、どこにでもいるような犬だが、どこかそうでない気もしていた。


 母の話から、その名前は太郎。毛並みはよく、まだ若い。しかし、どこかふてぶてしさを感じてしまう。おそらく、寝そべっているというよりも、母に膝枕をさせているようにも見えるから、そう感じてしまうのかもしれない。いや、娘には、尻尾で適当に相手をしているという感じだから、たぶんそうに違いない。


 若干太り気味のその体は、華奢な母には重く感じられることだろう。だが、そんなことを微塵も感じさせない母がいた。


「かあさん……」


 なんと言っていいのかわからず、私はその場で暫く立ち尽くす。だが、黙っていた母が何か言おうとした時、その柴犬が一言そのままの姿勢で吠えて、私を睨みつけていた。


「あら、あら、義信。ちがうでしょ? 帰ってきて来た時の挨拶は?」


 父が死んでから見たことのない笑顔の母に、私はとても面食らった。だが、その下で睨みつけている無言の圧力は、とても強いものだった。


「ただいま、かあさん。しばらく連絡しなくて、ごめん」

「おかえり。いいんですよ。あなたも忙しいから。でも、体には気を付けてる? 無理はしないでね? あなたは、ほんと、無理するから」


 優しく柴犬の背をなでながら、母は、いつもの調子で私を気遣う。その懐かしさにあてられて、つい目頭が熱くなった。


「聞いてよ、おばあちゃん! お父さん、仕事ばっかりなんだよ! どこにも連れてってくれないし!」


 抗議する娘の頭をなでたあと、母はまた柴犬の背をなでながら、柴犬に向けて話しかけたあと、私に顔を向けていた。


「やっぱり、血は争えないのかしらね? あなたもそうだったでしょ? 義信」


 娘の訴えに呼応するかのように、無言の圧力を放っていた柴犬は、母の言葉を聞いた瞬間、まるでばつの悪いことを言われたかのように、顔を母の膝枕に沈めていた。


「わかってると思うけど。美代と晴信、明美さんとの時間は大事なの。あなたが思っている以上にね。失ってから気が付いても、その時は戻ってこないのよ?」


 その哀しそうな顔と言葉に、身につまされる思いになる。ただ、そのあとの母の顔は、それまで見たことが無い顔だった。


「でも、大丈夫。それでも、やり直すことはできるから。だから、大丈夫。大丈夫」

「そうなの? おばあちゃん?」

「そうよ。だから、美代もお父さんに遠慮なく甘えなさい。あなたのお父さんは、甘えるのが下手だからね。美代と晴信が教えてあげないと」


 一般的に、祖父母は孫には甘くなる。だが、父も母も、それほど厳しい人ではなく、どちらかと言えば、私は甘やかされていたと思う。その母に甘えるのが下手と言われるのもどうかと思うが、その下で見つめる同意を込めた瞳で見られると、何故かそうなのかと思ってしまった。


「じゃあ、おばあちゃんもそうだったの?」

「さあ? どうかしら?」

「んー、でも、太郎には甘そう!」


 娘の言葉に同意するかのように、柴犬の太郎は一言軽く吠えていた。


「あら、あら、ほんと、孫には甘いわね」


 笑顔の花に囲まれて、すねたように顔をしずめる柴犬。だが、次の瞬間。いきなり体を起こして母の膝から飛び降りると、そのままベンチの前で仁王立ちになっていた。


「わぁ、見て、お父さん。大きな犬。でも、ちょっとこわそう。こっち来ないよね?」

「あの子はちょっと乱暴でね。太郎はいつも、あの子が来ると、こうなるの」

「へぇ、おばあちゃんを守ってるんだね。かっこいい。ヒーローみたい」

「ふふっ、あの子と喧嘩すると負けると思うけど。私にとっては、私だけのヒーローですよ」

「みて! 太郎の尻尾! すっごい、よろこんでる!」

「あら、凛々しい姿も台無しね」


 母と娘のその言葉に、振り返って一言吠えた柴犬。それは抗議のようにも聞こえ、不思議と懐かしい気持ちになった。ただ、大型犬が去った後は、その役目を終えたと考えたのだろう。そのまま母のそばに来ると、何かを訴えかけるように、じっと母の顔を見つめていた。


「はい、はい。義信、美代を連れて先に家にいってなさい。私たちは、ゆっくりとかえりますから」


 そう言って、腰を上げた母の隣に、しっかりと寄り添う柴犬。その頭に、母は古びた帽子をかぶせていた。


「それって……」

「ふふっ、面白いでしょ? 太郎はこの帽子を気に入っちゃってね。お散歩のときにはかぶせろって、うるさいのよ。落としちゃうのにね」

「でも、なんだか様になってるね。おじいちゃんのでしょ? それ」


 その言葉に、一瞬息をのむ。だが、母は何事もなかったかのように答え、柴犬は『それがどうした』という感じで、娘に一言吠えていた。


〈了〉






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