第18話 三種のカレーと三種の信仰


 午餐ひるは、朝に続いて中華。お目当ては屋台のナシ・エコノミだ。漢字にすると、経済飯。

 皿に白米を盛ったら、御菜おかずのカウンターへ。川魚の素揚げ、肉炒め、骨付き鶏の唐揚げ、茹で玉子、小海老のフライ、烏賊イカの甘酢炒め、叉焼チャーシュー、空芯菜、青梗チンゲン菜、種々のカレー。要はナシ・カンダルの中華版と思えばい。

 気になるものは全て載せ、満艦飾の皿を屋台の肝っ玉母さんに示す。彼女は瞬時に計算し、エコノミーな金額を告げた。


 皿の上では御菜とカレーが窮屈そうに肩を並べている。しかもカレーは、鶏、豚、魚の三種盛りだ。

 中華でカレーとは意外と思われるかも知れないが、マレーシアでは本家インドに限らず、華僑もマレー人もそれぞれの風味のカレーを持っている。華僑には中華のカレー、マレー人にはマレーのカレー。日本人に日本のカレーがあるように。


 三種のカレーが一つの皿に共存するように、マレーシアでは三つの民族が共存している。

 民族の違いとは宗教の違いでもある。特に一神教に於いて他宗教と相容れることは決してないのであって、時には神の名に於いて人を殺すことさえ正当化される。


 果たして一神教であるイスラム教信者が多数を占めるマレーシアは、イスラム教を国教と定めた。とは云え国内には相当数の仏教徒、ヒンズー教徒、それに少数のキリスト教徒も在り、彼らが信仰を貫くことは認められている。

 日本では憲法で保証され大多数が疑いをれることのない信教の自由というものが、絶対的、普遍的正義と考えるならば、それは偏狭な思いこみだと批判されるかも知れない。

 例えばユダヤ教を真に信じる者が、自分の子が他の神を信じることを許すことは本来あり得ない。それは神への裏切りであり、神の恩寵から見放される大罪であり、神との約束の放棄であり、身の破滅である。我が子のみならず民族の衰退を招く事態を許す時点で真のユダヤ教徒とは見做せないだろう。

 神が自民族だけを特別愛すると信じるユダヤ教徒であれば我が子だけで済む。ところが神の恩寵が全人類に開かれているとするキリスト教やイスラム教であれば、凡そ地上の人類すべて、あまねくその光に浴せしめずば人類愛なきやからと責められよう。

 くして、マレーシアに於いて信教の自由は絶対的善ではない。


 そのため、イスラム教徒の家に生まれた子は必ずイスラム教徒にならねばならず、一度ひとたびムスリムとして生をけた者が改宗することは許されない。さらに、し非ムスリムがムスリムと結婚するのであれば、その者はイスラムに改宗しなければならない。異教徒との恋は禁断の恋なのである。恋か信仰か。それは二者択一の大問題で、ふたつながらに掴みとることは彼らに許されていない。


 複数の宗教の中心に一神教たるイスラムが君臨するマレーシアに於いて、三民族の宥和は殆<あやう>い楼閣の上にあるのかもしれない。だがこの半世紀、世界各地の凄惨な内戦を横目に、マレーシアでは深刻な民族間衝突を避けてきた。その秘密が那辺にあるのか、確たることを私は云い得ない。世界はマレーシアから何を学びとるのだろうか。


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